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2015年12月

2015年12月30日 (水)

『なぜ生きる2』のトンデモ邪義34

『なぜ生きる2』が出版されてから2年が経ちますが、非会員に対して売る気がありません。読んでほしくない、というよりも、本の存在を知ってほしくない、というのが高森顕徹会長の本音でしょう。教義的に、親鸞会は完全に終わっています。

そんな状況を誤魔化そうと、またアニメを作っています。アニメはもう作らないと言っていたのに、お得意の方針転換です。アニメなら、教義的な批判を受けることが少ないので、幸福の科学の真似をして、映画館で放映しようと目論んでいます。高森会長の思考は相変わらずのパクリのみです。

さて、どんなに方針転換を繰り返しても、絶対に変えないのが善の勧めです。『なぜ生きる2』14章にはここまで愚かなことを言っています。

「雑行を捨てよ」を「諸善は捨て物、必要ない」と曲解するのは、十九の願の門戸も知らず、弥陀・釈迦の「方便の善」もご存じない印象は覆いようもない。

浄土真宗の門戸もしらず、弥陀・釈迦の善巧方便もご存じない印象は覆いようもないです。
少しでも教義の勉強をしていたら口が裂けても言えない内容です。

法然上人は『選択本願念仏集』で次のように仰っています。

いはく諸行は廃せんがために説く、念仏は立せんがために説く。

とか、あるいは

また念仏はこれ本願の行なり。諸行はこれ本願にあらず。

です。「諸善は捨て物、必要ない」と法然上人が仰っているのもご存じない印象は覆いようもないです。
親鸞聖人は『教行信証』行巻で念仏と諸善とを比較し、相対して論じられた中に

順逆対念仏は本願に順じているが、諸善は本願に背いている
選不選対念仏は如来が選び取られた法であり、諸善は選び捨てられた法である
有願無願対念仏は本願の行であり、諸善は本願の行ではない

があります。18願の行は念仏のみであり、諸善は18願の行ではない、つまり18願に背いた行であるということです。18願に背いた行であるから、捨てなければならないのは、言うまでもありません。

高森会長が雑行を説明する時に、よく言っていたのが、

五雑行は物柄が悪いから行自体を捨てなければならないが、諸善万行は物柄は良いが心がけが悪いから、その心がけを捨てなければならない

ですが、ここが根本的におかしいところです。高森会長の言葉を使うなら、

雑行は物柄が悪いから行自体を捨てなければならないが、自力念仏は物柄は良いが心がけが悪いから、その心がけを捨てなければならない

となります。行自体を捨てるのは雑行です。もちろん、五雑行を自分で捨てることができるのですから、諸善万行も自分で捨てることができるに決まっているではないですか。なぜなら、行なのですから、しなければいいだけのことです。簡単なことです。

そう言うと、

ではやりたい放題してもいいということか

と愚かな反論をしてくるのが親鸞会ですが、往生と無関係にする倫理道徳の善は大いに励むべきでしょう。往生と無関係なのですから、雑行ではありません。

高森会長も『なぜ生きる2』で言っていますよ。

「雑行」とは「弥陀の救いを求めて行う諸善(もろもろの善)」をいう。

では、弥陀の救いを求めて19願を実践したり、布施行をするのを止めて、弥陀の救いとは無関係に親孝行などをすればいいのです。

要するに、

「雑行を捨てよ」とは「親鸞会で勧める善を捨てよ」であって、「倫理道徳の善をするな」ではない。

こういうことです。

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2015年12月23日 (水)

『なぜ生きる2』のトンデモ邪義33

ここ数年封印していた「一切衆生必堕無間」ですが、また復活させたそうです。高森顕徹会長の深いみ心は、

会員に恐怖心を与えないと、金集め人集めに必死にならないから

でしょう。カルト共通の単純明快な理屈です。

脅しもさることながら、雑行の定義さえも高森会長は正しく理解していません。
『なぜ生きる2』14章の

「雑行を捨てよ」とは、この悪い「自力の心」を捨てよということである。
 七高僧方が捨てよと言われるのも、「諸善」や「万行」のことではなく「自力の心」のことなのだ。

