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2015年7月 6日 (月)

『なぜ生きる2』のトンデモ邪義4

『なぜ生きる2』6章に

 よくよく思うに、釈迦が『観無量寿経』に説かれている教えは、自力の教え(弥陀の十九願)であることは明白である。
 なぜ、そんな自力の教(弥陀の十九願)を、釈迦は『観無量寿経』に説かれたのか。
 それは他力の世界(弥陀の十八願)へ誘導するためであった、と聖人は明言される。
 以下は、その文証である。

 ひそかに観経の三心往生を按ずれば、これすなわち、諸機自力各別の三心(十九願)なり。大経の三信(十八願)に帰せんがためなり。
                  
(『愚禿鈔』下)

 釈迦が『観経』に自力の教(十九願)を説かれたのは、『大経』の他力の教(十八願)へ誘引する、弥陀の三願転入の救いを明らかにするためだと、ずばっと言明されている。

とありますが、無知と詭弁が入り混じった内容となっています。

まず最初の文ですが、これは完全な無知です。親鸞聖人の教えの特徴である隠顕ということを全く知らないのです。
隠顕とは隠彰(真実)と顕説(方便)のことで、『観無量寿経』と『阿弥陀経』には隠顕の二面があると親鸞聖人は教えられています。

『大無量寿経』──18願意
『観無量寿経』──顕説(方便)19願意
            └─隠彰(真実)18願意
『阿弥陀経』──顕説(方便)20願意
          └─隠彰(真実)18願意

こういうことです。
したがって、

『観無量寿経』に説かれている教えは、自力の教え(弥陀の十九願)と他力の教え(弥陀の十八願)であることは明白である。

としなければ、真宗にはなりません。これ1つとっても、高森顕徹会長が真宗に疎いことは明白です。

そして、『観無量寿経』の顕説(方便)が誰を目当てに説かれたものかを知ると、その後の詭弁が見破れます。

『浄土和讃』

臨終現前の願により
 釈迦は諸善をことごとく
 『観経』一部にあらわして
 定散諸機をすすめけり

『観無量寿経』の顕説(方便)は、「定散諸機」に勧められたものだということです。「定散諸機」とは定善の機、散善の機のことで、いわゆる善人です。

これだけの知識があれば、『愚禿鈔』も読めます。そして最後の一文はこうなります。

 釈迦が『観経』に自力の教(十九願)を説かれたのは、「定散諸機」(善人)を『大経』の他力の教(十八願)へ誘引する、弥陀の三願転入の救いを明らかにするためだと、ずばっと言明されている。

参考までに『愚禿鈔』のこの御文は、『唯信鈔文意』ではこう表現されています。

『観経』の三心は定散二機の心なり、定散二善を回して、『大経』の三信をえんとねがふ方便の深心と至誠心としるべし。
(中略)
雑行雑修して定機・散機の人、他力の信心かけたるゆゑに、多生曠劫をへて他力の一心をえてのちに真実報土に生るべきゆゑに、すなはち生れずといふなり。
(中略)
三信をえんことをよくよくこころえねがふべきなり。

(現代語訳)

『観無量寿経』の三心は定善・散善を修める自力のものの心であって、そのような自力の心をあらためて、『大無量寿経』の真実の信心を得させようと願う方便の深心と至誠心であると知らなければならない。
(中略)
さまざまな行を修めて浄土に往生しようとする自力のものは、他力の信心が欠けている。そのため、生れ変り死に変りしてはかり知れない時を経て、他力の一心を得た後に真実の浄土に生れることができるのだから、 そのままでは生れることはできないというのである。
(中略)
真実の信心を得ることを十分に心得て、真実の浄土に生れることを願わなければならない。

『観経』の三心は定散二機の心なり」ですから、善人のことで悪人には関係がありません。善人は、善に拘る心を捨てて、他力の信心を獲なさい、が親鸞聖人の意図するところです。誰しも19願を必ず通らなければならないという意味にはなりえません。

会員も退会者も、高森会長の詭弁を見抜く力をつけてください。

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『なぜ生きる2』」カテゴリの記事

コメント

飛雲さんは元親鸞会の方ですか?年齢はおいくつですか?

高森会長に何か強い恨みでも持っているのでしょうか?

教義内容はともかく、何かに取り付かれているかのように

次から次へと難しい根拠を持ってきて、人を平気で見下して批判しまくっているので心配になります。

投稿: クリス | 2015年7月 8日 (水) 14時49分

クリス 様

以前にコメントを頂いた方ですね。

高森会長に恨みは、当然あります。だからといって、高森会長のことを叩きのめしてところで、何の意味もありません。
私が思っていることは、高森会長に未だ騙されて搾取され続けて苦しんでいるかつての仲間のことです。

私のブログを見て目が醒めたという人は、未だに後を絶ちません。そして感謝の言葉を仰ってくださいます。

このように喜ばれる方があるから、簡単な根拠も、難しい根拠も出して説明します。

どのように思われても結構ですが、高森会長の邪義だけは判って頂きたいですね。

投稿: 飛雲 | 2015年7月 8日 (水) 14時57分

いつも思うのですが・・・・・。


>『観無量寿経』の顕説(方便)は、「定散諸機」に勧められたものだということです。


「定散諸機をすすめけり」を「定散諸機に勧められた」と理解するのは間違いでしょう。
「を」と「に」は違います。

「定散諸機を(選択の願海に)すすめけり」と拝読し、
「定散諸機を選択の願海に進められた」と理解するのが正しいと思います。


『一念多念証文』の御文を拝読すると分かります。

「おほよそ八万四千の法門は、みなこれ浄土の方便の善なり。これを要門といふ。これを仮門となづけたり。
この要門・仮門といふは、すなはち『無量寿仏観経』一部に説きたまへる定善・散善これなり。
定善は十三観なり、散善は三福九品の諸善なり。これみな浄土方便の要門なり、これを仮門ともいふ。
この要門・仮門より、もろもろの衆生をすすめこしらへて、本願一乗円融無碍真実功徳大宝海にをしへすすめ入れたまふがゆゑに、よろづの自力の善業をば、方便の門と申すなり。」


この御和讃の

「釈迦は諸善をことごとく
 『観経』一部にあらわして
 定散諸機をすすめけり」

は、

「この要門・仮門より、もろもろの衆生をすすめこしらへて、本願一乗円融無碍真実功徳大宝海にをしへすすめ入れたまふ」
(この要門・仮門より、諸々の衆生を進め(勧め)こしらえて、本願一乗円融無碍真実功徳大宝海に教え勧め(進め)入れ給う)

に対応します。


釈尊が「定散二善」を説かれた相手は、「もろもろの衆生」すなわち「十方衆生」です。

「こしらえて」は、導いて、という意味で解説している本もありますが、作り上げる、という意味を含めればなお良いでしょう。


要門・仮門である定散二善の法を与えることによって、諸々の衆生を「定散諸機」に育て上げ、その定散諸機を選択の願海に教え勧め(進め)入れられた。

これが、「定散諸機をすすめけり」の意味です。


今回は、ヒントだけ差し上げますから、飛雲さんも、もう一度よく考えてみられたら如何でしょうか?

他にも、変な所がたくさんありますが、時間がないので、この辺で・・・・。

投稿: カブトムシ | 2015年7月 8日 (水) 16時06分

カブトムシ 様

この件については、以前にも取り上げました。

少し違いますが、一口問答にこう書きました。


問い

「定散諸機をすすめけり」であって、「定散諸機にすすめけり」ではありません。「定散諸機をすすめけり」とは、定散諸機になるように勧められた、ということで、獲信のために全ての人に善を勧められたのではないですか。


答え

同じ『浄土和讃』に「至心・信楽・欲生と 十方諸有をすすめてぞ」とあります。あなたの理屈ならば、十方諸有になるように勧められた、となりますが、よろしいですか。まずは古文の勉強をしましょう。
なお、下輩である逆悪の機について善導大師は、「仏法・世俗の二種の善根あることなし。ただ悪を作ることを知るのみ。」(観無量寿経疏)と定義されています。「善根あることなし」ですから、定散諸機になれない者が逆悪の機です。

投稿: 飛雲 | 2015年7月 8日 (水) 16時13分

カブトムシさん、残念でしたね。

飛雲さんが時々引用される法然上人のお言葉

「しかれば善人をすゝめ給へる所をば善人の分と見、悪人を勧め給へる所をば我分と見て得分にするなり。」

これは「善人をすゝめ給へる」は善人にすすめで、「悪人を勧め給へる」は悪人にすすめ、です。

古語の知識が不足してますよ。

投稿: クワガタ | 2015年7月 8日 (水) 18時14分

それともうひとつ。

「この要門・仮門より、もろもろの衆生をすすめこしらへて」

は、

「この要門・仮門に、もろもろの衆生をすすめこしらへて」

ではないですよ。「より」と「に」の違いも分からないのですね。


「この要門・仮門より、本願一乗円融無碍真実功徳大宝海に」です。

勧めるのは「要門・仮門」から出なさい、「本願一乗円融無碍真実功徳大宝海に」入りなさい。

偉そうに言うわりには、お粗末。

投稿: クワガタ | 2015年7月 8日 (水) 18時45分

いつも思ってるんなら正々堂々と法論すればいい

投稿: | 2015年7月 8日 (水) 22時07分

変な所が沢山あるならコメントされたら良いと思います。
ことは後生の一大事ですからね。

投稿: | 2015年7月 8日 (水) 23時45分

>要門・仮門である定散二善の法を与えることによって、諸々の衆生を「定散諸機」に育て上げ、その定散諸機を選択の願海に教え勧め(進め)入れられた。

確かに今までの飛雲さんの内容を振り返ると納得できますね。誤解が解けました。

正直私は飛雲さんの「浄土往生のために諸善をしなくてもよい」という考えはどう考えても
正しいと思えません。

六度万行や破邪顕正等の善を実践するなって、たちが悪くないですか?念仏だけひたすら称えていれば二種深信が立つんですか?

「万行諸善の小路(十九願)より
 本願一実の大道(十八願)に
 帰入しぬれば涅槃の
 さとりはすなわちひらくなり」(高僧和讃)

真剣に善に励むことで、まことの善のできない極悪人と知らされる境地に至るんじゃないんですか?

だから念仏の称え心も変わってきて、

「極悪深重の衆生(真剣に善に励んで、真実の善のできない極悪人と知らされた人=19願を実践した人)は
 他の方便さらになし
 ひとへに弥陀を称してぞ
 浄土にうまるとのべたまふ」

の万行超過の念仏(20願)に転入するんではないでしょうか。

投稿: クリス | 2015年7月 9日 (木) 10時44分

親鸞聖人は
●「定散の専心とは、罪福を信ずる心をもつて本願力を願求す、これを自力の専心と名づくるなり。」(教行信証化土巻)と仰り、
因果の道理を信じることは自力の心だと教えておられます。
また、「罪福信ずる行者は 仏智の不思議をうたがひて 疑城胎宮にとどまれば 三宝にはなれたてまつる」(正像末和讃)と、因果の道理を信じることは仏智不思議を疑う心だと仰っています。
つまり、因果の道理を信じてぜんをするるように勧めることは、自力・仏智不思議を疑う心を増長(信仰が進むこと)になります


●『如来の諸智を疑惑して
 信ぜずながら なをもまた
 罪福ふかく信ぜしめ
 善本修習すぐれたり』 (正像末和讃)

 この『正像末和讃』の意味は、
まだ貴方は、阿弥陀仏の本願を疑って[如来の諸智を疑惑して]大信海に入れず、出世の本懐を遂げてはいないがそれでも、聞ける人の滅多にない三世十方を貫く"善因善果・悪因悪果・自因自果"の因果の道理を知らされて、悪因を怖れ善因を求める[罪福ふかく信ぜしめ]身となって、光に向う輝ける人ではないですか!


