« 2015年5月 | トップページ | 2015年7月 »

2015年6月

2015年6月30日 (火)

『なぜ生きる2』のトンデモ邪義2

親鸞会の会合では、兎に角、金集め、人集めの話ばかりで、多くの会員がうんざりしています。それでも会員を続けるのは、19願を通らなければ、蟻一匹助からないという”迷信”が親鸞会会員の中に蔓延っているからです。

『なぜ生きる2』の5章にこんなことが書いてあります。

 この十九願に「至心発願欲生」と阿弥陀仏が仰せられているから、十九願を「至心発願欲生と十方衆生を方便し」と、聖人は『和讃』に言われている。
 そして、弥陀が十八願・真実へ十方衆生(すべての人)を導き入れる方便だと明かされている。

以下は、その文証である。

至心発願欲生と
十方衆生を方便し
衆善の仮門ひらきてぞ
現其人前と願じける
 (十九願)

よくもまあ、ここまで嘘が言えるものだと呆れますが、もしこれで納得してしまうようなら、マインドコントロールがかなり効いていると言えます。

まず、この御和讃は19願文を言い換えられたものだということです。これは前後の十八願・二十願の同様です。
そしてこの「方便」は、前回述べましたように、高森顕徹会長創作の意味ではありません。「十八願・真実へ十方衆生(すべての人)を導き入れる方便」という意味はありません。ここは、「19願に導き入れる方便」です。「18願に」ではありません。

18願との関係はどこにも書かれていません。というよりも、親鸞聖人の御著書の中で、19願を18願に導き入れる方便、という言い方をされている部分は、極僅かです。

ほとんどが、

・聖道門を断念した人を浄土門に導き入れるための方便
・化土に往く方便の願


という説明になっています。
『教行信証』化土巻や『三経往生文類』などです。たとえば、『末灯鈔』には

仏恩のふかきことは、懈慢・辺地に往生し、疑城・胎宮に往生するだにも、弥陀の御ちかひのなかに、第十九・第二十の願の御あはれみにてこそ、不可思議のたのしみにあふことにて候へ。

とありまして、18願との関係には全く言及がありません。
ただし、20願は果遂の願ですから、18願へ導き入れるという意味があると親鸞聖人は仰っています。

ところで、「十方衆生を方便し」とあるから、19願はすべての人が必ず入らなければならない願だ、と親鸞会では言うでしょうが、先に申しましたように、この和讃は、19願文を言い換えられたものですから、19願文の「十方衆生」がそのまま使われています。親鸞会のような曲解をする人のために、親鸞聖人はこの次の和讃で19願の解説をされています。

臨終現前の願により
 釈迦は諸善をことごとく
 『観経』一部にあらわして
 定散諸機をすすめけり

19願は、「定散諸機」に勧められたものだということです。勧められたのは善人にです。
この和讃については、後でも出てきますので、今回はこの程度にしておきます。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2015年6月27日 (土)

『なぜ生きる2』のトンデモ邪義1

mixiでの三願転入の法論で大惨敗し、会員が続々と退会していくのを喰い止めるために、やっとやっと書いたのが『なぜ生きる2』です。この本が出ることを待ち望む気持ちは、会員よりも私の方が強かったかもしれません。

その理由は、高森顕徹会長の最近の著書は、邪義満載とは言いながらも、一般の人には、”ちょっと変わった解釈の本”で済ませてしまうような表現になっており、高森会長のトンデモ教義が判りにくいので、誰でも明確にトンデモ本と判る本を出してほしかったのです。

期待通り、『なぜ生きる2』は、”ちょっと変わった解釈の本”をはるかに飛び越えた、”親鸞聖人の教えからはありえない解釈の本”として真宗界共通の認識となりました。

高森会長の性格は実に判りやすいです。煽ると、悔しさのあまり必ず反応します。mixiでの大惨敗を当ブログで宣伝し続けましたので、高森会長は必ず三願転入の本を出すと思っておりましたが、その通りとなり、完全に墓穴を掘りました。下段ぶち抜きの新聞広告では、一行か二行のおまけでしか載せることができないことからも、高森会長の後悔は手に取るように判ります。

