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2015年8月

2015年8月29日 (土)

『なぜ生きる2』のトンデモ邪義16

聖教に何が書かれていても関係なく、聖教と明確に反することを高森顕徹会長が言ってもそれが聖教の正しい解釈だ、と妄信しているのが、大半の現会員です。
彼らにとっては、経典、七高僧、親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人も、単なる箔付けに利用しているに過ぎません。もちろん、これらの方を尊敬もしていませんし、救われるつもりもありません。

こんな有様ですが、中には、歴代の善知識方を尊敬し、聖教に書かれてあることを正しく理解して、救われたいとまじめに願っている会員もいますので、高森会長の出鱈目に気が付いてほしいと思っています。

『なぜ生きる2』11章に

 しかるに弥陀の弥陀の十九願(方便)を不要とするものは、いつの世もあとを絶たないようだ。
 親鸞聖人ご在世にもあったと見えて、近年こんな聖人ご真筆の『和讃』が発見されて新聞などで話題になった。

「方便を破壊し、三願転入の教えを疑謗するものは、仏法を破壊する守屋と同じである。そんなものには決して近づいてはならぬ」と厳戒されている『和讃』である。
 以下は、その文証である。
如来の遺教を疑謗し
 方便破壊せんものは
 弓削の守屋と思うべし
 親しみ近づくことなかれ
」 (親鸞聖人)

と書いています。

高森会長らしい早とちりです。聖教に親しんでいたなら、こんな愚かな間違いはしません。

親鸞聖人のご真筆の『西方指南抄』にはこうあります。

見有修行起瞋毒 方便破壊競生怨 如此生盲闡提輩 毀滅頓教永沈淪
超過大地微塵劫 未可得離三途身 大衆同心皆懺悔 所有破法罪因縁
この文の心は、浄土をねがひ、念仏を行する人をみては、毒心をおこし、ひがごとをたくみめぐらして、やうやうの方便をなして、専修の念仏の行をやぶりあだをなして、申とどむるに候也。かくのごとくの人は、むまれてより仏性のまなこしひて、善のたねをうしなへる、闡提人のともがらなり。この弥陀の名号をとなえて、ながき生死をはなれて、常住の極楽に往生すべけれども、この教法をそしりほろぼして、この罪によりてながく三悪道にしづむとき、かくのごときの人は、大地微塵劫をすぐれども、ながく三途の身をはなれむこと、あるべからずといふ也。

法然上人が仰ったことを親鸞聖人が記された御文ですが、「方便破壊」について「やうやうの方便をなして、専修の念仏の行をやぶりあだをなして」と法然上人、親鸞聖人が仰っています。

また『御消息』には

釈迦如来のみことには念仏するひとをそしるものをば「名無眼人」と説き、「名無耳人」と仰せおかれたることに候ふ。善導和尚は、「五濁増時多疑謗 道俗相嫌不用聞 見有修行起瞋毒方便破壊競生怨」(法事讃・下)とたしかに釈しおかせたまひたり。

ともう一つ

「五濁増時多疑謗 道俗相嫌不用聞 見有修行起瞋毒 方便破壊競生怨」(法事讃・下)と、まのあたり善導の御をしへ候ふぞかし。釈迦如来は、「名無眼人、名無耳人」と説かせたまひて候ふぞかし。かやうなるひとにて、念仏をもとどめ、念仏者をもにくみなんどすることにても候ふらん。

とあります。
方便破壊」とは、具体的に「念仏するひとをそしる」「念仏をもとどめ、念仏者をもにくみなんどする」と仰っています。

皆さんお判りかとは思いますが、一応言っておきますと、ここで言われている「方便」とは19願・20願のことではなく、「方法」「手段」という意味です。

まとめると、
方便破壊」とは、様々な方法を用いて、念仏の教え、念仏者を打ち破り疑謗することです。

高森会長の訳「方便を破壊し、三願転入の教えを疑謗するものは、仏法を破壊する守屋と同じである。そんなものには決して近づいてはならぬ」を正しく言い換えるなら、

様々な方法を用いて念仏だけで救われるという教えを破壊し、十八願だけでよい十九願は不要という教えを疑謗するものは、仏法を破壊する守屋と同じである。そんなものには決して近づいてはならぬ