【それ濁世の道俗、速に円修至徳の真門(二十願)に入りて、難思往生を願うべし】(教行信証)

 そのうえ大宇宙の総ての宝が納まる無上の功徳である、南無阿弥陀仏の名号[善本]を称える[修習]身にさせて貰っているのだ。なんと素晴らしいことだろう。

 これは偏に、阿弥陀仏の「第十九の修諸功徳の願」と「第二十の植諸徳本の願」の調熟の光明(お力)によって、今の身にさせて頂いたのですよ。
 そして、弥陀は私たちを、億劫にも獲難き無上の信心を発起させるために、このような善巧方便を種々になされて、選択の願海に転入させるまで誘導なされているのです。なんと幸せなことではありませんか。

投稿: クリス | 2015年7月 9日 (木) 10時57分

真実と方便の違いを知らないから助からないのだ、と教えられた親鸞聖人のお言葉もあります。

●真・仮を知らざるによりて、如来広大の恩徳を迷失す。
(教行信証真仏土巻)


最後に親鸞聖人の「三願転入」(信心決定までの万人共通の道程)の御文と、その根拠を示します。

●ここを以て、愚禿釈の鸞、論主の解義を仰ぎ、宗師の勧化によりて、久しく万行・諸善の仮門(19願)を出でて、永くそう樹林下の往生を離れ、善本・徳本の真門(20願)に廻入して、偏に難思往生の心を発しき。
然るに今特に方便の真門を出でて、選択の願海(18願)に転入し、速に難思往生の心を離れて、
難思議往生を遂げんと欲す。果遂の誓、良に由有るかな。
(教行信証化土巻)


このようにして弥陀は、十九、二十の願で無力、無能、真実のカケラもないことを実地に知らせ、自力の計らいを捨てさせて十八願真実の無碍の一道(※3)、絶対の幸福に救おうとされているのが弥陀の目的なのです。

 一大事と聞いても驚かず、絶対の幸福といってもせせら笑っているのが私たちの本性です。これを聖人は逆謗の屍と言われています。

 この屍をどうすれば、絶対の幸福に生かすことができるかと、若不生者と命をかけてお約束なされているのが、弥陀の真実、十八願のちかいなのです。

 絶対、聞かぬ屍を、絶対、聞かす若不生者の真実を、親鸞聖人は、こう記されています。


●誠なるかなや、摂取不捨の真言、超世希有の正法(『教行信証』総序)

“弥陀の本願、まことだった、まことであったなぁ”


「三願転入のご文は、親鸞聖人が自らの獲信までの道程を記されたものであって、我々が他人に説く必要もなければ、話すべきことではない」

というのが、本願寺をはじめ、真宗十派の者たちの言い分である。

 ならば、「道俗時衆共同心、唯可信斯高僧説」と『正信偈』に記し、「皆々信心決定あれかしと朝夕思いはんべり」と生涯念ぜられた親鸞聖人が、我々の獲信に、必要も関係もないことを記述されたことになります。

 それだけではないです。三願転入が根基となっている『教行信証』も、我々の獲信とは無関係のお聖教となってしまいます

投稿: クリス | 2015年7月 9日 (木) 11時06分

すいません。正しい答えと思われるものを引用してしまいました。

投稿: クリス | 2015年7月 9日 (木) 11時09分

クリス 様

>正直私は飛雲さんの「浄土往生のために諸善をしなくてもよい」という考えはどう考えても
>正しいと思えません。

あなたがそう思うかどうかではなく、善知識方がどう教えられてきたかです。

最も顕著なのが法然上人です。

諸行を廃して念仏に帰せしめんがためにしかも諸行を説く(選択集)
「また定散を説くことは、念仏の余善に超過したることを顕さんがためなり。もし定散なくは、なんぞ念仏のことに秀でたることを顕さんや。」(選択集)

親鸞聖人も

自力諸善のひとはみな
 仏智の不思議をうたがへば
 自業自得の道理にて
 七宝の獄にぞいりにける
       (浄土和讃)


行巻の抜粋

順逆対、念仏は本願に順じているが、諸善は本願に背いている。
大小対、念仏は大功徳であるが、諸善の功徳は小さい。
多少対、念仏は多善根であるが、諸善は少善根である。
勝劣対、念仏は最勝の行であり、諸善は劣行である。
親疎対、念仏は仏に親しく馴染み深いが、諸善は疎遠である。
近遠対、念仏は仏に近く、諸善は遠く離れている。
純雑対、念仏は純粋な往生行であるが、諸善は三乗に通ずる行である。
径迂対、念仏はさとりに至る近道であり、諸善はまわり道である。
捷遅対、念仏は早くさとりに至る道であり、諸善は遅い道である
通別対、諸善は聖道に通ずる通途の法であり、念仏は特別の法である。
直弁因明対、念仏は仏の出世の本意としてただちに説かれた法であり、諸善は自力の機に止むを得ず説かれた法である。
名号定散対、念仏は釈尊が付属された名号であり、諸善は付属されなかった定散二善である。
勧無勧対、念仏は十方の諸仏が勧められる法であり、諸善には諸仏の勧めはない。
上上下下対、念仏は最も勝れた上上の法であるが、諸善は下下の法である。
思不思議対、念仏は不可思議の仏智の顕現であり、諸善は分別思議の法である。
自説他説対、念仏は阿弥陀仏自身が説かれた行法であり、諸善はそうではない。
証不証対、念仏は諸仏が証明されているが、諸善には諸仏の証明がない。
讃不讃対、念仏は諸仏に讃嘆される法であるが、諸善は讃嘆されない。
付嘱不嘱対、念仏は釈迦・弥陀二尊の本意にかなった法であるから付属されたが、諸善は付属されなかった。
機堪不堪対、念仏はどのような愚劣の機にも堪えられるように成就された法であるが、諸善は劣機には堪えられない法である。
選不選対、念仏は如来が選び取られた法であり、諸善は選び捨てられた法である。
真仮対、念仏は真実の法であり、諸善はしばらく仮に用いられる方便の法である。
有願無願対、念仏は本願の行であり、諸善は本願の行ではない。


などなど。

>六度万行や破邪顕正等の善を実践するなって、たちが悪くないですか?念仏だけひたすら称えていれば二種深信が立つんですか?

わたしはそんなことを言っていません。

>「万行諸善の小路(十九願)より
> 本願一実の大道(十八願)に
> 帰入しぬれば涅槃の
> さとりはすなわちひらくなり」(高僧和讃)

>真剣に善に励むことで、まことの善のできない極悪人と知らされる境地に至るんじゃないんですか?

全く違います。
まず、「万行諸善の小路」とは聖道門のことです。曇鸞讃ですから、曇鸞大師が19願を仰った箇所は全くありませんので。
あなたの理屈なら、
聖道門で善に励むことで、まことの善のできない極悪人と知らされる境地にいたるとのお考えになりますが、聖道門を勧めないあなたは矛盾していますね。

それと、機の深信を極悪人と知らされることだとは、どこをどう解釈したらそうなるのですか?
機の深信は、まことの善の善のできない者(善ができても雑毒の善しかできない者)ということですが、雑毒の善ができる人は極悪人ではありません。

>「極悪深重の衆生(真剣に善に励んで、真実の善のできない極悪人と知らされた人=19願を実践した人)は
> 他の方便さらになし
> ひとへに弥陀を称してぞ
> 浄土にうまるとのべたまふ」

>の万行超過の念仏(20願)に転入するんではないでしょうか。

極重の悪人とは、雑毒の善さえもできない、しようと言う気もない五逆罪を造った悪人のことです。

投稿: 飛雲 | 2015年7月 9日 (木) 11時09分

> この『正像末和讃』の意味は、
>まだ貴方は、阿弥陀仏の本願を疑って[如来の諸智を疑惑して]大信海に入れず、出世の本懐を遂げてはいないがそれでも、聞ける人の滅多にない三世十方を貫く"善因善果・悪因悪果・自因自果"の因果の道理を知らされて、悪因を怖れ善因を求める[罪福ふかく信ぜしめ]身となって、光に向う輝ける人ではないですか!

全く違います。
これは親鸞聖人が20願成就文と仰った『大無量寿経』の一節を言い換えられたものです。

『三経往生文類』に

願(第二十願)成就の文、『経』(大経・下)にのたまはく、「(中略)仏、慈氏に告げたまはく、〈もし衆生あつて、疑惑の心をもつてもろもろの功徳を修し、かの国に生れんと願じて、仏智・不思議智・不可称智・大乗広智・無等無倫最上勝智を了らずして、この諸智において疑惑して信ぜず。しかるになほ罪福を信じて善本を修習して、その国に生れんと願ぜん。

とありますが、御和讃と比較してみると判りやすいです。

{和讃}如来の諸智を疑惑して ――{成就文}この諸智において疑惑して
{和讃}信ぜずながらなをもまた ――{成就文}信ぜず。しかるになほ
{和讃}罪福ふかく信ぜしめ ――{成就文}罪福を信じて
{和讃}善本修習すぐれたり ――{成就文}善本を修習して、その国に生れんと願ぜん

見事に対応しています。
実はこの御和讃は次の御和讃と一対で、20願成就文を顕わされています。
『正像末和讃』

仏智を疑惑するゆゑに
 胎生のものは智慧もなし
 胎宮にかならずうまるるを
 牢獄にいるとたとへたり

『三経往生文類』20願成就文後半

このもろもろの衆生、かの宮殿に生れて寿五百歳ならん。つねに仏を見たてまつらず、経法を聞かず、菩薩・声聞・聖衆を見ず、このゆゑにかの国土、これを胎生といふ。{乃至}弥勒まさに知るべし。かの化生のものは智慧勝れたるがゆゑに。その胎生のものはみな智慧なし〉

これでお判りと思いますが、20願成就文を言い換えられただけで19願とは無関係の御和讃であり、20願を勧められたのでもありません。その逆で、20願では化土往生にしかならないから、20願を願うことすら誡められているのです。

投稿: 飛雲 | 2015年7月 9日 (木) 11時13分

> 一大事と聞いても驚かず、絶対の幸福といってもせせら笑っているのが私たちの本性です。これを聖人は逆謗の屍と言われています。

親鸞聖人が、私たちの本性を逆謗の屍と仰ったお言葉を示してください。ありませんから。

高森会長の嘘を信じていると恥をかきますよ。

> ならば、「道俗時衆共同心、唯可信斯高僧説」と『正信偈』に記し、「皆々信心決定あれかしと朝夕思いはんべり」と生涯念ぜられた親鸞聖人が、我々の獲信に、必要も関係もないことを記述されたことになります。

『正信偈』に三願転入がどこに教えられているか示してください。『御文章』のどこに三願転入が書かれてあるか示してください。
共にありません。
三願転入が書かれていないのに、嘘を言わないようにしましょう。

> それだけではないです。三願転入が根基となっている『教行信証』も、我々の獲信とは無関係のお聖教となってしまいます

三願転入が根基と言ったのは、高森会長がパクリまくっている大沼師だけです。三願転入が根基などという言葉は、大沼師以外誰も言っていません。
『教行信証』には、三願転入せずして獲信した人のことが記されてますが、知らないのですか?

投稿: 飛雲 | 2015年7月 9日 (木) 11時18分

弥陀からご覧になれば、全人類の実機は極悪人ではないのではないですか?

人間の眼からご覧になれば、善人と悪人がいますが。

以下引用です。


「いずれの行も及び難き身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし」

〝どんな善行もできぬ親鸞であるから、所詮、地獄の外に行き場がないのである〟
(歎異抄)

 この告白は、ひとり親鸞聖人のみならず、古今東西万人の実相であることを、『教行信証』には、こう断言されている。

「一切の群生海、無始より已来、乃至今日・今時に至るまで、穢悪汚染にして清浄の心なく、虚仮諂偽にして真実の心なし」

〝すべての人間は、果てしなき過去から今日・今時にいたるまで、邪悪に汚染されて清浄の心はなく、そらごと、たわごとのみで、真実の心は、まったくないものである〟

 自身のことに限らず、なぜ古今東西万人のことを、かくも道破できたのであろうか。誰もが疑問に思うだろう。

 しかしこれは、阿弥陀仏の本願に救い摂られれば誰しも知らされることなのである。

 弥陀の救いは「聞く一つ」で決する。その「聞」について、親鸞聖人はこう教示されている。

「聞と言うは、衆生、仏願の生起・本末を聞きて疑心あることなし。これを聞というなり」
(教行信証信巻)

「仏願」とは阿弥陀仏の本願のこと。本師本仏の阿弥陀仏は、十方衆生(すべての人)を相手に「若不生者不取正覚(必ず絶対の幸福に生まれさせる)」と誓われている。「生起」とは、弥陀はなぜ本願を起こされたのか。十方衆生を、どんな者と見てとられて本願を建立されたのか、ということである。

 それは本願に「唯除五逆誹謗正法」とあるように、十方衆生は、三世の諸仏が呆れて捨てて逃げた、助かる縁なき逆謗の屍と見抜かれている。

 親を邪魔にする五逆罪、善知識をおろそかにする謗法罪、無常を無常とも思わず、罪悪を罪悪とも感じない、信ずる心も、念ずる心も、たのむ心もない闡提が、十方衆生の実相と十劫の昔にお見通しなのである。

 そんな十方衆生を助けるために、弥陀が法蔵菩薩と成り下がられて、五劫の思惟と兆載永劫のご修行をなされたのが「本末」の「本」なのだ。

 その五兆の願行の末に、逆謗闡提の十方衆生を救い切る力のある無上の大功徳の南無阿弥陀仏のご名号を成就完成なされ、再び阿弥陀仏に復帰されたのが「本末」の「末」である。

 この「仏願の生起・本末」を聞いて「疑心あることなし」と弥陀の本願まことであったと救われれば、弥陀のお見抜き通り、「十方衆生は逆謗の屍」と疑い晴れるのである。

 かくて親鸞聖人は、三世を貫き十方に遍く万人の真実を、喝破なされたのである。


御文章にも、十方三世の諸仏の悲願にもれて、すてはてられたるわれらごときの凡夫であると書かれています。

それ、十悪・五逆の罪人も、五障・三従の女人も、むなしくみな十方三世の諸仏の悲願にもれて、すてはてられたるわれらごときの凡夫なり。しかればここに弥陀如来と申すは、三世十方の諸仏の本師本仏なれば、久遠実成の古仏として、いまのごときの諸仏にすてられたる末代不善の凡夫、五障・三従の女人(すべての人)をば、弥陀にかぎりてわれひとりたすけんといふ超世の大願をおこして、われら一切衆生を平等にすくはんと誓ひたまひて、無上の誓願をおこして、すでに阿弥陀仏と成りましましけり。この如来をひとすぢにたのみたてまつらずは、末代の凡夫、極楽に往生するみち、ふたつもみつもあるべからざるものなり。 (御文章2帖)

次に信楽といふは、すなはちこれ如来の満足大悲円融無碍の信心海なり。このゆゑに疑蓋間雑あることなし。ゆゑに信楽と名づく。すなはち利他回向の至心をもつて信楽の体とするなり。 しかるに無始よりこのかた、一切群生海、無明海に流転し、諸有輪に沈迷し、衆苦輪に繋縛せられて、清浄の信楽なし、法爾として真実の信楽なし。ここをもつて無上の功徳値遇しがたく、最勝の浄信獲得しがたし。 一切凡小、一切時のうちに、貪愛の心つねによく善心を汚し、瞋憎の心つねによく法財を焼く。急作急修して頭燃を灸ふがごとくすれども、すべて雑毒雑修の善と名づく。また虚仮諂偽の行と名づく。真実の業と名づけざるなり。この虚仮雑毒の善をもつて無量光明土に生ぜんと欲する、これかならず不可なり。
(教行信証信巻)

すべの人間は真実の善のできないものだがうぬぼれている(自力の心)なので、
すべての人に真剣に善をさせ、できないことを信知させるのが弥陀の目的ではないでしょうか?

