« 2015年6月 | トップページ | 2015年8月 »

2015年7月

2015年7月30日 (木)

『なぜ生きる2』のトンデモ邪義11

現在、入会キャンペーンの真っ最中のようで、退会者に”再入会”ではなく、”再入学”を勧めているそうです。親鸞会の学校で親鸞聖人の教えを再び学びましょう、という軟らかめな誘い文句を考え出したのでしょうが、肝心要の教えが、正反対であることに現会員は気が付いていないのです。

『なぜ生きる2』10章の最後に

 ゆえに弥陀の十九願は、善を捨てさせるためのものではなく、実行させるための本願であることは明らかである。
 弥陀の十九願の恩徳を聖人は、こう記されている。

まことに十九願は、弥陀が十方衆生(すべての人)を十八願・真実に誘引する方便の教えであることが、善導大師の忻慕の釈からも、これでいよいよ明らかである。

 以下は、その文証である。

仮令の誓願(十九願)、良に由あるかな。
仮門の教、忻慕の釈、これいよいよ明らかなり
              (『教行信証』化身土巻・本)

ちょっと笑ってしまう内容ですが、現会員はこれで納得しているのなら、思考が哀れです。

まず最初の文は、法然上人の『選択本願念仏集』を一度でも読んでいたら、書けないでしょう。
法然上人の有名なお言葉

諸行は廃せんがために説く、念仏は立せんがために説く。

また

また定散を説くことは、念仏の余善に超過したることを顕さんがためなり。もし定散なくは、なんぞ念仏のことに秀でたることを顕さんや。
例するに『法華』の三説の上に秀でたるがごとし。もし三説なくは、なんぞ『法華』第一を顕さん。ゆゑにいま定散は廃せんがために説き、念仏三昧は立せんがために説く。

は、高森顕徹会長の妄想を完全否定したものです。

十九願、定散二善は実行させるためではなく、捨てさせるために説かれたことが明らかです。

次に最後の親鸞聖人のお言葉ですが、ポイントは「忻慕の釈(欣慕の釈)」です。浄土を願わせるためという善導大師の解釈を意味することは、高森会長も認めるところです。問題は、浄土を願わせるとはどういうことかですが、そのまま、浄土を願っていない人に浄土を願わせる、の意味以外にはありません。
そこで浄土を願っていない人とは誰か、ということですが、これを高森会長は、信前の人すべてと超飛躍的妄想を膨らませたのです。しかし、浄土を願っていない人とは、浄土門以外の人のことで、聖道門の人のことを指します。

その根拠は同じく化土巻に聖道門と浄土門の定義をなされて

おほよそ一代の教について、この界のうちにして入聖得果するを聖道門と名づく

安養浄刹にして入聖証果するを浄土門と名づく

とあるところです。浄土を願わずにこの世でさとりを開くのが聖道門、死後に浄土に往生してさとりを開くのが浄土門。親鸞聖人は明確に区別されています。したがいまして、親鸞聖人の教えを聞いている人は、すべて浄土門の人です。親鸞聖人の教えをまじめに聞きながら浄土を願っていない人は、あり得ません。
親鸞聖人の教え=浄土を願うことが大前提
尤も、絶対の幸福なるものを目指しながら偽の親鸞聖人の教えをまじめに聞いているつもりの外道の人もいますが、それは偽であって親鸞聖人の教えではありません。

またこの聖道門浄土門の定義の直後に親鸞聖人は雑行の定義をされて

もとより往生の因種にあらず、回心回向の善なり。ゆゑに浄土の雑行といふなり。

と仰っていますが、聖道門の善と19願の善は、「回心回向」するかしないか、言葉を換えると、浄土を願うか願わないかの違いだけだということです。

もう一度いますと、浄土を願っていないと19願の善にはなりませんので、どんなに屁理屈をつけても、浄土を願っていない浄土門の人はいません。

よって、浄土を願っていない人とは浄土門の人は入らず、聖道門の人になるのです。

この「忻慕の釈(欣慕の釈)」だけをとっても、19願が聖道門の人のためのものであることが明白になります。

実に簡単な理屈です。19願が全人類のためのものという根拠は、どこをどう探し回っても出てこないのですが、超飛躍的妄想の中では存在するようです。

| | コメント (3) | トラックバック (0)

