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2015年7月23日 (木)

『なぜ生きる2』のトンデモ邪義9

『なぜ生きる2』10章に

 悲しむべきこの実態を見られて釈迦は、諸善を勧める弥陀の十九の願(修諸功徳の願)を生涯、説き明かされた。
 弥陀の十九願は、十方衆生(すべての人)を弥陀の十八願・真実(絶対の幸福)へ導くに、極めて重要な方便願であるからだ。

 まず釈迦は、誰もが納得する三世十方を貫く因果の道理を説き刻まれる。
 因果の道理は釈迦のみならず、大宇宙の諸仏共通の教えである。

「諸悪莫作、衆善奉行、自浄其意、是諸仏教」
                  (七仏通戒偈)

”諸々の悪を作すこと莫れ、衆の善を奉行し、自ら其の意を浄くせよ、是れ、諸仏の教えなり”
 因果の道理は仏教の入口であり、教えの定規である。仏教の根幹と言われる所以だ。

根本から狂った戯言です。というよりも、法然上人、親鸞聖人の御一生を知っていたなら、絶対に言えない内容です。

まず、釈尊が生涯説き明かされたのは、聖道門であって、十九願ではありません。当たり前のことで、高森顕徹会長でさえ、そう言ってきたことです。

それよりも大問題は、因果の道理と七仏通戒偈が、親鸞聖人の教えにおいても根幹だと言っていることです。とんでもない話です。

法然門下が、当時の聖道門の諸宗から激しく攻撃されたことは、親鸞会でも言っていることですが、その代表の1つであった天台宗延暦寺が法然門下を非難した内容が、まさに因果の道理と七仏通戒偈であったことを、高森会長は知る由もないでしょう。

『延暦寺奏状』にこうあります。

しかれば悪を造れば必ず獄に堕し、善を修せば定んで天に生ず、自業自得の報いなり。不亡不失の理なり。
ここをもって、「諸悪莫作 諸善奉行」むしろ七仏通戒の誠に非ずや。

親鸞会流に言えば、

善因善果、悪因悪果、自因自果は、絶対に曲げることのできない真理である。
だから、廃悪修善の「諸悪莫作 諸善奉行」が大宇宙の諸仏共通の教えの真実ではないか。

本願寺や退会者を非難攻撃している親鸞会は、法然門下を非難攻撃した延暦寺と同じことを言っているのです。

コメント欄で、未だにこれを言ってくる講師部員か幹部会員がいますが、自分が言っていることが法然上人、親鸞聖人を弾圧した側の理屈だと知らないのですから、どれだけおめでたいのか、という話です。

当然ながら、親鸞聖人はこの延暦寺の理屈に納得されるどころか、完全に反論されています。

根拠は山ほどありますが、最も判りやすいのが『正像末和讃』誡疑讃の

自力諸善のひとはみな
 仏智の不思議をうたがへば
 自業自得の道理にて
 七宝の獄にぞいりにける

です。諸善も因果の道理も、否定的にしか仰っていないのです。それどころか、諸善も因果の道理を信じることも、仏智の不思議をうたがう心、つまり疑情、親鸞会的言い方をすれば、絶対悪だと親鸞聖人は断言されています。

もう一度いいます、
諸善も因果の道理も信じる心を絶対悪だ
が親鸞聖人の仰せです。

これで真宗だ、親鸞聖人の教えを正しく伝える無二の善知識だ、と言っている高森会長と親鸞会が、本願寺から鼻で笑われていて当然でしょう。

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『なぜ生きる2』」カテゴリの記事

コメント

実に分かりやすく痛快です!
邪義を明らかにしていただき有難うございます!

投稿: 元◯◯会長 | 2015年7月24日 (金) 07時38分

因果の道理は凡夫の知恵で合点できる教え、阿弥陀仏の本願は不可思議です。「因果の道理を深信し真剣に善に励んだ結果、自力無効と信知させられて18願に入る」との高森会長の教えは、凡夫の知恵でもって不可思議を求めようとする、阿弥陀仏の本願を計らう思い上がった浅智慧です。
高森会長が多々拝借したと思われる横田慶哉著「吾が信念」には阿弥陀如来さまの他力本願は通途仏教の因果の道理を超えた「超因果の法」であると書いてあるのに、そこは自分の教えに合わないから拝借しなかったのでしょう。

投稿: どら焼き | 2015年7月26日 (日) 19時20分

相変わらず、飛雲さんは仏教を破壊するとんでもない悪知識ですね。

因果の道理や六度万行、廃悪修善、お勤めを破壊してしまっては仏教ではありません。親鸞聖人の教えではありません。

御聖教の解釈があまりにもお粗末であり、誤解だらけで思い込みも強く、頑固なため手がつけられない感じです。哀れです。

飛雲さんは他のコメント欄に「私は本願に救われている」と明言していますが、

質問したいことがあります。


飛雲さんが本当に二種深信が立っていて後生の一大事解決できているのなら、それはとてもうれしいことですが
あえて質問させて頂きます。

①あなたは阿弥陀仏を拝見して喜ばれましたか?

