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2015年9月

2015年9月30日 (水)

『なぜ生きる2』のトンデモ邪義20

親鸞会で30年、40年と幹部であった会員が、朝令暮改の指示と教義に呆れ果てて、次々と退会しています。親鸞会としては、幹部の退会者が相次いでも、都合よく会員を利用し続けないと会の存続が危ういのですから、無茶を承知でしていることでしょう。
高森顕徹会長の心中は、毎日不安で一杯です。なんせ、小心者ですから。

さて、『なぜ生きる2』11章は、突っ込みどころ満載で、こんなことも書いてあります。

 三願転入の道程は、決して特別の人だけの道でもなければ、回り道でもない。
 あべこべか遠回りに見えるのは、弥陀の真実(真)と方便(仮)の違いを知らないからだと、聖人は喝破されている。
  以下は、その文証である。

 真仮を知らざるによりて、如来広大の恩徳を迷失す
                   (『教行信証』真仏土巻)

 阿弥陀仏の十九願の諸善万行は、大悲の願船に乗せる(十八願の無碍の一道へ出させる)ための弥陀の方便であることは、釈迦も祖師も蓮師も一貫している教訓だ。
 的々として示すお聖教の明証は、いずれも弥陀の勧める善だから大いに努めるよう教導されたものばかりである。

普通の思考なら、一笑に付す内容でしょう。
読者の方は当然でしょうが、会員でも気が付いているように、歴代の善知識方の中で、三願転入したと仰っているのは、親鸞聖人ただお一人です。妙好人でも、三願転入したと語っている人はありません。そうなると、「三願転入の道程は、特別の人だけの道」という結論以外に導くことはできません。「回り道」ということで言えば、親鸞聖人は『教行信証』信巻に、

また横出あり、すなはち三輩・九品、定散の教、化土・懈慢、迂回の善なり。

と仰っていますが、19願、定散二善は迂回の善、つまり「回り道」と親鸞聖人が明言されているのですから、高森会長のこの断言は、実に他愛もない妄言と嘲笑われて終わる程度の話です。

次に「真仮を知らざるによりて」は、聖道門のことを批判したお言葉であるのですが、そんなことすら全く知らないのが、無二の善知識です。

証拠をお見せします。
承元の法難の直接の切っ掛けとなった『興福寺奏状』には、

ここに専修、此のごときの難を蒙らんの時、万事を顧みず、ただ一言に答へん、「是れ弥陀の本願に四十八あり、念仏往生は第十八の願なり」と。何ぞ爾許の大願を隠して、ただ一種を以て本願と号せんや。

とありまして、阿弥陀仏の本願は48あるのに、18願だけでいいというのはおかしいと言っているのです。
また法然上人が亡くなられた後、明恵高弁が『摧邪輪』を著して、

しかるに本願の中にさらに菩提心等の余行なしと言うは、何が故ぞ。第十九の願に云く、「発菩提心、修諸功徳」等と云々。是れ本願にあらずや。

と具体的に19願を出して、19願は本願ではないのかといっています。

一方18願、念仏に対しては、『興福寺奏状』に

善導一期の行ただ仏名に在らば、下機を誘ふるの方便なり。

とあり、また『摧邪輪』には、

往生宗所引の念仏の善の証文には称名の外に無量の余行あり、一一出すに邊あらず、若し彼を撥すれば念仏の深義また成ずべからず、若し汝の言う所の如く一文を守らば称名行は是れ下劣根機の為に説く所也。
(中略)
称名一行は下根の一類の為に授ずくる所也。汝何ぞ天下の諸人を以て皆下劣の根機と為す乎。無礼之至り称計す可からず、此の文証を引くに依りて称名行を執らずに非ず、唯是汝之一門、称名を以て無上殊勝の行と為し、余行を撥して下劣と為す。

とあるように、18願、念仏は悪人のための方便の願であるのに、それを万人にまで適応させるとは無礼ではないか、とまで激しく攻撃しているのです。

要するに、18願だけ、念仏一行を説かれた法然上人は間違っている、と非難しているのです。

それで親鸞聖人はお亡くなりになられた法然上人に代わって聖道門の非難に反論されたのが、

真仮を知らざるによりて、如来広大の恩徳を迷失す

なのです。聖道門が重要視する19願は方便(仮)で、聖道門が下劣の根機のための方便と言っている18願が真実(真)だと親鸞聖人が聖道門の考えがあべこべであることを痛烈に非難したお言葉であったのです。