でも判ります。
結論を先に言えば、

「雑行を捨てよ」=「諸善を捨てよ」=「万行を捨てよ」

です。
善導大師が雑行の定義をされて、親鸞聖人も『教行信証』化土巻に引かれています。

雑行とは、正助を除きて以外をことごとく雑行と名づく。

正行以外の諸善を雑行というのが定義です。

更に親鸞聖人は『教行信証』化土巻の雑行釈に

おほよそ浄土の一切諸行において、綽和尚は「万行」といひ、導和尚は「雑行」と称す。感禅師は「諸行」といへり。信和尚は感師により、空聖人は導和尚によりたまふ。
経家によりて師釈を披くに、雑行のなかの雑行雑心・雑行専心・専行雑心あり。また正行のなかの専修専心・専修雑心・雑修雑心は、これみな辺地・胎宮・懈慢界の業因なり。

(現代語訳)

浄土門で説かれるすべての自力の行について、道綽禅師は『安楽集』に「万行」といわれ、善導大師は『観経疏』に「雑行」(散善義)といわれている。懐感禅師は『群疑論』に「諸行」といっている。源信和尚は懐感師により、源空上人は善導大師によっておられる。釈尊の経説にもとづき、祖師方の解釈を見てみると、雑行の中には、雑行雑心、雑行専心、専行雑心があり、また正行の中には、専修専心、専修雑心、雑修雑心がある。これらはみな自力の行であって、辺地・疑城胎宮・懈慢界といわれる方便の浄土に生れる因なのである。

と教えられています。
まとめると

「万行」=「雑行」=「諸行」=「諸善(正行を除く)」

ですが、それも知らないのです。

要するに

七高僧方が捨てよと言われるのも、「諸善」や「万行」のことである。

まるっきり反対なことを、言っていたのです。

高森会長は余りにも無知でありながら、ここまで愚かなことを堂々と書いていることは、尊敬に値するかもしれません。

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2015年12月15日 (火)

『なぜ生きる2』のトンデモ邪義32

前回の続きです。『なぜ生きる2』14章には、こんなオオボケを平気で書いています。

 親鸞聖人は”弥陀の本願を疑う(自力の心)ほど恐ろしい罪はない”と、その大罪を訴え続けられている。
 以下は、その文証である。
仏智うたがう罪ふかし
 この心おもいしるならば
 くゆる心をむねとして
 仏智の不思議をたのむべし
」 (正像末和讃)

ここだけでは、どこが間違っているのか判られないかもしれませんので、少し解説しておきます。

まず、親鸞聖人が「仏智うたがう罪」と仰っていることは何かが問題です。前回述べたように、「善ができると思っている心」でもなければ「善の勧めを非難する心」でもありません。その逆です。

同じ『正像末和讃』には

罪福信ずる行者は
 仏智の不思議をうたがひて
 疑城胎宮にとどまれば
 三宝にはなれたてまつる

自力諸善のひとはみな
 仏智の不思議をうたがへば
 自業自得の道理にて
 七宝の獄にぞいりにける

などとあります。

つまり

仏智うたがう罪=罪福信ずる・自力諸善

です。『なぜ生きる2』でも強調している因果の道理を信じることが「仏智うたがう罪」であり、善を勧めることが「仏智うたがう罪」なのです。

したがって、高森顕徹会長が教え勧めていることは「仏智うたがう罪」になるのです。

これは善ができるできないの話ではなく、往生・獲信のために善を勧めるな、因果の道理を信じるな、ということです。

要するに、18願と善の勧めは正反対、18願と因果の道理は完全に矛盾する、こういうことなのです。高森会長のいう因果の道理とは、罪福の因果ですが、18願は罪福の因果とは無関係であり、全く異なる道理なのです。