②仏智不思議とは、何ですか?

③阿弥陀仏の声なき声をどのように味わわれましたか?

④二種深信が立って、何がはっきり知らされていますか?

投稿: カナブン | 2015年7月27日 (月) 11時37分

カナブン 様

いつもの負け犬の遠吠えですね。
私が間違っているなら、間違っているという根拠を出せばいいだけのことですが、それはしませんよね。正確にはできませんよね、根拠がないのですから。

愚問ですが、答えないと、また騒ぎ出すでしょうから簡潔に答えます。

①あなたは阿弥陀仏を拝見して喜ばれましたか?

「煩悩、眼を障へて見たてまつらずといへども、大悲、倦きことなくしてつねにわれを照らしたまふといへり。」(正信偈)

拝見できません。


②仏智不思議とは、何ですか?

「まことに往生せんとおもはば、衆生こそ願をもおこし行をもはげむべきに、願行は菩薩のところにはげみて、感果はわれらがところに成ず。世間・出世の因果のことわりに超異せり。」(安心決定鈔)

因果の道理を超えた救い。


③阿弥陀仏の声なき声をどのように味わわれましたか?

「まことに往生せんとおもはば、衆生こそ願をもおこし行をもはげむべきに、願行は菩薩のところにはげみて、感果はわれらがところに成ず。世間・出世の因果のことわりに超異せり。」(安心決定鈔)

このように味わいました。


④二種深信が立って、何がはっきり知らされていますか?

「二つには深心、すなはちこれ真実の信心なり。自身はこれ煩悩を具足せる凡夫、善根薄少にして三界に流転して火宅を出でずと信知す。いま弥陀の本弘誓願は、名号を称すること下至十声聞等に及ぶまで、さだめて往生を得しむと信知して、一念に至るに及ぶまで疑心あることなし。ゆゑに深心と名づくと。」(信巻)

煩悩具足の自分のやる善では出離は不可能で、念仏1つで往生させて頂けるという阿弥陀仏の本願に、疑いがあることなし。

投稿: 飛雲 | 2015年7月27日 (月) 11時47分

飛雲さんを叩き潰したいからわざわざコメントしているのではなくて、助けたいからコメントしているのです。
このままあなたに無間地獄に堕ちて永く苦しんで欲しくないから、早く目覚めて欲しいのです。

問:どうして浄土往生のために善をしなければならないのですか。阿弥陀仏の19願は捨てるべきではないのですか。19願に入れとは善知識方は誰も仰られておりません。


答:阿弥陀仏とお釈迦様が十方衆生にお勧めになられています。親鸞聖人もそれを御和讃でたくさん示されています。
また、現在外道を信じている人、聖道門の修行をしている人、信心決定している人以外は、

みんな19願=要門・仮門の善に励める状態です。既に19願に励める状態なので、「入れ」とは言われないのです。
親鸞聖人、蓮如上人は浄土往生を求めて善を実践する人に対して「雑行を捨てよ」と言われています。
つまり、自力の善で助かろうとする心(仏智不思議を疑う心)を
捨てよと言われているのです。心掛けが悪いのです。親切したり努力することが悪いはずがありませんじゃないですか。
早く19願から20願そして18願へ進めと仰られているのです。

以下に根拠を示します。


●しかるに濁世の群萌、穢悪の含識、いまし九十五種の邪道を出でて、半満・権実の法門(仏道)に入るといへども、真なるものははなはだもつて難く、実なるものははなはだもつて希なり。偽なるものははなはだもつて多く、虚なるものははなはだもつて滋し。
ここを以て、釈迦むに仏、福徳蔵(19願)を顕説して群生海(すべての人)を誘引し、阿弥陀如来、本、誓願を発して普く諸有海(すべての人)を化したまう。既にして悲願有す、「修諸功徳の願」(19願)と名づく(教行信証化身土巻)


19願は「九十五種の邪道を出でて」仏道に入った人に説かれた教えであります。
外道は問題外。


●「おほよそ八万四千の法門は、みなこれ浄土の方便の善なり。これを要門といふ、これを仮門となづけたり。」(一念多念証文)


総じていえば、仏教全体が要門。
別していえば弥陀の19願です。

故に、浄土の要門(19願)⊃聖道門

となります。

なぜか、

弥陀の19願=弥陀の本願は「三世十方を貫く」教えであり、十方衆生と誓われているからです。

「500年程度の在世正法の時機のためだけに説かれた聖道門」と
「19願」⊃「聖道門」になるのは当然であり、
19願は聖道門の人のために説かれた教えでもあり、聖道門以外の人にも説かれた教えであるのです。
聖道門の人のためだけに説かれたと解釈するのはまったく間違いです。

