『なぜ生きる2』のトンデモ邪義16
聖教に何が書かれていても関係なく、聖教と明確に反することを高森顕徹会長が言ってもそれが聖教の正しい解釈だ、と妄信しているのが、大半の現会員です。
彼らにとっては、経典、七高僧、親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人も、単なる箔付けに利用しているに過ぎません。もちろん、これらの方を尊敬もしていませんし、救われるつもりもありません。
こんな有様ですが、中には、歴代の善知識方を尊敬し、聖教に書かれてあることを正しく理解して、救われたいとまじめに願っている会員もいますので、高森会長の出鱈目に気が付いてほしいと思っています。
『なぜ生きる2』11章に
しかるに弥陀の弥陀の十九願(方便)を不要とするものは、いつの世もあとを絶たないようだ。
親鸞聖人ご在世にもあったと見えて、近年こんな聖人ご真筆の『和讃』が発見されて新聞などで話題になった。「方便を破壊し、三願転入の教えを疑謗するものは、仏法を破壊する守屋と同じである。そんなものには決して近づいてはならぬ」と厳戒されている『和讃』である。
以下は、その文証である。
「如来の遺教を疑謗し
方便破壊せんものは
弓削の守屋と思うべし
親しみ近づくことなかれ」 (親鸞聖人)
と書いています。
高森会長らしい早とちりです。聖教に親しんでいたなら、こんな愚かな間違いはしません。
親鸞聖人のご真筆の『西方指南抄』にはこうあります。
見有修行起瞋毒 方便破壊競生怨 如此生盲闡提輩 毀滅頓教永沈淪
超過大地微塵劫 未可得離三途身 大衆同心皆懺悔 所有破法罪因縁
この文の心は、浄土をねがひ、念仏を行する人をみては、毒心をおこし、ひがごとをたくみめぐらして、やうやうの方便をなして、専修の念仏の行をやぶりあだをなして、申とどむるに候也。かくのごとくの人は、むまれてより仏性のまなこしひて、善のたねをうしなへる、闡提人のともがらなり。この弥陀の名号をとなえて、ながき生死をはなれて、常住の極楽に往生すべけれども、この教法をそしりほろぼして、この罪によりてながく三悪道にしづむとき、かくのごときの人は、大地微塵劫をすぐれども、ながく三途の身をはなれむこと、あるべからずといふ也。
法然上人が仰ったことを親鸞聖人が記された御文ですが、「方便破壊」について「やうやうの方便をなして、専修の念仏の行をやぶりあだをなして」と法然上人、親鸞聖人が仰っています。
また『御消息』には
釈迦如来のみことには念仏するひとをそしるものをば「名無眼人」と説き、「名無耳人」と仰せおかれたることに候ふ。善導和尚は、「五濁増時多疑謗 道俗相嫌不用聞 見有修行起瞋毒方便破壊競生怨」(法事讃・下)とたしかに釈しおかせたまひたり。
ともう一つ
「五濁増時多疑謗 道俗相嫌不用聞 見有修行起瞋毒 方便破壊競生怨」(法事讃・下)と、まのあたり善導の御をしへ候ふぞかし。釈迦如来は、「名無眼人、名無耳人」と説かせたまひて候ふぞかし。かやうなるひとにて、念仏をもとどめ、念仏者をもにくみなんどすることにても候ふらん。
とあります。
「方便破壊」とは、具体的に「念仏するひとをそしる」「念仏をもとどめ、念仏者をもにくみなんどする」と仰っています。
皆さんお判りかとは思いますが、一応言っておきますと、ここで言われている「方便」とは19願・20願のことではなく、「方法」「手段」という意味です。
まとめると、
「方便破壊」とは、様々な方法を用いて、念仏の教え、念仏者を打ち破り疑謗することです。
高森会長の訳「方便を破壊し、三願転入の教えを疑謗するものは、仏法を破壊する守屋と同じである。そんなものには決して近づいてはならぬ」を正しく言い換えるなら、
様々な方法を用いて念仏だけで救われるという教えを破壊し、十八願だけでよい十九願は不要という教えを疑謗するものは、仏法を破壊する守屋と同じである。そんなものには決して近づいてはならぬ
こういうことで、高森会長は、仏法を破壊する守屋と同じなので、決して近づいてはならぬのです。
救いをまじめに求めている会員は、親鸞聖人のお言葉に従いましょう。
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