2015年7月27日 (月)

『なぜ生きる2』のトンデモ邪義10

飛雲対策マニュアルなるものを親鸞会では作っているようで、最近、コメントしてくる講師部員か幹部会員が増えていますが、全く同じ根拠同じ理屈でコメントするのは止めてもらいたいものです。本当に学習能力のない者の集まりです。
コメントでもよく出てくるのが以下の根拠と理屈です。

『なぜ生きる2』10章に

 弥陀は十九願を建てて善を勧め、釈迦が一代、廃悪修善を説かれたのは、知った分かったの観念の遊戯ではなく、実地にやらせるためであったと、聖人は仰せになっている。

以下は、その文証である。

然るに濁世の群萌・穢悪の含識、乃し九十五種の邪道を出でて、半満・権実の法門に入ると雖も、真なる者は甚だ以て難く、実なる者は甚だ以て希なり、偽なる者は甚だ以て多く、虚なる者は甚だ以て滋し。
ここを以て、釈迦牟尼仏、福徳蔵(十九願)を顕説して群生海を誘引し、阿弥陀如来、本、誓願を発して普く諸有海を化したまう。既にして悲願有す、「修諸功徳の願」と名づく

                              
(『教行信証』化身土巻・本)

最初の高森顕徹会長の文は、完全な妄想ですが、その後の親鸞聖人のお言葉との関連も、全く意味不明です。

以前に私がコメント欄で反論した内容を含めて再度、説明しておきます。

まず学問的な知識として。

半満」とは、半字教と満字教のことです。『涅槃経』に、子供に文字を教える時に、最初は半字を教えて、後で満字を教えるということから、釈尊もお弟子に半字教から満字教を教えていかれた、とあります。ここで、半字教は小乗教、満字教は大乗教という意味になります。
権実」とは、権教と実教のことです。満字教(大乗教)の中で、権仮方便の教えと真実の教えとがあるということです。
半満・権実」は、二双四重の教判でいえば、竪出・竪超のことです。
『教行信証』化土巻に

おほよそ一代の教について、この界のうちにして入聖得果するを聖道門と名づく、難行道といへり。この門のなかについて、大・小、漸・頓、一乗・二乗・三乗、権・実、顕・密、竪出・竪超あり。すなはちこれ自力、利他教化地、方便権門の道路なり。

(現代語訳)

総じて釈尊が説かれた教えの中で、この世界で聖者となってさとりを得るのを聖道門といい、難行道という。この聖道門の中に、大乗と小乗、漸教と頓教、一乗と二乗と三乗、権教と実教、顕教と密教、竪出と竪超がある。これらはすべて自力の教えであり、衆生を真実に導くための、仮の手だてとして説かれた教えである。

あり、この「半満・権実」が「大・小、漸・頓、一乗・二乗・三乗、権・実、顕・密、竪出・竪超」です。

『愚禿鈔』では

一には大乗の教、二には小乗の教なり。
大乗教について、二教あり。
 一には頓教、        二には漸教なり。

難行聖道の実教なり。いはゆる仏心・真言・法華・華厳等の教なり。

難行道 聖道権教、法相等、歴劫修行の教なり。

小乗教について、二教あり。
 一には縁覚教    一に麟喩独覚、二に部行独覚。
 二には声聞教なり。 初果・預流向、第二果・一来向、第三果・不還向、
           第四果・阿羅漢向、八輩なり。

にあたります。

権実」というと18願が実と思われるかもしれませんが、「難行聖道の実教」を指しています。従って、「半満・権実」で、聖道門のことを総称して仰っているのです。

聖道門の人が親鸞聖人のこの御文を読めば、聖道門の修行をしている人のことを指すというのが、常識としてあります。

その上で、親鸞聖人は、「真なるものははなはだもつて難く、実なるものははなはだもつて希なり。偽なるものははなはだもつて多く、虚なるものははなはだもつて滋し。」と仰っているので、聖道門の中でこうだという話です。
この親鸞聖人の思想の根本にあるのが、

