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2015年11月10日 (火)

『なぜ生きる2』のトンデモ邪義26

高森顕徹会長の”深い御心"で、最近は物販に力を入れているようで、10万円というタブレットのぼったくり商法などは、マインドコントロールの効いている会員でも、躊躇しています。如何にして、お金を巻き上げるか、それしか高森会長の頭にはないのです。

高森会長の”深い御欲”で利用している韋提希の話は、浄土真宗とは無関係の創作です。

『なぜ生きる2』13章にこうあります。

 だが我が身知らずのイダイケ夫人は、教えられたら善ができると「自力の心」一杯なのだ。
 この「自力の心」は、押せば動く、点ずれば燃ゆる代物ではない。
 知った分かったでは、どうにもならぬ、曠劫流転の元凶なのである。

 むろん釈尊は、そんな自惚れの塊だとお見通しだから、頭から”悪しかできないお前に何ができるか”とは仰らずに「できると思うなら、やってごらん」と、実地にさせてみられたのが定善十三観である。

前回の内容を思い出されれば、これが妄言とすぐに判られると思います。

前回具体例を書きませんでしたが、定善ができる人はたとえば善導大師です。『定善義』で次のように仰っています。

ただ万事ともに捨てて、なほ失意・聾盲・痴人のごとくなれば、この定かならずすなはち得やすし。もしかくのごとくならざれば、三業縁に随ひて転じ、定想波を逐ひて飛ぶ。 たとひ千年の寿を尽せども、法眼いまだかつて開けず。

(現代語訳)

ただよろずの事をともにすてることが、 失意の人・聾・盲・無智の人のようになれば、 この定は必ず成じやすい。 もしこのようにしなければ、 身口意業が所縁の境にしたがって移り、 禅定の想も波のように動いて、 たとい千年の命をかけても智慧の眼は開けない。

世間から隔離されたところで、五感を停止させることができれば簡単にできるが、そうでなければできない、ということです。したがって世俗の中にいる韋提希には到底無理なこととでも、善導大師にとっては「この定かならずすなはち得やすし」だったのです。

それと定善は、浄土を観るための方法を釈尊に韋提希が請うたものです。ということは日と浄土を思い浮かべることが日想観ではないということです。最初から浄土を思い浮かべることができれば、浄土を観る方法を尋ねる意味がありません。
少し長いですが、日想観、水想観、地想観の部分を『観無量寿経』で見てみましょう。

 仏、韋提希に告げたまはく、「なんぢおよび衆生、まさに心をもつぱらにし念を一処に繋けて、西方を想ふべし。いかんが想をなす。おほよそ想をなすといふは、一切衆生、生盲にあらざるよりは、有目の徒、みな日没を見よ。まさに想念を起し正坐し西向して、あきらかに日を観じて、心をして堅住ならしめて専想して移らざれば、日の没せんと欲して、状、鼓を懸けたるがごとくなるを見るべし。すでに日を見ること已らば、閉目・開目に、みな明了ならしめよ。これを日想とし、名づけて初めの観といふ。
 次に水想をなせ。水の澄清なるを見て、また明了にして分散の意なからしめよ。すでに水を見をはりなば、まさに氷想を起すべし。氷の映徹せるを見て瑠璃の想をなせ。この想成じをはりて、瑠璃地の内外に映徹せるを見ん。
下に金剛七宝の金の幢ありて瑠璃地を擎ぐ。その幢、八方にして八楞を具足せり。一々の方面は百宝の所成なり。一々の宝珠に千の光明あり。一々の光明、八万四千色なり。瑠璃地に映ずること億千の日のごとし。つぶさに見るべからず。瑠璃地の上に黄金の縄をもつて雑廁間錯し、七宝をもつて界ひて分斉分明なり。一々の宝のうちに五百色の光あり。その光、華のごとし。また星・月に似たり。虚空に懸処して光明の台と成る。楼閣千万にして百宝合成す。
台の両辺において、おのおの百億の華幢、無量の楽器あり、もつて荘厳とす。八種の清風、光明より出でてこの楽器を鼓つに、苦・空・無常・無我の音を演説す。これを水想とし、第二の観と名づく。
 この想成ずるとき、一々にこれを観じて、きはめて了々ならしめよ。
閉目・開目に散失せしめざれ。ただ睡時を除きて、つねにこの事を憶へ。かくのごとく想ふものを名づけて、ほぼ極楽国地を見るとす。もし三昧を得ば、かの国地を見ること了々分明なり。つぶさに説くべからず。これを地想とし、第三の観と名づく」と。

