『なぜ生きる2』のトンデモ邪義20
親鸞会で30年、40年と幹部であった会員が、朝令暮改の指示と教義に呆れ果てて、次々と退会しています。親鸞会としては、幹部の退会者が相次いでも、都合よく会員を利用し続けないと会の存続が危ういのですから、無茶を承知でしていることでしょう。
高森顕徹会長の心中は、毎日不安で一杯です。なんせ、小心者ですから。
さて、『なぜ生きる2』11章は、突っ込みどころ満載で、こんなことも書いてあります。
三願転入の道程は、決して特別の人だけの道でもなければ、回り道でもない。
あべこべか遠回りに見えるのは、弥陀の真実(真)と方便(仮)の違いを知らないからだと、聖人は喝破されている。
以下は、その文証である。真仮を知らざるによりて、如来広大の恩徳を迷失す
(『教行信証』真仏土巻)阿弥陀仏の十九願の諸善万行は、大悲の願船に乗せる(十八願の無碍の一道へ出させる)ための弥陀の方便であることは、釈迦も祖師も蓮師も一貫している教訓だ。
的々として示すお聖教の明証は、いずれも弥陀の勧める善だから大いに努めるよう教導されたものばかりである。
普通の思考なら、一笑に付す内容でしょう。
読者の方は当然でしょうが、会員でも気が付いているように、歴代の善知識方の中で、三願転入したと仰っているのは、親鸞聖人ただお一人です。妙好人でも、三願転入したと語っている人はありません。そうなると、「三願転入の道程は、特別の人だけの道」という結論以外に導くことはできません。「回り道」ということで言えば、親鸞聖人は『教行信証』信巻に、
また横出あり、すなはち三輩・九品、定散の教、化土・懈慢、迂回の善なり。
と仰っていますが、19願、定散二善は迂回の善、つまり「回り道」と親鸞聖人が明言されているのですから、高森会長のこの断言は、実に他愛もない妄言と嘲笑われて終わる程度の話です。
次に「真仮を知らざるによりて」は、聖道門のことを批判したお言葉であるのですが、そんなことすら全く知らないのが、無二の善知識です。
証拠をお見せします。
承元の法難の直接の切っ掛けとなった『興福寺奏状』には、
ここに専修、此のごときの難を蒙らんの時、万事を顧みず、ただ一言に答へん、「是れ弥陀の本願に四十八あり、念仏往生は第十八の願なり」と。何ぞ爾許の大願を隠して、ただ一種を以て本願と号せんや。
とありまして、阿弥陀仏の本願は48あるのに、18願だけでいいというのはおかしいと言っているのです。
また法然上人が亡くなられた後、明恵高弁が『摧邪輪』を著して、
しかるに本願の中にさらに菩提心等の余行なしと言うは、何が故ぞ。第十九の願に云く、「発菩提心、修諸功徳」等と云々。是れ本願にあらずや。
と具体的に19願を出して、19願は本願ではないのかといっています。
一方18願、念仏に対しては、『興福寺奏状』に
善導一期の行ただ仏名に在らば、下機を誘ふるの方便なり。
とあり、また『摧邪輪』には、
往生宗所引の念仏の善の証文には称名の外に無量の余行あり、一一出すに邊あらず、若し彼を撥すれば念仏の深義また成ずべからず、若し汝の言う所の如く一文を守らば称名行は是れ下劣根機の為に説く所也。
(中略)
称名一行は下根の一類の為に授ずくる所也。汝何ぞ天下の諸人を以て皆下劣の根機と為す乎。無礼之至り称計す可からず、此の文証を引くに依りて称名行を執らずに非ず、唯是汝之一門、称名を以て無上殊勝の行と為し、余行を撥して下劣と為す。
とあるように、18願、念仏は悪人のための方便の願であるのに、それを万人にまで適応させるとは無礼ではないか、とまで激しく攻撃しているのです。
要するに、18願だけ、念仏一行を説かれた法然上人は間違っている、と非難しているのです。
それで親鸞聖人はお亡くなりになられた法然上人に代わって聖道門の非難に反論されたのが、
真仮を知らざるによりて、如来広大の恩徳を迷失す
なのです。聖道門が重要視する19願は方便(仮)で、聖道門が下劣の根機のための方便と言っている18願が真実(真)だと親鸞聖人が聖道門の考えがあべこべであることを痛烈に非難したお言葉であったのです。
この程度のことも知らないで、堂々と駄本を出版したことを高森会長は、一生の不覚と後悔していることでしょう。一流大学出身者を周りに並べても、全くの役立たずでしたね。
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