法然上人の『西方指南抄』(親鸞聖人御真筆)に

第十九の願は、諸行之人を引入して、念仏の願に帰せしむと也。

とあることです。法然上人が仰ったことは、「諸行之人」です。「無行之人」ではないです。

また親鸞聖人が間違いない人と尊敬されていた隆寛律師は

先師律師つねにのたまはく、隆寛こそ十九願の機よ。其故は、本と円宗の菩提心を発して、聖道の出離を期せしほどに、末法に生をうけたる身、涯分をしる故に、聖道の出離の叶ふまじきいはれを心得て、浄土門に入れるなり。

と言われていたと弟子の記した『広疑瑞決集』にあります。隆寛律師御自身の体験から、聖道門から浄土門に入ることができたのは、19願の権仮方便によるものと味わわれたのです。

更には、大経の異訳経に

『大無量寿経』19願の「十方衆生
=『平等覚経』18願の「諸佛國人民有作菩薩道者
=『大阿弥陀経』7願の「八方上下無央數佛國諸天人民若善男子善女人有作菩薩道
諸々の仏国土の菩薩の行を行う者

とあることから、こう仰ったわけです。

もちろん、「半満・権実の法門」に浄土門の人が含まれるというのは、妄想以外の何物でもないということです。

結局のところ、聖道門で出離して成仏を目指しながら、それができないことで聖道門を断念した人のために、19願が建てられ、定散二善が説かれたという内容にしかなりません。

妄想の対策マニュアルを作る暇があれば、聖教を一回でも読んでみればいいのです。

読めるだけの知能が残っていればの話ですが。

| | コメント (29) | トラックバック (0)

2015年7月23日 (木)

『なぜ生きる2』のトンデモ邪義9

『なぜ生きる2』10章に

 悲しむべきこの実態を見られて釈迦は、諸善を勧める弥陀の十九の願(修諸功徳の願)を生涯、説き明かされた。
 弥陀の十九願は、十方衆生(すべての人)を弥陀の十八願・真実(絶対の幸福)へ導くに、極めて重要な方便願であるからだ。

 まず釈迦は、誰もが納得する三世十方を貫く因果の道理を説き刻まれる。
 因果の道理は釈迦のみならず、大宇宙の諸仏共通の教えである。

「諸悪莫作、衆善奉行、自浄其意、是諸仏教」
                  (七仏通戒偈)

”諸々の悪を作すこと莫れ、衆の善を奉行し、自ら其の意を浄くせよ、是れ、諸仏の教えなり”
 因果の道理は仏教の入口であり、教えの定規である。仏教の根幹と言われる所以だ。

根本から狂った戯言です。というよりも、法然上人、親鸞聖人の御一生を知っていたなら、絶対に言えない内容です。

まず、釈尊が生涯説き明かされたのは、聖道門であって、十九願ではありません。当たり前のことで、高森顕徹会長でさえ、そう言ってきたことです。

それよりも大問題は、因果の道理と七仏通戒偈が、親鸞聖人の教えにおいても根幹だと言っていることです。とんでもない話です。

法然門下が、当時の聖道門の諸宗から激しく攻撃されたことは、親鸞会でも言っていることですが、その代表の1つであった天台宗延暦寺が法然門下を非難した内容が、まさに因果の道理と七仏通戒偈であったことを、高森会長は知る由もないでしょう。

『延暦寺奏状』にこうあります。

しかれば悪を造れば必ず獄に堕し、善を修せば定んで天に生ず、自業自得の報いなり。不亡不失の理なり。
ここをもって、「諸悪莫作 諸善奉行」むしろ七仏通戒の誠に非ずや。

親鸞会流に言えば、

善因善果、悪因悪果、自因自果は、絶対に曲げることのできない真理である。
だから、廃悪修善の「諸悪莫作 諸善奉行」が大宇宙の諸仏共通の教えの真実ではないか。

本願寺や退会者を非難攻撃している親鸞会は、法然門下を非難攻撃した延暦寺と同じことを言っているのです。

コメント欄で、未だにこれを言ってくる講師部員か幹部会員がいますが、自分が言っていることが法然上人、親鸞聖人を弾圧した側の理屈だと知らないのですから、どれだけおめでたいのか、という話です。