こういうことで、高森会長は、仏法を破壊する守屋と同じなので、決して近づいてはならぬのです。

救いをまじめに求めている会員は、親鸞聖人のお言葉に従いましょう。

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2015年8月22日 (土)

『なぜ生きる2』のトンデモ邪義15

常に顕正戦が行われている親鸞会ですが、最近の入会基準は、

入会金と会費を払うことだけ

です。
余りにも突飛で何が言いたいか判られないかもしれませんが、要するに入会する人の気持ちは関係ないということです。話を聞く気が全くなくても、入会の自覚がなくてもよい、ということは、現会員がお金さえだせば、形式上会員として誰でも勝手に登録される仕組みです。

これを聞いた多くの会員が、

親鸞会も相当お金に困っているんだな

と愚痴をこぼしたそうです。
親鸞会にとっては、お金さえ集まれば、何でもありなのです。親鸞聖人の教えと合っているかどうかなど、どうでもよいのです。

さて、『なぜ生きる2』の断章取義は目に余るものがありますが、これもその一つです。
11章に

蓮如上人も同様に諭す。

 幸いにも仏縁に恵まれ、因果の道理を聞き、人間は老少不定の身と知れば、
 どんな小さな善根・功徳でも修めようと心がけるのが当然だろう。

決して、ささいな善も疎かにしてはならない、と真実を背負うての慈誨である。

 以下はその文証である。

これにつけても人間は、老少不定ときく時は、急ぎいかなる功徳・善根をも修し、いかなる菩提・涅槃をも願うべき事なり。
                    (『御文章』四帖目三通)

これが仮に、高森会長のいう通りだったとして、蓮如上人が善を勧められたお言葉は、『御文章』『帖外御文』『御一代記聞書』を探しても、ただこれ1つしかないことを、親鸞会も認めています。
この事実だけ知っても、通常の思考なら、蓮如上人はこのお手紙を読むことのできる極めて限られた人にだけ、善を勧められたのか、と疑問に思う筈ですが、思考停止の会員では、そこまで考えることはないのでしょう。

もちろん、蓮如上人は善を勧められたのではありません。前後を併せて読めば判るでしょう。

 それ、当時世上の体たらく、いつのころにか落居すべきともおぼえはんべらざる風情なり。しかるあひだ、諸国往来の通路にいたるまでも、たやすからざる時分なれば、仏法・世法につけても千万迷惑のをりふしなり。これによりて、あるいは霊仏・霊社参詣の諸人もなし。これにつけても、人間は老少不定ときくときは、いそぎいかなる功徳善根をも修し、いかなる菩提涅槃をもねがふべきことなり。

 しかるに今の世も末法濁乱とはいひながら、ここに阿弥陀如来の他力本願は今の時節はいよいよ不可思議にさかりなり。さればこの広大の悲願にすがりて、在家止住の輩においては、一念の信心をとりて法性常楽の浄刹に往生せずは、まことにもつて宝の山にいりて手をむなしくしてかへらんに似たるものか。よくよくこころをしづめてこれを案ずべし。

(現代語訳 浅井成海監修『蓮如の手紙』より)

 そもそも、今の世の戦乱のありさまは、いつ落ち着くとも思われない様子です。そのため、国々を行き来する道にいたるまでも容易に通行のかなわない時世ですから、仏法においても、世俗の事柄においても、何をどのようにしてよいか困惑します。このゆえに、あるいは霊験あらたかな寺院・神社へ参詣する人びともおりません。
 これについけても、人はみな、誰がいつ死ぬやら定めのないものであると聞いているからには、急いで、どんな善行をもおさめ、また、さとりや涅槃をも願うべきなのです。
 しかしながら、今の世は末世の乱れた世であるとはいうものの、阿弥陀如来の本願は、この時世において、不思議にもますます盛んです。
 ですから、在家の生活を送る人びとは、如来のこの広大なる慈悲の誓願におまかせし、疑いなく阿弥陀さまの仰せに従う信心をいただいて、完全なさとりの世界、すなわち極楽に往生しなければなりません。そうでなければ、まさに、宝の山に入っておいて、空手で帰ってくるようなものではありませんか。くれぐれもよく心を静めてこれを考えてください。