大事なのでもう一度言います。

「三世十方を貫く」教えであり、十方衆生と誓われている教えが弥陀の19願なのですから、

聖道門の人のためだけに説かれたと解釈するのはまったく間違いです。謗法罪です。

修行してなくて外道も信じていなくて、「19願」=「要門・仮門」に励める状態の人に対してわざわざ「入れ」とは言われません。

つまり、

飛雲さんは今、19願に励める状態なのです。

親鸞会会員でまだ信心獲得していない人や、親鸞会を退会した人も、聖道門や外道を抜けた人も、

「19願」=「要門・仮門」の道を進んでいる人もいれば、そうでない人もいます。

そんな十方衆生に対してお釈迦様は、

●臨終現前の願により
 釈迦は諸善をことごとく
 『観経』一部にあらわして
 定散諸機をすすめけり(浄土和讚)

と定散諸機になるようにお勧めになられています。


>無量寿経』の顕説(方便)は、「定散諸機」に勧められたものだということです。なので私には関係ないです。


「定散諸機をすすめけり」を「定散諸機に勧められた」と理解するのは間違いでしょう。
「を」と「に」は違います。

「定散諸機を(選択の願海に)すすめけり」と拝読し、
「定散諸機を選択の願海に進められた」と理解するのが正しいと思います。

『一念多念証文』の御文を拝読すると分かります。

●「おほよそ八万四千の法門は、みなこれ浄土の方便の善なり。これを要門といふ。これを仮門となづけたり。
この要門・仮門といふは、すなはち『無量寿仏観経』一部に説きたまへる定善・散善これなり。
定善は十三観なり、散善は三福九品の諸善なり。これみな浄土方便の要門なり、これを仮門ともいふ。
この要門・仮門より、もろもろの衆生をすすめこしらへて、本願一乗円融無碍真実功徳大宝海にをしへすすめ入れたまふがゆゑに、よろづの自力の善業をば、方便の門と申すなり。」


この御和讃の
「釈迦は諸善をことごとく
 『観経』一部にあらわして
 定散諸機をすすめけり」


「この要門・仮門より、もろもろの衆生をすすめこしらへて、本願一乗円融無碍真実功徳大宝海にをしへすすめ入れたまふ」
(この要門・仮門より、諸々の衆生を進め(勧め)こしらえて、本願一乗円融無碍真実功徳大宝海に教え勧め(進め)入れ給う)
に対応します。


釈尊が「定散二善」を説かれた相手は、「もろもろの衆生」すなわち「十方衆生」です。
「こしらえて」は、導いて、という意味で解説している本もありますが、作り上げる、という意味を含めればなお良いでしょう。


要門・仮門である定散二善の法を与えることによって、諸々の衆生を「定散諸機」に育て上げ、その定散諸機を選択の願海に教え勧め(進め)入れられた。
これが、「定散諸機をすすめけり」の正しい意味です。

投稿: カナブン | 2015年7月27日 (月) 15時42分

カナブン 様

少しは私のブログを読んでからコメントをもらえますか。
同じことを何度も書かないといけないので。

一口問答にまとめてありますので、以下紹介しておきます。

「飛雲」から親鸞会への教義非難
4.獲信のために善は必要か

親鸞聖人 念仏1つ、獲信に善は不要
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -- - - - -
高森会長 善をしなければ絶対に獲信できない


これに反論した親鸞会の回答
顕真平成24年8月号

問い

親鸞聖人は
念仏一つで助かる。獲信には善は不要
と仰っているのに、
善をしなければ獲信できない
というのは間違いだ
という人がありますが、如何でしょうか。

答え

親鸞聖人は信心一つで助かると言われています。獲信には善は「間に合わぬから捨てよ」とは徹底して教えられていますが、どこにも「不要」とは教えられていません。
「捨てよ」と「不要」との違いは、「ハケ」と「ハゲ」の読み違いどころではありません。毛の有るのと無いのとは、全く逆で大違いだからです。注意しなければなりません。


これに反論した回答
「飛雲」からの反論

問い
親鸞聖人は信心一つで助かると言われています。獲信には善は「間に合わぬから捨てよ」とは徹底して教えられていますが、どこにも「不要」とは教えられていません。


答え
「極重悪人唯称仏」(正信偈)も知らないのですか。この元は源信僧都の「極重の悪人は、他の方便なし。ただ仏を称念して、極楽に往生することを得」(往生要集)です。また蓮如上人も「極重の悪人は他の方便なし、ただ弥陀を称して極楽に生ずることを得よといへる文のこころなり」(正信偈大意)と教えられています。極重の悪人は、念仏以外の方便(善)はない、唯念仏して極楽に往生できるのだ、つまり、獲信・往生に善は不要ということですが、善知識方の仰せを否定するのですか。
難しい聖教は読めなくても、『正信偈』くらいは読んでおいてください。