当然ながら、親鸞聖人はこの延暦寺の理屈に納得されるどころか、完全に反論されています。

根拠は山ほどありますが、最も判りやすいのが『正像末和讃』誡疑讃の

自力諸善のひとはみな
 仏智の不思議をうたがへば
 自業自得の道理にて
 七宝の獄にぞいりにける

です。諸善も因果の道理も、否定的にしか仰っていないのです。それどころか、諸善も因果の道理を信じることも、仏智の不思議をうたがう心、つまり疑情、親鸞会的言い方をすれば、絶対悪だと親鸞聖人は断言されています。

もう一度いいます、
諸善も因果の道理も信じる心を絶対悪だ
が親鸞聖人の仰せです。

これで真宗だ、親鸞聖人の教えを正しく伝える無二の善知識だ、と言っている高森会長と親鸞会が、本願寺から鼻で笑われていて当然でしょう。

| | コメント (28) | トラックバック (0)

2015年7月16日 (木)

『なぜ生きる2』のトンデモ邪義8

『なぜ生きる2』9章の最後にこうあります。

 弥陀が十九の願で勧める諸善万行は、十方衆生(すべての人)を十八願に誘引して絶対の幸福に救い、浄土往生させるための弥陀のお計らいだから、無駄な善はひとつもないと親鸞聖人は言明されている。

 以下は、その文証である。
「諸善万行ことごとく
 至心発願せるゆえに(十九願のこと)
 往生浄土の方便の
 善とならぬはなかりけり」 (浄土和讃)

 この弥陀の十九願の深意を解明されたのが、釈迦一代の教えであると親鸞聖人は断言なされたのである。

最初の説明の間違いは、皆さんお判りかと思いますが、すべての人ではなく、聖道門の人、正確には聖道門を断念した人を十八願に誘引するのが十九願定散二善です。

問題は『浄土和讃』の意味ですが、これは十九願で勧める善、つまり定散二善の説明で、言い換えると雑行の説明をされただけのことです。

雑行の最も根本的な定義は『選択本願念仏集』にあります。

初めに往生の行相を明かすといふは、善導和尚の意によらば、往生の行多しといへども大きに分ちて二となす。一には正行、二には雑行なり。

(現代語訳)

初めに往生の行相を明かすというのは、善導和尚の意によると、往生の行は多いけれども大きく分けて二つとする。一つには正行、二つには雑行である。

雑行とは「往生の行」だということです。
これを『教行信証』化土巻にもう少し詳しく説明されています。

それ雑行・雑修、その言一つにして、その意これ異なり。雑の言において万行を摂入す。五正行に対して五種の雑行あり。雑の言は、人・天・菩薩等の解行、雑せるがゆゑに雑といへり。もとより往生の因種にあらず、回心回向の善なり。ゆゑに浄土の雑行といふなり。

(現代語訳)

さて、雑行と雑修とは同じような言葉であるが、意味は違っている。雑という言葉には、すべての行をおさめてしまうのである。五種の正行に対しては、五種の雑行がある。この雑という言葉は、人間や神々に生れる行や菩薩の行などがさまざまにまじっているという意味で雑というのである。これはもとより阿弥陀仏の浄土に往生する因ではなく、浄土を願う心をおこし、これらの行を浄土往生のための善としなければならないから、浄土往生の行としては雑行というのである。

少し理解しづらいかもしれませんが、簡単に言えば、「もとより往生の因種にあらず」の善を「回心回向」したものを雑行というのです。つまり、往生とはもともと関係の無い善である聖道門で教えられる善(倫理道徳の善も含む)を、浄土往生の為と思ってしたならば、それが雑行になるのです。

ここまでくれば先程の和讃の意味が御理解いただけると思いますが、

元々聖道門の行である諸善万行を、至心発願したならば、それは浄土往生のための方便の善(雑行)とならないものはない

こういうことです。

ですから、諸善万行をするとかしないとか、雑行が必要とか不要とか、そういう話ではなく、

十九願で勧める善
=定散二善
=往生浄土の方便の善
=雑行

の説明をされただけということです。

結論から言えば、我らにとっては、無駄な善だと親鸞聖人は言明されているのです。

雑行だからせよ、とか、往生浄土の方便の善だからせよ、という理屈は、高森顕徹会長のトンデモ思考の中でしか成立しません。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2015年7月14日 (火)

