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2015年10月

2015年10月24日 (土)

『なぜ生きる2』のトンデモ邪義23

19願、『観無量寿経』とうるさい割には、『観無量寿経』の内容を高森顕徹会長も講師部員も幹部会員もほとんど知りません。親鸞聖人の御著書でさえ読んでいないのですから、『観無量寿経』を読んでいないのは当然と言えば当然で、況や善導大師の『観無量寿経疏』は見たこともないでしょう。

『なぜ生きる2』には、妄想の『観無量寿経』について語っていますが、12章の最初にこうあります。

 千三百年前の中国でも、イダイケ夫人を特別な人物とする思い違いが仏教界を覆っていた。当時の中国仏教をリードしていた、天台、浄影、嘉祥などの一宗一派を開いた諸師の説であったからである。
 そのなか善導大師ひとりが、それらの諸師の誤謬を破り、イダイケ夫人は正真正銘、十方衆生(すべての人)の一人であることを明かし、教界の誤りを正されたのだ。

韋提希が十方衆生の一人という表現もおかしいのですが、善導大師が聖道門の諸師の誤謬を破った内容についてもピントがずれています。
間違いを詳しく書くと、高森会長も講師部員も幹部会員もついてこれないので、重要なポイントだけを紹介しておきます。

善導大師が聖道門の諸師の誤謬について特に取り上げられたのは、九品についての解釈です。上品上生から下品下生までの九品を聖道門ではそれぞれ特別な存在としていました。
中でも下品下生についてが最も大きな問題になったのです。五逆罪を造った極重の悪人が、臨終になって初めて仏法を聞いて、10回の念仏で往生すると『観無量寿経』に説かれているのですから、聖道門としてはそのまま受け取ることができなかったのです。

天台大師が顕したと伝えられる『浄土十疑論』には

能臨終遇善知識十念成就者、皆是宿善業強、始得遇善知識十念成就。

とあり、過去世の善業の強い者という解釈です。

善導大師はこれも含めて『玄義分』で諸師の解釈をまとめて仰っていますが、ここでは下品下生を含む下輩について紹介しておきます。

下輩の三人はこれ大乗始学の凡夫なり。 過の軽重に随ひて分ちて三品となす。 ともに同じく一位にして往生を求願す

『観無量寿経』では、下品上生・下品中生・下品下生の下輩は、共通して、臨終に初めて往生を願ったと説かれていますが、本当は過去世から大乗を学び始めて過去世に往生を願っていた凡夫だという解釈です。

それに対して善導大師は反論なされました。

『玄義分』で

次に下輩の三人を対せば、諸師のいふ、「これらの人はすなはちこれ大乗始学の凡夫なり。過の軽重に随ひて分ちて三品となす。いまだ道位にあらず。 階降を弁ちがたし」とは、まさに謂ふにしからず。なんとなれば、この三品の人、仏法・世俗の二種の善根あることなし。ただ悪を作ることを知るのみ。
(中略)
下品の三人はこれ悪に遇へる凡夫なり。悪業をもつてのゆゑなり。終りに臨みて善によりて、仏の願力に乗じてすなはち往生を得。かしこに到りて華開けてまさにはじめて発心す。なんぞこれ始学大乗の人といふことを得んや。

(現代語訳)

つぎに下輩の三種の人を対破するならば、他師らは、これらの人は大乗始学の十信位の凡夫であって、罪の軽重にしたがって三品に分けるが、まだ修行をしていないから、その上下を区別しがたいといっているが、そうではなかろうと思う。何となれば、この三種の人は、仏法につけ、世間につけ、いずれの善根もなく、ただ悪を作ることだけを知っている。
(中略)
下品の三種の人は悪縁に遇うた凡夫であって、悪業があるから、臨終に善知識により、弥陀の願力に乗託してすなわち往生することができ、かの国に至って華が開けて、そこで始めて菩提心をおこすのである。どうしてこれが大乗始学の十信位の人ということができようか。

