« 『なぜ生きる2』のトンデモ邪義30 | トップページ | 『なぜ生きる2』のトンデモ邪義32 »

2015年12月 9日 (水)

『なぜ生きる2』のトンデモ邪義31

高森顕徹会長の言っていることが余りにも変で、『なぜ生きる2』の突っ込みどころが多すぎて、かなり省略しても、今の段階でもこれだけの量のエントリーを必要としています。
現会員からは、他の団体の非難をすればいいではないか、これ以上いじめないでくれ、とどこかで聞いたようなセリフを言われることもあります。非難されて反論できないなら会員を辞めればいいのに、それもできないようで、実に哀れです。

さて親鸞会の大好きな自力の心ですが、この自力の心の定義も空想物語です。
『なぜ生きる2』14章には、自力の心についてこうあります。

 弥陀からは「助かる縁なき極悪人」と診断され、釈迦からは「曽無一善」の悪人と宣告されながら、「ふざけるな、オレはそんな悪人ではないぞ」と真っ向から弥陀に歯向かっている心である。
(中略)
「善ができると思っている心」であり「善の勧めを非難する心」だ。

これまで述べてきたことを御理解頂けていれば、一笑に付す内容でしょう。
十方衆生には、極悪人もいれば、軽罪の悪人も、そして善人もいます。「曽無一善」とは悪人の定義で、少しでも善をする人を善人と言います。善導大師は『玄義分』で下品(悪人)の定義を

この三品の人、仏法・世俗の二種の善根あることなし。 ただ悪を作ることを知るのみ。

とされています。もちろん上品、中品は善根が少なからずあるということです。
善導大師御自身については『往生礼讃』で機の深信を

自身はこれ煩悩を具足する凡夫、善根薄少にして三界に流転して火宅を出でずと信知す

と表現されています。これは『教行信証』の行巻と信巻とに2度も引かれていますので、親鸞聖人のお言葉でもあります。
もし「善根薄少」が「曽無一善」「善根あることなし」とイコールと考える人がいたら、日本語を使えない人なのでしょう。
参考までに、存覚上人の『六要鈔』には「善根薄少」の解説があります。

善根あることを示してしかも自力薄少の善根生死を截らざることを顕す

善根があることを前提としているが、薄く少ない善根では生死を断ち切ることができないことを仰ったものだということです。
これでもまだ屁理屈をいう現会員のために善導大師の他のお言葉も示しておきます。『散善義』に

わが身は無際よりこのかた、他とともに同時に願を発して悪を断じ、菩薩の道を行じき。

と善導大師は御自身ことを告白なされています。「悪を断じ、菩薩の道を行じき」とは、悪を断じて、聖道門で教えられる善に励んできた、ということです。これでも善導大師は「曽無一善」「善根あることなし」と告白なされているという人がいたら、義務教育を受けてこなかった人なのでしょう。

もちろん善導大師は「善ができると思っている心」を持っておられたから、このような表現をなされたのですし、初地まで至られた龍樹菩薩は善ができた方です。善ができないのに初地まで至られるとは、どこの世界の宗教なのか教えてもらいたいものです。

要するに、「極悪人」とか「曽無一善」とか、善ができないのにできると思うとか、そんなことは阿弥陀仏の救いと関係ないのです。自分の力あるいは自分がした善では助からない者、に対して疑い反発する心を自力というのです。
ましてや「善の勧めを非難する心」を自力の心などとは、奇妙奇天烈な珍説に驚かされます。親鸞聖人の教えでいうならば、「善の勧めを肯定する心」を自力の心というのです。

高森会長は、望み通り真宗史に名を残す大人物になるでしょう。ただし稀代の悪知識としてですが。

|

« 『なぜ生きる2』のトンデモ邪義30 | トップページ | 『なぜ生きる2』のトンデモ邪義32 »

『なぜ生きる2』」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/1323088/62890659

この記事へのトラックバック一覧です: 『なぜ生きる2』のトンデモ邪義31:

« 『なぜ生きる2』のトンデモ邪義30 | トップページ | 『なぜ生きる2』のトンデモ邪義32 »