問い
「極重悪人唯称仏」(正信偈)とは、救われたならば念仏だけということで、そこまで導く善は必要です。『歎異抄』の「本願を信ぜんには、他の善も要にあらず」と同じことで、真宗の学者が誰も反論できない『歎異抄をひらく』には、
弥陀の本願を信じ救われた者は、弥陀より賜った念仏で往生決定の大満足を獲ているから、「往生のために善をしようという心」は微塵もない、ということである
と解説されていますよ。


答え
ここだけで、高森会長が阿弥陀仏の救いに極めて疎い人物と判ります。
悪人である下品の往生について法然上人は判りやすく、「この三品は、尋常の時ただ悪業を造りて往生を求めずといへども、臨終の時はじめて善知識に遇ひてすなはち往生を得。」(選択本願念仏集)、と解説なされています。この下三品は、平常の時ただ悪業ばかり造って善もせず浄土往生を求めないけれども、臨終のときになってはじめて善知識に遇って往生を得る、ということです。救われるまでに善は不要ということが、「本願を信ぜんには、他の善も要にあらず」です。
真宗の学者から「われらの相手に非ず」と失笑されていることを知りましょう。

問い
蓮如上人は、「方便をわろしといふことはあるまじきなり。方便をもつて真実をあらはす廃立の義よくよくしるべし。弥陀・釈迦・善知識の善巧方便によりて、真実の信をばうることなるよし仰せられ候ふ」(御一代記聞書)と仰っているように、方便からしか真実に入れず、でしょう。それなのに、念仏が方便とは呆れます。


答え
方便の理解が根本的におかしいですね。蓮如上人が仰っていることは、権仮方便を捨て善巧方便を立て、善巧方便によって真実の信を獲られる、ということです。
善巧方便とは、「信方便易行をもつて疾く阿惟越致に至る」(十住毘婆沙論)とあるように、18願他力念仏のことです。親鸞聖人も18願他力念仏について解説なされた『教行信証』信巻で「真心を開闡することは、大聖矜哀の善巧より顕彰せり」と仰ってます。
権仮方便とは、「浄土の要門、方便権仮を顕開す」(教行信証化土巻)とあるように、19願定散二善のことです。
あなたの言葉を正しく修正するなら、善巧方便の念仏からしか真実報土には往けず、ということです。

投稿: 飛雲 | 2015年7月27日 (月) 15時48分

問い
蓮如上人は、「雑行を捨てよ」、と繰り返し仰っています。雑行をしていない者に対して、「雑行を捨てよ」、とは仰っていないから、雑行である善を勧められていることになるでしょう。


答え
あなたの理屈なら、雑行である五雑行をしていない者はまず五雑行をせよ、ということですね。
「タバコを吸うな」と言われて、タバコを吸っていない人が、タバコを吸ってから止める、「自殺は絶対に止めましょう」と言われて、自殺をしたことがない人は、自殺をしてから止める、という馬鹿な発想をする人はいません。
雑行をしていない人に対してはまず雑行をせよ、と仰ったお言葉はありますか。

問い
親鸞聖人は、「臨終現前の願により 釈迦は諸善をことごとく 『観経』一部にあらはして 定散諸機をすすめけり」(浄土和讃)と仰っています。釈尊は『観無量寿経』を通して、獲信のために諸善を全ての人に勧められている、と親鸞聖人は教えられているではないですか。


答え
しっかり読んでください。「定散諸機をすすめけり」です。定散諸機に対して諸善を勧められた、と仰っているのですが、何を勘違いしているのですか。何度も言ってきたように、逆悪の機に対する定散諸機です。
法然上人の「善人をすすめ給へる所をば善人の分と見、悪人を勧め給へる所をば我分と見て」(勅修御伝)、存覚上人の「上根の機には諸行を授け、下根の機には念仏をすすむ。」(持名鈔)と同じことを親鸞聖人が仰った根拠です。

問い
「定散諸機をすすめけり」であって、「定散諸機にすすめけり」ではありません。「定散諸機をすすめけり」とは、定散諸機になるように勧められた、ということで、獲信のために全ての人に善を勧められたのではないですか。


答え
同じ『浄土和讃』に「至心・信楽・欲生と 十方諸有をすすめてぞ」とあります。あなたの理屈ならば、十方諸有になるように勧められた、となりますが、よろしいですか。まずは古文の勉強をしましょう。
なお、下輩である逆悪の機について善導大師は、「仏法・世俗の二種の善根あることなし。ただ悪を作ることを知るのみ。」(観無量寿経疏)と定義されています。「善根あることなし」ですから、定散諸機になれない者が逆悪の機です。