これは、11年続いた応仁の乱が背景にあって書かれたものです。
蓮如上人は、聖道門と浄土門とを比較しながら、18願について明らかにされているのです。

第一段落で、聖道門についての現状を仰っています。こんな乱れた世の中だから、本来なら善を修して菩提を求める聖道門が盛んになってもよさそうなのに、そうなっていない、と仰ったに過ぎません。

第二段落で、それに対して浄土門18願の教えは、こんな世の中でも盛んです、と続くのですから、浄土門18願の教えと「これにつけても、人間は老少不定ときくときは、いそぎいかなる功徳善根をも修し、いかなる菩提涅槃をもねがふべきことなり。」は関係がないことが判ります。

その証拠に、この後の接続詞が「しかるに」となっています。

『デジタル大辞泉』では

[接]
1 それにもかかわらず。それなのに。「汚職に関係した政治家は、立候補などすべきでない。―みそぎが済んだとは何事か」
2 話の冒頭に用いる語。さて。ところで。
 「―平家の栄華を極めしその始め」〈謡・生田敦盛〉

と説明されています。
しかるに」とは、前の論理とは反する論理展開をする際に使われる言葉ですから、「しかるに」の前と後は反対のことを仰っていることになります。
もし、話を連続して論理展開したいのなら、「しかれば」を使うことになります。

高森会長はこの指摘に対してこう言うでしょう。

文法など糞喰らえだ

少しの知識があれば高森会長の詭弁に気が付くでしょう。「しかるに会員はそれを見抜く思考を奪われているため騙されたままです。

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2015年8月13日 (木)

『なぜ生きる2』のトンデモ邪義14

聖教を全くと言っていいほど読んだことがない高森顕徹会長ですが、大沼法竜師や伊藤康善師、香樹院師らの著書は、しっかり読んで盗作しています。これらの著書に引用されている御文は、前後を削って本来の意味を変える、いわゆる断章取義を行っています。そこは無知ではなく、故意に意味を変えているのですから、極めて悪質です。

その典型が『なぜ生きる2』11章にあります。

聖人が敬慕される聖覚法印の『唯信鈔』には、こう記されている。

 過去世に善を努めてきたものは、今生も悪を恐れて善に精進する。
 過去世、善に背を向けてきたものは、今生も悪を好み善には向かわない。

 以下は、その文証である。

宿善の厚きものは、今生も、善根を修し、悪業をおそる。宿善少なきものは、今生に、悪業をこのみ、善根をつくらず  (唯信鈔)

覚如上人も口を揃えられる。

 過去世に厚く善を積んできた人は、今生も善根を求め、悪を避けようと努める。
 過去世に悪を重ねてきた者は、今生も平気で悪を行い、少しも善に向かおうとはしない。

 以下は、その文証である。

宿善厚き人は、今生に善をこのみ悪をおそる。宿悪重き者は、今生に悪をこのみ、善にうとし  (『口伝鈔』上・四)

『唯信鈔』『口伝鈔』共に、酷い断章取義です。

まず『唯信鈔』から前後はこうなっています。

つぎにまた人のいはく、「五逆の罪人、十念によりて往生すといふは、宿善によるなり。われら宿善をそなへたらんことかたし。いかでか往生することを得んや」と。

これまた痴闇にまどへるゆゑに、いたづらにこの疑をなす。そのゆゑは、宿善のあつきものは今生にも善根を修し悪業をおそる、宿善すくなきものは今生に悪業をこのみ善根をつくらず。宿業の善悪は今生のありさまにてあきらかにしりぬべし。しかるに善心なし、はかりしりぬ、宿善すくなしといふことを。われら罪業おもしといふとも五逆をばつくらず、宿善すくなしといへどもふかく本願を信ぜり。逆者の十念すら宿善によるなり、いはんや尽形の称念むしろ宿善によらざらんや。なにのゆゑにか逆者の十念をば宿善とおもひ、われらが一生の称念をば宿善あさしとおもふべきや。小智は菩提のさまたげといへる、まことにこのたぐひか。

問答形式になっていて、その問いは、「五逆の罪人が十回の念仏で往生するのは宿善によることだということだが、我々は宿善を備えていることは難しいので、どうしたら往生できるのか」です。

