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2015年6月15日 (月)

高森顕徹会長が大惨敗し逃亡した三願転入の法論6

高森顕徹会長に対して、1か月以上質問し続けていたのですが、ようやく答えたのが以下の2つでした。

1.「親鸞聖人の三願転入の教え」という親鸞聖人のお言葉については、

『教行信証』全体

4.『一念多念証文』にある「浄土の方便の善」が「宿善」という根拠

これは、確かに申し上げました。
根拠は、

「いずれの経釈によるとも、すでに宿善に限れりと見えたり」(御文章)

の一言で充分でありましょう。

1は、論外です。根拠がないことをこのように表現したというのは、誰でも判る話です。
4については、親鸞会の現会員、元会員の人は、納得してしまうかもしれません。しかし、大変な間違いです。

まず、蓮如上人が仰ったところの前後は、『御文章』3帖目第12通

それ、当流の他力信心のひととほりをすすめんとおもはんには、まづ宿善・無宿善の機を沙汰すべし。さればいかに昔より当門徒にその名をかけたるひとなりとも、無宿善の機は信心をとりがたし。まことに宿善開発の機はおのづから信を決定すべし。されば無宿善の機のまへにおいては、正雑二行の沙汰をするときは、かへりて誹謗のもとゐとなるべきなり。この宿善・無宿善の道理を分別せずして、手びろに世間のひとをもはばからず勧化をいたすこと、もつてのほかの当流の掟にあひそむけり。
されば『大経』(下)にのたまはく、「若人無善本不得聞此経」ともいひ、「若聞此経 信楽受持 難中之難 無過斯難」ともいへり。また善導は「過去已曾 修習此法 今得重聞 則生歓喜」(定善義)とも釈せり。いづれの経釈によるとも、すでに宿善にかぎれりとみえたり。しかれば宿善の機をまもりて、当流の法をばあたふべしときこえたり。

です。宿善の機と無宿善の機があり、宿善の機には話をしてもよいが、無宿の機には話をしてはいけない、という内容です。親鸞会とは逆のことを仰っています。
親鸞会では、無宿の機だから話を聞かせなければならないし、無宿善の機の立場から言えば聞かなければならない、と教えます。しかし、蓮如上人は、無宿善の機には聞かせるな、ですから、親鸞会で言うところの宿善と蓮如上人が仰る宿善とは意味が違うということです。

蓮如上人が仰る宿善の機とは、18願1つを勧められた法然上人、親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人の教えられたことを受け入れられる人のことです。一方で無宿善の機は、聖道門の教えを信じて、また聖道門から浄土門に入りながらも法然上人、親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人の教えを素直に信じられない人のことになります。

したがって、蓮如上人の仰る「宿善にかぎれり」とは、18願1つを勧められた法然上人、親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人の教えられたことを受け入れられるかどうかにかかっていることを仰ったに過ぎません。

もちろん、「いづれの経釈によるとも、すでに宿善にかぎれりとみえたり」と、「浄土の方便の善」とは、直接の繋がりがないのです。

しかし、

『大経』(下)にのたまはく、「若人無善本不得聞此経」ともいひ、「若聞此経 信楽受持 難中之難 無過斯難」ともいへり。また善導は「過去已曾 修習此法 今得重聞 則生歓喜」(定善義)とも釈せり。

とあるから、過去に行ってきた善ではないのか、と思われる方があるかも知れませんが、これは「善本」の意味を考えられれば判られると思います。親鸞会でも「善本」とは、名号と教えています。根拠は、『教行信証』化土巻に

善本とは如来の嘉名なり。この嘉名は万善円備せり、一切善法の本なり。ゆゑに善本といふなり。

とある通りです。また「若人無善本不得聞此経」のお言葉を、親鸞聖人は化土巻の真門釈のところで引いておられます。要門釈ではありません。
高森会長も『会報 第三集』に

係念の宿善というのは過去に於て自力ながらも心を阿弥陀仏一仏にかけて念仏してきた善根をいい、諸仏の浄土を願わず、ただ弥陀一仏に念を係けて来たのだから係念といわれる。
『大無量寿経』には、これを「若人無善本」といい、二十願には「植諸徳本」と説かれている。『定善義』に「過去已曾・修習此法・今得重聞」とあるのも、この係念の宿善を示すものである。

と書いています。参考までに「係念の宿善」という言葉は、浄土宗の鎮西派で使われるものです。
ですから、蓮如上人がここで仰っている「宿善」には、諸善の意味は含まれていないのです。

結局のところ蓮如上人が仰っているのは

宿善の機=過去世に念仏を称えてきた人
無宿善の機=過去世に念仏を称えてこなかった人

ということです。

このように指摘されて、高森会長は完全に詰みました。

後はお決まりの論点ずらしで、雑行の珍釈、方便の珍釈を一方的に言い出すしか手がなくなりました。

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コメント

「どんな悪人も念仏を称えればその罪が消えて極楽往生ができる」という念仏を過去世に称えながらも、極楽往生できずに今生に至った人がある、ということになります。それはいわゆる他力の中の自力の人、ということになるのでしょうか。そういう人の前生と今生の間はどうであったのか、気になるところです。

投稿: | 2015年6月17日 (水) 03時42分

名無し 様

ここはややこしいところですし、私も明確にいうことはできませんが、1つ言えることは念仏を称えるにもいろいろとあります。
聖道門でも念仏を称えますが、それは聖道門の行の1つとしてです。
また現世利益のために念仏を称えることもあります。
これらで極楽往生できるとはどなたも仰っていません。
これ以上のことは、わかりません。

投稿: 飛雲 | 2015年6月17日 (水) 05時38分

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