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2015年7月27日 (月)

『なぜ生きる2』のトンデモ邪義10

飛雲対策マニュアルなるものを親鸞会では作っているようで、最近、コメントしてくる講師部員か幹部会員が増えていますが、全く同じ根拠同じ理屈でコメントするのは止めてもらいたいものです。本当に学習能力のない者の集まりです。
コメントでもよく出てくるのが以下の根拠と理屈です。

『なぜ生きる2』10章に

 弥陀は十九願を建てて善を勧め、釈迦が一代、廃悪修善を説かれたのは、知った分かったの観念の遊戯ではなく、実地にやらせるためであったと、聖人は仰せになっている。

以下は、その文証である。

然るに濁世の群萌・穢悪の含識、乃し九十五種の邪道を出でて、半満・権実の法門に入ると雖も、真なる者は甚だ以て難く、実なる者は甚だ以て希なり、偽なる者は甚だ以て多く、虚なる者は甚だ以て滋し。
ここを以て、釈迦牟尼仏、福徳蔵(十九願)を顕説して群生海を誘引し、阿弥陀如来、本、誓願を発して普く諸有海を化したまう。既にして悲願有す、「修諸功徳の願」と名づく

                              
(『教行信証』化身土巻・本)

最初の高森顕徹会長の文は、完全な妄想ですが、その後の親鸞聖人のお言葉との関連も、全く意味不明です。

以前に私がコメント欄で反論した内容を含めて再度、説明しておきます。

まず学問的な知識として。

半満」とは、半字教と満字教のことです。『涅槃経』に、子供に文字を教える時に、最初は半字を教えて、後で満字を教えるということから、釈尊もお弟子に半字教から満字教を教えていかれた、とあります。ここで、半字教は小乗教、満字教は大乗教という意味になります。
権実」とは、権教と実教のことです。満字教(大乗教)の中で、権仮方便の教えと真実の教えとがあるということです。
半満・権実」は、二双四重の教判でいえば、竪出・竪超のことです。
『教行信証』化土巻に

おほよそ一代の教について、この界のうちにして入聖得果するを聖道門と名づく、難行道といへり。この門のなかについて、大・小、漸・頓、一乗・二乗・三乗、権・実、顕・密、竪出・竪超あり。すなはちこれ自力、利他教化地、方便権門の道路なり。

(現代語訳)

総じて釈尊が説かれた教えの中で、この世界で聖者となってさとりを得るのを聖道門といい、難行道という。この聖道門の中に、大乗と小乗、漸教と頓教、一乗と二乗と三乗、権教と実教、顕教と密教、竪出と竪超がある。これらはすべて自力の教えであり、衆生を真実に導くための、仮の手だてとして説かれた教えである。

あり、この「半満・権実」が「大・小、漸・頓、一乗・二乗・三乗、権・実、顕・密、竪出・竪超」です。

『愚禿鈔』では

一には大乗の教、二には小乗の教なり。
大乗教について、二教あり。
 一には頓教、        二には漸教なり。

難行聖道の実教なり。いはゆる仏心・真言・法華・華厳等の教なり。

難行道 聖道権教、法相等、歴劫修行の教なり。

小乗教について、二教あり。
 一には縁覚教    一に麟喩独覚、二に部行独覚。
 二には声聞教なり。 初果・預流向、第二果・一来向、第三果・不還向、
           第四果・阿羅漢向、八輩なり。

にあたります。

権実」というと18願が実と思われるかもしれませんが、「難行聖道の実教」を指しています。従って、「半満・権実」で、聖道門のことを総称して仰っているのです。

聖道門の人が親鸞聖人のこの御文を読めば、聖道門の修行をしている人のことを指すというのが、常識としてあります。

その上で、親鸞聖人は、「真なるものははなはだもつて難く、実なるものははなはだもつて希なり。偽なるものははなはだもつて多く、虚なるものははなはだもつて滋し。」と仰っているので、聖道門の中でこうだという話です。
この親鸞聖人の思想の根本にあるのが、

法然上人の『西方指南抄』(親鸞聖人御真筆)に

第十九の願は、諸行之人を引入して、念仏の願に帰せしむと也。

とあることです。法然上人が仰ったことは、「諸行之人」です。「無行之人」ではないです。

また親鸞聖人が間違いない人と尊敬されていた隆寛律師は

先師律師つねにのたまはく、隆寛こそ十九願の機よ。其故は、本と円宗の菩提心を発して、聖道の出離を期せしほどに、末法に生をうけたる身、涯分をしる故に、聖道の出離の叶ふまじきいはれを心得て、浄土門に入れるなり。