これに対する答えの一部が、高森会長の断章取義した箇所です。高森会長の言葉を再度書くと

過去世に善を努めてきたものは、今生も悪を恐れて善に精進する。
過去世、善に背を向けてきたものは、今生も悪を好み善には向かわない。

ですが、問いと合わせて考えると聖覚法印の意図が高森会長の言っていることとは逆であることが判られると思います。

今生で五逆の罪人は、過去世、善に背を向けてきたものであることになり、理屈の上では「宿善をそなへたらんことかたし」の筈ですが、十回の念仏で往生できるだけの宿善があったといわれるのなら、五逆を造っていない我らは五逆の罪人よりも宿善があることになるではないか、というものです。

『口伝鈔』も同じです。前後は、

されば宿善あつきひとは、今生に善をこのみ悪をおそる。宿悪おもきものは、今生に悪をこのみ善にうとし。ただ善悪のふたつをば過去の因にまかせ、往生の大益をば如来の他力にまかせて、かつて機のよきあしきに目をかけて往生の得否を定むべからずとなり。

です。
善悪のふたつをば過去の因にまかせ」とは、高森会長が紹介した「宿善あつきひとは、今生に善をこのみ悪をおそる。宿悪おもきものは、今生に悪をこのみ善にうとし。」を指しています。簡単に言えば、宿善が厚いとか宿悪が重いかは、過去のこととしておいておき、ということです。
そして結論が「往生の大益をば如来の他力にまかせて、かつて機のよきあしきに目をかけて往生の得否を定むべからずとなり。」で、往生できるのは阿弥陀仏のお力によるので、宿善厚い宿悪重いという過去のことは往生の得にも損にもならない、無関係だと仰っているのです。

実に悪質な断章取義です。完全に悪意をもっての解釈ですから、高森会長が何の目的で、親鸞会を作り、布教をしているかは、明々白々です。

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2015年8月 7日 (金)

『なぜ生きる2』のトンデモ邪義13

今から6年前に、”三願転入の教え”の根拠として、高森顕徹会長が突如使い出したのが、『一念多念証文』の御文です。某元講師部員がこの御文に着目したのがきっかけです。要するに、高森会長が盗作したということです。

おほよそ八万四千の法門は、みなこれ浄土の方便の善なり。これを要門といふ。これを仮門となづけたり。この要門・仮門といふは、すなはち『無量寿仏観経』一部に説きたまへる定善・散善これなり。定善は十三観なり、散善は三福九品の諸善なり。これみな浄土方便の要門なり、これを仮門ともいふ。この要門・仮門より、もろもろの衆生をすすめこしらへて、本願一乗円融無碍真実功徳大宝海にをしへすすめ入れたまふがゆゑに、よろづの自力の善業をば、方便の門と申すなり。

ですが、ここでは、聖道門、19願、18願の関係を親鸞聖人が仰ったものです。
以前にも言いましたように、聖道門自体は、浄土の方便の善(雑行)ではないのですが、末法にあって、聖道門で出離し成仏することはできませんので、結局は聖道門は浄土門へ入るための方便にすぎないという親鸞聖人の解釈から、ここでは聖道門を19願に含めて「浄土の方便の善」「要門」「仮門」と仰っています。

そして19願と18願との関係にまとめられて、19願は18願に入るための方便だと仰ったのが、この御文の概要になります。

ここは『教行信証』化土巻の

宗師(善導)の意によるに、「心によりて勝行を起せり。門八万四千に余れり。漸・頓すなはちおのおの所宜に称へり。縁に随ふものすなはちみな解脱を蒙る」(玄義分)といへり。
しかるに常没の凡愚、定心修しがたし、息慮凝心のゆゑに。散心行じがたし、廃悪修善のゆゑに。ここをもつて立相住心なほ成じがたきがゆゑに、「たとひ千年の寿を尽すとも、法眼いまだかつて開けず」(定善義)といへり。いかにいはんや無相離念まことに獲がたし。ゆゑに、「如来はるかに末代罪濁の凡夫を知ろしめして、相を立て心を住すとも、なほ得ることあたはじと。いかにいはんや、相を離れて事を求めば、術通なき人の空に居て舎を立てんがごときなり」(同)といへり。
「門余」といふは、「門」はすなはち八万四千の仮門なり、「余」はすなはち本願一乗海なり。

