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2015年8月 7日 (金)

『なぜ生きる2』のトンデモ邪義13

今から6年前に、”三願転入の教え”の根拠として、高森顕徹会長が突如使い出したのが、『一念多念証文』の御文です。某元講師部員がこの御文に着目したのがきっかけです。要するに、高森会長が盗作したということです。

おほよそ八万四千の法門は、みなこれ浄土の方便の善なり。これを要門といふ。これを仮門となづけたり。この要門・仮門といふは、すなはち『無量寿仏観経』一部に説きたまへる定善・散善これなり。定善は十三観なり、散善は三福九品の諸善なり。これみな浄土方便の要門なり、これを仮門ともいふ。この要門・仮門より、もろもろの衆生をすすめこしらへて、本願一乗円融無碍真実功徳大宝海にをしへすすめ入れたまふがゆゑに、よろづの自力の善業をば、方便の門と申すなり。

ですが、ここでは、聖道門、19願、18願の関係を親鸞聖人が仰ったものです。
以前にも言いましたように、聖道門自体は、浄土の方便の善(雑行)ではないのですが、末法にあって、聖道門で出離し成仏することはできませんので、結局は聖道門は浄土門へ入るための方便にすぎないという親鸞聖人の解釈から、ここでは聖道門を19願に含めて「浄土の方便の善」「要門」「仮門」と仰っています。

そして19願と18願との関係にまとめられて、19願は18願に入るための方便だと仰ったのが、この御文の概要になります。

ここは『教行信証』化土巻の

宗師(善導)の意によるに、「心によりて勝行を起せり。門八万四千に余れり。漸・頓すなはちおのおの所宜に称へり。縁に随ふものすなはちみな解脱を蒙る」(玄義分)といへり。
しかるに常没の凡愚、定心修しがたし、息慮凝心のゆゑに。散心行じがたし、廃悪修善のゆゑに。ここをもつて立相住心なほ成じがたきがゆゑに、「たとひ千年の寿を尽すとも、法眼いまだかつて開けず」(定善義)といへり。いかにいはんや無相離念まことに獲がたし。ゆゑに、「如来はるかに末代罪濁の凡夫を知ろしめして、相を立て心を住すとも、なほ得ることあたはじと。いかにいはんや、相を離れて事を求めば、術通なき人の空に居て舎を立てんがごときなり」(同)といへり。
「門余」といふは、「門」はすなはち八万四千の仮門なり、「余」はすなはち本願一乗海なり。

(現代語訳)

善導大師の説かれた『観経疏』によれば、「衆生の心にしたがって釈尊はすぐれた行をお説きになった。その教えは八万四千を超えている。漸教も頓教もそれぞれ衆生の資質にかなったものであり、縁にしたがってその行を修めればみな迷いを離れることができる」(玄義分)といわれている。
しかし、はかり知れない昔から迷い続けてきた愚かな凡夫は、定善の行を修めることができない。心を乱さず思いを一つに集中して浄土の相を観ずる行だからである。散善の行も修めることができない。悪い行いをやめて善い行いをすることだからである。このようなわけで、仏や浄土の相を観じて思いを一つに集中することさえできないのだから、『観経疏』には、「たとえ千年という長い寿命を費やしても、真実を見る智慧の眼が開かない」(散善義)といわれている。ましてすべての相を離れ、真如法性をそのまま観ずることなど決してできない。だから、『観経疏』には、「釈尊は、はるかに遠く、末法の世の煩悩に汚れた衆生のことを、仏や浄土の相を観じて思いを一つに集中することなどできないと見通しておられる。ましてすべての相を離れて真如法性を観じようとするなら、それは、神通力のないものが空中に家を建てようとするようなものであり、決してできるはずがない」(定善義)といわれている。
『観経疏』に「その教えは八万四千を超えている」(玄義分)といわれているのは、「教え」とは八万四千の方便の教えであり、自力聖道門のことである。「超えている」のは本願一乗海の教えであり、他力浄土門のことである。

を視点を変えて言い換えられたものといえます。

「門」=八万四千の仮門=方便
「余」=本願一乗海=真実

化土巻では、方便と真実の関係は方便を捨てて真実に帰すべきことを仰ったのですが、『一念多念証文』では、方便から真実へという方向性を仰っているので、その点が異なっています。

ここで問題になるのが、全人類は19願を通らなければ18願に入ることができないのか、ということですが、それについて特に書かれていません。

高森会長は「全人類が」と書いてあると思っているようですが、どこにもありません。『一念多念証文』の「この要門・仮門より、もろもろの衆生をすすめこしらへて、本願一乗円融無碍真実功徳大宝海にをしへすすめ入れたまふ」を読めないだけでしょうが、これは、19願よりもろもろの衆生を誘い18願に勧め入れる、という意味以上のことは言えません。つまり、19願(聖道門を含む)は、19願(聖道門を含む)の人を、18願に入れるための方便だ、ということで、19願(聖道門を含む)を信じていない、実践していない人にとっては、関係のない話です。

化土巻はその点明確で、方便(「門」=八万四千の仮門)は我々にはできないから無駄なことはするな、という言い方になってところからも判ります。

できるかできないかはやってみないと判らない、と寝惚けた反論を会員はしてくるでしょうが、親鸞聖人は「術通なき人の空に居て舎を立てんがごときなり」とまで言い切っておられますので、親鸞聖人のお言葉を信じるかどうかです。

親鸞聖人のお言葉でも信じられない、というのならば、親鸞会とか親鸞学徒とか名乗らないことです。

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コメント

本当にその通りですね。
高森会長の会では、全く読めないと思います。
もう、あれだけ頭がガチガチになっているからです。
滅茶苦茶の話を信じていられるのは何故でしょう。ヒステリックに、会長先生がーおっしゃるからー以外の根拠はもう出せないんですよ。

投稿: | 2015年8月12日 (水) 18時55分

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投稿: | 2016年12月 6日 (火) 08時36分

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