と言われていたと弟子の記した『広疑瑞決集』にあります。隆寛律師御自身の体験から、聖道門から浄土門に入ることができたのは、19願の権仮方便によるものと味わわれたのです。

更には、大経の異訳経に

『大無量寿経』19願の「十方衆生
=『平等覚経』18願の「諸佛國人民有作菩薩道者
=『大阿弥陀経』7願の「八方上下無央數佛國諸天人民若善男子善女人有作菩薩道
諸々の仏国土の菩薩の行を行う者

とあることから、こう仰ったわけです。

もちろん、「半満・権実の法門」に浄土門の人が含まれるというのは、妄想以外の何物でもないということです。

結局のところ、聖道門で出離して成仏を目指しながら、それができないことで聖道門を断念した人のために、19願が建てられ、定散二善が説かれたという内容にしかなりません。

妄想の対策マニュアルを作る暇があれば、聖教を一回でも読んでみればいいのです。

読めるだけの知能が残っていればの話ですが。

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『なぜ生きる2』」カテゴリの記事

コメント

負け犬量産マニュアルですか、カナブン氏といい、すでに成果は出ているようですね。

投稿: | 2015年7月27日 (月) 22時16分

●然るに濁世の群萌・穢悪の含識、乃し九十五種の邪道を出でて、半満・権実の法門に入ると雖も、真なる者は甚だ以て難く、実なる者は甚だ以て希なり、偽なる者は甚だ以て多く、虚なる者は甚だ以て滋し。
ここを以て、釈迦牟尼仏、福徳蔵(十九願)を顕説して群生海を誘引し、阿弥陀如来、本、誓願を発して普く諸有海を化したまう。既にして悲願有す、「修諸功徳の願」と名づく
                           (『教行信証』化身土巻・本


半満・権実の法門が聖道門だけだとしても、19願はすべての人に勧められています。

19願は要門・仮門の方便願


投稿: セミ | 2015年7月28日 (火) 06時17分

セミ 様

エントリーをしっかり読んでください。

>半満・権実の法門が聖道門だけだとしても、19願はすべての人に勧められています。

勧められていません。あなたの、高森顕徹なる人物の誇大妄想です。
聖道門で虚偽なるものが多いから「ここをもって」定散二善を説かれ19願を建てられた、というのが日本語です。
親鸞聖人は日本語で書かれていますので、日本語の文法に沿って解釈をしてください。


>19願は要門・仮門の方便願

その通り。聖道門から浄土門への橋渡しをする分岐点、要の門であり、方便の願です。

投稿: 飛雲 | 2015年7月28日 (火) 06時43分

セミ 様

あなたは、ユウさんだったのですね。
阿闍世の所を読みましたか?
阿闍世は19願も20願も通っていませんよ。

あなたの知能で理解は無理かもしれませんが、親鸞聖人は阿闍世を通して、19願も善も不要の救いを信巻で教えられた訳ですよ。

阿闍世に19願が必要であったなら、化土巻に、阿闍世のことが長々と紹介されるはずですが、ないのですよ。

阿闍世は18願だけで救われた、と親鸞聖人が信巻で長々と紹介された。

つまり、19願なんかは一般の人には無関係ということ。

投稿: 飛雲 | 2015年7月28日 (火) 11時09分

●然るに濁世の群萌・穢悪の含識、乃し九十五種の邪道を出でて、半満・権実の法門に入ると雖も、真なる者は甚だ以て難く、実なる者は甚だ以て希なり、偽なる者は甚だ以て多く、虚なる者は甚だ以て滋し。
ここを以て、釈迦牟尼仏、福徳蔵(十九願)を顕説して群生海(すべての人)を誘引し、阿弥陀如来、本、誓願を発して普く諸有海を化したまう。既にして悲願有す、「修諸功徳の願」と名づく
                           (『教行信証』化身土巻・本