投稿: クリス | 2015年7月 9日 (木) 12時16分

信巻の続きです。

なにをもつてのゆゑに、まさしく如来、菩薩の行を行じたまひしとき、三業の所修、乃至一念一刹那も疑蓋雑はることなきによりてなり。この心はすなはち如来の大悲心なるがゆゑに、かならず報土の正定の因となる。 如来、苦悩の群生海を悲憐して、無碍広大の浄信をもつて諸有海に回施したまへり。これを利他真実の信心と名づく。

投稿: クリス | 2015年7月 9日 (木) 12時24分

真実と方便の違いを知らないから助からないのだ、と教えられた親鸞聖人のお言葉もあります。

●真・仮を知らざるによりて、如来広大の恩徳を迷失す。
(教行信証真仏土巻)

投稿: クリス | 2015年7月 9日 (木) 12時25分

まずは信巻のお言葉から説明します。

「一切の群生海、無始より已来、乃至今日・今時に至るまで、穢悪汚染にして清浄の心なく、虚仮諂偽にして真実の心なし」
「しかるに無始よりこのかた、一切群生海、無明海に流転し、諸有輪に沈迷し、衆苦輪に繋縛せられて、清浄の信楽なし、法爾として真実の信楽なし。ここをもつて無上の功徳値遇しがたく、最勝の浄信獲得しがたし。 一切凡小、一切時のうちに、貪愛の心つねによく善心を汚し、瞋憎の心つねによく法財を焼く。急作急修して頭燃を灸ふがごとくすれども、すべて雑毒雑修の善と名づく。また虚仮諂偽の行と名づく。真実の業と名づけざるなり。」

これは、煩悩に汚されていて、清浄の心なく、真実の心もない、ということで、極悪人とは全く意味が違います。
簡単に言えば、聖道門で出離して最終的には成仏を目指していても、それはできないということであって、極悪人の意味は全くありません。

>すべの人間は真実の善のできないものだがうぬぼれている(自力の心)なので、
>すべての人に真剣に善をさせ、できないことを信知させるのが弥陀の目的ではないでしょうか?

真実の善ができないから、聖道門では助かりませんよ、浄土門の18願に帰してください、ですが、真剣に善をするのは聖道門の人です。聖道門の人は真実の善ができると思っている人だからです。
浄土門の人で真実の善ができると思っている人はいないでしょう。いたら、聖道門に行きますよ。


次に
>それは本願に「唯除五逆誹謗正法」とあるように、十方衆生は、三世の諸仏が呆れて捨てて逃げた、助かる縁なき逆謗の屍と見抜かれている。

これも大嘘。
『尊号真像銘文』に

「唯除五逆誹謗正法」といふは、「唯除」といふはただ除くといふことばなり、五逆のつみびとをきらひ、誹謗のおもきとがをしらせんとなり。このふたつの罪のおもきことをしめして、十方一切の衆生みなもれず往生すべしとしらせんとなり。

とありまして、逆謗の者もいるし、逆謗でない者もいるということです。
「唯除五逆誹謗正法」とあるから、「十方一切の衆生みなもれず」
「唯除五逆誹謗正法」がない19願・20願は、「十方一切の衆生みなもれず」ではなく漏れている者がいる。

判りましたか?

「それ、十悪・五逆の罪人も、五障・三従の女人も、むなしくみな十方三世の諸仏の悲願にもれて、すてはてられたるわれらごときの凡夫なり。」

これは、

十悪・五逆の罪人【も】、五障・三従の女人【も】

です。ということは、そうでない者【も】いるということです。

そして最初の歎異鈔のお言葉は、『執持鈔』にもありまして、

「われら凡夫かならず地獄におつべし」の後に、
「決定悪道へゆくべかりつる身」
「おのれが悪業のちから、三悪・四趣の生をひくよりほか」
「すみやかにかの十悪・五逆・四重・謗法の悪因にひかれて三途・八難にこそしづむべけれ」
と変化しています。

ということは、死後にどこに行くかはっきり知らされるのではなく、仏教の教え通りなら、

自分は地獄だな、悪道だな、三悪道だな、というあいまいなものだということです。


「なにをもつてのゆゑに、まさしく如来、菩薩の行を行じたまひしとき、三業の所修、乃至一念一刹那も疑蓋雑はることなきによりてなり。この心はすなはち如来の大悲心なるがゆゑに、かならず報土の正定の因となる。 如来、苦悩の群生海を悲憐して、無碍広大の浄信をもつて諸有海に回施したまへり。これを利他真実の信心と名づく。」

これは、阿弥陀仏が我々の代わりに、修行なされて、それが報土往生の正因になるということです。われわれが何かをする必要がないという根拠ですが、それ以上何が言いたいのでしょうか?

「真・仮を知らざるによりて、如来広大の恩徳を迷失す。」

仮の願に迷うなよ、真の願だけでよい、ということですが、これを、仮の願が必要だとどうしたら解釈できるのですか?

投稿: 飛雲 | 2015年7月 9日 (木) 12時46分

お久しぶりです。
まだ、暴れていたんですね。

高森先生や親鸞会を誹謗して楽しいですか?
虚しくなりませんか?

一体いつになったら自分の勘違いに気が付くんですか?

『煩悩に汚されていて、清浄の心なく、真実の心もない=逆謗=真実の機=全人類』

ですよ。

投稿: ユウ | 2015年7月 9日 (木) 13時39分

ユウ 様

お久しぶりです。
まだ、暴れていたんですね。

高森先生や親鸞会を擁護して楽しいですか?
虚しくなりませんか?

ユウさんは「一体いつになったら自分の勘違いに気が付くんですか?

『煩悩に汚されていて、清浄の心なく、真実の心もない=逆謗=真実の機=全人類』
とは、親鸞聖人は仰っていませんが。

以前に一口問答で書きました。

問い

親鸞聖人は「一切の群生海、無始より已来、乃至今日・今時に至るまで、穢悪汚染にして清浄の心無く、虚仮諂偽にして真実の心無し」(教行信証信巻)と説かれています。「一切の群生海」とは、全ての人のこと、「清浄の心無く、真実の心無し」とは、五逆・法謗の者ということではないですか。


答え

親鸞聖人は清浄心のことを『涅槃経』を引用されて「心もし有漏なるを名づけて不浄といふ。仏心は無漏なるがゆゑに大浄と名づく」(教行信証真仏土巻)と教えておられます。
また「煩悩具足の衆生は、もとより真実の心なし、清浄の心なし」(尊号真像銘文)と教えられています。
つまり、煩悩に穢された心を「清浄の心無く、真実の心無し」と仰ったのであって、五逆・謗法の意味は全くありません。仏語の意味を知らないだけです。

投稿: 飛雲 | 2015年7月 9日 (木) 13時44分

親を謗る者をば五逆の者と申すなり(末灯抄)

親を金属バットで殴り殺したりと世間では色んなニュースがありますが、
私たちも自分の親に対して怒ったり、邪魔だなあと思ったりしてますよね。

三毒の煩悩の一つに、怒りの心がありますが、
煩悩と五逆罪は無関係だと思っていますか?

私たちは死ぬまで煩悩具足の凡夫です。

投稿: ユウ | 2015年7月 9日 (木) 14時15分

同じく一口問答


問い

親鸞聖人は「善知識をおろかにおもひ、師をそしるものをば謗法のものと申すなり。おやをそしるものをば五逆のものと申すなり」(末灯鈔)と仰っていますから、全人類は五逆・謗法の者で、やっぱり必堕無間ではないですか。

答え

これも典型的な断章取義です。このお言葉の後に、「同座せざれと候ふなり。されば北の郡に候ひし善証房は、おやをのり、善信をやうやうにそしり候ひしかば、ちかづきむつまじくおもひ候はで、ちかづけず候ひき。」とあります。どのように読んでも、善証房のような五逆・謗法を造っている者に近付いてはならない、ということで、お手紙を受け取った関東の同行は、五逆・謗法の者ではないという前提です。


問い

では「善知識をおろかにおもひ、師をそしるものをば謗法のものと申すなり。おやをそしるものをば五逆のものと申すなり」(末灯鈔)は、間違っているというのですか。

答え

この後の「同座せざれ」を無視して解釈するするからおかしくなるのです。五逆罪・謗法罪が親鸞会の説明通りなら、親、兄弟、配偶者、子供、職場の同僚などとも、親しくしてはならず、同行同士集まることも、善知識、師に近付くことも禁じられたことになります。親鸞聖人は、一家離散、引き籠り、隠遁生活を勧められたことになり、会を作って多くの人が集まる法話や会合などもっての外ということでが、それが正しい解釈ですか。


問い

全人類が五逆謗法の者ということではないという確かなお聖教上の根拠でもあるというのですか。

答え

謗法罪については、「聖人常陸国にして専修念仏の義をひろめたまふに、おほよそ疑謗の輩は少なく、信順の族はおほし」(御伝鈔)とあります。
五逆罪については、「われら罪業おもしといふとも五逆をばつくらず」(唯信鈔)などです。この文は、法然上人が仰ったことを書かれたものですし、『唯信鈔』は親鸞聖人が自ら何度も書写されて同行に読むように勧められた書ですから、法然上人、親鸞聖人のお言葉でもあります。


問い

外見上は信順していても、心の底では信じ切れていないから、謗法罪を造っていることになるのではないですか。

答え

親鸞聖人は、曇鸞大師の『浄土論註』を引用して説明されています。「もし無仏・無仏法・無菩薩・無菩薩法といはん。かくのごときらの見をもつて、もしは心にみづから解り、もしは他に従ひてその心を受けて決定するを、みな誹謗正法と名づくと」(教行信証信巻)
謗法罪とは、仏の存在、仏の教え自体を根底から否定し、もちろん他人にもそれを言うことです。
そんな謗法の者が救われるかどうかについて「ただ正法を誹謗せしめて、さらに余の罪なしといへども、かならず生ずることを得じ」(同)と、謗法の者が救われることはないと断言されています。全人類が謗法の者なら、誰一人救われることはありません。


問い

謗法の者を救うというのが、阿弥陀仏の本願ではないですか。

答え

このことを親鸞聖人は、善導大師の『法事讃』を引用されて「謗法・闡提、回心すればみな往く」(教行信証信巻)と教えられました。謗法と闡提の者は、心を改めて、仏法を信じるようになったならば救われる、ということです。謗法と闡提のまま救われるのではありません。
ここからも、謗法の者と謗法でない者がいるというのが浄土仏教の常識と判ります。


問い

阿弥陀仏は全人類を「唯除五逆誹謗正法」と見抜かれているではないですか。

答え

嘘です。そのようなことを釈尊も七高僧方も親鸞聖人も蓮如上人も仰っていません。親鸞聖人は「五逆のつみびとをきらひ、誹謗のおもきとがをしらせんとなり。このふたつの罪のおもきことをしめして、十方一切の衆生みなもれず往生すべしとしらせんとなり。」 (尊号真像銘文)と、五逆の者も、そして謗法の者でさえも結局は漏らさずに救われる、としか教えられていません。
高森会長が、大沼法竜師の著書を盗作しただけです。


問い

仏教では心を重視するから、心で親を殺せば、五逆罪になるのではないですか。

答え

親鸞聖人は五逆罪の説明を「ことさらに思うて父を殺す」「ことさらに思うて母を殺す(教行信証信巻)とあります。単に「殺す」のではなく、「ことさらに思うて」なのです。つまり、強い意志をもって親を実際に殺すことを五逆罪というのであって、過失で殺したことでも五逆罪とはいいません。仏教で心を重視するとは、こういうことです。


問い

「もとより罪体の凡夫、大小を論ぜず、三業みな罪にあらずといふことなし」(口伝鈔)と教えられているように、心で造った悪も重罪になるのではないですか。

答え

軽重関係なく三業で罪を造っているのが凡夫ということですが、三業の関係について親鸞聖人は『涅槃経』を引用して教えておられます。
「一切衆生の所作の罪業におほよそ二種あり。一つには軽、二つには重なり。もし心と口とに作るはすなはち名づけて軽とす。身と口と心とに作るはすなはち名づけて重とす。」(教行信証信巻) 心と口との両方で造る罪は軽く、心と口と身との三つで造る罪は重い、ということです。ましてや、心で思っただけで重罪になるとは、何教の話でしょうか。

投稿: 飛雲 | 2015年7月 9日 (木) 14時19分

飛雲氏は、
この先どうやって二種深信(金剛心)が立って、
生きているときに往生一定の大安心・大満足の身になりますか?