問い
しかし、釈尊は心想羸劣の韋提希に定善を勧められているではないですか。韋提希は定善をやってみて、善のできないことが知らされて救われたのではないですか。


答え
勧められたのではありません。韋提希が「もし仏滅後のもろもろの衆生等、濁悪不善にして五苦に逼められん。いかんしてか、まさに阿弥陀仏の極楽世界を見たてまつるべき」(観無量寿経)、と釈尊に請うたから釈尊が定善を説かれたのです。これを善導大師は「定善の一門は韋提の致請にして」(観無量寿経疏)と教えられました。
大体、定善をやってできなかったからといって、定善よりも簡単な散善さえもできないと知らされる筈がないでしょう。微分積分の問題が解けなかったら、足し算の問題も解けないと知らされますか。

問い
善導大師は『観無量寿経』について、「さだめて凡夫のためにして聖人のためにせず」(観無量寿経疏)と仰っています。聖人という善人ではなく、凡夫という悪人のために定散二善を説かれた、と明言されているではないですか。


答え
善人、悪人の定義については以前に示した通りですが、善導大師が「凡夫のためにして」と仰った意味は、「いまの時の善悪の凡夫」(観無量寿経疏)です。凡夫=悪凡夫ではありません。凡夫=善凡夫+悪凡夫です。
善凡夫に善を説かれ、悪凡夫に念仏を勧められた、ということを法然上人、親鸞聖人、存覚上人のお言葉を示して説明してきましたが、まだ判らないのですか。

問い
諸仏方が教えられていることを簡潔にまとめられたのが、「諸悪莫作 衆善奉行 自浄其意 是諸仏教」(七仏通誡偈)です。諸仏方が善を勧めておられるのに、それを否定するのですか。


答え
あなたの主張は、比叡山が法然上人を非難した内容そのままです。実際、『延暦寺奏状』には七仏通誡偈が出ています。
親鸞聖人はそれに真っ向から反論されていますが、御存知ないのですか。
親鸞聖人は念仏と諸善とを比較なされて諸仏方の教えを「勧無勧対」(教行信証行巻)と断言なされました。念仏は十方の諸仏が勧められる法であり、諸善には諸仏の勧めはない、ということです。
さて、あなたは比叡山の主張と親鸞聖人の仰せと、どちらを信じるのですか。

問い
親鸞聖人は、「おほよそ八万四千の法門は、みなこれ浄土の方便の善なり。これを要門といふ。これを仮門となづけたり。(中略)この要門・仮門より、もろもろの衆生をすすめこしらへて、本願一乗円融無碍真実功徳大宝海にをしへすすめ入れたまふ」(一念多念証文)と仰っているように、すべての人に「浄土の方便の善」を勧められているのではないですか。


答え
全く逆です。「浄土の方便の善」「要門・仮門」より「本願一乗円融無碍真実功徳大宝海」に入るように教え勧められた、ということです。もちろん、「浄土の方便の善」「要門・仮門」に迷っている人に対してです。「本願一乗円融無碍真実功徳大宝海」である18願を願い求めている人に、「浄土の方便の善」「要門・仮門」を勧められたという解釈は、どこの世界の文法を使っているのでしょうか。

投稿: 飛雲 | 2015年7月27日 (月) 15時49分

問い
19願に「十方衆生」と誓われているのだから、善が阿弥陀仏の救いと関係がない筈がないでしょう。


答え
「十方衆生」とあるからすべての人に関係がある、という単純思考でしょうが、「十方衆生」というお言葉は、法華経、華厳経、般若経、涅槃経等の聖道門所依の経典にも出てきます。ここから釈尊が、「十方衆生」に向かって聖道門を説かれていることが判ります。
あなたの理屈なら、聖道門もすべての人に関係がある筈です。まずは聖道門からはじめるべきですね。

問い
釈尊が仰った「十方衆生」の話ではなく、本師本仏の阿弥陀仏が仰った「十方衆生」の話をしているのです。阿弥陀仏が19願で全ての人と誓われたのが、間違いだというのですか。


答え
間違いです。親鸞聖人は18願の「唯除五逆誹謗正法」について「五逆のつみびとをきらひ、誹謗のおもきとがをしらせんとなり。このふたつの罪のおもきことをしめして、十方一切の衆生みなもれず往生すべしとしらせんとなり。」(尊号真像銘文)と教えられました。18願には「唯除五逆誹謗正法」とあるから、「十方一切の衆生みなもれず」なんだと。つまり「唯除五逆誹謗正法」のない19願は、「十方一切の衆生みなもれず」ではないということです。

