『なぜ生きる2』のトンデモ邪義11
現在、入会キャンペーンの真っ最中のようで、退会者に”再入会”ではなく、”再入学”を勧めているそうです。親鸞会の学校で親鸞聖人の教えを再び学びましょう、という軟らかめな誘い文句を考え出したのでしょうが、肝心要の教えが、正反対であることに現会員は気が付いていないのです。
『なぜ生きる2』10章の最後に
ゆえに弥陀の十九願は、善を捨てさせるためのものではなく、実行させるための本願であることは明らかである。
弥陀の十九願の恩徳を聖人は、こう記されている。まことに十九願は、弥陀が十方衆生(すべての人)を十八願・真実に誘引する方便の教えであることが、善導大師の忻慕の釈からも、これでいよいよ明らかである。
以下は、その文証である。
仮令の誓願(十九願)、良に由あるかな。
仮門の教、忻慕の釈、これいよいよ明らかなり
(『教行信証』化身土巻・本)
ちょっと笑ってしまう内容ですが、現会員はこれで納得しているのなら、思考が哀れです。
まず最初の文は、法然上人の『選択本願念仏集』を一度でも読んでいたら、書けないでしょう。
法然上人の有名なお言葉
諸行は廃せんがために説く、念仏は立せんがために説く。
また
また定散を説くことは、念仏の余善に超過したることを顕さんがためなり。もし定散なくは、なんぞ念仏のことに秀でたることを顕さんや。
例するに『法華』の三説の上に秀でたるがごとし。もし三説なくは、なんぞ『法華』第一を顕さん。ゆゑにいま定散は廃せんがために説き、念仏三昧は立せんがために説く。
は、高森顕徹会長の妄想を完全否定したものです。
十九願、定散二善は実行させるためではなく、捨てさせるために説かれたことが明らかです。
次に最後の親鸞聖人のお言葉ですが、ポイントは「忻慕の釈(欣慕の釈)」です。浄土を願わせるためという善導大師の解釈を意味することは、高森会長も認めるところです。問題は、浄土を願わせるとはどういうことかですが、そのまま、浄土を願っていない人に浄土を願わせる、の意味以外にはありません。
そこで浄土を願っていない人とは誰か、ということですが、これを高森会長は、信前の人すべてと超飛躍的妄想を膨らませたのです。しかし、浄土を願っていない人とは、浄土門以外の人のことで、聖道門の人のことを指します。
その根拠は同じく化土巻に聖道門と浄土門の定義をなされて
おほよそ一代の教について、この界のうちにして入聖得果するを聖道門と名づく
安養浄刹にして入聖証果するを浄土門と名づく
とあるところです。浄土を願わずにこの世でさとりを開くのが聖道門、死後に浄土に往生してさとりを開くのが浄土門。親鸞聖人は明確に区別されています。したがいまして、親鸞聖人の教えを聞いている人は、すべて浄土門の人です。親鸞聖人の教えをまじめに聞きながら浄土を願っていない人は、あり得ません。
親鸞聖人の教え=浄土を願うことが大前提
尤も、絶対の幸福なるものを目指しながら偽の親鸞聖人の教えをまじめに聞いているつもりの外道の人もいますが、それは偽であって親鸞聖人の教えではありません。
またこの聖道門浄土門の定義の直後に親鸞聖人は雑行の定義をされて
もとより往生の因種にあらず、回心回向の善なり。ゆゑに浄土の雑行といふなり。
と仰っていますが、聖道門の善と19願の善は、「回心回向」するかしないか、言葉を換えると、浄土を願うか願わないかの違いだけだということです。
もう一度いますと、浄土を願っていないと19願の善にはなりませんので、どんなに屁理屈をつけても、浄土を願っていない浄土門の人はいません。
よって、浄土を願っていない人とは浄土門の人は入らず、聖道門の人になるのです。
この「忻慕の釈(欣慕の釈)」だけをとっても、19願が聖道門の人のためのものであることが明白になります。
実に簡単な理屈です。19願が全人類のためのものという根拠は、どこをどう探し回っても出てこないのですが、超飛躍的妄想の中では存在するようです。
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