と仰っています。

高森理論で言うところの”宿善の厚い者”は、「大乗始学の凡夫」「始学大乗の人」のことになり、これを善導大師は「なんぞこれ始学大乗の人といふことを得んや」と一刀両断に斬り捨てられています。
下品上生、下品中生、下品下生は、「この三品の人、仏法・世俗の二種の善根あることなし。ただ悪を作ることを知るのみ。」と明言なされていますので、過去世にも、仏道修行したことがないだけでなく、倫理道徳の善さえもしてこなかった、過去世の善根がない人のことです。過去世の善根がないのですから、高森理論では”無宿善の者”です。

要するに、高森理論での”無宿善の者”が、臨終の念仏のみで往生を遂げることを善導大師が断言なされて、それを「善導独明仏正意」と親鸞聖人が仰ったのです。ところが、そんなことさえ知らずに、聖道諸師と同じことを親鸞聖人が教えられたとか喚いているのが高森会長だということです。

この後善導大師は

もしこの見をなさば、みづから失し他を誤りて害をなすことこれはなはだし。

と続けられ、もし高森流宿善論に拘るなら、自らの利益を失い、他人を誤まらせ、害をなすことが甚だしい、とまで厳しく非難なされています。

現在の親鸞会を見ると、まさに善導大師の予見なされた通りとなっています。

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2015年10月15日 (木)

『なぜ生きる2』のトンデモ邪義22

先日の親鸞会報恩講(二千畳10周年)の中で、高森顕徹会長はこんなことを言っていたそうです。

親鸞聖人の教えを伝えれば、二千畳は狭くなる

これは本心で言っているのか、ギャグなのか、判りかねますが、実に面白い発言です。

正本堂落慶法要の時が、参詣人数が8,000人強で過去最高でした。その後10年かけて年々参詣人数が減り続けています。この現実を知っていれば、年々二千畳が広くなっているのですから、高森会長は親鸞聖人の教えを伝えていないと告白したことになります。

これだけの教義批判から逃げ続けているのですから、会員が教義の間違いに気が付いて参詣人数が減っていくのは、当然の結果です。親鸞会を辞めることなど一度も考えたことのない何十年来の幹部が、次々に退会していく最大の原因は、”高森会長が親鸞聖人の教えを伝えていない”ことです。

さて、『なぜ生きる2』の12章と13章は、高森流”王舎城の悲劇”の話をぐだぐだと書いていますが、その内容が間違っていることもさることながら、韋提希の獲信について取り上げていること自体が、高森会長が親鸞聖人の御著書を読んでいない証拠になっています。アニメまで作って、韋提希の話が親鸞聖人の教えの真髄のように思っているのが、高森会長を初め、親鸞会の会員ですが、それは間違いです。

なぜなら、親鸞聖人は韋提希の獲信の話をどこにも紹介されていません。正確に言えば、韋提希が獲信した事実について仰ってはいても、韋提希がどのような経緯で獲信したかについて、親鸞聖人は紹介されていません。親鸞会流の言い方をすれば、韋提希の求道の道程を親鸞聖人は、仰っていないのです。もっと言えば、『観無量寿経』を直接引用されて説明されている箇所自体が、ほとんど見当たりません。
これも親鸞会流の言い方をすれば、親鸞聖人は『観無量寿経』についてほとんど隠されたと言えるのです。

親鸞会の講師部員や会員に、このことを話すると絶句するのですが、これが事実です。

親鸞聖人が、獲信の経緯、もしくは”求道の道程”を詳しく紹介されているのは、阿闍世についてです。大部な『教行信証』全体の約1割、信巻でいえば約4割を、『涅槃経』に説かれた阿闍世の話に費やされています。親鸞聖人は韋提希ではなく、阿闍世の獲信こそが、阿弥陀仏の救いを我々に最も判るように表現された善巧方便とされたのです。

もちろん、阿闍世に三願転入を説かれていませんし、善を勧められてもいません。親鸞聖人の教えに、三願転入の道程も不要で、善の勧めもないことが、阿闍世の話からも判ります。

ちなみに、親鸞聖人は18願を善巧方便とされていることは、これまで何度も述べてきましたが、18願が真実そのものではない証拠に、韋提希にも阿闍世にも、18願の願文を釈尊は説かれることなく、二人とも獲信しています。真実の智恵を体得された仏方は、衆生を様々な方法で導くことが可能なので、「種々に善巧方便し」なのです。

