『なぜ生きる2』のトンデモ邪義29
親鸞会が、資産のある高齢者から高額の財施を要求するのは以前からのことですが、その傾向が益々強くなっています。
高齢者に財施を強要する際の常套文句の1つが、韋提希です。
架空の話を『観無量寿経』の内容と嘘をついて、その甲斐あってか親鸞会を存続させる要因になっています。
『なぜ生きる2』14章にこんな架空の話を書いています。
では極重の悪人に、弥陀の救いを求める心が、どうして起きるのか。
そして諸善(雑行)を行うようになるのだろう。
その経緯を詳説されているのが、弥陀の十九願を解説する釈迦の『観無量寿経』である。
前二章で述べたように、そこには十方衆生(すべての人)を代表する王舎城の悲劇のヒロイン、イダイケ夫人を立てて、ドラマチックに表現されている。
『観無量寿経』の中で韋提希は、諸善を行うようになっていませんし、釈尊は善を勧められてもいません。したがって、高森顕徹会長のこの解釈は、全くのデタラメで根拠ももちろんありません。
それでも、現会員は屁理屈を捏ねて納得しないでしょうから、『観無量寿経』の以下の部分を見てください。
状況は韋提希は牢の中で、釈尊ではなくお弟子に来てほしいと要望しましたが、釈尊御自ら韋提希のもとに来られました。そこで韋提希が釈尊に言ったことです。
世尊、われむかし、なんの罪ありてかこの悪子を生ずる。世尊また、なんらの因縁ましましてか、提婆達多とともに眷属たる。
やや、願はくは世尊、わがために広く憂悩なき処を説きたまへ。われまさに往生すべし。閻浮提の濁悪の世をば楽はざるなり。この濁悪の処は地獄・餓鬼・畜生盈満し、不善の聚多し。願はくは、われ未来に悪の声を聞かじ、悪人を見じ。いま世尊に向かひて五体を地に投げて哀れみを求めて懺悔す。やや、願はくは仏日、われに教へて清浄業処を観ぜしめたまへ(現代語訳)
世尊、わたしはこれまで何の罪があって、このような悪い子を生んだのでしょうか。世尊もどういった因縁があって、あのような提婆達多と親族でいらしゃるのでしょうか。どうか世尊、わたしのために憂いも悩みもない世界をお教えください。わたしはそのような世界に生れたいと思います。この濁りきった悪い世界にはもういたいとは思いません。この世界は地獄や餓鬼や畜生のものが満ちあふれ、善くないものたちが多すぎます。わたしはもう二度とこんな悪人の言葉を聞いたり、その姿を見たりしたくありません。今世尊の前に、このように身を投げ出して礼拝し、哀れみを求めて懺悔いたします。どうか世の光でいらっしゃる世尊、このわたしに清らかな世界をお見せください
韋提希は、釈尊が定善、散善を説かれる前に、「わがために広く憂悩なき処を説きたまへ」と浄土を願っています。
この後、釈尊は諸仏の浄土を見せられて韋提希が言ったことが
世尊、このもろもろの仏土、また清浄にしてみな光明ありといへども、われいま極楽世界の阿弥陀仏の所に生ぜんことを楽ふ。
(現代語訳)
世尊、このさまざまな仏の世界はみな清らかで光り輝いておりますが、わたしは今、中でも極楽世界の阿弥陀仏のもとに生れたいと思います。
と阿弥陀仏の浄土を願い、弥陀の救いを求める心がすでに起こっています。
韋提希が十方衆生を代表するのであれば、弥陀の救いを求める心は、諸善、十九願とは無関係に起きることを証明していることになります。
要するに高森会長の話は、無茶苦茶だということです。
無知な高森会長が、無知な現会員を騙しているという構図がこれでお判り頂けると思います。
韋提希が諸善、十九願によって弥陀の救いを求める心が起きたという根拠がみつかったならば、いつでもコメントをください。
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