この程度のことも知らないで、堂々と駄本を出版したことを高森会長は、一生の不覚と後悔していることでしょう。一流大学出身者を周りに並べても、全くの役立たずでしたね。

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2015年9月20日 (日)

『なぜ生きる2』のトンデモ邪義19

高森顕徹会長の最近の話では、根拠をほとんど使わないそうです。これだけ、根拠の解釈の間違いを指摘され続ければ、高森会長も怖気づいて根拠を出すのをためらっているのでしょう。実際、親鸞会と法論をすると最初は根拠を出してきますが、その間違いを徹底的に追及すると、根拠を出さなくなります。正確には、指摘が怖くて根拠を出せなくなります。そして訳の判らない理屈をひたすら言い始めます。もちろん、その理屈は根拠なし、支離滅裂です。
所詮、蓮如上人以来の無二の善知識とは、この程度の人物です。

『なぜ生きる2』11章のこの部分も面白いです。

 事実、今日でも弥陀の救いに方便は無用と、三願転入を否定するものは珍しくないのだ。
 もし方便(善)が弥陀の救いに不要なら、弥陀の十九願は要門でも仮門でもなく、不要門と呼ばれよう。
 釈迦の定散二善を説かれた『観無量寿経』は反故となり、聖人の「往生浄土の方便の善とならぬはなかりけり」は、激しい謗りを浴びよう。
 また善の勧めが弥陀の救いと無関係ならば、弥陀も釈迦も聖人も、弥陀の救いとつながらない教えを説かれたことになる。

 こんなイロハの放言もあるやに聞く。
 ”弥陀の十八願に救われるまでは、方便の教えは障害になる。聞かぬがよい”
 もしそうだとすれば、弥陀は方便の「修諸功徳の願」は隠していられたはず。
 釈迦も『観無量寿経』や『阿弥陀経』を説かれなかったであろう。
 聖人は十九の願や二十の願を『教行信証』に記されるはずもない。
 蓮如上人も雑行・雑修を説かれはしなかったであろう。

噴飯物としか言いようがありません。

まず、十九願は、聖道門の修行に堪えられず、聖道門を断念した人のために建てられた願であると、親鸞聖人は仰っておられることは、何十回と述べてきた通りです。十九願は聖道門を断念した人にとっては必要な門で、聖道門と浄土門とのターニングポイントの願ですから、要門なのです。『観無量寿経』の定散二善も同じです。

これだけ知っていれば高森理論の論破には十分ですが、駄目押しをしておきます。

『観無量寿経』と『阿弥陀経』には、隠顕があると親鸞聖人は教えられています。

簡単に言うと、

『観無量寿経』の顕説は19願意の定散二善が説かれているが、隠彰は18願意の他力念仏が説かれている。
『阿弥陀経』の顕説は20願意の自力念仏が説かれているが、隠彰は18願意の他力念仏が説かれている。

こういうことです。
こういうことですから、親鸞聖人は『観無量寿経』と『阿弥陀経』の隠彰である18願意(他力念仏)について勧められたのであって、『観無量寿経』と『阿弥陀経』の顕説である19願意(定散二善)と20願意(自力念仏)については、誡められています。

事実、『観無量寿経』について直接引用された御文は、元々極めて少ないです。定散二善の説明の引用はありません。親鸞会大好きな韋提希獲信の物語すら引用はありません。
要するに、親鸞聖人は高森会長が言いたい『観無量寿経』と19願についてほとんど隠されているといっても過言ではありません。なぜなら、方便の教えは障害になる。聞かぬがよい”からです。

ただ、聖道門が19願に拘って、19願を無視された法然上人を攻撃してきたために、親鸞聖人は19願について説明せざるを得なかっただけです。その証拠に、蓮如上人は19願については全く仰っていません。
蓮如上人が本願寺を継がれた際には、本願寺は天台宗の末寺扱いであったために、本願寺の本尊が天台宗の本尊であったりして、本願寺自体が雑行を捨て切れていない状況であって、特に雑行を捨てよと蓮如上人は強調されているのです。

今回は、根拠の大嫌いな高森会長のために、根拠を示しませんでした。

聖教さえ読んだことのない高森会長が、500年前の時代背景など知る由もなく、無知の証明をここでも全世界に披露しているのですが、本人は気が付いていないところが実に痛いですね。