『改邪鈔』には

おほよそ他力の一門においては、釈尊一代の説教にいまだその例なき通途の性相をはなれたる言語道断の不思議なりといふは、凡夫の報土に生るるといふをもつてなり。もし因果相順の理にまかせば、釈迦・弥陀・諸仏の御ほねをりたる他力の別途むなしくなりぬべし。

とあります。意味は、

18願の教えは、釈尊一代の説法に例がなく、通仏教の教えとはまったく別の、言語を超絶した不思議な教えである。もし18願を、因果の道理にあてはめたならば、釈尊、阿弥陀仏、諸仏が御苦労なされて教えられた18願の救いが虚しくなってしまう。

ということです。
また蓮如上人の愛読書であった『安心決定鈔』にも、

願行は菩薩のところにはげみて、感果はわれらがところに成ず。世間・出世の因果のことわりに超異せり。

とあります。

18願の救いは、世間の因果・出世の因果に超異している、

ということです。

親鸞聖人の仰ることと高森会長の言っていることは正反対ですから、まさに漫才です。

高森会長の言っていることがオオボケと判らないうちは、18願の救いに遇うことはないでしょう。

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2015年12月 9日 (水)

『なぜ生きる2』のトンデモ邪義31

高森顕徹会長の言っていることが余りにも変で、『なぜ生きる2』の突っ込みどころが多すぎて、かなり省略しても、今の段階でもこれだけの量のエントリーを必要としています。
現会員からは、他の団体の非難をすればいいではないか、これ以上いじめないでくれ、とどこかで聞いたようなセリフを言われることもあります。非難されて反論できないなら会員を辞めればいいのに、それもできないようで、実に哀れです。

さて親鸞会の大好きな自力の心ですが、この自力の心の定義も空想物語です。
『なぜ生きる2』14章には、自力の心についてこうあります。

 弥陀からは「助かる縁なき極悪人」と診断され、釈迦からは「曽無一善」の悪人と宣告されながら、「ふざけるな、オレはそんな悪人ではないぞ」と真っ向から弥陀に歯向かっている心である。
(中略)
「善ができると思っている心」であり「善の勧めを非難する心」だ。

これまで述べてきたことを御理解頂けていれば、一笑に付す内容でしょう。
十方衆生には、極悪人もいれば、軽罪の悪人も、そして善人もいます。「曽無一善」とは悪人の定義で、少しでも善をする人を善人と言います。善導大師は『玄義分』で下品(悪人)の定義を

この三品の人、仏法・世俗の二種の善根あることなし。 ただ悪を作ることを知るのみ。

とされています。もちろん上品、中品は善根が少なからずあるということです。
善導大師御自身については『往生礼讃』で機の深信を

自身はこれ煩悩を具足する凡夫、善根薄少にして三界に流転して火宅を出でずと信知す

と表現されています。これは『教行信証』の行巻と信巻とに2度も引かれていますので、親鸞聖人のお言葉でもあります。
もし「善根薄少」が「曽無一善」「善根あることなし」とイコールと考える人がいたら、日本語を使えない人なのでしょう。
参考までに、存覚上人の『六要鈔』には「善根薄少」の解説があります。

善根あることを示してしかも自力薄少の善根生死を截らざることを顕す

善根があることを前提としているが、薄く少ない善根では生死を断ち切ることができないことを仰ったものだということです。
これでもまだ屁理屈をいう現会員のために善導大師の他のお言葉も示しておきます。『散善義』に

わが身は無際よりこのかた、他とともに同時に願を発して悪を断じ、菩薩の道を行じき。

と善導大師は御自身ことを告白なされています。「悪を断じ、菩薩の道を行じき」とは、悪を断じて、聖道門で教えられる善に励んできた、ということです。これでも善導大師は「曽無一善」「善根あることなし」と告白なされているという人がいたら、義務教育を受けてこなかった人なのでしょう。