>聖道門で虚偽なるものが多いから「ここをもっ て」定散二善を説かれ19願を建てられた、というのが日本語です。


19願は三世十方を貫く教えであり、十方衆生に誓われています。

19願は聖道門の人のためだけでなく、外道を
信じていないかつ聖道門の修行をしていない
一般人のためでもあります。

だから、『群生海(すべての人)を誘引し』と書かれています。

もし聖道門の人のためだけの19願なら、
『群生海(すべての人)を誘引し』
とは書かれずに、
『半満・権実の法門に入る人を誘引し』
と書かれるはずです。

つまり、外道も聖道門も信じていなくて今すぐに19願に励める状態にあるあなた方のためにも19願は説かれているのですよ。

投稿: セミ | 2015年7月28日 (火) 13時12分

阿闍世のことは無視ですね。

「群生海」と「一切の群生海」との違いも判らないみたいで、日本語の勉強をしてきてからおいでください。

親鸞聖人は、19願と定散二善を定散諸機(善人)に対して説かれたと仰っています。

以前にも言った通り、阿闍世の所を100回読むまでは、コメント禁止です。

日本語も通じない愚か者に付き合うほど、暇ではありません。

投稿: 飛雲 | 2015年7月28日 (火) 13時16分

セミの寿命は短いから、もう終わりだね。

親鸞会の講師部員といっても幹部といっても、お粗末極まりないな。

日本語のお勉強をし直してきてね。

投稿: 蜘蛛 | 2015年7月28日 (火) 18時12分

>阿闍世に19願が必要であったなら、化土巻に、阿闍世のことが長々と紹介されるはずですが、ないのですよ。

阿闍世は18願だけで救われた、と親鸞聖人が信巻で長々と紹介された。

つまり、19願なんかは一般の人には無関係ということ。

化土巻に書かれていなければ、19願、20願は通らなかったことになるのですか?無茶苦茶ですね。

逆に質問したいのですが、阿闍世のことが書かれている信巻の中から、阿闍世
が善をしなかった根拠でも見つかったのでしょうか?
19願、20願を通らなかった根拠でも見つかったのでしょうか?

投稿: セミ | 2015年7月28日 (火) 22時47分

だから100回読んでみなさいと言っているのですよ。

化土巻には19願と20願について書かれてある。
そこには阿闍世のことが全くなく、18願の信巻にしか阿闍世のことは書かれていない。

だったら、阿闍世と19願20願は無関係。

これが超超超常識的な判断で、それができない愚か者とは話ができないと言っているのですが、日本語が理解できないようですね。

>逆に質問したいのですが、阿闍世のことが書かれている信巻の中から、阿闍世
>が善をしなかった根拠でも見つかったのでしょうか?
>19願、20願を通らなかった根拠でも見つかったのでしょうか?

見つかるも何も、釈尊は善を勧められていない、阿闍世はしてもいない、読んでいないからわからないだけのこと。

投稿: 飛雲 | 2015年7月28日 (火) 22時55分

セミさんて、Fラン?

たとえば、百科事典のセミの項目で、写真入り、イラスト入り、詳細な描写のあるものは、セミそのものの説明でしょ。
カナブンの項目に、セミのところにあった写真もなく、イラストもなく、描写もなければ、セミの項目の説明のものはカナブンではないと小学生でもわかるけどな。

セミの知能では分からないのだろうね。蜘蛛の知能ならわかるけど。

投稿: 蜘蛛 | 2015年7月28日 (火) 23時06分

【華光会発行『華光』第5巻第5号「私の信仰体験」】
増井君をはじめ数名の求道者諸兄の御指導を受け、半信半疑、なお私の心は悶えました。親切にも休暇中『仏敵』の書をお借りして読ませていただき、また家にあった書物により、さらにまた華光をも送っていただき、次第にその迷雲も晴れ、今日までの悪疑を恥づるに余念がありません。


高森会長は三願転入していないけど、どういうこと?
高森会長が善に励んだ話を一度でもしたことがあるか?