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2015年9月14日 (月)

『なぜ生きる2』のトンデモ邪義18

今年の報恩講には参詣目標はなく、代わりに入会目標を押しつけています。行く気のない会員を無理やり報恩講に連れて行っても、法礼をわずかしか払わないので、確実に5万円の入る入会金を目当てにしていることが判ります。入会金は、本人とは何の縁もない幹部に払わせることもありますし。

前回の続きで『なぜ生きる2』11章にこうあります。

蓮如上人の時代もあったと見えて強く諌められている。

 蓮如上人が仰せになった。
 「方便など要らないなどとは言語道断。方便より真実に入る聖人の教えのイロハむ揺らぐ発言だ。弥陀の十九、二十の願を反故にする法謗である。
 弥陀・釈迦・善知識の種々の方便によってのみ、大悲の願船に乗ずる(真実の信心を獲る)ことができるのである。

 以下は、その文証である。

蓮如上人仰せられ候。「方便を悪しといふことは有る間敷きなり。方便を以て真実を顕わす廃立の義、よくよくしるべし。
弥陀・釈迦・善知識の善巧方便によりて、真実の信をば獲ることなる」由、仰せられ候と云々         (『御一代記聞書』一七七)

これも前回のエントリーで書いた内容で良いのですが、少し補足しておきます。
まず、方便に二種類あり、善巧方便と権仮方便と親鸞聖人は分けて教えられています。

少しややこしいので、教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)』の補註にあるものを紹介しておきます。

 方便とは、仏が衆生を救済するときに用いられるたくみな方法をいう。その中に真実と権仮とがある。真実の方便とは、仏の本意にかなって用いられる教化の方法で、随自意の法門をいう。それは、大智を全うじた大悲が巧みな方法便宜をもって衆生を済度されるというので、善巧方便ともいう。阿弥陀仏を方便法身というときの方便がそれである。
 権仮方便とは、未熟な機は直ちに仏の随自意真実の法門を受けとれないから、その機に応じて、仮に暫く誘引のために用いられる程度の低い教えをいう。機が熟すれば真実の法門に入らしめて、権仮の法門は還って廃せられる。このように暫く用いるが、後には還って廃するような随他意の法門を権仮方便という。「方便化身土」といわれるときの方便がそれである。
 親鸞聖人は四十八願の中で、往生の因を誓われた第十八願、第十九願、第二十願のうち第十八願のみが真実願であり、第十九願、第二十願は方便願であるとされた。第十八願は、他力回向の行信によって、真実報土の果を得しめられる真実願であり、第十九願は、自力諸行によって往生を願うものを、臨終に来迎して方便化土に往生せしめることを誓われたものであり、第二十願は、自力念仏によって往生を願うものを、方便化土に往生せしめることを誓われた方便願であるといわれるのである。そしてこの三願は、聖道門の機を浄土門に誘うために第十九願が、自力諸行の機を念仏の法門に導き、さらにその自力心を捨てしめて第十八願の他力念仏往生の法門に引き入れるために第二十願が誓われたとされている。

真宗では基本的なことですが、親鸞会の会員にとっては、全く理解できないと思います。

善巧方便=随自意の法門=真実の方便(例として方便法身、18願)
権仮方便=随他意の法門=仮の方便(例として聖道門、19願)

18願が方便か?

と会員はチンプンカンプンでしょうが、善巧方便とは真実そのものではなく、真実そのものを私たちにも認識できる形で表現されたものです。

それでも抵抗する会員のために会員でも理解できる話をすると、18願の願文は『大無量寿経』にしか説かれておらず、たとえば韋提希は18願文を釈尊が仰ることなく韋提希は信心を獲ています。18願は、真実そのものではないからです。真実を私たちに認識できる形に表現されたものに過ぎないからです。

ここで『御一代記聞書』に戻ると、「方便をもつて真実をあらはす廃立の義よくよくしるべし」の「方便」は「廃立の義」ですから、捨てるべき権仮方便のことです。最後の文は文字通り、「善巧方便」のことです。「真実の信」は、「善巧方便によりて」うるのであって、「権仮方便によりて」ではありません。

以上のことをまとめて判りやすく言えば、親鸞聖人は18願1つで救われるのだと、繰り返し繰り返し教えられているのですが、絶対他力18願での往生をとても信じられない未熟の機がいますので、そんな機に対しては、権仮方便をもって18願での往生を願わせるところまで導かれるのです。親鸞聖人の教えを信じて、18願での往生を願う機に対しては、善巧方便をもって済度されるのです。

