『なぜ生きる2』のトンデモ邪義34
『なぜ生きる2』が出版されてから2年が経ちますが、非会員に対して売る気がありません。読んでほしくない、というよりも、本の存在を知ってほしくない、というのが高森顕徹会長の本音でしょう。教義的に、親鸞会は完全に終わっています。
そんな状況を誤魔化そうと、またアニメを作っています。アニメはもう作らないと言っていたのに、お得意の方針転換です。アニメなら、教義的な批判を受けることが少ないので、幸福の科学の真似をして、映画館で放映しようと目論んでいます。高森会長の思考は相変わらずのパクリのみです。
さて、どんなに方針転換を繰り返しても、絶対に変えないのが善の勧めです。『なぜ生きる2』14章にはここまで愚かなことを言っています。
「雑行を捨てよ」を「諸善は捨て物、必要ない」と曲解するのは、十九の願の門戸も知らず、弥陀・釈迦の「方便の善」もご存じない印象は覆いようもない。
浄土真宗の門戸もしらず、弥陀・釈迦の善巧方便もご存じない印象は覆いようもないです。
少しでも教義の勉強をしていたら口が裂けても言えない内容です。
法然上人は『選択本願念仏集』で次のように仰っています。
いはく諸行は廃せんがために説く、念仏は立せんがために説く。
とか、あるいは
また念仏はこれ本願の行なり。諸行はこれ本願にあらず。
です。「諸善は捨て物、必要ない」と法然上人が仰っているのもご存じない印象は覆いようもないです。
親鸞聖人は『教行信証』行巻で念仏と諸善とを比較し、相対して論じられた中に
順逆対(念仏は本願に順じているが、諸善は本願に背いている)
選不選対(念仏は如来が選び取られた法であり、諸善は選び捨てられた法である)
有願無願対(念仏は本願の行であり、諸善は本願の行ではない)
があります。18願の行は念仏のみであり、諸善は18願の行ではない、つまり18願に背いた行であるということです。18願に背いた行であるから、捨てなければならないのは、言うまでもありません。
高森会長が雑行を説明する時に、よく言っていたのが、
五雑行は物柄が悪いから行自体を捨てなければならないが、諸善万行は物柄は良いが心がけが悪いから、その心がけを捨てなければならない
ですが、ここが根本的におかしいところです。高森会長の言葉を使うなら、
雑行は物柄が悪いから行自体を捨てなければならないが、自力念仏は物柄は良いが心がけが悪いから、その心がけを捨てなければならない
となります。行自体を捨てるのは雑行です。もちろん、五雑行を自分で捨てることができるのですから、諸善万行も自分で捨てることができるに決まっているではないですか。なぜなら、行なのですから、しなければいいだけのことです。簡単なことです。
そう言うと、
ではやりたい放題してもいいということか
と愚かな反論をしてくるのが親鸞会ですが、往生と無関係にする倫理道徳の善は大いに励むべきでしょう。往生と無関係なのですから、雑行ではありません。
高森会長も『なぜ生きる2』で言っていますよ。
「雑行」とは「弥陀の救いを求めて行う諸善(もろもろの善)」をいう。
では、弥陀の救いを求めて19願を実践したり、布施行をするのを止めて、弥陀の救いとは無関係に親孝行などをすればいいのです。
要するに、
「雑行を捨てよ」とは「親鸞会で勧める善を捨てよ」であって、「倫理道徳の善をするな」ではない。
こういうことです。
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