『なぜ生きる2』のトンデモ邪義7

『なぜ生きる2』9章の前回の続きにこうあります。

 そんなウヌボレ屋の十方衆生(すべての人)を、十八願・真実(絶対の幸福)まで、どう誘導し救済するか。
 弥陀は五劫の思惟の末、建てられたのが十九・二十の方便願である。

 絶対不可能と承知の上で”それなら、どれだけ出来るかやってみよ”と、弥陀はしばらく十方衆生(すべての人)に合わせてやらせてみせるのが、十九願で勧める善である。

前回のエントリーが理解できれば、最初の2文を正しく言い換えることは容易いと思います。

 そんなウヌボレ屋の聖道門の人を、十八願・真実まで、どう誘導し救済するか。
 弥陀は五劫の思惟の末、建てられたのが十九・二十の方便願である。

ウヌボレ屋は、聖道門の人のことです。

問題は次の文ですが、19願で勧める善が絶対不可能とは、これまたトンデモ邪義です。

根拠はいくつもありますが、最も判りやすいのが源信僧都の『往生要集』のお言葉です。

また報の浄土に生るるものはきはめて少なし。 化の浄土のなかに生るるもの少なからず。

これを親鸞聖人は『教行信証』化土巻・要門釈に引かれていますので、意味としては

18願で報土往生するものは極めて少なく、19願で化土往生するものは少なくない

ということになります。
『高僧和讃』にも、

報の浄土の往生は
 おほからずとぞあらはせる
 化土にうまるる衆生をば
 すくなからずとをしへたり

と仰っています。

要するに、19願で勧める善が絶対不可能だという解釈は、絶対不可能だということです。

高森顕徹会長でも知っている根拠で言うならば、信巻の

一切凡小、一切時のうちに、貪愛の心つねによく善心を汚し、瞋憎の心つねによく法財を焼く。急作急修して頭燃を灸ふがごとくすれども、すべて雑毒雑修の善と名づく。また虚仮諂偽の行と名づく。真実の業と名づけざるなり。この虚仮雑毒の善をもつて無量光明土に生ぜんと欲する、これかならず不可なり。

です。「雑毒雑修の善」「虚仮諂偽の行」「虚仮雑毒の善」しかできないということであって、善ができないのではありません。「雑毒雑修の善」「虚仮諂偽の行」「虚仮雑毒の善」だから報土(無量光明土)往生は「これかならず不可なり」であって、化土往生としかならない、という話なのです。

まとめて言うと

真実の業 ⇒ 報土往生
虚仮雑毒の善 ⇒ 化土往生

です。
というよりも、元々、心が散り乱れたまま行う散善は、最初から虚仮雑毒の善であることが前提となっていて、真実の善を求めていないのです。

以上のことを踏まえ、最初に挙げた『なぜ生きる2』の最後のトンデモ文を使って、無理やり正しい文に直すならば

 仏のさとりを開くことは絶対不可能と承知の上で”それなら、どれだけ出来るかやってみよ”と、釈尊はしばらく聖道門の人に合わせてやらせてみせるのが、聖道門で勧める善である。

こうなります。そして、聖道門で仏に成ることは絶対不可能と知らされた人を18願まで誘導する方便が、19願であり、20願だということです。

判りやすい話なのですが、それを判りにくくして金集め、人集めのために19願を利用しているのが、高森顕徹という人物です。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2015年7月12日 (日)

『なぜ生きる2』のトンデモ邪義6

コメント欄で、お粗末な理屈を捏ねている講師部員か幹部会員がいますが、お粗末以前に、真宗のイロハのイも知らないことが、当ブログの読者ならよくお判りかと思います。

聖教に基づいた議論ならいくらでもしますが、根拠のない自分勝手な理屈をいくら言われても、相手にはしません。

さて、前回の続きで、『なぜ生きる2』9章にこうあります。

 阿弥陀仏の本心(十八願)は、十方衆生(すべての人)は罪悪深重の極悪人だから、一大事の後生の大荷物、とても持てるものではないから「そのまま任せ」と呼んでおられる。
 だが、後生の重荷も知らず、わが身の分際も分からぬ十方衆生(すべての人)は、”ふざけるな、オレはそんな悪人じゃないぞ”と、ふてぶてしい。
”なんとかすれば、なんとかなれる”と自信満々だから、素直に弥陀の仰せには従えないのである。これを自力の心という。
 この自力の心(自惚れ心)を捨て切れない十方衆生(すべての人)は、弥陀の本願(十八願)を疑い反発して、果てしない流転を重ねているのである。