問い
親鸞聖人は、19願の「十方衆生」に漏れている者がいるとまでは仰っていないではないですか。


答え
前にも紹介しました「臨終現前の願により 釈迦は諸善をことごとく 『観経』一部にあらはして 定散諸機をすすめけり」(浄土和讃)に、「臨終現前の願」の対機は「定散諸機」と仰ってますよ。「逆悪の機」は漏れていますが。

問い
それではまるで、善をすることは獲信の遠回りになるみたいではないですか。


答え
よく判りましたね。「善人なほもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや。」(歎異抄)は、善に拘っている善人(定散諸機)でさえ往生できるのだから、ましていわんや善に拘らない悪人(逆悪の機)はなおさら往生できる、ということです。
親鸞聖人の直のお言葉では、「三輩・九品、定散の教、化土・懈慢、迂回の善なり。」(教行信証信巻)です。19願、定散二善では報土往生できず化土往生となり、迂回の善だ、ということです。

問い
善をしなくてもいいのなら、悪をすれば救われるのですか。


答え
親鸞会らしい短絡的な考え方です。
蓮如上人の愛読書であった『安心決定鈔』に、「下品下生の失念の称念に願行具足することは、さらに機の願行にあらずとしるべし。法蔵菩薩の五劫兆載の願行の、凡夫の願行を成ずるゆゑなり。」とあります。五逆の者が臨終の心の籠らない念仏で往生できるのは、衆生の願と行によるのではなく、法蔵菩薩の五劫思惟の願と兆載永劫の行によるからだ、ということです。
「善をすれば」も「悪をすれば」も、自分の願行を加えなければ、阿弥陀仏は救ってくださらない、と仏智を疑っているのですから、救われる筈がないです。

問い
私たちは善ができると自惚れているから、実際に善をやってみて善のできない者と知らされる必要があるのです。


答え
完全に破綻した論理です。たとえば、全財産を財施して知らされることは、全財産を財施することができた、という事実です。財施をして財施のできない者と知らされることなど永遠にありません。
親鸞聖人が自惚れていると仰ったのは、「この虚仮雑毒の善をもつて無量光明土に生ぜんと欲する、これかならず不可なり。」(教行信証信巻)とあるように、諸善を実践して報土往生できる、と自惚れている人のことです。
法蔵菩薩と同じ善をしなければ同じ報土にはいけませんが、法蔵菩薩と同じ善ができないと思う人が親鸞聖人の教えを聞いているのです。もし法蔵菩薩と同じ善ができると本気で思っているなら、親鸞聖人の教えを否定するでしょう。

問い
心の底では、真実の善ができると自惚れていますので、善を実践することで雑毒の善しかできないと知らされるのです。


答え
雑毒の善ができるならば、「仏法・世俗の二種の善根あることなし」(観無量寿経疏)と解説なされているところの逆悪の機、悪人ではありません。もちろん逆謗の機、極重の悪人でもありません。
我々は、雑毒の善ができないのにできると自惚れている悪人なのか、雑毒の善ができる定散諸機の善人なのか、どちらなのですか。
なお親鸞聖人は、「『観経』の定散の諸機は、極重悪人、ただ弥陀を称せよと勧励したまへるなり。」(教行信証化土巻)と仰っています。定散諸機も極重の悪人も、善ができてもできなくても、自惚れていてもいなくいなくても、ただ弥陀を称せよ、としか教えられていません。

問い
仏教の根幹は因果の道理だから、「善因善果、悪因悪果、自因自果」を信じて、光に向かって進まなければ救われません。


答え
あなたの言われているのは化土の因果です。罪福の因果を信じて善をするのを散善といいます。しかしそんな人は、「罪福信ずる行者は 仏智の不思議をうたがひて 疑城胎宮にとどまれば 三宝にはなれたてまつる」(正像末和讃)と、化土にしか往けないと厳しく誡められています。
親鸞聖人が教えられたのは、「報土の因果」(正信偈)です。法蔵菩薩の兆載永劫の修行による功徳を十方衆生が受け取って報土往生する、高森会長の言う他因自果を、「仏智の不思議」と教えられているのです。

投稿: 飛雲 | 2015年7月27日 (月) 15時53分

「飛雲」という名の人間。

年齢はいくつか分かりませんが、かなり頑固で負けず嫌いなんでしょうね。

あなたのお粗末な理屈の数々に呆れました。思ったよりも重症ですね。

君が18願に救われたとはっきり自覚したとき(信心獲得の一念の体験)は何歳の時ですか?

