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2015年8月22日 (土)

『なぜ生きる2』のトンデモ邪義15

常に顕正戦が行われている親鸞会ですが、最近の入会基準は、

入会金と会費を払うことだけ

です。
余りにも突飛で何が言いたいか判られないかもしれませんが、要するに入会する人の気持ちは関係ないということです。話を聞く気が全くなくても、入会の自覚がなくてもよい、ということは、現会員がお金さえだせば、形式上会員として誰でも勝手に登録される仕組みです。

これを聞いた多くの会員が、

親鸞会も相当お金に困っているんだな

と愚痴をこぼしたそうです。
親鸞会にとっては、お金さえ集まれば、何でもありなのです。親鸞聖人の教えと合っているかどうかなど、どうでもよいのです。

さて、『なぜ生きる2』の断章取義は目に余るものがありますが、これもその一つです。
11章に

蓮如上人も同様に諭す。

 幸いにも仏縁に恵まれ、因果の道理を聞き、人間は老少不定の身と知れば、
 どんな小さな善根・功徳でも修めようと心がけるのが当然だろう。

決して、ささいな善も疎かにしてはならない、と真実を背負うての慈誨である。

 以下はその文証である。

これにつけても人間は、老少不定ときく時は、急ぎいかなる功徳・善根をも修し、いかなる菩提・涅槃をも願うべき事なり。
                    (『御文章』四帖目三通)

これが仮に、高森会長のいう通りだったとして、蓮如上人が善を勧められたお言葉は、『御文章』『帖外御文』『御一代記聞書』を探しても、ただこれ1つしかないことを、親鸞会も認めています。
この事実だけ知っても、通常の思考なら、蓮如上人はこのお手紙を読むことのできる極めて限られた人にだけ、善を勧められたのか、と疑問に思う筈ですが、思考停止の会員では、そこまで考えることはないのでしょう。

もちろん、蓮如上人は善を勧められたのではありません。前後を併せて読めば判るでしょう。

 それ、当時世上の体たらく、いつのころにか落居すべきともおぼえはんべらざる風情なり。しかるあひだ、諸国往来の通路にいたるまでも、たやすからざる時分なれば、仏法・世法につけても千万迷惑のをりふしなり。これによりて、あるいは霊仏・霊社参詣の諸人もなし。これにつけても、人間は老少不定ときくときは、いそぎいかなる功徳善根をも修し、いかなる菩提涅槃をもねがふべきことなり。

 しかるに今の世も末法濁乱とはいひながら、ここに阿弥陀如来の他力本願は今の時節はいよいよ不可思議にさかりなり。さればこの広大の悲願にすがりて、在家止住の輩においては、一念の信心をとりて法性常楽の浄刹に往生せずは、まことにもつて宝の山にいりて手をむなしくしてかへらんに似たるものか。よくよくこころをしづめてこれを案ずべし。

(現代語訳 浅井成海監修『蓮如の手紙』より)

 そもそも、今の世の戦乱のありさまは、いつ落ち着くとも思われない様子です。そのため、国々を行き来する道にいたるまでも容易に通行のかなわない時世ですから、仏法においても、世俗の事柄においても、何をどのようにしてよいか困惑します。このゆえに、あるいは霊験あらたかな寺院・神社へ参詣する人びともおりません。
 これについけても、人はみな、誰がいつ死ぬやら定めのないものであると聞いているからには、急いで、どんな善行をもおさめ、また、さとりや涅槃をも願うべきなのです。
 しかしながら、今の世は末世の乱れた世であるとはいうものの、阿弥陀如来の本願は、この時世において、不思議にもますます盛んです。
 ですから、在家の生活を送る人びとは、如来のこの広大なる慈悲の誓願におまかせし、疑いなく阿弥陀さまの仰せに従う信心をいただいて、完全なさとりの世界、すなわち極楽に往生しなければなりません。そうでなければ、まさに、宝の山に入っておいて、空手で帰ってくるようなものではありませんか。くれぐれもよく心を静めてこれを考えてください。

これは、11年続いた応仁の乱が背景にあって書かれたものです。
蓮如上人は、聖道門と浄土門とを比較しながら、18願について明らかにされているのです。

第一段落で、聖道門についての現状を仰っています。こんな乱れた世の中だから、本来なら善を修して菩提を求める聖道門が盛んになってもよさそうなのに、そうなっていない、と仰ったに過ぎません。

第二段落で、それに対して浄土門18願の教えは、こんな世の中でも盛んです、と続くのですから、浄土門18願の教えと「これにつけても、人間は老少不定ときくときは、いそぎいかなる功徳善根をも修し、いかなる菩提涅槃をもねがふべきことなり。」は関係がないことが判ります。

その証拠に、この後の接続詞が「しかるに」となっています。

『デジタル大辞泉』では

[接]
1 それにもかかわらず。それなのに。「汚職に関係した政治家は、立候補などすべきでない。―みそぎが済んだとは何事か」
2 話の冒頭に用いる語。さて。ところで。
 「―平家の栄華を極めしその始め」〈謡・生田敦盛〉

と説明されています。
しかるに」とは、前の論理とは反する論理展開をする際に使われる言葉ですから、「しかるに」の前と後は反対のことを仰っていることになります。
もし、話を連続して論理展開したいのなら、「しかれば」を使うことになります。

高森会長はこの指摘に対してこう言うでしょう。

文法など糞喰らえだ

少しの知識があれば高森会長の詭弁に気が付くでしょう。「しかるに会員はそれを見抜く思考を奪われているため騙されたままです。

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コメント

古い話ですが、チューリップ企画の山田氏(書いているのは高森会長)が、若不生者の解釈で、文法的な誤りを指摘されたとき、
「不可称、不可説の言葉にかからない境地の表現だから、間違った文法も、へちまも、あるはずないではないか」と書いています。

http://shinjin.info/2008/01/28173667.html

高森会長にとっては、聖教の言葉は文法をねじ曲げても自説に合わせれば良いようです。

投稿: やまだ | 2015年8月22日 (土) 16時07分

いよいよ、会の本音が表に出てきましたね。

先月は、ネット対策員の方々一丸になって頑張られましたね、でも御聖教にない話ですから、返り討ちも
仕方ないですね。

いよいよ、今こそ会に向かって「破邪顕正」の好機ではないでしょうか、勇気をもってメンバーを集めて
実行してください。

運良く除名処分になれば、赤飯炊いて万歳です!

投稿: とくま | 2015年8月22日 (土) 20時22分

生きとし生きるものを極楽往生させるための五劫思唯と兆載永劫の功徳を受け取りやすいよう、差し向けて下されたのが南無阿弥陀仏の六字の御名号。この御名号を称えさせて頂く他往生は叶いません。極楽に往生出来るほどの功徳・善は凡夫に積むことは出来ませんから、阿弥陀仏からお念仏を通して功徳を頂くより他に方法がありません。高森教徒はなぜ分らないのか。

投稿: あらいぐま | 2015年8月24日 (月) 19時54分

「全ての人に必堕無間の後生の一大事がある」「たとえ気がおかしくなっても、これだけは間違いない」とか、「一切衆生必堕無間」よも教えなかったとは言わせません。これを信じて長い間騙されました。親鸞会は宗教詐欺師だ。

投稿: あらいぐま | 2015年8月24日 (月) 21時19分

コメントいただいた皆様

全く、仰る通りです。

投稿: 飛雲 | 2015年8月31日 (月) 21時19分

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