投稿: ユウ | 2015年7月 9日 (木) 14時38分

ご心配いただかなくても、すでに二種深信の身となっています。

私の心配よりも、御自身の心配をなされた方が宜しいかと思います。

まずは、高森邪義を根こそぎ、捨て去ってください。そうしないと永久に出離できません。

投稿: 飛雲 | 2015年7月 9日 (木) 14時41分

どういう過程で、その境地に至りましたか?
何が知らされましたか?

これからも高森先生や親鸞会を誹謗し続けますか?

それがあなたの生き甲斐ですか?

投稿: ユウ | 2015年7月 9日 (木) 14時46分

親鸞会の間違いを知らされ、高森会長と決別し、19願を捨て20願を捨てて18願一つと心が定まってですね。

知らされたのは、高森会長の言っていることと親鸞聖人の教えとは正反対ということです。

私は親鸞聖人の教えを伝え続けます。そのことイコール高森会長と親鸞会の否定になりますから、結果的に誹謗と言ってもいいです。

それが私の使命だと思っています。

投稿: 飛雲 | 2015年7月 9日 (木) 14時49分

クリスさん、ユウさん

法論するなら自分の後生と皆さんの後生の為に真剣にやって頂きたいと思います。

名聞利養勝他の議論なら親鸞会の恥になるだけです。

投稿: | 2015年7月 9日 (木) 15時00分

>ご心配いただかなくても、すでに二種深信の身となっています。

「浄土往生のために善の実践は必要ない」
「19願、20願は方便の教えだから必要ない
18願だけでいい」
「全人類には善人と悪人がいる」

上記は、二種深信が立っている人がとても言えることではありません。

他にもおかしいところはたくさんありますが、
主に親鸞聖人の「雑行」と「悪人正機」を誤解し、持ってくる根拠の解釈も軽薄であり、仏教がおかしくなるんです。

飛雲氏、一体いつまで難しい根拠を並べて、都合の良いように解釈して煙を巻いて誤魔化し続けるんですか?
その場しのぎの理屈にしかなっていませんよ。

法論しても、あなたは都合のよい根拠を持ってきて、都合のよいように理屈を並べて解釈して論点をずらして煙を巻き続ける。

だから相手にすると時間がかかるので誰からも相手にされないんですよ。

投稿: ユウ | 2015年7月 9日 (木) 15時38分

「出来てないぞ」という意味で書いたのでは無く、是非今後もそうして欲しい、ということです。

投稿: | 2015年7月 9日 (木) 15時39分

いつもの負け犬の遠吠えですね。

>「浄土往生のために善の実践は必要ない」
>「19願、20願は方便の教えだから必要ない
18願だけでいい」
>「全人類には善人と悪人がいる」

>上記は、二種深信が立っている人がとても言えることではありません。

善知識方、皆さん口をそろえて仰っていますが。


>主に親鸞聖人の「雑行」と「悪人正機」を誤解し、持ってくる根拠の解釈も軽薄であり、仏教がおかしくなるんです。

では重厚な解釈を根拠に基づいてしてください。
根拠のない妄想は、高森会長の得意とするところですが、根拠をつけろと言うと、たちまちしどろもどろになっていますよ。

>飛雲氏、一体いつまで難しい根拠を並べて、都合の良いように解釈して煙を巻いて誤魔化し続けるんですか?
>その場しのぎの理屈にしかなっていませんよ。

たとえばどこでしょうか?
全人類が逆謗の屍と仰った親鸞聖人のお言葉が見つかりましたか?
ないのに、その場しのぎの理屈を捏ねているのは、親鸞会ですが。

>法論しても、あなたは都合のよい根拠を持ってきて、都合のよいように理屈を並べて解釈して論点をずらして煙を巻き続ける。

>だから相手にすると時間がかかるので誰からも相手にされないんですよ。

いつ論点をずらしたでしょうか?

逆謗の根拠をたくさん挙げているのは私、挙げていないで理屈を捏ねている、もしくは断章取義しているのがあなた。
相手にされないのではなく、太刀打ちできないということですよね。

カブトムシさん、クリスさん、ユウさんと束になってかかってきてもらっても結構です。
会長直々が望ましいですが、講師部員全員とでも法論しますので、遠慮なく仰ってください。

投稿: 飛雲 | 2015年7月 9日 (木) 15時48分

いつもの14項目

1.獲信していない人の死後はどうなるか

親鸞聖人 六道輪廻(19願・20願の同行は化土往生)
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高森会長 必堕無間

2.五逆罪・謗法罪について

親鸞聖人 造っている人と造っていない人がいる
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高森会長 造っていない人はいない、全ての人は生まれながらに造っている

3.善人と悪人について

親鸞聖人 善人と悪人とがいる
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高森会長 善人はいない、すべての人は悪人である

4.獲信のために善は必要か

親鸞聖人 念仏1つ、獲信に善は不要
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高森会長 善をしなければ絶対に獲信できない

5.白道とは

親鸞聖人 自力の心にあらず
- - - - - - - - - - - - - -
高森会長 自力

6.定散二善について

親鸞聖人 定散二善を捨てよ
- - - - - - - - - - - - - -
高森会長 定散二善をせよ

7.19願について

親鸞聖人 19願を捨てよ
- - - - - - - - - - - - - -
高森会長 19願を実践せよ

8.宿善について

親鸞聖人 過去世の善根の厚薄と、往生・獲信とは関係ない
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高森会長 過去世の善根の薄い者が、そのままで往生・獲信することはありえない

9.機の深信について

親鸞聖人 自力では出離できない
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高森会長 逆謗の屍と必ず知らされる

10.法の深信について

親鸞聖人 往生ほどの一大事、凡夫のはからふべきことにあらず
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高森会長 浄土往生が火に触ったよりも明らかに知らされる


11.善知識に無条件服従しなければならないか

親鸞聖人 法に従うのであって、人に従うのではない
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高森会長 善知識に無条件服従せよ

12.因果の道理について

親鸞聖人 罪福の因果を信じることは自力・仏智不思議を疑う心
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高森会長 因果の道理を深信しなければならない

13.三願転入について

親鸞聖人 聖道門の人を浄土門に導く方便が19願であり、19願の勧めはない
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高森会長 全人類は19願から始めなければならない

14.「一向専念無量寿仏」について

親鸞聖人 諸善を廃して念仏1つになること
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高森会長 阿弥陀仏1仏に向かって諸善をすることも含む

『歎異抄』について

第1章

1.「ただ信心を要とす」の「信心」とは

親鸞聖人 「ただ念仏で往生できる」と信じた心
----------------------------------
高森会長 「助かった」とハッキリした心

2.「本願を信ぜんには他の善も要にあらず」とは

親鸞聖人 本願に救われるには善は不要
----------------------------------
高森会長 救われたなら善は不要だが、救われる前には善が勧められている

3.「悪をもおそるべからず」とは

親鸞聖人 本願に救われるのに、悪が妨げになることはない
----------------------------------
高森会長 悪を恐れ不安になるのは、地獄一定の悪人と知らされていないからだ

第2章

4.「ただ念仏して」の「ただ」とは

親鸞聖人 念仏一行
-----------
高森会長 びっくり仰天

5.「総じてもつて存知せざるなり」とは

親鸞聖人 念仏が浄土に生れる因なのか地獄に行く因なのかを知る智慧を持っていない
----------------------------------
高森会長 知り過ぎた知らん

6.「弥陀の本願まことにおわしまさば」は仮定か断定か

親鸞聖人 仮定
--------
高森会長 断定

第3章

7.「善人なほもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや」とは

親鸞聖人 善人ではなく悪人のために18願を建てられた
----------------------------------
高森会長 「悪人」とは、全人類のことであり、「人間」の代名詞にほかならない

投稿: 飛雲 | 2015年7月 9日 (木) 15時52分

なんだかコメント欄が盛り上がってきましたね。

以下に再び引用します。


十八願真実からは我々の諸善万行は棄て物ですが、真実を素直に受持する者は十方衆生に一人もいないと、弥陀が五劫思惟で見抜かれて真実十八願へ導入するために建立されたのが、十九、二十の弥陀の本願なのだと、親鸞聖人は教えられています。

阿弥陀仏やお釈迦さまは、ある時は父となり母となり、種々に善巧方便して、何とかその「悪い心」を「悪い心」と知らせ捨てさせて、我らに無上の信心を発起させ出世の本懐遂げさせようと、ご辛労をなされているのです。

●『釈迦 弥陀は 慈悲の父母
 種々に善巧方便し
 われらが無上の信心を
 発起せしめたまいけり』 (高僧和讃)

強情我慢で自惚れ強く、自力の執着から離れ切れず、流転を重ねる私たちに、できるかできぬかやってみよ、気の済むまでやってみよ(十九・二十の随他意の願)。
 できないままを、無条件で救い摂る(十八の随自意の願)のが、阿弥陀仏の御心なのです。

教行信証化土巻には、

『観経』の定散の諸機は、極重悪人、ただ弥陀を称せよと勧励したまへるなり。濁世の道俗、よくみづからおのれが能を思量せよとなり、知るべし。

19願の対機である「定散の諸機」については、「ただ弥陀を称せよと勧励したまへるなり」で、
「よくみづからおのれが能を思量せよ」は、自分の能力をよくわきまえろってことです。

大事なので何度も言いますが、

強情我慢で自惚れ強く、自力の執着から離れ切れず、流転を重ねる私たちに、できるかできぬかやってみよ、気の済むまでやってみよ(十九・二十の随他意の願)。
 できないままを、無条件で救い摂る(十八の随自意の願)のが、阿弥陀仏の御心なのですからね。


●「定散自力の称名は
 果遂のちかひに帰してこそ(19願から20願に転入してこそ)
 をしへざれども自然に
 真如の門に転入する」

●極悪深重の衆生(真剣に善に励んで、真実の善のできない極悪人と知らされた人=19願を実践した人)は
 他の方便さらになし
 ひとへに弥陀を称してぞ
 浄土にうまるとのべたまふ

ではないでしょうか。

法然上人は『選択本願念仏集』で、

「いはく諸行は廃せんがために説く、念仏は立せんがために説く。」

これは19願から20願に転入しなさいということで、

念仏はこれ本願の行なり。諸行はこれ本願にあらずです。

投稿: クリス | 2015年7月 9日 (木) 16時14分

さらに引用させて頂きます。

また、「八万四千の法門は、みなこれ浄土の方便の善なり」(一念多念証文)の親鸞聖人の卓見に感服せずにはおれません。

●如来所以興出於世 ・欲拯群萌 ・恵以真実之利」
 とのたまえり。
  この文の意は、「如来」と申すは諸仏を申すなり。
「所以」はゆえという語なり。
「興出於世」というは仏のよにいでたまうと申すなり。
「欲」はおぼしめすと申すなり。
「拯」はすくうという。
「群萌」はよろずの衆生という。
「恵」はめぐむと申す。
「真実之利」と申すは弥陀の誓願を申すなり。
  然れば諸仏の世々に出でたまう故は、弥陀の願力を説きて、よろずの衆生をめぐみすくわんと思召すを本懐とせんとしたまうが故に、「真実之利」とは申すなり。然ればこれを「諸仏出世の直説」と申すなり。
  凡そ八万四千の法門はみなこれ浄土の方便の善なり、これを「要門」という、これを「仮門」と名けたり。この要門・仮門というは、すなわち『無量寿仏観経』一部に説きたまえる定善・散善これなり。定善は十三観なり、散善は三福・九品の諸善なり。これみな浄土方便の要門なり、これを仮門ともいう。この要門・仮門よりもろもろの衆生を勧めこしらえて、本願一乗・円融無碍・真実功徳大宝海に教えすすめ入れたまうが故に、よろずの自力の善業をば「方便の門」と申すなり。(一念多念証文)


唯一真実の経典である『大無量寿経』の冒頭に、釈尊は自らの出世本懐を、こう告白されています。

●「如来、世に出興する所以(ゆえん)は道教を光闡し、群萌(ぐんもう)を拯(すく)い恵むに真実の利を以てせんと欲してなり」 (上巻) 

 このご文を、親鸞聖人が解説なされたのが、この『一念多念証文』のお言葉です。

「『真実之利』と申すは弥陀の誓願を申すなり」と明かされ、釈迦如来はじめ諸仏が世に出られた目的は、本師本仏の阿弥陀仏の本願一つを説かんがためである、と断言されています。

高校時代、日本史の教科書で親鸞聖人はじめ、空海や最澄など開祖の名や、薬師寺、永平寺など数々の寺の名前を目にして、仏教といってもいろいろあるように思っていました。
しかし、
「聖道門」「浄土門」といわれるが、釈迦の真意は弥陀の本願ただ一つ。二つあるはずがありません。