投稿: カナブン | 2015年7月27日 (月) 16時18分

カナブン 様

また負け惜しみですね。簡単に法論を投げ出すのですのが、親鸞会の特徴です。

私のことなどどうでもよろしいです。

親鸞聖人の教えと高森顕徹なる人物とが同じことを教えているのかいないのか、そのことをあなたにも判ってもらいたいですね。

投稿: 飛雲 | 2015年7月27日 (月) 16時20分

君がやっていることは親鸞会の教義に対して、自分に都合の良い根拠の一部を持ってきて自分流に解釈して反論しているだけだ。親鸞聖人の教えではない。理屈に狂っている。行学ではない。

君のブログの内容を鵜呑みにして、どれほどの者が地獄に道連れにされるのか。恐ろしいことだ。君の周りはたちの悪い連中ばかりだろう。善に向かわないのだから当然だ。

臨終に後悔しても遅いですよ。飛雲さん、もう一度よく考え直してください。

投稿: カナブン | 2015年7月27日 (月) 16時43分

カナブン 様

完全な負け惜しみはみっともないですよ。

都合の良いところを持ってきているのは、高森顕徹なる人物ですが、そのくらいのことも理解できない頭では、仕方がないですね。

私は縦横無尽に根拠を出しています。

都合のいいところではなく、悪いところが一つもないのですよ。

まじめに聖教を読みましょう。

投稿: 飛雲 | 2015年7月27日 (月) 16時55分

飛雲さんが考えるとするならば 願行具足の南無阿弥陀仏を受け容れられず 善に励もうとする人に如何に理解してもらえるかでしょう。よろしくお願い致します。

投稿: 飛雲さんのまわりにいるたちの良い連中 | 2015年7月27日 (月) 17時08分

理屈に狂っている、か。面白いこと言うな~こんなお粗末な負け惜しみ初めて聞いた。
飛雲さんの過去ブログろくに見ず同じことばっか言ってるし、全く反論出来てない。投稿すればするほど無知と恥を晒してるのに。

投稿: | 2015年7月27日 (月) 18時13分

反論のついでに書いてあればともかく、
教えの内容に触れずに非難するのなら、
負け惜しみと言われても仕方ない

投稿: | 2015年7月27日 (月) 18時23分

カナブンと名乗る者は、創価学会やカルトと同種の人物ですな。

議論に負けると地獄に堕ちるとか、頭が七つに割れるとか、カルトは同じセリフを言うんだよ。

洗脳は恐ろしい。

投稿: コガネムシ | 2015年7月27日 (月) 18時38分

たしかに学会と同じだ(笑)
つくづく低レベルな人達(笑)(笑)

投稿: | 2015年7月27日 (月) 20時01分

顕正戦が終わりになると、未達なのか、ストレスが極限なのか、おかしな書き込みが増える傾向にある。ヒステリーやストレス発散はやめてほしい。恥ずかしい。

投稿: | 2015年7月27日 (月) 20時27分

人間として最低なのは、こんなブログを立ち上げて親鸞聖人の教えを破壊しているあんたらだよ。

まともな人間にはとても書けないブログだ。

そもそもブログを書いている飛雲氏が称名正因の異安心だから話にならない。

「本当に救われたのだろうか」と思うのは疑情というのですよ。

本願にも、成就文にも、

「念仏を称える者を救う」

とは誓われていない。

他力の信心=二種深信1つが往生浄土の正因なのです。

投稿: セミ | 2015年7月27日 (月) 21時35分

ならば、根拠をもって反論すればいいだけの話ですが、それはしないし、できないから、負け犬の遠吠えを書き連ねているだけですよね。

私は何度も何度もこう書いています。

「念仏1つで救われる」と信じた心1つで救われる

念仏と信心との関係が全く判っていない異安心の者では、到底理解できないでしょうが。

ちなみに念仏を称えて助かるという親鸞聖人のお言葉はたくさんありますよ。


親鸞聖人『高僧和讃』

 極悪深重の衆生は
  他の方便さらになし
  ひとへに弥陀を称してぞ
  浄土にうまるとのべたまふ

『唯信鈔文意』

 「但有称名皆得往」といふは、「但有」はひとへに御なをとなふる人のみ、みな往生すとのたまへるなり、かるがゆゑに「称名皆得往」といふなり。

『教行信証』行巻・信巻

いま弥陀の本弘誓願は、名号を称すること下至十声聞等に及ぶまで、さだめて往生を得しむと信知して、一念に至るに及ぶまで疑心あることなし。

『教行信証』行巻

称名はかならず生ずることを得。

『唯信鈔文意』

「十念」といふは、ただ口に十返をとなふべしとなり。しかれば選択本願には、「若我成仏 十方衆生 称我名号下至十声 若不生者 不取正覚」と申すは、弥陀の本願は、とこゑまでの衆生みな往生すとしらせんとおぼして十声とのたまへるなり。