(現代語訳)

善導大師の説かれた『観経疏』によれば、「衆生の心にしたがって釈尊はすぐれた行をお説きになった。その教えは八万四千を超えている。漸教も頓教もそれぞれ衆生の資質にかなったものであり、縁にしたがってその行を修めればみな迷いを離れることができる」(玄義分)といわれている。
しかし、はかり知れない昔から迷い続けてきた愚かな凡夫は、定善の行を修めることができない。心を乱さず思いを一つに集中して浄土の相を観ずる行だからである。散善の行も修めることができない。悪い行いをやめて善い行いをすることだからである。このようなわけで、仏や浄土の相を観じて思いを一つに集中することさえできないのだから、『観経疏』には、「たとえ千年という長い寿命を費やしても、真実を見る智慧の眼が開かない」(散善義)といわれている。ましてすべての相を離れ、真如法性をそのまま観ずることなど決してできない。だから、『観経疏』には、「釈尊は、はるかに遠く、末法の世の煩悩に汚れた衆生のことを、仏や浄土の相を観じて思いを一つに集中することなどできないと見通しておられる。ましてすべての相を離れて真如法性を観じようとするなら、それは、神通力のないものが空中に家を建てようとするようなものであり、決してできるはずがない」(定善義)といわれている。
『観経疏』に「その教えは八万四千を超えている」(玄義分)といわれているのは、「教え」とは八万四千の方便の教えであり、自力聖道門のことである。「超えている」のは本願一乗海の教えであり、他力浄土門のことである。

を視点を変えて言い換えられたものといえます。

「門」=八万四千の仮門=方便
「余」=本願一乗海=真実

化土巻では、方便と真実の関係は方便を捨てて真実に帰すべきことを仰ったのですが、『一念多念証文』では、方便から真実へという方向性を仰っているので、その点が異なっています。

ここで問題になるのが、全人類は19願を通らなければ18願に入ることができないのか、ということですが、それについて特に書かれていません。

高森会長は「全人類が」と書いてあると思っているようですが、どこにもありません。『一念多念証文』の「この要門・仮門より、もろもろの衆生をすすめこしらへて、本願一乗円融無碍真実功徳大宝海にをしへすすめ入れたまふ」を読めないだけでしょうが、これは、19願よりもろもろの衆生を誘い18願に勧め入れる、という意味以上のことは言えません。つまり、19願(聖道門を含む)は、19願(聖道門を含む)の人を、18願に入れるための方便だ、ということで、19願(聖道門を含む)を信じていない、実践していない人にとっては、関係のない話です。

化土巻はその点明確で、方便(「門」=八万四千の仮門)は我々にはできないから無駄なことはするな、という言い方になってところからも判ります。

できるかできないかはやってみないと判らない、と寝惚けた反論を会員はしてくるでしょうが、親鸞聖人は「術通なき人の空に居て舎を立てんがごときなり」とまで言い切っておられますので、親鸞聖人のお言葉を信じるかどうかです。

親鸞聖人のお言葉でも信じられない、というのならば、親鸞会とか親鸞学徒とか名乗らないことです。

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2015年8月 3日 (月)

『なぜ生きる2』のトンデモ邪義12

親鸞会からは、史上最悪の悪知識認定されている私ですが、高森顕徹会長も講師部員も、誰一人として私に法論を申し込むことはしません。私が法論を書面で正式に申し込んでも頑なに拒絶されています。自分たちが正しいという自信がないからです。

難しい根拠で詭弁を使っているから、法論しないのだと見苦しい言い訳を言っていますが、もし私が詭弁を使っているのなら、その詭弁を暴けば済む話ですが、それもできません。難しいといっている根拠の解説も全くできません。

60数年布教してきた高森会長と、一流大学出身の講師部員が束になっても、このざまです。

さて、『なせ生きる2』11章の最初にこうあります。

 十九願を要門・仮門と言われるのは、弥陀が十方衆生を通らせて、目的地である十八願(奥座敷)無碍の一道へ誘引するに、重要かつ肝要で必ず通さねばならぬ仮の門(教え)であるからだ。