親鸞会では、自惚れ自惚れとうるさいのですが、18願だけでは不足だから19願・20願を加えなければならないと思うことを自惚れというのです。

この善巧方便を具体的に描かれたのが、『教行信証』信巻末にある阿闍世の物語です。一見すれば、略されてもよいように思われる部分までも、事細かに引文されています。実に『教行信証』全体の1割も費やされて、親鸞聖人は何を教えられたかったのでしょうか。それは衆生が善巧方便によって導かれることを示されると共に、五逆罪を犯した極悪人をも洩らさず、普く救いたもう本願であることを親鸞聖人が明らかにされるためであったのです。

念のため言っておきますと、阿闍世に対しても、釈尊は18願文を説かれることなく、阿闍世は信心を獲ています。18願は真実そのものではないからです。

『教行信証』信巻・別序の

真心を開闡することは、大聖(釈尊)矜哀の善巧より顕彰せり。

のお言葉は、18願が善巧方便というまさに親鸞会の基本的な誤りを正されたものです。

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2015年9月 4日 (金)

『なぜ生きる2』のトンデモ邪義17

最近の親鸞会は、物販に力を入れており、なんだかんだと理由をつけて、会員からお金を巻き上げることしか考えていないことが良く判ります。それに気が付いた何十年来の会員が、一人、また一人と親鸞会を去っている程です。

金集めの聖典である『なぜ生きる2』11章には、こんなことが書いてあります。

 かかる三願転入の教えに反する邪義を、覚如上人は吐き捨てるように、こう難じられる。

 親鸞聖人は、
 「『観無量寿経』に説かれる教え(三心)は、方便・自力の教である。『大無量寿経』に説かれている教え(三信)こそが、真実・他力の教である」
 と自力と他力を峻別される。
 その上で「方便より真実へ、自力から他力へ入るのだよ」と教えられている。
 その祖師親鸞聖人の御書を拝見したことのない輩なのだろうか。

 以下はその文証である。

三経のなかに、『観経』の至誠・深心等の三心をば、凡夫のおこすところの自力の三心ぞとさだめ、『大経』の所説の至心・信楽・欲生等の三信をば、他力よりさずけらるるところの仏智とわけられたり。
しかるに、「方便より真実へつたい、凡夫発起の三心より、如来利他の信心に通入するぞ」と教えおきまします、祖師親鸞聖人の御釈を拝見せざるにや(『改邪鈔』末・十九)

一見、尤もらしいと思われる方があると思いますが、これも断章取義です。
『改邪鈔』のこの後には、

まづ能化・所化をたて、自力・他力を対判して、自力をすてて他力に帰し、能化の説をうけて所化は信心を定得するこそ、今師(親鸞)御相承の口伝にはあひかなひはんべれ。

とあります。

つまり

方便より真実へつたい、凡夫発起の三心より、如来利他の信心に通入するぞ
自力・他力を対判して、自力をすてて他力に帰し、能化の説をうけて所化は信心を定得する

です。

高森顕徹会長の訳

「方便より真実へ、自力から他力へ入るのだよ」と教えられている。

こんな意味ではなく、

「自力(方便)と他力(真実)を比較判断して、自力をすてて他力に帰すのだよ」と教えられている。

ということです。

方便を通って真実に入るのではなく、方便は間違っているからそれを捨てて真実に入る、ということです。
これは法然上人が『選択本願念仏集』で仰った

定散を説くことは、念仏の余善に超過したることを顕さんがためなり。もし定散なくは、なんぞ念仏のことに秀でたることを顕さんや。
(中略)
ゆゑにいま定散は廃せんがために説き、念仏三昧は立せんがために説く。

と同じことで、定散を方便、念仏を真実と言い換えてみれば判られると思います。

方便を説くことは、真実の方便に超過したることを顕さんがためなり。もし方便なくは、なんぞ真実のことに秀でたることを顕さんや。
(中略)
ゆゑにいま方便は廃せんがために説き、真実は立せんがために説く。

法然上人のこの有名なお言葉を知っていれば、簡単な話ですが、親鸞聖人の御著書も読んだことがない高森会長では、法然上人のお言葉を知る由もなく、『改邪鈔』の正しい解釈ができる筈もありません。

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