投稿: 蜂 | 2015年7月28日 (火) 23時14分

セミさん、そして前回のカナブンさん。
以前にも書きましたが、私も1年前までの20数年間は親鸞会会員で、当然高森会長を無二の善知識と仰いできました。
親鸞会が唯一正しい親鸞聖人の教えを説いていると信じ親鸞会の書籍と高森会長の話しか読み聴きしてきませんでした。
それが講師試験に出題された信疑決判をきっかけとして「安心論題の話」
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E5%AE%89%E5%BF%83%E8%AB%96%E9%A1%8C%E3%81%AE%E8%A9%B1
などを読むようになりました。そして思ったことは「親鸞会の教学は本願寺の教学に比べて大変貧弱だ」でした。
セミさん、カナブンさん。あなた方は親鸞会の教えしか知らないからあんなお粗末なコメントを書き込まれるのですよ。
お聖教のご文を断章取義した親鸞会の教義を盲信して、誤った主張の一点張りではないですか。
冷静に飛雲さんのブログをよく読まれ、また他のサイトも読まれて親鸞会の誤りを知ってください。
林遊さんが管理されている以下のサイトなども素晴らしい著作が読めますよ。
http://www.hongwan.net/index.php/%E3%83%A1%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%9A%E3%83%BC%E3%82%B8
なまんだぶつ なまんだぶつ

投稿: どら焼き | 2015年7月29日 (水) 00時45分

セミさんは小学校も出てないのですか?

先生「今日は、18願の授業をします。18願の救いの実例として阿闍世という人を紹介します。」

翌日

先生「今日は、19願と20願の授業をします。実例の紹介はありません。」

先生「では問題です。阿闍世は19願と20願に関係していますか?」

生徒全員「関係していません。すごく簡単な問題ですね。」

セミ「阿闍世は19願20願と関係がない証拠を見せろ。」

生徒全員「先生、幼稚園児が紛れ込んでいるみたいです。」

先生「セミちゃん、ここは小学校だから、幼稚園に戻ってね。セミちゃんには難しい授業をしているのよ。」

投稿: 元カルト信者 | 2015年7月29日 (水) 06時35分

セミさんも親鸞学徒なら阿闍世の部分は読みましょうよ。
親鸞聖人の御著書ですし、セミさんが議論している部分です。
読んでいない部分の反論をするのはみっともないですよ。
もう読んでいるなら謝ります。

投稿: | 2015年7月29日 (水) 07時54分

善のすすめとか宿善積めとか言うなら、ミツハルの性格直して過去を謝罪し続けさせてからにしてはいかがでしょうか。
また彼の弟や妻やその家族にしても、利権や闇の部分の清算はいつなさるのでしょうか。
頭のいい講師部員が虐げられて縁起も詳しく知れないなんて可哀想です。
麻薬をやめよ、麻薬をやめるには一生懸命麻薬をやれ、なんて教義から離れましょう。
本当に善行したければ比叡山に登りなさいな。

投稿: 元ヤクザ教団構成員 | 2015年7月29日 (水) 07時54分

セミさんのレベルの低さが、親鸞会のレベルの低さを物語っている。
W部さんにしてもK玉さんにしても、飛雲さんには法論で全敗しているが、ここまで醜態を曝さなかった。
それがどうしたことか、こんな幼稚園児レベルの論理を平気で押しつけてくるとはね。

でも、これで親鸞会に見切りをつける人が出てくるのだから、セミさんも善をしていることになるのかも。
よかったね、セミさん。でも往生とは無関係の善だからね。

投稿: 冬虫夏草 | 2015年7月29日 (水) 11時43分

本田健氏の『人生の目的』という本が600万部らしいです。しかも発売は去年。高森会長は何してたんでしょうか。『人生の目的』という本が出たから『なぜ生きる』が出て、会員も走り回って金出して買い集めて配り回ったのに。
『人生の目的』という本が出ても、実はどうでもいいんでしょうね。
本音は会員とならして騙して活かさず殺さずでしょう。

投稿: | 2015年7月30日 (木) 18時40分

現役会員の方に伺いたい。①祖師は「唯可信斯高僧説」の方である。②高森会長は「三願転入によらずばアリ一匹助からない」と説く。この2つが矛盾なく成立しているためには、③祖師の著書(教行信証)において七高僧方それぞれの「三願転入」を勧められたご文を紹介されていなければならないのではないでしょうか。御本典において該当するところがないことを説明できますか。会長は、会員をいつまで騙せば気が済むのでしょうか。

投稿: | 2015年7月30日 (木) 20時43分

「十方衆生に定散諸機になるように勧められた」

なら矛盾はしませんが、

定散二善は定散諸機に勧められたと言ってますが、

私は定散諸機ですか?極重の悪人ですか?
それは誰が決めるんですか?自分で決めればいいんですか?

