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2015年9月20日 (日)

『なぜ生きる2』のトンデモ邪義19

高森顕徹会長の最近の話では、根拠をほとんど使わないそうです。これだけ、根拠の解釈の間違いを指摘され続ければ、高森会長も怖気づいて根拠を出すのをためらっているのでしょう。実際、親鸞会と法論をすると最初は根拠を出してきますが、その間違いを徹底的に追及すると、根拠を出さなくなります。正確には、指摘が怖くて根拠を出せなくなります。そして訳の判らない理屈をひたすら言い始めます。もちろん、その理屈は根拠なし、支離滅裂です。
所詮、蓮如上人以来の無二の善知識とは、この程度の人物です。

『なぜ生きる2』11章のこの部分も面白いです。

 事実、今日でも弥陀の救いに方便は無用と、三願転入を否定するものは珍しくないのだ。
 もし方便(善)が弥陀の救いに不要なら、弥陀の十九願は要門でも仮門でもなく、不要門と呼ばれよう。
 釈迦の定散二善を説かれた『観無量寿経』は反故となり、聖人の「往生浄土の方便の善とならぬはなかりけり」は、激しい謗りを浴びよう。
 また善の勧めが弥陀の救いと無関係ならば、弥陀も釈迦も聖人も、弥陀の救いとつながらない教えを説かれたことになる。

 こんなイロハの放言もあるやに聞く。
 ”弥陀の十八願に救われるまでは、方便の教えは障害になる。聞かぬがよい”
 もしそうだとすれば、弥陀は方便の「修諸功徳の願」は隠していられたはず。
 釈迦も『観無量寿経』や『阿弥陀経』を説かれなかったであろう。
 聖人は十九の願や二十の願を『教行信証』に記されるはずもない。
 蓮如上人も雑行・雑修を説かれはしなかったであろう。

噴飯物としか言いようがありません。

まず、十九願は、聖道門の修行に堪えられず、聖道門を断念した人のために建てられた願であると、親鸞聖人は仰っておられることは、何十回と述べてきた通りです。十九願は聖道門を断念した人にとっては必要な門で、聖道門と浄土門とのターニングポイントの願ですから、要門なのです。『観無量寿経』の定散二善も同じです。

これだけ知っていれば高森理論の論破には十分ですが、駄目押しをしておきます。

『観無量寿経』と『阿弥陀経』には、隠顕があると親鸞聖人は教えられています。

簡単に言うと、

『観無量寿経』の顕説は19願意の定散二善が説かれているが、隠彰は18願意の他力念仏が説かれている。
『阿弥陀経』の顕説は20願意の自力念仏が説かれているが、隠彰は18願意の他力念仏が説かれている。

こういうことです。
こういうことですから、親鸞聖人は『観無量寿経』と『阿弥陀経』の隠彰である18願意(他力念仏)について勧められたのであって、『観無量寿経』と『阿弥陀経』の顕説である19願意(定散二善)と20願意(自力念仏)については、誡められています。

事実、『観無量寿経』について直接引用された御文は、元々極めて少ないです。定散二善の説明の引用はありません。親鸞会大好きな韋提希獲信の物語すら引用はありません。
要するに、親鸞聖人は高森会長が言いたい『観無量寿経』と19願についてほとんど隠されているといっても過言ではありません。なぜなら、方便の教えは障害になる。聞かぬがよい”からです。

ただ、聖道門が19願に拘って、19願を無視された法然上人を攻撃してきたために、親鸞聖人は19願について説明せざるを得なかっただけです。その証拠に、蓮如上人は19願については全く仰っていません。
蓮如上人が本願寺を継がれた際には、本願寺は天台宗の末寺扱いであったために、本願寺の本尊が天台宗の本尊であったりして、本願寺自体が雑行を捨て切れていない状況であって、特に雑行を捨てよと蓮如上人は強調されているのです。

今回は、根拠の大嫌いな高森会長のために、根拠を示しませんでした。

聖教さえ読んだことのない高森会長が、500年前の時代背景など知る由もなく、無知の証明をここでも全世界に披露しているのですが、本人は気が付いていないところが実に痛いですね。

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コメント

>高森顕徹会長の最近の話では、根拠をほとんど使わないそうです。

それでは自分の教えがただの妄想や屁理屈の類だと表明したようなものになってしまうのではないでしょうか。会員も
自分達の信じている教えの裏付けの取りようがありません。「高森先生の仰ることに間違いはない」の一言で済ませる
つもりなのでしょうか?やはり。
妄想といえば、以前確か「さよなら」のコメント欄で「『(高森先生という方は)東大の笠原一男名誉教授が教科書執筆の際に
教えを受けた先生だ』と後輩に話した学生会員がいる」―という意味の記述を見たことがありました。他にも、別のところで
「故・大沼師が臨終にあたって『私亡き後は高森君から聞かせてもらいなさい』と言った」というような話も見かけました。
教義上のことではないのですが、果たしてこれらは根拠のある話なのでしょうか?