ということで、この後は、『なぜ生きる2』についての邪義を取り上げていきます。

ただし、ほとんどすべてが邪義ですので、一つ一つ書きだしたらきりがないので、5章以降の、三願転入に関するトンデモ邪義についてのみ、取り上げます。取り上げないところが正しい訳ではありませんので、その点はご了承ください。

5章にはこうあります。

 聖人の方便とは、市中で使われる「ウソも方便」などとは全く異なり、真実まで導くに必要不可欠の教えをいう。

親鸞会と関係のない人がこれを読んだら、面食らうと思います。ところが親鸞会の会員は、これで納得します。ここにマインドコントロールがあります。

親鸞会でもよく聞く「八万四千の法門」とは、八万四千の方便と言い換えることができますが、それがすべて「真実まで導くに必要不可欠の教えをいう」のなら、大変なことになります。すべてを知らなければなりませんし、実践しなければなりません。ところが親鸞聖人は『浄土和讃』でこう仰っています。

聖道権仮の方便に
 衆生ひさしくとどまりて
 諸有に流転の身とぞなる
 悲願の一乗帰命せよ

聖道門は権仮という方便の教えだから捨てなさい、つまり聖道門は末法の衆生には関係のない不必要な教えですよ、ということです。聖道門が「真実まで導くに必要不可欠の教え」とは、流石に親鸞会でも言いません。その時点で、

 聖人の方便とは、市中で使われる「ウソも方便」などとは全く異なり、真実まで導くに必要不可欠の教えをいう。

が嘘だと判明します。
悔し紛れに

それは阿弥陀仏の願の話だ

と言うかもしれません。
しかし、親鸞聖人は『教行信証』化土巻に

これによりて方便の願(第十九願)を案ずるに、仮あり真あり、また行あり信あり。願とはすなはちこれ臨終現前の願なり。行とはすなはちこれ修諸功徳の善なり。信とはすなはちこれ至心・発願・欲生の心なり。この願の行信によりて、浄土の要門、方便権仮を顕開す。

と仰っています。最後の「この願の行信によりて、浄土の要門、方便権仮を顕開す」によって、19願が聖道門と同類の権仮方便と判ります。

聖道門が不必要なら、19願も不必要になります。
実に簡単な話です。

| | コメント (5) | トラックバック (0)

2015年6月22日 (月)

高森顕徹会長が大惨敗し逃亡した三願転入の法論8

法論の負けを自覚した時に、親鸞会が呟き始めるのが、高森顕徹流ヘンテコな雑行釈です。mixiでは

「雑行を捨てよ」とは、「自力の心を捨てよ」であって、「善をするな」ではない

と何度も一人で呟いていましたが、これは『なぜ生きる2』でもおなじです。

「雑行を捨てよ」とは、この悪い「自力の心」を捨てよということである。
 七高僧方が捨てよと言われるのも、「諸善」や「万行」のことではなく「自力の心」のことなのだ。
(中略)
「雑行を捨てよ」を「諸善は捨て物、必要ない」と曲解するのは、十九の願の門戸も知らず、弥陀・釈迦の「方便の善」もご存じない印象は覆いようもない。