ならば今ここで決めます。

私は自分を善のできない極重の悪人と決めました。
なので19願は権仮方便と意識して捨てて、
ひたすら念仏を称えることにします。

これで弥陀より他力の信心(金剛心)を賜り、二種深信が立つんですね?
これでいいんですね?

投稿: セミ | 2015年7月31日 (金) 08時34分

ちなみに私は聖道門の修行は一切したことありません。

投稿: セミ | 2015年7月31日 (金) 08時48分

セミ 様

>「十方衆生に定散諸機になるように勧められた」

>なら矛盾はしませんが、

妄想の中では矛盾しないかもしれませんが、日本語では矛盾します。

>私は自分を善のできない極重の悪人と決めました。

別に決めなくてもいいです。
定散諸機も「唯念仏」です。

『観経』の定散の諸機は、極重悪人、ただ弥陀を称せよと勧励したまへるなり。濁世の道俗、よくみづからおのれが能を思量せよとなり、知るべし。(化土巻)

像法のときの智人も
 自力の諸教をさしおきて
 時機相応の法なれば
 念仏門にぞいりたまふ
    (正像末和讃)

>なので19願は権仮方便と意識して捨てて、
>ひたすら念仏を称えることにします。

少しまともになってきました。

定散自力の称名は
 果遂のちかひに帰してこそ
 をしへざれども自然に
 真如の門に転入する
     (浄土和讃)

もう一ついうなら、

弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、ふかく信じてとなふるがめでたきことにて候ふなり。(御消息)

「名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、ふかく信じて」念仏を称えてください。

必ず往生するぞと思いとりて念仏を称えてください。

それが信心です。


定散諸機と逆悪の機とは全く別です。

正信偈くらい読んでください。

定散と逆悪とを矜哀して

これを蓮如上人は、『正信偈大意』で

されば定散の機をも五逆の機をも、もらさずあはれみたまひけりといふこころなり。

と仰っていることからも、日本語では別と判断します。高森語では同じかもしれませんが、親鸞聖人、蓮如上人は日本語で書かれています。

これはもともと善導大師の『観無量寿経疏』の内容をまとめられたものですが、『観無量寿経疏』には下品上生から下品下生までをこう定義されています。

この三品の人、仏法・世俗の二種の善根あることなし。 ただ悪を作ることを知るのみ。

仏法の善も世俗の善もあることなし、ですから今までしたこともないし、しようとも思っていない人のことです。
もちろん、雑毒の善もあることなしです。

これが下品ですが、上品と中品は、少なくとも「仏法・世俗の二種の善根はある」人で、これを定散諸機といいます。
智覚禅師は、上品上生の方だと、法然上人も親鸞聖人も認めておられます。定散諸機の一人として智覚禅師の名を親鸞聖人は挙げておられるのです。

智覚禅師、また龍樹菩薩を極重の悪人という人は、仏教徒では皆無です。そんな人は仏教徒ではなく、外道の人です。

あまりにも愚かなことを「正しい真宗教義の伝承のために」というブログが言っていたので、完全に論破したところ、あれほど狂ったように飛雲批判していたのが、今では、飛雲批判は全くしていません。懲りたからです。

嘘だと思うのであれば、過去のエントリーのコメント欄をしっかり読んでみてください。

投稿: 飛雲 | 2015年7月31日 (金) 09時50分

セミさんが信奉する「正しい真宗教義の伝承のために」のコメント欄を見ました。

定散諸機の件は、5と12と17と23の項目をしっかり読んでいてね。完全に決着しているのよ。
「正しい真宗教義の伝承のために」の大惨敗でね。

************************************************************************************
全く反論できない、みじめな高森派の記録。

1.管理人さんが「教義のコメントには反論をしてきた」と自信満々に言ってきたが、反論できずに無視してきたコメントがいくつもあり、大嘘をついていた。

2.管理人さんが、「真宗学では全人類が闡提という解釈」と自信満々に言ってきたが、実は真宗学を学んでおらず、大嘘をついていた。

3.管理人さんの主張は「善ができるのは還相の菩薩のみ」というであり、聖道門は還相の菩薩のための教えというのと同様に、定散二善も還相の菩薩のための教えとなる。よって悪凡夫・逆悪の機・極重悪人には聖道門が関係ないのと同様、定散二善も関係がない。つまり、逆謗の機に定散二善を勧められたという高森顕徹会長の教えは、管理人さんによって完全に否定された。