●「聖道権仮の方便に
 衆生ひさしくとどまりて
 諸有に流転の身とぞなる
 悲願の一乗帰命せよ」

一般には、仏教に「聖道門」と「浄土門」の二つがあると言われています。
「聖道門」といわれるのは、天台宗、真言宗、禅宗など、自力で修行に励み、さとりを開こうとする仏教です。
「浄土門」とは、阿弥陀仏の救いを説く仏教です。
しかし実は、「聖道門」とは、後世の人たちに間違って解釈された仏教で、本来の仏教に「聖道門」も「浄土門」もありません。

弥陀の救いに導くための方便、すなわち"通過点"の教えを、"終点"と誤解したのが「聖道門仏教」と言われるものなのです。
お釈迦さまの真意は、弥陀の本願(18願)ただ一つです。

投稿: クリス | 2015年7月 9日 (木) 16時19分

>十八願真実からは我々の諸善万行は棄て物ですが、真実を素直に受持する者は十方衆生に一人もいないと、弥陀が五劫思惟で見抜かれて真実十八願へ導入するために建立されたのが、十九、二十の弥陀の本願なのだと、親鸞聖人は教えられています。

教えられていません。


>阿弥陀仏やお釈迦さまは、ある時は父となり母となり、種々に善巧方便して、何とかその「悪い心」を「悪い心」と知らせ捨てさせて、我らに無上の信心を発起させ出世の本懐遂げさせようと、ご辛労をなされているのです。

>●『釈迦 弥陀は 慈悲の父母
> 種々に善巧方便し
> われらが無上の信心を
> 発起せしめたまいけり』 (高僧和讃)

>強情我慢で自惚れ強く、自力の執着から離れ切れず、流転を重ねる私たちに、できるかできぬかやってみよ、気の済むまでやってみよ(十九・二十の随他意の願)。
> できないままを、無条件で救い摂る(十八の随自意の願)のが、阿弥陀仏の御心なのです。

完全な妄想です。

問い

蓮如上人は、「方便をわろしといふことはあるまじきなり。方便をもつて真実をあらはす廃立の義よくよくしるべし。弥陀・釈迦・善知識の善巧方便によりて、真実の信をばうることなるよし仰せられ候ふ」(御一代記聞書)と仰っているように、方便からしか真実に入れず、でしょう。それなのに、念仏が方便とは呆れます。

答え

方便の理解が根本的におかしいですね。蓮如上人が仰っていることは、権仮方便を捨て善巧方便を立て、善巧方便によって真実の信を獲られる、ということです。
善巧方便とは、「信方便易行をもつて疾く阿惟越致に至る」(十住毘婆沙論)とあるように、18願他力念仏のことです。親鸞聖人も18願他力念仏について解説なされた『教行信証』信巻で「真心を開闡することは、大聖矜哀の善巧より顕彰せり」と仰ってます。
権仮方便とは、「浄土の要門、方便権仮を顕開す」(教行信証化土巻)とあるように、19願定散二善のことです。
あなたの言葉を正しく修正するなら、善巧方便の念仏からしか真実報土には往けず、ということです。


>大事なので何度も言いますが、

>強情我慢で自惚れ強く、自力の執着から離れ切れず、流転を重ねる私たちに、できるかできぬかやってみよ、気の済むまでやってみよ(十九・二十の随他意の願)。
> できないままを、無条件で救い摂る(十八の随自意の願)のが、阿弥陀仏の御心なのですからね。

誰もそんなことを仰っていません。できるかできぬかやってみよと仰った親鸞聖人のお言葉を出してから言いましょう。


>●極悪深重の衆生(真剣に善に励んで、真実の善のできない極悪人と知らされた人=19願を実践した人)は
> 他の方便さらになし
> ひとへに弥陀を称してぞ
> 浄土にうまるとのべたまふ

>ではないでしょうか。

全く違います。
この元は『往生要集』で、その大元は『観無量寿経』です。
『観無量寿経』の下品下生のことを「極悪深重の衆生」と仰っているのであって、上品や中生は全く関係ない話です。
智覚禅師は、上品上生の方であったと親鸞聖人も仰っていますから、智覚禅師は「真剣に善に励んで、真実の善のできない極悪人と知らされた人」ではなく、行福のできた人、と自分でも知らされたということです。

妄想以外の何物でもありません。


>法然上人は『選択本願念仏集』で、

>「いはく諸行は廃せんがために説く、念仏は立せんがために説く。」

>これは19願から20願に転入しなさいということで、

>念仏はこれ本願の行なり。諸行はこれ本願にあらずです。

これも妄想ですね。
19願から18願に転入しなさいです。法然上人は20願についての言及自体がないです。もちろん、19願は最初から捨ててで、19願を実践してなど仰る訳がないです。
もし19願の実践を仰っていたなら、承元の法難もなかったです。
聖道門が激怒した原因が、法然上人が19願を無視されたからですよ。

投稿: 飛雲 | 2015年7月 9日 (木) 16時30分

以下の文を「聖道門で偽、虚なる人のために説かれた」と解釈するのはとんでもない間違いですから気を付けてください。

「九十五種の邪道を出でて、半満・権実の法門に入った偽、虚なる人」ですから、飛雲さんも含まれるのではないでしょうか?
なぜなら、半満・権実の法門の中の満字教(浄土真宗)を飛雲さんは信じているので。
しかし、「真なるものははなはだもつて難く、実なるものははなはだもつて希なり。偽なるものははなはだもつて多く、虚なるものははなはだもつて滋し」
であるので、釈迦はそんな人たちを真実の18願へ導くために、19願を説かれたのではないでしょうか。

●しかるに濁世の群萌、穢悪の含識、いまし九十五種の邪道を出でて、半満・権実の法門に入るといへども、真なるものははなはだもつて難く、実なるものははなはだもつて希なり。偽なるものははなはだもつて多く、虚なるものははなはだもつて滋し。
ここを以て、釈迦むに仏、福徳蔵(19願)を顕説して群生海(すべての人)を誘引し、阿弥陀如来、本、誓願を発して普く諸有海(すべての人)を化したまう。既にして悲願有す、「修諸功徳の願」(19願)と名づく(教行信証化身土巻)

そんな19願を親鸞聖人は、
●「万行諸善の小路(十九願)より
 本願一実の大道(十八願)に
 帰入しぬれば涅槃の
 さとりはすなわちひらくなり」(高僧和讃)

と仰り、一念多念証文で、

●如来所以興出於世 ・欲拯群萌 ・恵以真実之利」
 とのたまえり。
  この文の意は、「如来」と申すは諸仏を申すなり。
「所以」はゆえという語なり。
「興出於世」というは仏のよにいでたまうと申すなり。
「欲」はおぼしめすと申すなり。
「拯」はすくうという。
「群萌」はよろずの衆生という。
「恵」はめぐむと申す。
「真実之利」と申すは弥陀の誓願を申すなり。
  然れば諸仏の世々に出でたまう故は、弥陀の願力を説きて、よろずの衆生をめぐみすくわんと思召すを本懐とせんとしたまうが故に、「真実之利」とは申すなり。然ればこれを「諸仏出世の直説」と申すなり。
  凡そ八万四千の法門はみなこれ浄土の方便の善なり、これを「要門」という、これを「仮門」と名けたり。この要門・仮門というは、すなわち『無量寿仏観経』一部に説きたまえる定善・散善これなり。定善は十三観なり、散善は三福・九品の諸善なり。これみな浄土方便の要門なり、これを仮門ともいう。この要門・仮門よりもろもろの衆生を勧めこしらえて、本願一乗・円融無碍・真実功徳大宝海に教えすすめ入れたまうが故に、よろずの自力の善業をば「方便の門」と申すなり。(一念多念証文)

と、飛雲さんはに対して定散諸機(弥陀の救いを求めて真剣に善を実践する人)になって、18願へ進むように仰ったのではないでしょうか

投稿: クリス | 2015年7月 9日 (木) 16時42分

すいません。

「飛雲さんはに対して定散諸機(弥陀の救いを求めて真剣に善を実践する人)になって」

ではなく、

「飛雲さんはに対して定散諸機(弥陀の救いを求めて真剣に善を実践する人=19願の実践)になるように勧めて、」

でした。

投稿: クリス | 2015年7月 9日 (木) 16時44分

>一般には、仏教に「聖道門」と「浄土門」の二つがあると言われています。
>「聖道門」といわれるのは、天台宗、真言宗、禅宗など、自力で修行に励み、さとりを開こうとする仏教です。
>「浄土門」とは、阿弥陀仏の救いを説く仏教です。
>しかし実は、「聖道門」とは、後世の人たちに間違って解釈された仏教で、本来の仏教に「聖道門」も「浄土門」もありません。

>弥陀の救いに導くための方便、すなわち"通過点"の教えを、"終点"と誤解したのが「聖道門仏教」と言われるものなのです。
>お釈迦さまの真意は、弥陀の本願(18願)ただ一つです。

勝手なことを言われていますが、親鸞聖人は化土巻で


まことに知んぬ、聖道の諸教は在世・正法のためにして、まつたく像末・法滅の時機にあらず。すでに時を失し機に乖けるなり。浄土真宗は在世・正法・像末・法滅、濁悪の群萌、斉しく悲引したまふをや。


と仰ってますよ。「聖道の諸教は在世・正法のためにして」

投稿: 飛雲 | 2015年7月 9日 (木) 16時45分

>「九十五種の邪道を出でて、半満・権実の法門に入った偽、虚なる人」ですから、飛雲さんも含まれるのではないでしょうか?
>なぜなら、半満・権実の法門の中の満字教(浄土真宗)を飛雲さんは信じているので。

信じていません。勝手な妄想はやめましょう。


>そんな19願を親鸞聖人は、
>●「万行諸善の小路(十九願)より
> 本願一実の大道(十八願)に
> 帰入しぬれば涅槃の
> さとりはすなわちひらくなり」(高僧和讃)

「万行諸善の小路」は聖道門です。

>飛雲さんはに対して定散諸機(弥陀の救いを求めて真剣に善を実践する人=19願の実践)になるように勧めて、

全くの勘違いです。もう一度書きましょうか。


問い

親鸞聖人は、「臨終現前の願により 釈迦は諸善をことごとく 『観経』一部にあらはして 定散諸機をすすめけり」(浄土和讃)と仰っています。釈尊は『観無量寿経』を通して、獲信のために諸善を全ての人に勧められている、と親鸞聖人は教えられているではないですか。

答え
しっかり読んでください。「定散諸機をすすめけり」です。定散諸機に対して諸善を勧められた、と仰っているのですが、何を勘違いしているのですか。何度も言ってきたように、逆悪の機に対する定散諸機です。
法然上人の「善人をすすめ給へる所をば善人の分と見、悪人を勧め給へる所をば我分と見て」(勅修御伝)、存覚上人の「上根の機には諸行を授け、下根の機には念仏をすすむ。」(持名鈔)と同じことを親鸞聖人が仰った根拠です。

問い

「定散諸機をすすめけり」であって、「定散諸機にすすめけり」ではありません。「定散諸機をすすめけり」とは、定散諸機になるように勧められた、ということで、獲信のために全ての人に善を勧められたのではないですか。

答え
同じ『浄土和讃』に「至心・信楽・欲生と 十方諸有をすすめてぞ」とあります。あなたの理屈ならば、十方諸有になるように勧められた、となりますが、よろしいですか。まずは古文の勉強をしましょう。
なお、下輩である逆悪の機について善導大師は、「仏法・世俗の二種の善根あることなし。ただ悪を作ることを知るのみ。」(観無量寿経疏)と定義されています。「善根あることなし」ですから、定散諸機になれない者が逆悪の機です。

投稿: 飛雲 | 2015年7月 9日 (木) 16時51分

>「九十五種の邪道を出でて、半満・権実の法門に入った偽、虚なる人」ですから、飛雲さんも含まれるのではないでしょうか?
>なぜなら、半満・権実の法門の中の満字教(浄土真宗)を飛雲さんは信じているので。

信じていません。勝手な妄想はやめましょう。


飛雲さんは、外道(日蓮宗でもキリスト教)でもなく、
親鸞聖人の教え=浄土真宗の人ではないんですか。

「半満・権実の法門」とは、半字教(小乗仏教)、満字教(大乗仏教)、権教(釈迦の方便の教え)、実教(釈迦の真実の教え)のこと、つまりは聖道門と浄土門のことではないのですか?

投稿: クリス | 2015年7月 9日 (木) 17時19分

「半満・権実の法門」を聖道門だけに限定するのはおかしくないですか?

投稿: クリス | 2015年7月 9日 (木) 17時20分

>「半満・権実の法門」を聖道門だけに限定するのはおかしくないですか?

おかしくないです。
これは天台宗の教学です。

投稿: 飛雲 | 2015年7月 9日 (木) 17時24分

仮に、「半満・権実の法門」が聖道門だけならば、
その聖道門の中の「天台宗」の教学を信じて、

「半満・権実の法門」は聖道門だけである。

と主張している飛雲さんは聖道門を信じている人になりますが。

そんなあなたのために19願が勧められているのではないでしょうか?

投稿: クリス | 2015年7月 9日 (木) 17時35分

>「半満・権実の法門」は聖道門だけである。

と親鸞聖人が信じて使っておられるので、

>と主張している飛雲さんは聖道門を信じている人になりますが。

なりません。

愚かな質問です。

投稿: 飛雲 | 2015年7月 9日 (木) 17時37分

>「半満・権実の法門」は聖道門だけである。

と天台宗の教学信じて使っておられる親鸞聖人は、

聖道門ですか?浄土門ですか?

