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2015年7月14日 (火)

『なぜ生きる2』のトンデモ邪義7

『なぜ生きる2』9章の前回の続きにこうあります。

 そんなウヌボレ屋の十方衆生(すべての人)を、十八願・真実(絶対の幸福)まで、どう誘導し救済するか。
 弥陀は五劫の思惟の末、建てられたのが十九・二十の方便願である。

 絶対不可能と承知の上で”それなら、どれだけ出来るかやってみよ”と、弥陀はしばらく十方衆生(すべての人)に合わせてやらせてみせるのが、十九願で勧める善である。

前回のエントリーが理解できれば、最初の2文を正しく言い換えることは容易いと思います。

 そんなウヌボレ屋の聖道門の人を、十八願・真実まで、どう誘導し救済するか。
 弥陀は五劫の思惟の末、建てられたのが十九・二十の方便願である。

ウヌボレ屋は、聖道門の人のことです。

問題は次の文ですが、19願で勧める善が絶対不可能とは、これまたトンデモ邪義です。

根拠はいくつもありますが、最も判りやすいのが源信僧都の『往生要集』のお言葉です。

また報の浄土に生るるものはきはめて少なし。 化の浄土のなかに生るるもの少なからず。

これを親鸞聖人は『教行信証』化土巻・要門釈に引かれていますので、意味としては

18願で報土往生するものは極めて少なく、19願で化土往生するものは少なくない

ということになります。
『高僧和讃』にも、

報の浄土の往生は
 おほからずとぞあらはせる
 化土にうまるる衆生をば
 すくなからずとをしへたり

と仰っています。

要するに、19願で勧める善が絶対不可能だという解釈は、絶対不可能だということです。

高森顕徹会長でも知っている根拠で言うならば、信巻の

一切凡小、一切時のうちに、貪愛の心つねによく善心を汚し、瞋憎の心つねによく法財を焼く。急作急修して頭燃を灸ふがごとくすれども、すべて雑毒雑修の善と名づく。また虚仮諂偽の行と名づく。真実の業と名づけざるなり。この虚仮雑毒の善をもつて無量光明土に生ぜんと欲する、これかならず不可なり。

です。「雑毒雑修の善」「虚仮諂偽の行」「虚仮雑毒の善」しかできないということであって、善ができないのではありません。「雑毒雑修の善」「虚仮諂偽の行」「虚仮雑毒の善」だから報土(無量光明土)往生は「これかならず不可なり」であって、化土往生としかならない、という話なのです。

まとめて言うと

真実の業 ⇒ 報土往生
虚仮雑毒の善 ⇒ 化土往生

です。
というよりも、元々、心が散り乱れたまま行う散善は、最初から虚仮雑毒の善であることが前提となっていて、真実の善を求めていないのです。

以上のことを踏まえ、最初に挙げた『なぜ生きる2』の最後のトンデモ文を使って、無理やり正しい文に直すならば

 仏のさとりを開くことは絶対不可能と承知の上で”それなら、どれだけ出来るかやってみよ”と、釈尊はしばらく聖道門の人に合わせてやらせてみせるのが、聖道門で勧める善である。

こうなります。そして、聖道門で仏に成ることは絶対不可能と知らされた人を18願まで誘導する方便が、19願であり、20願だということです。

判りやすい話なのですが、それを判りにくくして金集め、人集めのために19願を利用しているのが、高森顕徹という人物です。

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