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2015年9月14日 (月)

『なぜ生きる2』のトンデモ邪義18

今年の報恩講には参詣目標はなく、代わりに入会目標を押しつけています。行く気のない会員を無理やり報恩講に連れて行っても、法礼をわずかしか払わないので、確実に5万円の入る入会金を目当てにしていることが判ります。入会金は、本人とは何の縁もない幹部に払わせることもありますし。

前回の続きで『なぜ生きる2』11章にこうあります。

蓮如上人の時代もあったと見えて強く諌められている。

 蓮如上人が仰せになった。
 「方便など要らないなどとは言語道断。方便より真実に入る聖人の教えのイロハむ揺らぐ発言だ。弥陀の十九、二十の願を反故にする法謗である。
 弥陀・釈迦・善知識の種々の方便によってのみ、大悲の願船に乗ずる(真実の信心を獲る)ことができるのである。

 以下は、その文証である。

蓮如上人仰せられ候。「方便を悪しといふことは有る間敷きなり。方便を以て真実を顕わす廃立の義、よくよくしるべし。
弥陀・釈迦・善知識の善巧方便によりて、真実の信をば獲ることなる」由、仰せられ候と云々         (『御一代記聞書』一七七)

これも前回のエントリーで書いた内容で良いのですが、少し補足しておきます。
まず、方便に二種類あり、善巧方便と権仮方便と親鸞聖人は分けて教えられています。

少しややこしいので、教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)』の補註にあるものを紹介しておきます。

 方便とは、仏が衆生を救済するときに用いられるたくみな方法をいう。その中に真実と権仮とがある。真実の方便とは、仏の本意にかなって用いられる教化の方法で、随自意の法門をいう。それは、大智を全うじた大悲が巧みな方法便宜をもって衆生を済度されるというので、善巧方便ともいう。阿弥陀仏を方便法身というときの方便がそれである。
 権仮方便とは、未熟な機は直ちに仏の随自意真実の法門を受けとれないから、その機に応じて、仮に暫く誘引のために用いられる程度の低い教えをいう。機が熟すれば真実の法門に入らしめて、権仮の法門は還って廃せられる。このように暫く用いるが、後には還って廃するような随他意の法門を権仮方便という。「方便化身土」といわれるときの方便がそれである。
 親鸞聖人は四十八願の中で、往生の因を誓われた第十八願、第十九願、第二十願のうち第十八願のみが真実願であり、第十九願、第二十願は方便願であるとされた。第十八願は、他力回向の行信によって、真実報土の果を得しめられる真実願であり、第十九願は、自力諸行によって往生を願うものを、臨終に来迎して方便化土に往生せしめることを誓われたものであり、第二十願は、自力念仏によって往生を願うものを、方便化土に往生せしめることを誓われた方便願であるといわれるのである。そしてこの三願は、聖道門の機を浄土門に誘うために第十九願が、自力諸行の機を念仏の法門に導き、さらにその自力心を捨てしめて第十八願の他力念仏往生の法門に引き入れるために第二十願が誓われたとされている。

真宗では基本的なことですが、親鸞会の会員にとっては、全く理解できないと思います。

善巧方便=随自意の法門=真実の方便(例として方便法身、18願)
権仮方便=随他意の法門=仮の方便(例として聖道門、19願)

18願が方便か?

と会員はチンプンカンプンでしょうが、善巧方便とは真実そのものではなく、真実そのものを私たちにも認識できる形で表現されたものです。

それでも抵抗する会員のために会員でも理解できる話をすると、18願の願文は『大無量寿経』にしか説かれておらず、たとえば韋提希は18願文を釈尊が仰ることなく韋提希は信心を獲ています。18願は、真実そのものではないからです。真実を私たちに認識できる形に表現されたものに過ぎないからです。

ここで『御一代記聞書』に戻ると、「方便をもつて真実をあらはす廃立の義よくよくしるべし」の「方便」は「廃立の義」ですから、捨てるべき権仮方便のことです。最後の文は文字通り、「善巧方便」のことです。「真実の信」は、「善巧方便によりて」うるのであって、「権仮方便によりて」ではありません。

以上のことをまとめて判りやすく言えば、親鸞聖人は18願1つで救われるのだと、繰り返し繰り返し教えられているのですが、絶対他力18願での往生をとても信じられない未熟の機がいますので、そんな機に対しては、権仮方便をもって18願での往生を願わせるところまで導かれるのです。親鸞聖人の教えを信じて、18願での往生を願う機に対しては、善巧方便をもって済度されるのです。

親鸞会では、自惚れ自惚れとうるさいのですが、18願だけでは不足だから19願・20願を加えなければならないと思うことを自惚れというのです。

この善巧方便を具体的に描かれたのが、『教行信証』信巻末にある阿闍世の物語です。一見すれば、略されてもよいように思われる部分までも、事細かに引文されています。実に『教行信証』全体の1割も費やされて、親鸞聖人は何を教えられたかったのでしょうか。それは衆生が善巧方便によって導かれることを示されると共に、五逆罪を犯した極悪人をも洩らさず、普く救いたもう本願であることを親鸞聖人が明らかにされるためであったのです。

念のため言っておきますと、阿闍世に対しても、釈尊は18願文を説かれることなく、阿闍世は信心を獲ています。18願は真実そのものではないからです。

『教行信証』信巻・別序の

真心を開闡することは、大聖(釈尊)矜哀の善巧より顕彰せり。

のお言葉は、18願が善巧方便というまさに親鸞会の基本的な誤りを正されたものです。

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コメント

親鸞会では、「方便をおろそかにしてはならぬ」と強調しますが、善巧方便と権仮方便の意味を把握している会員は何人いるのでしょう。それらの意味を知らずして、方便を語るのは片腹痛いですね。

投稿: | 2015年9月14日 (月) 22時50分

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