とあります。
浄土真宗を少しでも学んだならば、一笑に伏す内容でしょう。

まず雑行の定義ですが、親鸞聖人は『教行信証』化土巻に

雑行とは、正助を除きて以外をことごとく雑行と名づく。これすなはち横出・漸教、定散・三福、三輩・九品、自力仮門なり。

と仰っています。雑行とは、正行以外の行で、「横出・漸教、定散・三福、三輩・九品、自力仮門なり。」ということですから、19願ともいえます。

ですから、

「雑行を捨てよ」は「19願を捨てよ」とほぼ同じ意味です。

また法然上人は『選択本願念仏集』で次のように仰っています。

いはく諸行は廃せんがために説く、念仏は立せんがために説く。

とか、あるいは

また念仏はこれ本願の行なり。諸行はこれ本願にあらず。

です。「諸善は捨て物、必要ない」と法然上人が仰っているのもご存じない印象は覆いようもないです。
親鸞聖人は『教行信証』行巻で念仏と諸善とを比較し、相対して論じられた中に

順逆対(念仏は本願に順じているが、諸善は本願に背いている)
選不選対(念仏は如来が選び取られた法であり、諸善は選び捨てられた法である)
有願無願対(念仏は本願の行であり、諸善は本願の行ではない)

があります。18願の行は念仏のみであり、諸善は18願の行ではない、つまり18願に背いた行であるということです。18願に背いた行であるから、捨てなければならないのは、言うまでもありません。

高森会長が雑行を説明する時に、よく言っていたのが、

五雑行は物柄が悪いから行自体を捨てなければならないが、諸善万行は物柄は良いが心がけが悪いから、その心がけを捨てなければならない

ですが、ここが根本的におかしいところです。高森会長の言葉を使うなら、

雑行は物柄が悪いから行自体を捨てなければならないが、自力念仏は物柄は良いが心がけが悪いから、その心がけを捨てなければならない

となります。行自体を捨てるのは雑行です。もちろん、五雑行を自分で捨てることができるのですから、諸善万行も自分で捨てることができるに決まっているではないですか。なぜなら、行なのですから、しなければいいだけのことです。簡単なことです。

そう言うと、

ではやりたい放題してもいいということか

と愚かな反論をしてくるのが親鸞会ですが、往生と無関係にする倫理道徳の善は大いに励むべきでしょう。往生と無関係なのですから、雑行ではありません。

高森会長も『なぜ生きる2』で言っていますよ。

「雑行」とは「弥陀の救いを求めて行う諸善(もろもろの善)」をいう。

では、弥陀の救いを求めて19願を実践したり、布施行をするのを止めて、弥陀の救いとは無関係に親孝行などをすればいいのです。

要するに、

「雑行を捨てよ」とは「親鸞会で勧める善を捨てよ」であって、「倫理道徳の善をするな」ではない。

こういうことです。

三願転入の法論は、名実ともにこれで完全終了でした。その後、この法論が行われたところは親鸞会の会員が管理していたことから、やり取りはすべて削除され、法論自体がなきものにされました。

もちろん、いたるところで法論の痕跡は残っていますので、法論自体がなかったことにはできず、追い詰められて『なぜ生きる2』を書いて、更に恥を晒したのは、言うまでもありません。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2015年6月18日 (木)

高森顕徹会長が大惨敗し逃亡した三願転入の法論7

出す根拠すべてが完全に裏目に出ていますので、ここで高森顕徹流の珍理論の方便を持ち出します。

未信の人が、18願だけで導かれるということですか?
19願力も、20願力も不要と言われるのでしょうか?
もしそうでしたら、19願力や20願力以外の、
18願力に方便(信前)もある、ということになりますが、
そのようなことを、親鸞聖人はどこにおっしゃっているのでしょう?

方便の意味を知っていれば、何と的外れなことを言っているのか、と嘲笑されるでしょうが、本人は本気で言っているのです。

簡単に間違いを説明すれば、親鸞会では

方便だからしなければならない

などと自信満々に主張していますが、親鸞聖人は

方便だから捨てよ

としか仰っていないのです。

例を挙げれば、

聖道門は方便だから捨てよ
化土は方便だから願うな

です。同じように、

19願(諸善)、20願(自力念仏)は方便だから捨てよ

です。

19願、諸善だけは方便だからせよ

になる訳がないです。小学生でも理解できることです。

もっといえば、方便が方便と信じられず、方便を真実と信じているから方便になるのです。
親鸞聖人は真実と方便を教えられました。しかし、親鸞聖人の真実18願の仰せを信じられず、方便と仰った聖道門、19願、20願をそれぞれ真実だと信じている人がたくさんあるのです。信じている人にとってはそれが真実ですが、そういう人にそれが真実ではないと説いても信じられないから、暫く機に応じて用いられる随他意の法門を説かれたのです。それが真実でなかったと理解できたならば、真実に誘引する権仮方便となるのです。