これも少し考えれば判ると思いますが、すべての人が罪悪深重の極悪人だとは、七高僧も親鸞聖人も覚如上人も蓮如上人も仰っていません。善知識方が仰っていることは、罪悪深重の極悪人【でも】、十八願で救われるということです。
言葉の定義で言えば、極悪人とは五逆の罪を造った下品下生のことを指します。

『教学聖典(2)』の問24を見るとおもしろいです。


 我々の実機を七高僧は何と言われているか示せ。


 龍樹菩薩──儜弱怯劣
 天親菩薩──普共諸衆生
 曇鸞大師──造罪の人
 道綽禅師──若し悪を造ることを論ずれば
          何ぞ暴風駛雨に異ならん
 善導大師──機の深信
 源信僧都──予が如き頑魯の者
 法然上人──愚痴の法然房・十悪の法然

となっていますが、どれ1つとっても罪悪深重の極悪人の意味はありません。
尤も、この問答自体も間違っていて、七高僧方の仰っているのは、こういう者がいて、そうでない者がいるという話です。
法然上人は、愚痴と十悪ですから、下品上生の軽度の悪人よりも下の意味にはなりません。高森顕徹会長は、自己矛盾にさえ気が付かない愚かさです。

一応言っておきますが、正しいかどうかは別として自分のことを極悪人と思うことは全く構いませんが、救われたら極悪人と知らされる、と教えたら、完全な邪義です。
龍樹菩薩と天親菩薩は、機の深信にあたるお言葉すら残されていません。聖道門で出離された龍樹菩薩は、儜弱怯劣ではありません。

ところで

”ふざけるな、オレはそんな悪人じゃないぞ”と、ふてぶてしい。
”なんとかすれば、なんとかなれる

これは聖道門の修行をしている人の心です。悪人に対して説かれた方便が18願であり、念仏だ、自分は善人だから、修行によって出離し成仏を目指すのだ、というのが聖道門の人が思っていることです。

たとえば承元の法難のきっかけとなった『興福寺奏状』には、

善導一期の行ただ仏名に在らば、下機を誘ふるの方便なり。

とあり、また法然上人がお亡くなりになってから明恵高弁の書いた『摧邪輪』には、

往生宗所引の念仏の善の証文には称名の外に無量の余行あり、一一出すに邊あらず、若し彼を撥すれば念仏の深義また成ずべからず、若し汝の言う所の如く一文を守らば称名行は是れ下劣根機の為に説く所也。
(中略)
称名一行は下根の一類の為に授ずくる所也。汝何ぞ天下の諸人を以て皆下劣の根機と為す乎。無礼之至り称計す可からず、此の文証を引くに依りて称名行を執らずに非ず、唯是汝之一門、称名を以て無上殊勝の行と為し、余行を撥して下劣と為す。

と激しい口調で言っています。

ですから

 この自力の心(自惚れ心)を捨て切れない十方衆生(すべての人)は、弥陀の本願(十八願)を疑い反発して、果てしない流転を重ねているのである。

は正しくは

 この自力の心(自惚れ心)を捨て切れない聖道門の人は、弥陀の本願(十八願)を疑い反発して、果てしない流転を重ねているのである。

こういうことです。
親鸞聖人の教えを聞きたいと思っている人で

”ふざけるな、オレはそんな悪人じゃないぞ”と、ふてぶてしい。
”なんとかすれば、なんとかなれる”
と自信満々

こんな人はいません。

親鸞会の会員でもし、

”ふざけるな、オレはそんな悪人じゃないぞ”と、ふてぶてしい。
”なんとかすれば、なんとかなれる”
と自信満々

と思っている人がいたなら、その人は親鸞聖人の教えに興味ない、高森教の人だということです。

一般の人は、自力で出離できる能力もないが、極悪人まではいかない。法然上人が仰った愚痴・十悪、その程度の煩悩具足の凡夫だということです。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2015年7月 9日 (木)