要するに、”王舎城の悲劇”をアニメや本で紹介するなら、阿闍世を主人公にしなければ、親鸞聖人の教えを伝えているとは言えないのです。それで、二千畳は広くなる一方です。

今回は、難しい根拠を出すことなく、高森会長が親鸞聖人の教えに疎いことを簡単に説明しました。『なぜ生きる2』の12章と13章の間違いを事細かに説明するまでもないのですが、妄想を信じている会員もありますので、後日、解説をしておきます。

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2015年10月10日 (土)

『なぜ生きる2』のトンデモ邪義21

高森顕徹会長は最近、

念仏を称えたら罪が消えるから出来るだけ励みなさい

というようなことを言っているそうです。念仏否定から方針転換したことで、会員もびっくりしたようですが、この発言からも、高森会長が、親鸞聖人の教えられた念仏の意味を理解していないと判ります。

念仏について『なぜ生きる2』11章でも無知なところをさらけ出しています。

 無仏無法の人でさえ悪を慎み善に励んでいるのに、尊い仏縁に恵まれながら”善根を積む必要がない、念仏さえ称えていれば良いのだ”と、平気で悪性を発揮しているから真宗が廃れるのは当然である。

高森会長が非難している信前の”善根を積む必要がない、念仏さえ称えていれば良いのだ”は20願の行者のことです。

高森顕徹会長は、三願転入と言いながら20願について何も知りません。

『教行信証』化土巻には、

経家は一切諸行の少善を嫌貶して、善本・徳本の真門を開示し、自利の一心を励まして難思の往生を勧む。

(現代語訳)

釈尊は、念仏以外のどのような善を修めてもわずかな功徳しか積めないとしてこれを退け、善本・徳本の真門を説き示し、自力の一心をおこすようにと励まされ、難思往生を勧めておられる。

とありますが、「一切諸行の少善を嫌貶」するのですから、当然、雑行を捨てています。往生するのに、善は不要だと考えていて、自力の念仏に一心に励むのが、20願の行者です。
また『法事讃』を引かれて

またいはく、「極楽は無為涅槃の界なり。随縁の雑善、おそらくは生じがたし。ゆゑに如来、要法を選びて教へて弥陀を念ぜしめて、もつぱらにしてまたもつぱらならしめたまへり」と。

(現代語訳)

また『法事讃』にいわれている。
「極楽は変ることのないさとりの世界である。人それぞれの縁にしたがって修めるような自力の善根によっては生れることができない。だから釈尊は本願の名号を選びとって、ただひとすじに信じ念仏して往生せよと教えてくださった」

とあります。諸善では往生できないと思って、往生するために念仏を選ぶのが、20願の行者です。

更には『三経往生文類』に、

弥陀経往生といふは、植諸徳本の誓願によりて不果遂者の真門にいり、善本徳本の名号を選びて万善諸行の少善をさしおく。

(現代語訳)

「弥陀経往生」 というのは、 植諸徳本の願 (第二十願) によって 「不果遂者」 と誓われた真門に入り、 あらゆる功徳をそなえた名号を選んで善根の少ないさまざまな行を捨てるのである。

とあります。諸善では功徳が少なく往生できないから捨てて、功徳の多い念仏を選ぶのが、20願の行者と仰っています。

このように、20願の行者とは、善では往生できないから往生には善は不要と捨てて、念仏すれば往生できると思っている人のことです。

もう一度、

善根を積む必要がない、念仏さえ称えていれば良いのだ

これは20願の行者の心ですから、高森流三願転入理論で言えば、19願を通過して20願に到達した行者なのですから、親鸞会の会員よりも信仰の進んだ人と、評価すべき筈なのに、なぜか無仏無法の人よりも劣っていると非難しているのです。

20願について、自力の念仏について何も知らない高森会長が、三願転入についてとやかく言える立場にないのです。高森会長は19願さえ勧めれば、諸善さえ勧めれば、もっとはっきり言えば、財施さえ勧めれば理論などどうでもよい訳です。

口先だけ

念仏を称えたら罪が消えるから出来るだけ励みなさい

と言ったところで、これまでの念仏誹謗の高森会長の罪は消えませんよ。

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