一般には、仏教に「聖道門」と「浄土門」の二つがあると言われていますが、

「半満・権実の法門」とは、釈迦の教えを4つに大別したもので、
半字教(小乗仏教)、満字教(大乗仏教)、権教(釈迦の方便の教え)、実教(釈迦の真実の教え)のこと、つまりは聖道門と浄土門のことではないのですか?

投稿: クリス | 2015年7月 9日 (木) 18時05分

ここで飛雲さんが、「半満・権実の法門」に含まれることになれば、

今までの主張がすべてひっくり返ることになり、

親鸞会への誹謗が全く愚かであったということになります。

投稿: クリス | 2015年7月 9日 (木) 18時09分

実に愚かな理屈です。

まず、天台教学では聖道門浄土門と分けることはしません。
浄土門というものはないという立場です。

その上で、親鸞聖人は、浄土門を聖道門とは別と定義なされている訳です。

従って、聖道門の人が親鸞聖人のこの御文を読めば、聖道門の修行をしている人のことを指すというのが、常識としてあるわけですよ。

その上で、親鸞聖人は、「真なるものははなはだもつて難く、実なるものははなはだもつて希なり。偽なるものははなはだもつて多く、虚なるものははなはだもつて滋し。」と仰っているので、聖道門の中でこうだという話です。
この親鸞聖人の思想の根本にあるのが、

法然上人の『西方指南抄』(親鸞聖人御真筆)に

第十九の願は、諸行之人を引入して、念仏の願に帰せしむと也。

とあることです。法然上人が仰ったことは、「諸行之人」です。「無行之人」ではないです。

また親鸞聖人が間違いない人と尊敬されていた隆寛律師は

先師律師つねにのたまはく、隆寛こそ十九願の機よ。其故は、本と円宗の菩提心を発して、聖道の出離を期せしほどに、末法に生をうけたる身、涯分をしる故に、聖道の出離の叶ふまじきいはれを心得て、浄土門に入れるなり。

と言われていたと弟子の記した『広疑瑞決集』にあります。隆寛律師御自身の体験から、聖道門から浄土門に入ることができたのは、19願の権仮方便によるものと味わわれたのです。

更には、大経の異訳経に

『大無量寿経』19願の「十方衆生」
=『平等覚経』18願の「諸佛國人民有作菩薩道者」
=『大阿弥陀経』7願の「八方上下無央數佛國諸天人民若善男子善女人有作菩薩道」
=諸々の仏国土の菩薩の行を行う者

とあることから、こう仰ったわけですよ。

浄土門が含まれるというのは、妄想以外の何物でもないということ。

投稿: 飛雲 | 2015年7月 9日 (木) 18時29分

飛雲氏は、浄土門ですか?

投稿: ユウ | 2015年7月 9日 (木) 19時04分

浄土門です。

くだらない質問をする暇があれば、すべての人に19願が必要だと仰った根拠でも出してください。

投稿: 飛雲 | 2015年7月 9日 (木) 19時07分

>聖道門から浄土門に入ることができたのは、
19願の権仮方便によるものと味わわれたのです。

この通りなら、飛雲氏は19願したんですか?

投稿: ユウ | 2015年7月 9日 (木) 19時10分

天台宗の僧侶であった隆寛律師の話ですよ。
私は聖道門の修行はしていません。

まともな質問をしましょう。

投稿: 飛雲 | 2015年7月 9日 (木) 19時12分

半満・権実の法門」とは、釈迦の教えを4つに大別したものですか、違いますか?

投稿: ユウ | 2015年7月 9日 (木) 19時45分

違います。3つです。

学問的な知識として一応述べておきます。

「半満」とは、半字教と満字教のことです。『涅槃経』に、子供に文字を教える時に、最初は半字を教えて、後で満字を教えるということから、釈尊もお弟子に半字教から満字教を教えていかれた、とあります。ここで、半字教は小乗教、満字教は大乗教という意味になります。
「権実」とは、権教と実教のことです。満字教(大乗教)の中で、権仮方便の教えと真実の教えとがあるということです。
「半満・権実」は、二双四重の教判でいえば、竪出・竪超のことです。
『教行信証』化土巻に

おほよそ一代の教について、この界のうちにして入聖得果するを聖道門と名づく、難行道といへり。この門のなかについて、大・小、漸・頓、一乗・二乗・三乗、権・実、顕・密、竪出・竪超あり。すなはちこれ自力、利他教化地、方便権門の道路なり。

(現代語訳)

 総じて釈尊が説かれた教えの中で、この世界で聖者となってさとりを得るのを聖道門といい、難行道という。この聖道門の中に、大乗と小乗、漸教と頓教、一乗と二乗と三乗、権教と実教、顕教と密教、竪出と竪超がある。これらはすべて自力の教えであり、衆生を真実に導くための、仮の手だてとして説かれた教えである。

あり、この「半満・権実」が「大・小、漸・頓、一乗・二乗・三乗、権・実、顕・密、竪出・竪超」です。

『愚禿鈔』では

一には大乗の教、二には小乗の教なり。
大乗教について、二教あり。
 一には頓教、        二には漸教なり。

難行聖道の実教なり。いはゆる仏心・真言・法華・華厳等の教なり。

難行道 聖道権教、法相等、歴劫修行の教なり。

小乗教について、二教あり。
 一には縁覚教    一に麟喩独覚、二に部行独覚。
 二には声聞教なり。 初果・預流向、第二果・一来向、第三果・不還向、
           第四果・阿羅漢向、八輩なり。

にあたります。

「権実」というと18願が実と思われるかもしれませんが、「難行聖道の実教」を指しています。従って、「半満・権実」で、聖道門のことを総称して仰っているのです。

投稿: 飛雲 | 2015年7月 9日 (木) 19時56分

ユウさん・クリスさん・カブトムシさん必死ですね。

でも、飛雲さんにかかると赤子の手を捻るがごとく簡単にあしらわれてますね。

どんなに頑張っても、親鸞会は飛雲さんの前に手も足もでませんね(笑)

投稿: クワガタ | 2015年7月 9日 (木) 19時59分

親鸞会の人は「難しい根拠」というけど、不勉強の証拠ではないでしょうか。
親鸞会の書籍以外の勉強を排斥しているから。
親鸞会が世界中に親鸞聖人の教えを伝えたいなら、広い仏教・思想の知識が必要だと思います。
親鸞会理論の押し付けでは、無知な人しか聞きません。

投稿: | 2015年7月 9日 (木) 20時07分

「半満・権実の法門」は聖道門だけです。

天台宗の教学を信じて、断言なされた親鸞聖人は、

聖道門ですか?浄土門ですか?

投稿: ユウ | 2015年7月 9日 (木) 20時38分

私は願行具足の南無阿弥陀仏と聞き、合点したので往生浄土のための善をしません。往生浄土のための善をしなければならないというのは願行具足の南無阿弥陀仏と合点していないからだと思います。往生浄土のための善を主張するのは個人の自由ですが、ご本人は果してまじめに善をしているのでしょうか。まじめに善をしないから、まだ19願にさえ、たどり着いていないと言われるのではありませんか。仏様のおっしゃる真実の善をご存知ですか。まじめに命がけで善をしてできなかったと知らされてまずは会長からやっと19願にたどり着いたと言われて下さい。あなたが今までやってきた善は悲しいかな、もしかして現在ゼロカウントですか。振り返って今までの活動は全て無意味ですか。本当に善をやろうとする気持ちがあるのなら早く命がけでやって下さい。時間がありませんよ。会長のみこころにかなう親鸞学徒に早くならないと人生終わりますよ。全ての人は三願転入の教えにしか救われないのならまずあなたがやるべきです。それが無理なら願行具足の南無阿弥陀仏を受け入れるべきです。

投稿: 愚愚流 | 2015年7月 9日 (木) 20時44分

かなり鈍いのでしょうね。

親鸞聖人は浄土門ですが、聖道門の人に判る言葉で説明をされたということですよ。天台宗出身の親鸞聖人が天台教学の分類を信じて使われたのであって、その時点でも天台宗を信じられていたのではないですよ。

言葉の挙げ足とりに必死でしょうが、そういうこと。

たとえば、キリスト教から仏教徒に変わった人が、キリスト教ではカトリックとプロテスタントがある、と言ったときに、その仏教徒がキリスト教を信じているというかという話ですよ。キリスト教ではそう聞いてきて分類を信じて言葉を使うのと、キリスト教を信じているのとは違うことくらいわからないですかね。

投稿: 飛雲 | 2015年7月 9日 (木) 20時45分

ユウさん・クリスさん・カブトムシさん

高森説教の受け売りで、お聖教を全部読んでないことがバレバレですね。

お聖教を読めるのは高森センセだけとは、高森だけの妄言です。

現代の高等教育を受けた人間なら、真宗のお聖教は全部原文で読めますよ。

あんたがた、そんな努力もしてないのかね。

献金する暇あったら、自分でお聖教くらい、全部読んだらどうですか。

投稿: カミキリ | 2015年7月 9日 (木) 20時45分

クリス氏の引用です。

●如来所以興出於世 ・欲拯群萌 ・恵以真実之利」
 とのたまえり。
  この文の意は、「如来」と申すは諸仏を申すなり。
「所以」はゆえという語なり。
「興出於世」というは仏のよにいでたまうと申すなり。
「欲」はおぼしめすと申すなり。
「拯」はすくうという。
「群萌」はよろずの衆生という。
「恵」はめぐむと申す。
「真実之利」と申すは弥陀の誓願を申すなり。
  然れば諸仏の世々に出でたまう故は、弥陀の願力を説きて、よろずの衆生をめぐみすくわんと思召すを本懐とせんとしたまうが故に、「真実之利」とは申すなり。然ればこれを「諸仏出世の直説」と申すなり。
  凡そ八万四千の法門はみなこれ浄土の方便の善なり、これを「要門」という、これを「仮門」と名けたり。この要門・仮門というは、すなわち『無量寿仏観経』一部に説きたまえる定善・散善これなり。定善は十三観なり、散善は三福・九品の諸善なり。これみな浄土方便の要門なり、これを仮門ともいう。この要門・仮門よりもろもろの衆生を勧めこしらえて、本願一乗・円融無碍・真実功徳大宝海に教えすすめ入れたまうが故に、よろずの自力の善業をば「方便の門」と申すなり。(一念多念証文)


唯一真実の経典である『大無量寿経』の冒頭に、釈尊は自らの出世本懐を、こう告白されています。

●「如来、世に出興する所以(ゆえん)は道教を光闡し、群萌(ぐんもう)を拯(すく)い恵むに真実の利を以てせんと欲してなり」 (上巻) 

 このご文を、親鸞聖人が解説なされたのが、この『一念多念証文』のお言葉です。

投稿: ユウ | 2015年7月 9日 (木) 21時03分

飛雲氏が、「半満・権実の法門」に含まれることになれば、

今までのあなたの主張がひっくり返りますよ。

投稿: ユウ | 2015年7月 9日 (木) 21時05分

だから何?

18願だけが真実ですよ。
このようにいうと、「じゃあ聖道門はどうなるんだ、19願は何なんだ」という人がいるから、
聖道門や19願は、真実に導くための方便で、無意味ではないのですよ。

こう仰っただけですが、それが全人類が善をしなければならない意味になるのですか?


「この要門・仮門よりもろもろの衆生を勧めこしらえて、本願一乗・円融無碍・真実功徳大宝海に教えすすめ入れたまう」は、
19願にいる人に対して19願から18願に入るように勧められた、ということであって、19願に入るように勧められたのではないですよ。

日本語のレクチャーまでしないといけないとは、情けないものですね。

投稿: 飛雲 | 2015年7月 9日 (木) 21時10分

>飛雲氏が、「半満・権実の法門」に含まれることになれば、

含まれないといったのが理解できないなら、小学校で勉強し直してきてください。

以下引用
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
>「九十五種の邪道を出でて、半満・権実の法門に入った偽、虚なる人」ですから、飛雲さんも含まれるのではないでしょうか?
>なぜなら、半満・権実の法門の中の満字教(浄土真宗)を飛雲さんは信じているので。

信じていません。勝手な妄想はやめましょう。
(後略)

投稿: 飛雲 | 2015年7月 9日 (木) 16時51分

投稿: 飛雲 | 2015年7月 9日 (木) 21時11分

今、飛雲氏は浄土門の人と言っていますが、

19願にいたのですか?

どこから真実に入りましたか?

投稿: ユウ | 2015年7月 9日 (木) 21時22分

日本語が理解できないのなら、小学校へ行ってください。

以下引用
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
ご心配いただかなくても、すでに二種深信の身となっています。

私の心配よりも、御自身の心配をなされた方が宜しいかと思います。

まずは、高森邪義を根こそぎ、捨て去ってください。そうしないと永久に出離できません。

投稿: 飛雲 | 2015年7月 9日 (木) 14時41分

どこから?