4.管理人さんの考えでは、雑毒の善は悪ではなく、善導大師の仰る「仏法・世俗の二種の善根」に入るので、雑毒の善ができる人は、「仏法・世俗の二種の善根あることなし」の下輩ではない。つまり、雑毒の善ができる人は、中輩か上輩である。

5.親鸞聖人は常没の凡愚でも雑毒の善のできることを認めておられるので、常没の凡愚にも「仏法・世俗の二種の善根」のある人が少なからず存在する。つまり、常没の凡愚には定散二善をすることは「かたし」難しいということであって、「不可」可能性ゼロではない。

6.親鸞聖人は御本典において『涅槃経』を引用されて、下根である闡提の者が、中根・上根という闡提ではない者に変わることを示されている上、他の御著書でも闡提は悪人の一部の機としてしか表現されていない。

7.親鸞聖人は御本典において、曇鸞大師の「ただ正法を誹謗せしめて、さらに余の罪なしといへども、かならず生ずることを得じ」を引用された後、善導大師の「謗法・闡提、回心すればみな往く」を引用されているので、謗法・闡提の者がそのままでは救われず、謗法・闡提の者でなくなって救われると教えられた。つまり、全人類が闡提という考えは、親鸞聖人には無い。

8.管理人さんは、闡提は無間業と主張しているが、親鸞聖人は「本願毀滅のともがらは  生盲闡提となづけたり 大地微塵劫をへて ながく三塗にしづむなり」(高僧和讃)と無間業ではないと否定されている。

9.管理人さんは、大乗の五逆罪を無間業と主張しているが、親鸞聖人は三乗の五逆罪について御本典で「無間業と名づく」と明言された後、大乗の五逆罪についてはそのようなお言葉は一切ない。つまり、大乗の五逆罪が無間業という根拠は皆無である。

10.因果を深く信じる必要があるのは、上品上生と上品中生だけで、上品下生以下には、「因果の道理に疑いを生じてはならない」という前提は当てはまらない。つまり、管理人さんの断章取義が確定。

投稿: 蜘蛛 | 2015年7月31日 (金) 10時04分

11.上品上生は「大乗を修学する上善の凡夫人なり」(観経疏)、上品中生は「大乗次善の凡夫人なり」(観経疏) とあるように、因果を深く信じた凡夫と善導大師は定義されているので、因果を深く信じた凡夫が存在する前提でしか善導大師は仰っていない。

12.結局、「常没の凡夫には善ができない」と管理人さんは喚いていますが、親鸞聖人は「定散諸機」と「逆悪の機」を明確に区別されて、結局、「常没の凡夫には善ができる者とできない者がある」としか仰ってない。しかも善のできる凡夫である定散諸機に対して定散二善を勧められている、と親鸞聖人が仰ったことで、決着。

13.いろいろ書いてみるが結局、「全人類が闡提、自性が闡提」という親鸞聖人の御文は無いわけです。
結局、祖師の御文は無かったんですね。真宗じゃないってことですよ。
で決着。

14.曇鸞大師・親鸞聖人は、正法を誹謗する者は阿弥陀仏に救われないと断言され、親鸞聖人は信心決定した人は、師を謗り善知識を軽んずることはある筈がない、とお手紙でこれまた断言されている。謗法の者は謗法のままでは救われない、ということで決着。

15.七高僧、親鸞聖人、蓮如上人と、管理人さん及び高森会長は、教義が根本的に異なり、安心も別なので、七高僧、親鸞聖人、蓮如上人から見ると、管理人さんと高森会長は異安心で決着。

16.念仏誹謗の有情が、そのまま救われるというのが管理人さんの考え方、つまり、管理人さんは、阿弥陀仏に救われるのに聴聞も必要ない、三願転入などナンセンス、と親鸞会のいう求道を完全に否定した。

17.「定散と逆悪とを矜哀して」(正信偈)、「されば定散の機をも五逆の機をも、もらさずあはれみたまひけりといふこころなり」(正信偈大意)と、明白に「定散諸機」と「逆悪の機」もしくは「五逆の機」が別と教えられている。「定散諸機」と「極重悪人」が同じと仰った根拠は皆無で決着。

18.「肩たたき」は「孝養」に当たる。「第一の福はすなはちこれ世俗の善根なり。 曾よりこのかたいまだ仏法を聞かず、ただおのづから孝養・仁・義・礼・智・信を行ず。 ゆゑに世俗の善と名づく。」(散善義)と教えられている通り、「孝養」の「肩たたき」は散善になる、で決着。