『なぜ生きる2』のトンデモ邪義5

『なぜ生きる2』9章に、重要なキーワードとして、

生起=極悪人の十方衆生
本 =阿弥陀仏の十八願
末 =阿弥陀仏の十九願・二十願

と書かれていますが、トンデモ邪義です。

元々は、18願成就文の「聞其名号」を解釈された『教行信証』信巻の

「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。

の「仏願の生起本末」ことです。
これは当然ながら

其名号」=「仏願の生起本末

です。高森顕徹会長も、ここまでは判っていながら、

末 =阿弥陀仏の十九願・二十願

とは、どんな思考なのかと思います。
『正像末和讃』の誡疑讃に19願と20願について書かれてあります。抜粋すると

不了仏智のしるしには
 如来の諸智を疑惑して
 罪福信じ善本を
 たのめば辺地にとまるなり

仏智の不思議をうたがひて
 自力の称念このむゆゑ
 辺地懈慢にとどまりて
 仏恩報ずるこころなし

罪福信ずる行者は
 仏智の不思議をうたがひて
 疑城胎宮にとどまれば
 三宝にはなれたてまつる

仏智疑惑のつみにより
 懈慢辺地にとまるなり
 疑惑のつみのふかきゆゑ
 年歳劫数をふるととく

自力諸善のひとはみな
 仏智の不思議をうたがへば
 自業自得の道理にて
 七宝の獄にぞいりにける

19願と20願の人は仏智の不思議を疑っているのです。言い換えると18願を疑っていることになります。

仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし」で、本末の18願に疑いがない状態と18願を疑って信じる19願と20願に疑いがないとは何のことかです。

もっと簡単に言うと、18願に疑いがなく、18願に疑いがあることに疑いがない、という完全な矛盾になるのです。「其名号」ですから18願だけ。

説明するのもバカらしい話です。

参考までに『一念多念証文』では

「聞其名号」といふは、本願の名号をきくとのたまへるなり。きくといふは、本願をききて疑ふこころなきを「聞」といふなり。またきくといふは、信心をあらはす御のりなり。

とあります。「本願をききて疑うこころなき」です。どこに18願を疑う19願と20願が入りこむ余地があるでしょうか。

勉強不足だけでなく、思考が狂っているとしか言いようがありません。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2015年7月 6日 (月)

『なぜ生きる2』のトンデモ邪義4

『なぜ生きる2』6章に

 よくよく思うに、釈迦が『観無量寿経』に説かれている教えは、自力の教え(弥陀の十九願)であることは明白である。
 なぜ、そんな自力の教(弥陀の十九願)を、釈迦は『観無量寿経』に説かれたのか。
 それは他力の世界(弥陀の十八願)へ誘導するためであった、と聖人は明言される。
 以下は、その文証である。

 ひそかに観経の三心往生を按ずれば、これすなわち、諸機自力各別の三心(十九願)なり。大経の三信(十八願)に帰せんがためなり。
                  
(『愚禿鈔』下)

 釈迦が『観経』に自力の教(十九願)を説かれたのは、『大経』の他力の教(十八願)へ誘引する、弥陀の三願転入の救いを明らかにするためだと、ずばっと言明されている。

とありますが、無知と詭弁が入り混じった内容となっています。

まず最初の文ですが、これは完全な無知です。親鸞聖人の教えの特徴である隠顕ということを全く知らないのです。
隠顕とは隠彰(真実)と顕説(方便)のことで、『観無量寿経』と『阿弥陀経』には隠顕の二面があると親鸞聖人は教えられています。

『大無量寿経』──18願意
『観無量寿経』──顕説(方便)19願意
            └─隠彰(真実)18願意
『阿弥陀経』──顕説(方便)20願意
          └─隠彰(真実)18願意

こういうことです。
したがって、

『観無量寿経』に説かれている教えは、自力の教え(弥陀の十九願)と他力の教え(弥陀の十八願)であることは明白である。

としなければ、真宗にはなりません。これ1つとっても、高森顕徹会長が真宗に疎いことは明白です。

そして、『観無量寿経』の顕説(方便)が誰を目当てに説かれたものかを知ると、その後の詭弁が見破れます。

『浄土和讃』

臨終現前の願により
 釈迦は諸善をことごとく
 『観経』一部にあらわして
 定散諸機をすすめけり

『観無量寿経』の顕説(方便)は、「定散諸機」に勧められたものだということです。「定散諸機」とは定善の機、散善の機のことで、いわゆる善人です。

これだけの知識があれば、『愚禿鈔』も読めます。そして最後の一文はこうなります。

 釈迦が『観経』に自力の教(十九願)を説かれたのは、「定散諸機」(善人)を『大経』の他力の教(十八願)へ誘引する、弥陀の三願転入の救いを明らかにするためだと、ずばっと言明されている。