親鸞会と言う邪義から18願ですが。

投稿: 飛雲 | 2015年7月 9日 (木) 21時24分

会長はどこから 19願に入りましたか。20願はいつ入りましたか?(18願は華光の雑誌に会長自ら寄稿されているのを読みましたが。)全ての人が三願転入で助かるならにまずはそっちを教えてください。鮮やかな体験なら教えてください。

投稿: | 2015年7月 9日 (木) 21時28分

私の質問に答えてもらえますか?

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
『教行信証』には、三願転入せずして獲信した人のことが記されてますが、知らないのですか?

投稿: 飛雲 | 2015年7月 9日 (木) 11時18分

投稿: 飛雲 | 2015年7月 9日 (木) 21時28分

飛雲さんはユウさんたちの質問に答えています。
ユウさんたちも飛雲さんの質問に答えるべきでしょう。

投稿: | 2015年7月 9日 (木) 21時51分

>18願だけが真実ですよ。
このようにいうと、「じゃあ聖道門はどうなるんだ、19願は何なんだ」という人がいるから、
聖道門や19願は、真実に導くための方便で、無意味ではないのですよ。


無意味ではないなら、まずは真実へ導くための要門・仮門である19願にいる人になってから、18願へ導かれたらいかがでしょうか?

19願にいる人=善を実践する人

19願に入ってはいけませんよ、というならなぜ、要門・仮門と言われるのですか?

親鸞聖人は、19願を出て離れたと三願転入の御文で仰っておられますが、飛雲氏は19願以外のどこから真実に導かれましたか?

投稿: ユウ | 2015年7月 9日 (木) 22時01分

>「教行信証』には、三願転入せずして獲信した人のことが記されてますが、知らないのですか?

そんな人がいるのならば是非示して頂きたく思います。

投稿: ユウ | 2015年7月 9日 (木) 22時10分

私の質問は無視ですか?

親鸞聖人御自身は三願転入されたと仰っていますが、それ以外の方が三願転入されたとはどこを探しまわっても仰っていません。
三願転入が全人類共通の道だとは誰一人仰っていません。
根拠もなく高森会長が言っているだけです。

>無意味ではないなら、まずは真実へ導くための要門・仮門である19願にいる人になってから、18願へ導かれたらいかがでしょうか?

親鸞聖人が七高僧が、覚如上人が蓮如上人がこんなことを仰っていますか?
仰っていません。

それを邪義と言うのです。よみかたは、「じゃぎ」です。


要門・仮門ですか?

聖道門から浄土門へ入る境界の門ですから、かなめのもん、要門と名付けられ、かりのもんですから、仮門と名付けられた。

それが何か?

投稿: 飛雲 | 2015年7月 9日 (木) 22時11分

知らないとね。

『教行信証』の約一割、信巻の約四割も占めて、詳細に記されているのに、知らないとは、お笑いです。

阿闍世ですよ、阿闍世。あじゃせ。

韋提希の獲信の過程など、親鸞聖人の御著書のどこにも記されていませんが、阿闍世は別格で、詳細に記されています。

一度読んでみては如何ですか?

日本語が理解できないと読めないですから、理解できるとは思っていませんが、とりあえず100回読んでみてください。

そうしたら、レクチャーして差し上げますよ。

くだらないあなたの質問に今日一日付き合ってあげましたので、少しくらいは感謝してもらいたいものです。

100回読まないうちにコメントしてきても、削除しますので、ご了解くださいね。

投稿: 飛雲 | 2015年7月 9日 (木) 22時17分

ユウさんて、偉そうにコメントするのに、何も知らないみたいで、ぷっ(笑)

お聖教読んでから出直せって。

投稿: ぷっ | 2015年7月 9日 (木) 22時28分

>>そんな人がいるのならば是非示して頂きたく思います。

→アジャセ(即答)

ユウさん、まず飛雲さんにお礼を言いましょう。教示を受けたならお礼を言うことは恩返しになります。当然、善です。19願を信じる人、勧める人ならお礼を言いましょう。(日頃お礼状書いていますか?)言いたくなければ結構です。無理やり19願は勧めるものではありませんから。

投稿: | 2015年7月 9日 (木) 22時40分

飛雲氏、有り難うございました。

あなたのおかげで、親鸞会から逃げる人が親鸞聖人の教えをどのように誤解しているのかよく分かりました。
感謝しています。

あなたの間違いもよく分かりました。

最後に以下に質問させていただくので、よく考えてみてはいかがでしょうか?

>親鸞聖人御自身は三願転入されたと仰っていますが、それ以外の方が三願転入されたとはどこを探しまわっても仰っていません。

大嘘ですね。
蓮如上人の領解文を読まれたことはありますか?

あなたにとって「雑行」とは何ですか?

あなたは、19願以外のどこから真実に導かれましたか?導かれたいですか?

あなたは、親鸞聖人と同じ様に三願転入したいですか?

親鸞聖人と同じでは嫌ですか?

投稿: ユウ | 2015年7月 9日 (木) 23時31分

>>飛雲氏、有り難うございました。
あなたのおかげで、親鸞会から逃げる人が、、、

→心からお礼を言っているユウさんの言葉によると、多くの人が飛雲さんのブログによって脱会しているようです。たゆまぬ顕正、世界を変える!引き続き飛雲さん頑張って下さい。

投稿: | 2015年7月 9日 (木) 23時52分

アジャセが三願転入せずに救われたことには異論が無いようですな。

投稿: | 2015年7月10日 (金) 00時16分

「アジャセが三願転入せずに救われた」

『教行信証』の約一割、信巻の約四割も占めて、詳細に記されている中から

証拠を出してください。無理でしょうけどね。

また屁理屈を並べるつもりですか?

親鸞聖人と同じ様に三願転入したいですか?

親鸞聖人と同じ道程は嫌ですか?

投稿: クリス | 2015年7月10日 (金) 00時48分

最後の質問というからどれだけスゴい内容かと期待して読んだ私がアホだった。「有り難うございました」「感謝しています」と言ったユウさんからのお礼の言葉が本当なら、その前にユウさんは飛雲さんの質問に答えよう。お礼の言葉が嘘でなければそれが善意だ。嘘はだめだ。悪は止めよう。善をしよう。それが善のススメの教えだ。

投稿: | 2015年7月10日 (金) 01時00分

ユウ 様

やはり、『教行信証』を読まずにコメントですか。
あなたの理屈でも、七高僧、覚如上人は、三願転入されたとは仰っていないことが確定しました。
つまり、三願転入は全人類が必ず通る道程ではないということです。

蓮如上人も19願・20願について仰っていない訳ですから、話にならないのですが、聖道門を信じるな、神を信じるな、と仰ったら、聖道門を通った、神道をかつて信じてきたことになるのですかね。
雑行については、蓮如上人が本願寺8世になられるまでは、本願寺は天台宗の末寺扱いだったので、本願寺の本堂でも天台宗の本尊が安置されていたりしていた状態で、それを蓮如上人が「御流に背く本尊を風呂のたびごとに燃やされた」ということに繋がってくるのですよ。そして当時の浄土宗の影響も多々あり、19願20願云々ではなく、天台宗浄土宗排除が蓮如上人8世を継がれて最初の仕事のようなものだったのですね。それを、雑行雑修を振り捨ててと表現されたのですが。

そんなことを言っても理解できないでしょうけど、まずは阿闍世のところを100回読んできてください。阿闍世が三願転入していないことを理解できるまで、コメント禁止です。

愚問で荒しているだけですからね。

投稿: 飛雲 | 2015年7月10日 (金) 03時48分

クリス 様

私を質問攻めにしてきましたが、これまでのことで反論はなしということで決着ですね。「半満・権実の法門」も異論なし。

阿闍世のことですか?

簡単なことです。
信巻には阿闍世の詳細な話がある、化土巻には阿闍世の話はない。
つまり、阿闍世の獲信は信巻18願だけで、19願・20願は関係ないから化土巻には阿闍世の話はない。

日本語もろくにつかえないようですから、理解できないでしょうね。

あなたも阿闍世の所を100回読んでからコメントください。

それまではコメント禁止しておきます。単なる荒しですからね。

投稿: 飛雲 | 2015年7月10日 (金) 03時55分

知人が、「最近、親鸞会から脱会する人が増えてきた。」と言っていた。
私が在籍していた5年前に比べ、親鸞会は勢いがなくなっているらしいね。

ユウさんの滅茶苦茶なコメントを読んでいると、自分がなぜ親鸞会に騙されていたのかが理解できる。

親鸞会がいう19願の善とは、単なる人集め・金集めだということにもっと早く気付いていればなぁ~
まあ、私は、退会できたからいいか・・・

今回のやり取りで、又、退会者が増えることになるね。

三願転入の教義が破綻すると、親鸞会にお金も人も集まってこなくなるから皆さん必死なんだろうけど、こうも根拠が出せないと、高森教を妄信しているとしか思えないよね。


投稿: | 2015年7月10日 (金) 05時28分

クリスさん、ユイさん、心よりお礼申し上げます。
お二人のお陰で、親鸞会の間違いがよくわかりました。
高森先生が絶対正しい方だと信じ切ってきましたが、最近の執拗な財施要求に嫌気がさしていたところに、お二人のコメントで、高森先生は嘘をついていたことがはっきりしました。
これで親鸞会と決別できます。
もちろん、飛雲さんには大変感謝しております。

投稿: 疑学徒 | 2015年7月10日 (金) 08時30分

昨日は凄かったですね、親鸞会のアラシ。

ユウさんとクリスさんとカブトムシさんは、レベルが低すぎ~

といっても、会長も同レベルですけどね。

飛雲さんに論破されまくりで、ワロタ。途中から飛雲さんは浄土門ですかとか、アホかって。

アジャセが三願転入する訳ないでしょ。信巻くらい読めよな。

投稿: たまむし | 2015年7月10日 (金) 10時51分

>>>あなたにとって「雑行」とは何ですか?
>>>あなたは、19願以外のどこから真実に導かれましたか?導かれたいですか?
>>>あなたは、親鸞聖人と同じ様に三願転入したいですか?
>>>親鸞聖人と同じでは嫌ですか?

→→数々の名台詞、練りに練った質問のイナズマ作戦に思わず閉口しました。プライドないのか、と言いたいです。これが会のレベルですか。まずはこれらの質問を会長にして下さい。真っ赤な顔をした会長から何らかの処分が下るでしょう。直接お話できるご縁になればいいですね。

投稿: | 2015年7月10日 (金) 12時27分

飛雲さんからの質問は全て無視。一方、飛雲さんへの質問は今までの法論で出たものばかり。何度同じやり取りすれば気がすむの?学習能力ないの?
こんなの法論にもなってない。親鸞会員よいい加減に目を覚ませ

投稿: | 2015年7月10日 (金) 22時25分

クリスさん、ユウさん、カブトムシさんにとって高森教学に疑念をもったなら、今回の法論は本当に意義があった、と思います。親鸞会の議論は①立場の決めつけ②相手の質問に答えず質問責め(相手が疲弊したら勝利宣言)③感覚と勘に頼るいい加減な根拠④論点すり替え、は相変わらずですが。飛雲さん、お疲れさまでした。

投稿: | 2015年7月11日 (土) 22時36分

クリスさん、カブトムシさん、ユウさん達は高森会長の話と著書、親鸞会の教学以外を読み聴きするこは今までほとんどされなかったのではと推測します。
私も昨年までの24年間はそのようにして高森会長を無二の善知識と信じ込んできました。
しかしそれが誤りと解るきっかけが平成25年6月に行われた親鸞会講師試験の第2問に「信疑決判」と言う言葉が突如出てきたことからです。私には高森会長の著書に「信疑決判」が出ていた記憶はなく、法話や座談会でも聴いたことなかった言葉でした。
試験後Googleで検索するとトップに「安心論題/信疑決判-WikiArc」が出てきました。なんと本願寺の教学には昔からある論題だったのです。それからは安心論題やWikiArcの他の記事も読むようになりました。
それらを読んで思ったのは、親鸞会の教学が本願寺の教学に比して大変貧弱であると言うことです。
クリスさん、カブトムシさん、ユウさんたちは、親鸞会の教学に沿ったご文を提示し高森会長の教えが正しいと主張していますが、それらの多くはお聖教を断章取義し、ご文の解釈を歪曲したものなのです。
ネット上にはWikiArcやその利用者である林遊様のブログ、その他多くのすばらしいサイトがありますから、それらをよくよくお読みになって正しい教学を理解され、その上で飛雲様や山も山様、黒猫様などのブログをよく読み、親鸞会の誤りがどこにあるかを知っていただきたいと思います。
そうすれば、これまでお三方が飛雲様に対してなされた質問や主張がいかにお粗末であるかも解られると思うのですが。
クリスさん、カブトムシさん、ユウさん達も早く本願を計らう教えを捨てて、お念仏喜ぶ身になっていただきたいと念じます。
なまんだぶつ なまんだぶつ

投稿: どら焼き | 2015年7月12日 (日) 10時46分

信疑決判は確か「こんなことが知りたい」の三忍の説明にあったかな。
教学試験で著書にない答えが出るもんで、どうしたものかといろいろ勉強してました。
親鸞会で教えることは学び尽くした気がして、外部の安心論題的なものも読むようになりました。

投稿: | 2015年7月12日 (日) 16時24分

信疑決判のお知らせありがとうございます。「こんなことが知りたい」①の13番に信忍の説明にありました。私の注意不足でした。
ところでこの「こんなこと知りたい」のはしがきにあるハイデッカーの話は作り話のようです。
以下のサイトで確認できます。
http://ogswrs.blogspot.jp/2015/04/blog-post.html