19.仮相は「定善の機」「散善の機」「十悪の機」「五逆の機」「闡提の機」と様々であるが、実相は「自力では出離できない者」という一機である、で決着。

20.善知識に遇うには、過去世の因縁が必ずあった。しかし、その因縁とはどんなことであるかについて源信僧都は「生死の因縁は不可思議なり。薄徳のものの、聞くことを得るも、その縁知りがたし。」(往生要集)と仰り、過去世の善根に限らない、不可思議な因縁ということで、決着。

投稿: 蜘蛛 | 2015年7月31日 (金) 10時07分

21.釈尊は韋提希の請いに応じて定善の方法を説かれた。その表現は「観ぜしめたまふ」となっているが、韋提希の獲信後でも、その表現は変わっていない。つまり、釈尊は韋提希に定善をするように勧められた訳ではない。その証拠に、日想観ができたら水想観、水想観ができたら地想観、というようにステップアップしていくので、日想観さえできない韋提希に釈尊がより難しい水想観を勧めることは有り得ない。よって、釈尊は韋提希に定善をするように勧められたのでもないし、韋提希が実践してもいない、で決着。

22.「深信因果」は散善の1つの行であり、もちろん諸行往生の行である。しかし、本願力回向とは相反する「深信因果」は、仏智不思議を疑う罪になるので、18願念仏往生のためには「深信因果」を含めた散善を捨てなければならない。もちろん、散善にならない倫理道徳の善は、世間の幸福には必要なものなので、往生と無関係に世俗の因果を信じて倫理道徳の善に励むように勧められている。これと「深信因果」とを混同しているのが管理人さん、ということで決着。

23.「しかるに常没の凡愚、定心修しがたし、息慮凝心のゆゑに。散心行じがたし、廃悪修善のゆゑに。ここをもつて立相住心なほ成じがたきがゆゑに、「たとひ千年の寿を尽すとも、法眼いまだかつて開けず」といへり。いかにいはんや無相離念まことに獲がたし。ゆゑに、「如来はるかに末代罪濁の凡夫を知ろしめして、相を立て心を住すとも、なほ得ることあたはじと。いかにいはんや、相を離れて事を求めば、術通なき人の空に居て舎を立てんがごときなり」といへり。」(化土巻)
この御文は、 「末代罪濁の凡夫」が下品生のことを指しているから、
常没の凡愚凡夫(善悪の凡夫)には、定善散善をすることは難しい(が不可能ではない)。悪凡夫には定善をすることは不可能である。
ということで、管理人さん「親鸞聖人は凡夫には定散二善をすることは不可能と教えられた」の主張は完全に否定された。

24.「しかるに常没の凡愚、流転の群生、無上妙果の成じがたきにあらず、真実の信楽まことに獲ること難し。 」 (信巻)を「この「難」はすべて可能性ゼロの「不可能」という意味です。」なんて主張は、日本語として有り得ないので、完全に間違いだったで決着。

25.親鸞聖人は雑行のことを「もとより往生の因種にあらず、回心回向の善なり」(化土巻)と仰っているように、「聖道門の修善と浄土門の19願で勧める修善は同じ」とは、「聖道門の修善と浄土門の19願で勧める修善は【行が】同じ」ということで、【行が】同じでも、回心回向の心が違うこと。
つまり、梯氏への非難「六要の伝承を曲げて、また歴代の先輩の見解を捨てて、教えを曲げたい真意はどこにあるのでしょうか」とは、管理人さん自身への非難となるで決着。

26.「九品は方便」とは、管理人さんの解釈「九品の別があるのは方便で、下品下生の一機しかないが真実 」ではなく、親鸞聖人の解釈「九品は欣慕浄土のための方便で、念仏が真実 」「九品の往生は方便化土、念仏往生が真実報土」が正しいで決着。つまり、「九品の別がないのが真実だ」というのは、管理人さんの完全な妄想だった。

27.善導大師が仰り、親鸞聖人も引用されている『往生礼讃』の機の深信では、「善根薄少」 であり、下輩(悪人)の定義である「善根あることなし」とは明らかに違うので、機の深信に悪人の意味はない、で決着。

