『なぜ生きる2』のトンデモ邪義8
『なぜ生きる2』9章の最後にこうあります。
弥陀が十九の願で勧める諸善万行は、十方衆生(すべての人)を十八願に誘引して絶対の幸福に救い、浄土往生させるための弥陀のお計らいだから、無駄な善はひとつもないと親鸞聖人は言明されている。
以下は、その文証である。
「諸善万行ことごとく
至心発願せるゆえに(十九願のこと)
往生浄土の方便の
善とならぬはなかりけり」 (浄土和讃)この弥陀の十九願の深意を解明されたのが、釈迦一代の教えであると親鸞聖人は断言なされたのである。
最初の説明の間違いは、皆さんお判りかと思いますが、すべての人ではなく、聖道門の人、正確には聖道門を断念した人を十八願に誘引するのが十九願定散二善です。
問題は『浄土和讃』の意味ですが、これは十九願で勧める善、つまり定散二善の説明で、言い換えると雑行の説明をされただけのことです。
雑行の最も根本的な定義は『選択本願念仏集』にあります。
初めに往生の行相を明かすといふは、善導和尚の意によらば、往生の行多しといへども大きに分ちて二となす。一には正行、二には雑行なり。
(現代語訳)
初めに往生の行相を明かすというのは、善導和尚の意によると、往生の行は多いけれども大きく分けて二つとする。一つには正行、二つには雑行である。
雑行とは「往生の行」だということです。
これを『教行信証』化土巻にもう少し詳しく説明されています。
それ雑行・雑修、その言一つにして、その意これ異なり。雑の言において万行を摂入す。五正行に対して五種の雑行あり。雑の言は、人・天・菩薩等の解行、雑せるがゆゑに雑といへり。もとより往生の因種にあらず、回心回向の善なり。ゆゑに浄土の雑行といふなり。
(現代語訳)
さて、雑行と雑修とは同じような言葉であるが、意味は違っている。雑という言葉には、すべての行をおさめてしまうのである。五種の正行に対しては、五種の雑行がある。この雑という言葉は、人間や神々に生れる行や菩薩の行などがさまざまにまじっているという意味で雑というのである。これはもとより阿弥陀仏の浄土に往生する因ではなく、浄土を願う心をおこし、これらの行を浄土往生のための善としなければならないから、浄土往生の行としては雑行というのである。
少し理解しづらいかもしれませんが、簡単に言えば、「もとより往生の因種にあらず」の善を「回心回向」したものを雑行というのです。つまり、往生とはもともと関係の無い善である聖道門で教えられる善(倫理道徳の善も含む)を、浄土往生の為と思ってしたならば、それが雑行になるのです。
ここまでくれば先程の和讃の意味が御理解いただけると思いますが、
元々聖道門の行である諸善万行を、至心発願したならば、それは浄土往生のための方便の善(雑行)とならないものはない
こういうことです。
ですから、諸善万行をするとかしないとか、雑行が必要とか不要とか、そういう話ではなく、
十九願で勧める善
=定散二善
=往生浄土の方便の善
=雑行
の説明をされただけということです。
結論から言えば、我らにとっては、無駄な善だと親鸞聖人は言明されているのです。
雑行だからせよ、とか、往生浄土の方便の善だからせよ、という理屈は、高森顕徹会長のトンデモ思考の中でしか成立しません。
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コメント
親鸞会も今だに「三願転入によらなければ蟻一匹助からない」と主張するなら、七高僧方が三願転入を勧められた根拠を教学テキストに載せてはどうですか。機の深信が示せるなら、その道程が教えられない訳ないでしょうに。どこか抜けてるんだな。
飛雲さん・ネット対策員さん・皆さんにお尋ねします。
法然上人の「乗願上人伝説の詞」に『ある時またのたまわく、「あわれこのたびしおおせばやな」と。その時乗願申さく、「上人だにもかように不定げなる仰せの候わんには、ましてその余の人はいかが候べき」と。その時上人うち笑いて給わく、「蓮台に乗らんまでは、いかでかこの思いは絶え候べき」と。
要旨は、法然上人が「今生に何としても往生極楽したいものだな」と申されたところ、それを聞いた乗願師が「上人のような方が往生不定のようなことを話されては、他の方は如何でしょう」と答えたところ、法然上人は笑いながら「極楽の蓮台に生まれるまではこの思いは絶えないな」とお答えになられました。
皆さん、いわゆる「絶対の幸福」はあるのでしょうか。
投稿: ひーちゃん | 2015年7月20日 (月) 20時59分
ひーちゃんさま
失礼致します。浅学ゆえ、浄土真宗の立場から、間違っていたらご指摘下さい。
法然聖人が、「極楽の蓮台に生まれるまではこの思いは絶えないな」と余裕綽々でおっしゃるのは、間違いのない救いとお任せされているお姿だと思います。
シャバに 絶対の○○はあり得ないのですが 阿弥陀様のお力なら 可能かもしれません。でも阿弥陀様にとって その世界は明らかに、当たり前で、ありのままだと思います。
絶対の幸福と言っているのは、仏になってからわかる世界であって、苦悩の旧離は捨てがたいとおっしゃった生身の人間、親鸞聖人の感じておられた心境とは少し違和感を感じます。
投稿: 愚愚流 | 2015年7月20日 (月) 21時41分
会員さんが思っているようなものでない絶対の幸福ならあるかも知れません。
高森会長の境地とか()
投稿: | 2015年7月21日 (火) 08時40分
弥陀のお救いを、
「法」の側から語れば「助かるに間違いない」
「機」の側から語れば「落ちるに間違いない」
それぞれの言葉で埋めつくされることになるのでしょう。
法然上人の「しおおせばやな」も親鸞聖人の「死なんずるやらん」も、
ともに煩悩具足の身から一歩も出ない身であること、すなわち「機の深信」の率直な吐露なのですね。
いちいち「法の深信」をその後に語ってはいないだけで。
強いて言えば「上人うち笑いて給わ」れたことが「法の深信」を語っておられると。
投稿: | 2015年7月22日 (水) 03時09分