…記事の内容と関係ない話になってしまい申し訳ありません。ただ、以前から気になっていたのでこの際少し書いてみようかと…。

投稿: あずきあらい | 2015年9月20日 (日) 23時52分

あずきあらい 様

笠原一男名誉教授とは、高森会長が法論したことがあり、結果的に笠原一男名誉教授が自説を修正したことから、そのような妄想が生じたのだと思います。本当は、笠原一男名誉教授の書かれた文章は間違いではなかったのですが、そこが親鸞会のストーカー的嫌がらせのなせる技でした。
大沼師については、全く知りません。これも妄想といいうより、盗作をカモフラージュするための工作かと想像しています。

投稿: 飛雲 | 2015年9月21日 (月) 05時33分

ここで法然上人の裁可を仰ぎましょう。

>この『経』の所詮は全く念仏に在り。その旨前に見えたり。再び出だすこと能わず。善導・懐感・慧心等の意も、またまたかくのごとし。然ればすなわちこの『経』の止住は、>すなわち念仏の止住なり。然る所以は、この『経』に菩提心の言有りといえども、いまだ菩提心の行相を説かず。また持戒の言有りといえども、いまだ持戒の行相を説かず。而>るに菩提心の行相を説くことは、広く『菩提心経』等に在り。彼の『経』先に滅しなば菩提心の行、何に因ってかこれを修せん。また持戒の行相を説くことは、広く大小の戒律>に在り。彼の戒律先に滅しなば、持戒の行、何に因ってかこれを修せん。自余の諸行これに準じてまさに知るべし。(選択集)

はて、教行信証化身土巻に定散二善が説かれているとはいっても、その行相が説かれているでしょうか?
法然上人は定散諸行は念仏より先に滅すると仰られる。

親鸞聖人も

釈迦如来かくれましまして
 二千余年になりたまふ
 正像の二時はをはりにき
 如来の遺弟悲泣せよ


末法五濁の有情の
 行・証かなはぬときなれば
 釈迦の遺法ことごとく
 竜宮にいりたまひにき


正像末の三時には
 弥陀の本願ひろまれり
 像季末法のこの世には
 諸善竜宮にいりたまふ

定散諸善は行ずるべき行そのものが竜宮に入って(≒滅して)しまったと説かれる。
「善の勧め」とやらは最初から無理がありますねという話。

投稿: 石 | 2015年9月21日 (月) 19時28分

飛雲様

わざわざの御答え誠にありがとうございます。笠原名誉教授と高森会長が法論したとは初耳でした(やはり会長の方から申し込んだ、
というか吹っ掛けたのでしょうか?)。

>結果的に笠原一男名誉教授が自説を修正したことから、そのような妄想が生じたのだと思います。

それにしても何故そこから「教科書執筆の際に教えを受けた」などという話が出てくるのでしょう?話にだいぶ尾ひれがついて
いそうです。笠原名誉教授にしてみればこのような似非真宗教団の箔付けに自分の名前を使われていい迷惑だったでしょう。
他にも「天理教にのめり込んださる寺の門徒総代を、その家の風呂を借りて」云々、とか色々聞かされましたが、妄想だったとしても
何かの偽装工作だったとしても、あの会の話は眉に唾して聞いた方がよさそうなものばかりだったようです。

…しかしあの会で一番眉唾なのはやはり教義なのでしょうね。「『善の勧め』といいながら何故最上の善である筈の念仏を勧めないの
だろうか」とか、「善が出来ると自惚れていて十九願が必要な状態ならそもそもまず比叡山に行ったりするんじゃないか、浄土真宗を
聞きに来ないんじゃないか、第一自惚れていようがいなかろうが『そのまま救う』というのが弥陀の仰せなのではないのか」とか、私の中にも様々な疑問があります。なので私としても是非会長や講師部員etc.の口から納得のいく説明を聞きたいという気持ちはありますが、「根拠をほとんど使わない」なんて調子では期待できそうにもありません。ますます「めづらしき法」になりつつあるというのでしょうか…やはり「浄土真宗」「親鸞」の名は降ろした方がいいと、強く思います。

投稿: あずきあらい | 2015年9月22日 (火) 00時28分

笠原さんのことは、確か親鸞会発行の「法戦」に書いてあります。
1〜5のどれに入っていたかは忘れました。(4か5だったかな?)
「歎異鈔をひらく」の一章でも、そのことに触れています。

「教えを受けた」は尾ひれがついてますね。

ps:しかし、どの組織でも末端にいったり、又聞きになると歪んでいくものだと思っています。
その点親鸞会では指導がされていて、「会長の言わないことは言わない」が徹底されています。
そこに私は皮肉を感じます。

ps2:諸善より念仏の方が功徳があるといいながら、念仏を勧めず諸善をすすめる。それでいて念仏を勧める人を見ては「称名正因」と批判する。
親鸞会は好意的に見て諸行往生だから、より18願から遠い。我が身知らず。

投稿: | 2015年9月22日 (火) 11時50分

石 様

どんな角度から見ても、善の勧めは真宗においてはあり得ないですよね。

投稿: 飛雲 | 2015年9月22日 (火) 12時56分

あずきあらい 様
名無し 様

紛失していて法戦の記載を確認できませんが、私の記憶では、教科書の内容に対して、新聞の投書欄で会員が投稿したのが発端です。
そこに本人や外部も巻き込んで、結果的に後の教科書の執筆で、修正されたという顛末だったと思います。

浄土門において、念仏を勧めずに善を勧めることはあり得ないですが、そのあり得ないことを主張しながら浄土真宗親鸞会と名乗る無知さには、呆れかえります。

投稿: 飛雲 | 2015年9月22日 (火) 13時03分

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