参考までに『愚禿鈔』のこの御文は、『唯信鈔文意』ではこう表現されています。

『観経』の三心は定散二機の心なり、定散二善を回して、『大経』の三信をえんとねがふ方便の深心と至誠心としるべし。
(中略)
雑行雑修して定機・散機の人、他力の信心かけたるゆゑに、多生曠劫をへて他力の一心をえてのちに真実報土に生るべきゆゑに、すなはち生れずといふなり。
(中略)
三信をえんことをよくよくこころえねがふべきなり。

(現代語訳)

『観無量寿経』の三心は定善・散善を修める自力のものの心であって、そのような自力の心をあらためて、『大無量寿経』の真実の信心を得させようと願う方便の深心と至誠心であると知らなければならない。
(中略)
さまざまな行を修めて浄土に往生しようとする自力のものは、他力の信心が欠けている。そのため、生れ変り死に変りしてはかり知れない時を経て、他力の一心を得た後に真実の浄土に生れることができるのだから、 そのままでは生れることはできないというのである。
(中略)
真実の信心を得ることを十分に心得て、真実の浄土に生れることを願わなければならない。

『観経』の三心は定散二機の心なり」ですから、善人のことで悪人には関係がありません。善人は、善に拘る心を捨てて、他力の信心を獲なさい、が親鸞聖人の意図するところです。誰しも19願を必ず通らなければならないという意味にはなりえません。

会員も退会者も、高森会長の詭弁を見抜く力をつけてください。

| | コメント (108) | トラックバック (0)

2015年7月 4日 (土)

『なぜ生きる2』のトンデモ邪義3

『なぜ生きる2』6章にこうあります。

 もし三願転入の弥陀の救いが、親鸞聖人や一部の人に限定されることならば、十九願の人々に、折れず曲がらず速やかに二十願に進めよの、聖人の励ましは『教行信証』になかったであろう。
 それが幾たびも見かけるのだ。

 総ての人々よ。十九の願から二十願に進んでおくれ。必ず十八願・選択の願海へ転入させて頂けるのだから。

 以下は、その文証である。

それ濁世の道俗(すべての人)、速に円修至徳の真門(二十願)に入りて、難思往生を願うべし」(『教行信証』化身土巻・末)

 特定の人を「濁世の道俗」とは言われない。三願転入は、すべての人の道程だから「濁世の道俗」と言われているのである。

この詭弁を詭弁と見抜くかどうかが、会員と退会者との差になるのかもしれません。

ここは、親鸞聖人が20願を勧められたお言葉についてです。それは高森顕徹会長も認めるところですが、肝心要の19願を勧められたお言葉がないのです。親鸞聖人は「濁世の道俗」に20願を勧められているから、三願転入はすべての人の道程だ、という理屈です。

20願は果遂の誓いですから、20願から18願という道程は親鸞聖人も仰っています。

『浄土和讃』には、

定散自力の称名は
 果遂のちかひに帰してこそ
 をしへざれども自然に
 真如の門に転入する

とあるのも同様です。

しかし、19願を必ず通るかどうかについては、ここでは関係のない話です。

20願への入り方でいえば、

1.外道・無宗教から20願に入る
2.聖道門から20願へ入る
3.19願から20願へ入る

という3通りがあります。
なぜ3が必須の道程になるのか、根拠も説明もありません。

親鸞聖人も七高僧も覚如上人も蓮如上人も仰っていないのですから、当然、そんな理屈が通る筈もありません。

19願を勧められた親鸞聖人のお言葉はなく、20願は勧められた親鸞聖人のお言葉はある

この事実が、三願転入は、すべての人の道程とならないことを証明する最大の根拠になります。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2015年6月 | トップページ | 2015年8月 »