投稿: どら焼き | 2015年7月12日 (日) 19時08分

飛雲さま

ご苦労様です。
飛雲さんのおかげで私の所に退会者からメールが来ました。
嬉しいことです。
これからも頑張ってください。

一言
三願転入は信後振り返ってみて味わう事であって、信心決定に三願転入が必要であったということではありません。今すでに阿弥陀仏の御本願に遇わせていただいている人に、また、19願からやり直せなどとどこにも書かれていません。というかすでに教行信証とご縁があれば、そんなことは問題では無いはずです。親鸞聖人の言われた三願転入を何度も読めばそのことが分かるのですが、やはり親鸞会の講師には無理ですかね。今、救われる教えなんですけどね。

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏

投稿: とくよしみね | 2015年7月12日 (日) 23時41分

某さよならに書き込みが…
悔しかったのかな。
哀れ。

投稿: | 2015年7月13日 (月) 00時18分

を・・
重荷を運ぶ
重い病の者を○○へと運ぶ

投稿: lupin | 2015年7月21日 (火) 21時09分

1.獲信していない人の死後はどうなるか

親鸞聖人 六道輪廻(19願・20願の同行は化土往生)
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -- - - - -
高森会長 十方衆生 必堕無間

投稿: | 2015年7月22日 (水) 08時17分

2.「本願を信ぜんには他の善も要にあらず」とは

親鸞聖人 本願に救われる一念には善は役にたたない
----------------------------------
高森会長 救われたなら善は不要だが、救われる前には善が勧められている?誤解?
     救われても、救われてなくても、善因善果悪因悪果は変わらない。

投稿: | 2015年7月22日 (水) 08時24分

lupin(最後の名無し) 様

>を・・
>重荷を運ぶ
>重い病の者を○○へと運ぶ

それで何でしょうか?
定散諸機をすすめけり=定散諸機に勧められた


>親鸞聖人 本願に救われる一念には善は役にたたない

違います。

親鸞聖人 本願に救われるまでに善は不要

>高森会長 救われたなら善は不要だが、救われる前には善が勧められている?誤解?
>     救われても、救われてなくても、善因善果悪因悪果は変わらない。

親鸞聖人 救われるのに善は不要で、因果の道理と救いとは無関係

投稿: 飛雲 | 2015年7月22日 (水) 08時48分

2.五逆罪・謗法罪について

親鸞聖人 造っている人と造っていない人がいる
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 造っていない人はいない、全ての人は生まれながらに造っている

これ微妙。親鸞聖人が書かれたものでないし、高森先生(会長と思っているのは、団体申請する所と貴方がただけ)の造っていない人はいないと、その上で聖典を読むと、引っかからずに読める。

投稿: | 2015年7月22日 (水) 08時53分

lupin 様

引っかからずに読んでくださいね。

問い
親鸞聖人は「善知識をおろかにおもひ、師をそしるものをば謗法のものと申すなり。おやをそしるものをば五逆のものと申すなり」(末灯鈔)と仰っていますから、全人類は五逆・謗法の者で、やっぱり必堕無間ではないですか。


答え
これも典型的な断章取義です。このお言葉の後に、「同座せざれと候ふなり。されば北の郡に候ひし善証房は、おやをのり、善信をやうやうにそしり候ひしかば、ちかづきむつまじくおもひ候はで、ちかづけず候ひき。」とあります。どのように読んでも、善証房のような五逆・謗法を造っている者に近付いてはならない、ということで、お手紙を受け取った関東の同行は、五逆・謗法の者ではないという前提です。

問い
では「善知識をおろかにおもひ、師をそしるものをば謗法のものと申すなり。おやをそしるものをば五逆のものと申すなり」(末灯鈔)は、間違っているというのですか。


答え
この後の「同座せざれ」を無視して解釈するするからおかしくなるのです。五逆罪・謗法罪が親鸞会の説明通りなら、親、兄弟、配偶者、子供、職場の同僚などとも、親しくしてはならず、同行同士集まることも、善知識、師に近付くことも禁じられたことになります。親鸞聖人は、一家離散、引き籠り、隠遁生活を勧められたことになり、会を作って多くの人が集まる法話や会合などもっての外ということでが、それが正しい解釈ですか。

問い
全人類が五逆謗法の者ということではないという確かなお聖教上の根拠でもあるというのですか。


答え
謗法罪については、「聖人常陸国にして専修念仏の義をひろめたまふに、おほよそ疑謗の輩は少なく、信順の族はおほし」(御伝鈔)とあります。
五逆罪については、「われら罪業おもしといふとも五逆をばつくらず」(唯信鈔)などです。この文は、法然上人が仰ったことを書かれたものですし、『唯信鈔』は親鸞聖人が自ら何度も書写されて同行に読むように勧められた書ですから、法然上人、親鸞聖人のお言葉でもあります。

問い
外見上は信順していても、心の底では信じ切れていないから、謗法罪を造っていることになるのではないですか。


答え
親鸞聖人は、曇鸞大師の『浄土論註』を引用して説明されています。「もし無仏・無仏法・無菩薩・無菩薩法といはん。かくのごときらの見をもつて、もしは心にみづから解り、もしは他に従ひてその心を受けて決定するを、みな誹謗正法と名づくと」(教行信証信巻)
謗法罪とは、仏の存在、仏の教え自体を根底から否定し、もちろん他人にもそれを言うことです。
そんな謗法の者が救われるかどうかについて「ただ正法を誹謗せしめて、さらに余の罪なしといへども、かならず生ずることを得じ」(同)と、謗法の者が救われることはないと断言されています。全人類が謗法の者なら、誰一人救われることはありません。

問い
謗法の者を救うというのが、阿弥陀仏の本願ではないですか。


答え
このことを親鸞聖人は、善導大師の『法事讃』を引用されて「謗法・闡提、回心すればみな往く」(教行信証信巻)と教えられました。謗法と闡提の者は、心を改めて、仏法を信じるようになったならば救われる、ということです。謗法と闡提のまま救われるのではありません。
ここからも、謗法の者と謗法でない者がいるというのが浄土仏教の常識と判ります。

問い
阿弥陀仏は全人類を「唯除五逆誹謗正法」と見抜かれているではないですか。


答え
嘘です。そのようなことを釈尊も七高僧方も親鸞聖人も蓮如上人も仰っていません。親鸞聖人は「五逆のつみびとをきらひ、誹謗のおもきとがをしらせんとなり。このふたつの罪のおもきことをしめして、十方一切の衆生みなもれず往生すべしとしらせんとなり。」 (尊号真像銘文)と、五逆の者も、そして謗法の者でさえも結局は漏らさずに救われる、としか教えられていません。
高森会長が、大沼法竜師の著書を盗作しただけです。

問い
仏教では心を重視するから、心で親を殺せば、五逆罪になるのではないですか。


答え
親鸞聖人は五逆罪の説明を「ことさらに思うて父を殺す」「ことさらに思うて母を殺す(教行信証信巻)とあります。単に「殺す」のではなく、「ことさらに思うて」なのです。つまり、強い意志をもって親を実際に殺すことを五逆罪というのであって、過失で殺したことでも五逆罪とはいいません。仏教で心を重視するとは、こういうことです。

問い
「もとより罪体の凡夫、大小を論ぜず、三業みな罪にあらずといふことなし」(口伝鈔)と教えられているように、心で造った悪も重罪になるのではないですか。


答え
軽重関係なく三業で罪を造っているのが凡夫ということですが、三業の関係について親鸞聖人は『涅槃経』を引用して教えておられます。
「一切衆生の所作の罪業におほよそ二種あり。一つには軽、二つには重なり。もし心と口とに作るはすなはち名づけて軽とす。身と口と心とに作るはすなはち名づけて重とす。」(教行信証信巻) 心と口との両方で造る罪は軽く、心と口と身との三つで造る罪は重い、ということです。ましてや、心で思っただけで重罪になるとは、何教の話でしょうか。

問い
しかし、全人類は闡提と教えられているのではないですか。


答え
これも大嘘です。親鸞聖人は『涅槃経』を引用されて教えておられます。
「衆生の根性に決定あることなし。定なきをもつてのゆゑに、あるいは善根を断ず、断じをはりて還りて生ず。もしもろもろの衆生の根性定ならば、つひに先に断じて、断じをはりてまた生ぜざらん。また一闡提の輩、地獄に堕して寿命一劫なりと説くべからず。」(教行信証真仏土巻)
衆生の根性に定まったものはないから、闡提の者が闡提でなくなったり、あるいは闡提でない者が闡提になったりするのです。親鸞会の原罪思想は、仏教で教えられる空とは反するものです。

問い
人の心は変わるとしても、因果の道理は間違いないのですから、一度造った恐ろしい悪業は消せず、恐ろしい報いを必ず受けるのではないですか。


答え
親鸞聖人は「罪業もとよりかたちなし 妄想顛倒のなせるなり 心性もとよりきよけれど この世はまことのひとぞなき」(正像末和讃)と教えられました。罪に固定不変の形があると考えるのは、妄想顛倒である有の見の考え方です。
また『涅槃経』を引用されて「たとへば涅槃は有にあらず、無にあらずしてまたこれ有なるがごとし。殺もまたかくのごとし。」(教行信証信巻)とも教えられています。
有の見に凝り固まった親鸞会を否定されたのが、仏教であり親鸞聖人です。

投稿: 飛雲 | 2015年7月22日 (水) 08時57分

親鸞聖人 本願に救われるまでに善は不要
この善は不要と有る善とは何が善なの?


>高森会長 救われたなら善は不要だが、救われる前には善が勧められている?誤解?
>     救われても、救われてなくても、善因善果悪因悪果は変わらない。

親鸞聖人 救われるのに善は不要で、因果の道理と救いとは無関係
?だから~
救われたなら善は不要だが、救われる前には善が勧められている?ってはてなつけたのに・・因果の道理と救いとは無関係
って意味不明って仏教は因果の道理だよね?


投稿: | 2015年7月22日 (水) 09時00分

3.善人と悪人について

親鸞聖人 善人と悪人とがいる
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 善人はいない、すべての人は悪人である


ほんまダラけ?
仏の眼から見たらだよ!!!だって「善人はいない、すべての人は悪人である」十方諸仏がお手上げされるぐらいでしょ。

投稿: | 2015年7月22日 (水) 09時05分

ほんまダラだね。

善人悪人は、仏教で教える善人悪人だよ。
だって「善人はいない、すべての人は悪人である」なんて、経典にも善知識方の御著書のどこにも書かれてないよ。

投稿: 飛雲 | 2015年7月22日 (水) 09時12分

カブトムシさん、残念でしたね。

飛雲さんが時々引用される法然上人のお言葉

「しかれば善人をすゝめ給へる所をば善人の分と見、悪人を勧め給へる所をば我分と見て得分にするなり。」

これは「善人をすゝめ給へる」は善人にすすめで、「悪人を勧め給へる」は悪人にすすめ、です。

古語の知識が不足してますよ。
>を・・
>重荷を運ぶ
>重い病の者を○○へと運ぶ

それで何でしょうか?
定散諸機をすすめけり=定散諸機に勧められた

大悲の願船に乗せる重荷

投稿: | 2015年7月22日 (水) 09時16分

何がいいたいのか、さっぱりわかりません。

投稿: 飛雲 | 2015年7月22日 (水) 09時18分

悲運さんは・・・

頑固なだけだよね。都合の良い難しめの根拠を並べて自分流に解釈してるだけ。誤解、思い込みも甚だしい。

高森先生への異常な憎しみと偏見の塊。哀れな人間。

この人には19願、20願を通らずに18願に出る秘密の法門でもあるんですかねぇ・・・

釈迦が十方衆生に説かれた因果の道理や定散二善が不要とか、ほんと馬鹿だよね。

投稿: カナブン | 2015年7月23日 (木) 14時40分

カナブン 様

では、三願転入したと仰った方は、親鸞聖人以外で誰か知ってますか?
あるいは三願転入しなさいと仰った方を教えて下さい。

逆は沢山根拠がありますよ。

たとえば、阿闍世です。

投稿: 飛雲 | 2015年7月23日 (木) 15時53分

>釈迦が十方衆生に説かれた因果の道理や定散二善が不要とか、ほんと馬鹿だよね。

そう言って法然門下を弾圧したのが、聖道門です。親鸞聖人の敵が、高森会長です。

投稿: 飛雲 | 2015年7月23日 (木) 15時57分

外出していたので、詳細の反論が遅れましたが、新しいエントリーに書いておきました。

因果の道理が必要とか、定散二善が必要とか、ほんと馬鹿のレベルをはるかに通り越した絶対悪だと理解できましたか?

理解できないなら、黙っておいた方が恥をかかなくて済みますよ。

何度もいいますが、聖教を出しての反論はいくらでも受け付けますが、妄想、空想、寝言は別の場所で言っててください。

投稿: 飛雲 | 2015年7月23日 (木) 21時24分

このやり取りのおかげで、親鸞会の間違いを総復習できた形ですわ
親鸞会が、如何に切羽詰まってるのかがわかりますなw

投稿: | 2015年7月31日 (金) 15時32分

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