『なぜ生きる2』のトンデモ邪義24
前々回と前回のエントリーを読まれて、頭の回転の速い方ならお判りかと思いますが、親鸞聖人が『教行信証』で韋提希ではなく阿闍世の獲信について長々と紹介されている理由とは何かです。
それは、下品下生の者が10回の念仏を臨終に称えて往生するという、聖道門の論理からは考えられない阿弥陀仏の救いについて、その実例が阿闍世だからです。
韋提希は下品下生ではありません。下品下生とは、五逆の者です。韋提希は親を殺してはいません。阿闍世は父親を殺しています。
韋提希の獲信について親鸞聖人が紹介説明されても、下品下生の者が往生することの証明はできませんので、下品下生の者である阿闍世を親鸞聖人は取り上げられているのです。
もう一度言いますと、下品下生の者でさえも往生できることを証明する実例は、阿闍世しかいないのです。
これだけ言えばお判りでしょうが、親鸞聖人は韋提希の獲信の経緯について、韋提希の求道の道程については、全く言及がありません。言及しても大した意味をなさないとのお考えであったと想像されます。
したがいまして、法話やアニメで韋提希のことを殊更強調して、阿闍世のことを全く言わない高森顕徹会長が親鸞聖人の教えに疎いことは、隠しようのない厳然たる事実です。
私の言うことに反感をもたれる会員の気持ちは判りますが、高森会長は『教行信証』を全く読んだことがないのです。これは断言できます。
『教行信証』全体の約1割、信巻の半分近くを阿闍世の話に費やされているのに、高森会長は阿闍世の獲信の話をしたことはありません。知らないからです。そして『教行信証』だけでなく他の御著書にも全くない韋提希の獲信の道程を、あたかも親鸞聖人の教えの真髄のように話をする高森会長を、どんな贔屓目に見ても、浄土真宗を伝える気があるとはいえないでしょう。
ついでですから、阿闍世が獲信後に言った言葉が、親鸞聖人の教えの真髄です。
信巻に『涅槃経』を引かれて
世尊、われ世間を見るに、伊蘭子より伊蘭樹を生ず。伊蘭より栴檀樹を生ずるをば見ず。われいまはじめて伊蘭子より栴檀樹を生ずるを見る。
伊蘭子はわが身これなり。栴檀樹はすなはちこれわが心、無根の信なり。
無根とは、われはじめて如来を恭敬せんことを知らず、法僧を信ぜず、これを無根と名づく。(現代語訳)
世尊、世間では、伊蘭の種からは悪臭を放つ伊蘭の樹が生えます。伊蘭の種から芳香を放つ栴檀の樹が生えるのを見たことはありません。わたしは今はじめて伊蘭の種から栴檀の樹が生えるのを見ました。伊蘭の種とはわたしのことであり、栴檀の樹とはわたしの心におこった無根の信であります。無根とは、わたしは今まで如来をあつく敬うこともなく、法宝や僧宝を信じたこともなかったので、これを無根というのであります。
とあります。
「無根の信」とは、仏法を信じることも求めることもなかったところに生じた信心、ということです。要するに、無善で信心を頂くのが、18願の真実信心、本願力回向の信心だということで、ここが親鸞聖人の教えの真髄になります。
信心は阿弥陀仏から頂くものなので善の有無は無関係
ここから、「全人類は三願転入の道程を必ず通る」という考えは完全に否定されるのです。
次のことがいえます。
『教行信証』に書かれてあることは何ですか?
親鸞聖人 三願転入の道程は不要
----------------
高森会長 三願転入の教え
こうなります。
最後に会員の皆さんに質問です。
高森会長は何宗の教えだと思いますか?
高森会長は『教行信証』を読んだことがあると思いますか?
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コメント
アジャセの獲信について会報には書かれていましたが、イダイケの獲信の後日談?のような位置付けだったと思います。
正信偈には与韋提等獲三忍とあるため、イダイケの獲信にも特別な意味があると思っていましたが、そうではないんですね
投稿: | 2015年11月 4日 (水) 21時03分
名無し 様
韋提希の獲信については、その事実だけしか言及されていません。どのような過程でということは、全く触れられていません。韋提希の信心の表現として「三忍」で説明されていることが特別なだけです。それを仏方の演じられたドラマと味わわれたのが親鸞聖人ですから、そういう意味では特別な存在です。
投稿: 飛雲 | 2015年11月 4日 (水) 21時47分
ありがとうございます。
三忍と仏方のドラマ、特に後者は、イダイケが特別視されていると感じますが、仰る通り獲信の過程について聖教で見たことがありません。「特別視されてるからには過程も大事なんだ」という理屈で善の勧めに強引に結びつけている親鸞会、よくもこれだけ過程をでっち上げたものだ…
投稿: | 2015年11月 5日 (木) 00時37分
愛読しております。
読破しているのではないですか。
知っていることを出さないのがいい、と教えられてますので、それを実行しているのでしょう。
「高森親鸞会」ではないですか?
投稿: ねんぶつ だいすき | 2015年11月 5日 (木) 20時07分
「私は10,000円を持っていますが100円の買い物は出来ません。」ということがありましょうか。「溺れて苦しんでいる者に、土座衛門になってから助けるという医者もいないでしょう」と三杯ご飯の美味しい只今、一念で51段を高跳びされる絶対の幸福。これが妄想だったとは。
投稿: | 2015年11月 5日 (木) 20時55分
まぁでも平生業成とか一念発起・入正定聚は言葉から言うとその通りなのでは無いでしょうか。
それが「高森会長の主張する絶対の幸福」とは関係無いだけで。
投稿: | 2015年11月 5日 (木) 22時25分