その根拠として出したのが、『一念多念証文』の

おほよそ八万四千の法門は、みなこれ浄土の方便の善なり。これを要門といふ。これを仮門となづけたり。
この要門・仮門といふは、すなはち『無量寿仏観経』一部に説きたまへる定善・散善これなり。定善は十三観なり、散善は三福九品の諸善なり。これみな浄土方便の要門なり、これを仮門ともいふ。この要門・仮門より、もろもろの衆生をすすめこしらへて、本願一乗円融無碍真実功徳大宝海にをしへすすめ入れたまふがゆゑに、よろづの自力の善業をば、方便の門と申すなり。

と『浄土和讃』の

臨終現前の願により
 釈迦は諸善をことごとく
 『観経』一部にあらはして
 定散諸機をすすめけり

です。
短いですし判りやすいので、今回は先に『浄土和讃』の方を説明しますと、

19願によって釈尊は諸善を悉く『観無量寿経』の中に説かれて、定散諸機に諸善を勧められた

ということです。

最近、親鸞会では「定散諸機をすすめけり」の解釈として、

定散諸機になるように勧められた

諸々の衆生を「定散諸機」に育て上げ、その定散諸機を選択の願海に教え勧め(進め)入れられた。

と必死に言い張っていますが、古語と現代語の使い方を混同し曲解しているお粗末さです。

まず、同じ『浄土和讃』で18願について仰った

至心・信楽・欲生と
 十方諸有をすすめてぞ
 不思議の誓願あらはして
 真実報土の因とする

にも、「十方諸有をすすめてぞ」とありますが、これを

十方諸有になるように勧められた

諸々の衆生を「十方諸有」に育て上げ、その十方諸有を選択の願海に教え勧め(進め)入れられた。

と解釈するのは、親鸞会でもさすがに無理のようですが、同じ文法ですから、

十方諸有に勧められた
定散諸機に勧められた

としか訳すことができません。
同じ文法として法然上人のお言葉を記した『勅修御伝』には

上人の給はく、「口伝なくして浄土の法門を見るは、往生の得分を見うしなふなり。其故は極楽の往生は上は天親竜樹をすゝめ、下は末世の凡夫十悪五逆の罪人まですすめ給へり。しかるをわが身は最下の凡夫にて、善人をすゝめ給へる文を見て、卑下の心おこして、往生を不定におもひて、順次の往生を得ざるなり。しかれば善人をすゝめ給へる所をば善人の分と見、悪人を勧め給へる所をば我分と見て得分にするなり。かくのごとくみさだめぬれば、決定往生の信心かたまりて、本願に乗じて順次の往生をとぐるなり。」

とあります。どんな屁理屈を考えようとしても、

善人をすゝめ給へる」「悪人を勧め給へる」はそれぞれ

善人に勧められた
悪人に勧められた

以外には訳しようがありません。

次に「定散諸機」の対義語が「逆悪の機」です。

『正信偈』に

定散と逆悪とを矜哀して

とある通りです。蓮如上人も『正信偈大意』に

されば定散の機をも五逆の機をも、もらさずあはれみたまひけりといふこころなり。

と仰っています。「逆悪の機」を「五逆の機」で代表させて書かれてはいますが、簡単な言葉で言い換えれば、善人と悪人ということです。

ですから最初の和讃は

19願によって釈尊は諸善を悉く『観無量寿経』の中に説かれて、善人に諸善を勧められた

となりますし、上記の法然上人のお言葉と同じで、

龍樹菩薩や天親菩薩のような善人に勧められた所(定散二善)を龍樹菩薩や天親菩薩のような善人の分と見て、最下の凡夫の悪人に勧められた所(念仏)を最下の凡夫の悪人の分と見てゆけば、信心決定し、往生できる、

ということです。

この簡単な理屈を、故意に捻じ曲げて、全人類は極悪人で、その極悪人に善人になるように勧められたのが19願、定散二善だ、という支離滅裂なことを平気で言っているのが、高森顕徹会長です。

本来ならこんなに長々と説明する必要はないのですが、支離滅裂思考を信じている現会員のために、丁寧に説明しておきました。

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