(現代語訳)

そこで釈尊は韋提希に仰せになった。
  「 そなたや未来の人々は、ただひたすら西方に思いをかけて、その世界を想い描くがよい。では、どのようにして西方を思い描くのだろうか。それにはまず、生れながら目が見えないのでない限り、目が見えるものはみな日没の光景を見るがよい。その観を始めるにあたってはまず姿勢を正して西に向かって座り、はっきりと夕日を思い描くがよい。そして心を乱さず、思いを一点に集中して他のことに気をとられずにいられたなら、次に、夕日がまさに沈もうとして、西の空に太鼓が浮んでいるようになっているのを見るがよい。それを見おわった後、目を閉じても開いても、その夕日のすがたがはっきりと見えるようにするのである。このように想い描くのを日想といい、第一の観と名づける。
 次に水を想い描くがよい。水の清く澄みきったようすをはっきりと心に想い描き、心を乱さないようにするのである。水を想い描きおわったなら、次にその水が氷となったようすを想うがよい。そして氷の透きとおったようすを想い描き、それが瑠璃であるという想いを起すがよい。この想いを成しおえたなら、極楽世界の瑠璃の大地が内にも外にも透きとおり映りあうようすを見るであろう。
 その下には清らかな七つの宝で飾られた金の柱があって、瑠璃の大地をささえている。それは八角形の柱であり、その八つの面はそれぞれ百もの宝玉で飾られている。それぞれの宝玉は千の光にきらめき、それぞれの光にはまた八万四千の色があって、それが瑠璃の大地に映え輝いているありさまはまるで千億もの太陽を集めたようであり、とてもまばゆくて見ることはできない。
 またその極楽世界の瑠璃の大地には、黄金の道が縦横に通じていて、しかもそれぞれの区域が七つの宝で整然と仕切られている。その一つ一つの宝には五百の色の光があり、その光は花のようであり、また星や月のように輝き、大空にのぼって光明の台となる。その台の上には百の宝でできた千万の楼閣がそびえている。また台の両側には、それぞれ百億の花で飾られた幡と数限りないさまざまな楽器があり、その台を飾っている。そしてその光の中から清らかな風がおこり、いたるところから吹き寄せてこれらの楽器を鳴らすと、苦・空・無常・無我の教えが響きわたるのである。このように想いを描くのを水想といい、第二の観と名づける。
 さてこの観が成就したなら、さらにそのようすを一つ一つ想い描き、それがきわめてはっきりと見えるようにして、目を閉じても開いても目の前から消え失せないようにしなければならない。そしてただ眠っているときを除いて、常にこのことを想い続けるがよい。
 このように想い描くことができれば、ほぼ極楽世界の大地を見たということができる。さらにすすんで三昧の境地に入ったなら、その国の大地を一層はっきりと見ることができるのであるが、そのありさまを一々詳しく説くことはできない。このように想い描くのを地想といい、第三の観と名づける。」

日想観と水想観ができたら次の地想観に移って、ようやく「ほぼ極楽国地を見るとす」なのです。
要するに、日想観と水想観は、浄土を観るための前段階でしかないのです。それと日想観ができたら水想観、水想観ができたら地想観というようにステップアップしていくものですから、日想観ができなかったら水想観、水想観ができなかったら地想観ではありません。
もし韋提希が日想観を実践しようとしてできなかったとするのなら、水想観は韋提希とは完全に無関係に説かれたことになりますし、地想観以降も韋提希にとっては無意味です。

『観無量寿経』を読んだことがないから、この程度のことさえも知らずに、”深い御欲”で善の勧めを会員に強要しているのが高森会長です。

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コメント

"「できると思うなら、やってごらん」と、実地にさせてみられたのが定善十三観である。"
と高森会長は「なぜ生きる2」に書いてしまったんですね。よくぞ書いたりと言うべきか。これはもう、こっそり修正、なんて手は使えないですね。

投稿: | 2015年11月11日 (水) 22時26分

ネットを見るな、と言いながらタブレットを売りつけようとするって、無茶苦茶になってますねw。もう背に腹は変えられない、というところまで来ちゃってるんでしょうか?
宗教団体が布教ではなく物販に力を入れているってのも、なんだか笑えますw。

投稿: K | 2015年11月11日 (水) 22時33分

タブレットなのにネットには繋げないんですよ。
だからアニメ解説講座の更新は会館とかに行かないとできない。

投稿: | 2015年11月12日 (木) 11時13分

確かに「寺では聞けない」話であったか。

投稿: | 2015年11月14日 (土) 15時08分

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