28.法然上人が「断善闡提のごとくなる者」と仰ったのは、「過ぎたるは猶及ばざるがごとし」の「ごとし」と同じで、「同一」ではなく、「類似」の意味であり、小学生以上の国語力をもっていれば、
「断善闡提のごとくなる者」≠「断善闡提の者」
となるのは管理人さんも認めざるとえなかったで、完全決着。

29.『山科御坊之事並其時代事』に「木像本尊(安阿作)」とあり、明らかに蓮如上人は形像本尊を礼拝の対象として安置されていたことは歴史的事実と管理人さんは認めた、で決着。

30.『慕帰絵詞』に、覚如上人が絵像を本尊とされている様子が描かれていることを管理人さんは認めた、で決着。

31.二河白道の譬えは信巻に引用されているが、化土巻には引用されていない。信巻は隠彰、化土巻は顕説。つまり、二河白道の譬えに顕説の意味はない、で決着。

32.白道について『愚禿鈔』では「他力白道を念ぜよ」とあり、「白道」は「他力」と断言なされていることを管理人さんは否定することができなかった、で決着。

33.管理人さんは、「一切衆生=善機のみ」「不可=可能」と誰も言っていないことを捏造して話をすり替えた、極めて悪質な人物、で決着。

投稿: 蜘蛛 | 2015年7月31日 (金) 10時09分

「正しい真宗教義の伝承のために」を読んでみました。
これは酷いですね。無茶苦茶な論理と強引な理屈、飛雲さんの主張の曲解と、何でもありです。
昔は幹部として親鸞会で活動してきましたが、訳のわからない財施の強要に嫌気がさして籍だけの学徒となっていますが、
やはり親鸞会は金集めに教えを利用していたことがはっきりわかりました。
セミさんやクリスさんユウさんカナブンさん達が、悪徳商法の片棒を担ぐのに必死になっているのにも、呆れました。
籍だけ学徒から籍なしの学徒になります。
善は勧めるが念仏は勧めない、その意図は、金集め以外には考えられませんよね。
他の学徒の皆さんも早くやめましょう。

投稿: 籍だけ学徒 | 2015年7月31日 (金) 12時24分

>なので19願は権仮方便と意識して捨てて、
>ひたすら念仏を称えることにします。

セミさんよかったですね。私は退会したばかりなんですが、セミさんもこれで親鸞会を辞めることができますね。
籍だけ学徒さんも退会するようですし、仲間が増えて嬉しいです。

思い返せば、何かにつけて金金金金金の連続で、一体いくら出したら信心決定できるのかしら、と途方に暮れていました。
今こうやって、親鸞会と言う雑行を捨てることができて、念仏者とならせて頂き、本当に幸せです。
セミさん、これからも宜しくお願いしますね。

投稿: ZZZ | 2015年7月31日 (金) 14時10分

セミさんへ

たぶん読んでいてくれることを期待します。
どうか冷静になって、いちどしっかり批判サイトを読んでみてください。
どうして皆さんが批判サイトを作っているのか。
分かりますよ、必ず理解できます。いや、もう既に理解されているかもしれませんね。
でもね私は貴方を救いたい、どうしても救いたい、そういう思いが消えないのです。
言葉に出さなくても、飛雲さんも同じなんですよ。
そして、阿弥陀様は今貴方に呼びかけておられるのです。
飛雲さんのサイト、難しいですよ。他にも沢山易しいサイトがあります。
読んで見てください。期待しております。
本当に期待しているんですよ。必ず次の書き込みがあると信じています。

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏

投稿: とくよしみね | 2015年7月31日 (金) 22時17分

とくよしみねさんに賛成です。親鸞会の方から見れば、批判サイトの開設者は獅子身中の虫でしょうが、忙しい中無償で記事更新するのは「高森会長の教えが親鸞聖人の教えと真逆だから」。加えて、「それを聖教上の根拠をもって提示しても無視して、在会者に無理な献金を圧しつける手段として聖人の教えを悪用するから」見ておれないからです。そもそもネット対策員という役割が要らないわけです。速やかに破邪してブログ閉鎖を求めることができる訳ですから。明らかに知んぬ。親鸞会は社会悪以外のなにものでもありません。

投稿: あらいぐま | 2015年8月 2日 (日) 17時08分

本田健氏の本の600万部はシリーズ累計だったようです。
情報間違い失礼しました。

投稿: 間抜け | 2015年8月 3日 (月) 19時48分

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