『御消息』

往生を不定におぼしめさんひとは、まづわが身の往生をおぼしめして、御念仏候ふべし。


>本願にも、成就文にも、

>「念仏を称える者を救う」

>とは誓われていない。

また無知を曝していますね。

一言で論破するなら、

本願のことを親鸞聖人は「念仏往生の願」と何度も仰っていますが、意味判りますか?
先程の『唯信鈔文意』の「ひとへに御なをとなふる人のみ、みな往生す」が本願であり、成就文ですよ。
成就文の「一念」には、信心と念仏の両方の意味があると親鸞聖人が仰っているのですが、知らないのでしょうね。


>他力の信心=二種深信

二種深信は先ほどの上でも書きました。

「二つには深心、すなはちこれ真実の信心なり。自身はこれ煩悩を具足せる凡夫、善根薄少にして三界に流転して火宅を出でずと信知す。いま弥陀の本弘誓願は、名号を称すること下至十声聞等に及ぶまで、さだめて往生を得しむと信知して、一念に至るに及ぶまで疑心あることなし。ゆゑに深心と名づくと。」(行巻・信巻)

「名号を称すること下至十声聞等に及ぶまで、さだめて往生を得しむと信知して」なんですよ。念仏称えて往生すると信知したのが、法の深信。

投稿: 飛雲 | 2015年7月27日 (月) 21時48分

一体いつまで遠吠えを繰り返すのだろう、負け犬会員たち…。そんな暇があるならこのブログを熟読するか、聖教を読めばいいのに

投稿: | 2015年7月27日 (月) 22時08分

会員の頭の悪さには笑える。

>本願にも、成就文にも、
>
>「念仏を称える者を救う」
>
>とは誓われていない。

飛雲さんの仰る通り「念仏往生の願」で終わり。
念仏称えて往生する願だから念仏往生の願。

どんだけ愚かなのかね。「念仏往生の願」は、教行信証にも御和讃にも、他の御著書にもあるよ。

調べてみたら?

投稿: 蜘蛛 | 2015年7月27日 (月) 22時09分

ここでのコメントのやりとりを見て、親鸞会がほんとにくだらない会だとわかりました。

コガネムシさんやセミさん、教えてくれてありがとうございます。心置きなく退会できます。

投稿: やめる決意ができた | 2015年7月29日 (水) 01時04分

やめる決意ができた方

おめでとうございます!元会員一同心からお慶び申し上げます。

私も批判サイトを見て退会を決意した一人ですが、◯◯会の頃は「批判サイトをなくさならない!」と息巻いていたのを思い起こされます。

実際には
「宗教法人浄土真宗親鸞会こそ浄土真宗のイロハから誹謗破滅して珍しき教えを蔓延させており、そうしたサイトこそ駆逐しなければならない」
ことが分かりました。

でも実際には、小バエがたかるようにユウ氏、カナブン氏、セミ氏、クリス氏などが一つの根拠の都合の良い解釈のみを振りかざして、がそのまま会の実態を開顕しており、結果として自ずと会を崩壊させていっているものと思います。

飛雲様始めとして各HP管理人様には頭が下がりっぱなしですが(^◇^;)

投稿: 元◯◯会長 不知火 | 2015年7月29日 (水) 08時27分

「批判サイトをなくさならない!」

正しくは
「批判サイトをなくさなければらない!」
でした。失礼いたしました。

投稿: 元◯◯会長 | 2015年7月29日 (水) 08時30分

>>法蔵菩薩と同じ善をしなければ同じ報土にはいけませんが、法蔵菩薩と同じ善ができないと思う人が親鸞聖人の教えを聞いているのです。

面白半分でやり取りを見ていたのですが、この言葉につい有難くなってしまいました。
心がほんのり暖かくなっております。有難うございました。

投稿: YGM | 2015年7月29日 (水) 16時18分

夏休みですね。学生会員と思われる人が親鸞会の浅薄な教学で批判サイトを懲らしめてやろうと書かれているのでしょうか。ここでしっかりご縁を結んで頂きたいものです。
私もそうでしたが現役会員の時は、批判サイトをきちんと読むことが出来なかったですから。
彼らも何も読まずに書き込んでいるだけなのですよ。まったく不勉強も甚だしいのですが、それがマインドコントロールされていることに気がついていない証拠なのです。
高森会長は絶対に間違いない、他の人は皆間違いと何の証拠も無く思い込んでいるんですよ。
いちど腰を落ち着けて批判サイトが何を言っているのかよく読んで欲しいですね。

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏

投稿: とくよしみね | 2015年7月29日 (水) 20時51分

名号なのか絵像なのか木像なのかより、善ができる、できないの自分でもなく、ご本尊は阿弥陀仏であることを 会の人はまず理解すべきです。阿弥陀仏の光明を浴びるほどに聞かせて頂くのが聴聞です。

投稿: 愚愚流 | 2015年7月29日 (水) 21時52分

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