もちろん善導大師は「善ができると思っている心」を持っておられたから、このような表現をなされたのですし、初地まで至られた龍樹菩薩は善ができた方です。善ができないのに初地まで至られるとは、どこの世界の宗教なのか教えてもらいたいものです。

要するに、「極悪人」とか「曽無一善」とか、善ができないのにできると思うとか、そんなことは阿弥陀仏の救いと関係ないのです。自分の力あるいは自分がした善では助からない者、に対して疑い反発する心を自力というのです。
ましてや「善の勧めを非難する心」を自力の心などとは、奇妙奇天烈な珍説に驚かされます。親鸞聖人の教えでいうならば、「善の勧めを肯定する心」を自力の心というのです。

高森会長は、望み通り真宗史に名を残す大人物になるでしょう。ただし稀代の悪知識としてですが。

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2015年12月 3日 (木)

『なぜ生きる2』のトンデモ邪義30

高森顕徹会長が善の勧めの根拠としているのは、詭弁しかないです。
その中でもおもしろいのは、『なぜ生きる2』14章の以下です。

 ではなぜ、捨てよと言われる「雑行(諸善)」を弥陀が十九願で勧められるのかという声が、あちらこちらから聞こえそうだ。
 むろん阿弥陀仏が勧められる「諸善」が悪いはずがない。
「諸善」が「雑行」と嫌われ、捨てよと言われるのは、悪い「自力の心」で行うからだ。
 悪い「自力の心」さえ廃れば、諸善は「雑行」とも言われず、捨て物でもない。
 粉骨砕身の報恩感謝の活動になるのである。

すべて理屈です。根拠がありません。

この事に関しては、何十回と根拠を示して書いてきましたので、今回は根拠を示さずに、理屈だけで論破しておきます。

まず、阿弥陀仏が19願で諸善を勧められているのは、聖道門を信じて求めている人も、救いから漏らさないためです。
もう少し詳しく言いいますと、聖道門を信じ求めても、出離することすら叶わず、聖道門を断念せざるを得ない人に、18願の他力念仏を勧めても、聖道門とは余りにも隔たりが大きく、18願を信じる気持ちは起きてきません。そこで、聖道門で修してきた善をそのままで、浄土往生のためと思って修すれば、浄土に往生させてみせる、と誓われたのが19願です。18願を信じない人までも救うためです。

ここで上記の高森会長の言葉を説明すると、「自力の心」は浄土往生のためと思う心です。したがって「雑行」は、浄土往生のためと思って修する「諸善」ですので、「自力の心」(=浄土往生のためと思う心)を捨てると、元々の聖道門の「諸善」になります。

要するに、18願で誓われている念仏1つになるには、「自力の心」(=浄土往生のためと思う心)が有っても無くても、「諸善」は捨て物で嫌われ物なのです。

言い換えると、「自力の心」のある「雑行」であっても、「自力の心」のない「諸善」であっても、共に18願に背いているので、捨て物です。

高森会長のお粗末な詭弁が、通用すると思ったら大間違いです。

最後の1文の「粉骨砕身の報恩感謝の活動になるのである」は、高森詭弁の最高傑作でしょうが、「諸善」は「粉骨砕身の報恩感謝の活動」にはなりません。高森会長の好きな「称名報恩」を忘れたのかと言いたいです。「諸善報恩」と高森会長ですら言っていません。「粉骨砕身の報恩感謝の活動」は、まさに念仏です。辻褄くらい合わせたら如何でしょうか。

もし「善」についてどうしても拘るのであれば、蓮如上人の説明「信前信後を問わず倫理道徳の善に努めなさい」に従うべきです。つまり、「自力の心」(=浄土往生のためと思う心)のない聖道門の「諸善」ではなく、「自力の心」(=浄土往生のためと思う心)とは無関係な倫理道徳の善を勧めるのが、善知識です。

上記については、すべて根拠に基づいていますので、反論があるなら、根拠を挙げてからにしましょう。御要望があれば、こちらはいくらでも根拠を出しますよ。

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