親鸞会の人は、仏教界のことを知らなさ過ぎますが、浄土門の人でも18願が真実と思えず、19願での往生、20願での往生を信じ願っている人が親鸞聖人の時代も、今もたくさんいるのです。18願での往生を信じられる人は少ないのです。
だからこそ、親鸞聖人は、19願は聖道門の人を浄土門に誘引する願であり、19願を実践しても化土往生しかできない方便の願だから、真実18願を信じなさい、と仰っているのです。

さて、珍問の答えはと言えば、源信僧都が『往生要集』に仰り、親鸞聖人が『教行信証』行巻に引かれた

『観経』に、「極重の悪人は、他の方便なし。ただ仏を称念して、極楽に生ずることを得」と。

です。
『高僧和讃』にも、

極悪深重の衆生は
 他の方便さらになし
 ひとへに弥陀を称してぞ
 浄土にうまるとのべたまふ

とあります。
念仏以外の方便は、極重の悪人にはないのです。
他の方便」とは、19願であり、諸善のことです。

19願も諸善も、不要だという親鸞聖人のお言葉です。

これも一撃でした。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2015年6月15日 (月)

高森顕徹会長が大惨敗し逃亡した三願転入の法論6

高森顕徹会長に対して、1か月以上質問し続けていたのですが、ようやく答えたのが以下の2つでした。

1.「親鸞聖人の三願転入の教え」という親鸞聖人のお言葉については、

『教行信証』全体

4.『一念多念証文』にある「浄土の方便の善」が「宿善」という根拠

これは、確かに申し上げました。
根拠は、

「いずれの経釈によるとも、すでに宿善に限れりと見えたり」(御文章)

の一言で充分でありましょう。

1は、論外です。根拠がないことをこのように表現したというのは、誰でも判る話です。
4については、親鸞会の現会員、元会員の人は、納得してしまうかもしれません。しかし、大変な間違いです。

まず、蓮如上人が仰ったところの前後は、『御文章』3帖目第12通

それ、当流の他力信心のひととほりをすすめんとおもはんには、まづ宿善・無宿善の機を沙汰すべし。さればいかに昔より当門徒にその名をかけたるひとなりとも、無宿善の機は信心をとりがたし。まことに宿善開発の機はおのづから信を決定すべし。されば無宿善の機のまへにおいては、正雑二行の沙汰をするときは、かへりて誹謗のもとゐとなるべきなり。この宿善・無宿善の道理を分別せずして、手びろに世間のひとをもはばからず勧化をいたすこと、もつてのほかの当流の掟にあひそむけり。
されば『大経』(下)にのたまはく、「若人無善本不得聞此経」ともいひ、「若聞此経 信楽受持 難中之難 無過斯難」ともいへり。また善導は「過去已曾 修習此法 今得重聞 則生歓喜」(定善義)とも釈せり。いづれの経釈によるとも、すでに宿善にかぎれりとみえたり。しかれば宿善の機をまもりて、当流の法をばあたふべしときこえたり。

です。宿善の機と無宿善の機があり、宿善の機には話をしてもよいが、無宿の機には話をしてはいけない、という内容です。親鸞会とは逆のことを仰っています。
親鸞会では、無宿の機だから話を聞かせなければならないし、無宿善の機の立場から言えば聞かなければならない、と教えます。しかし、蓮如上人は、無宿善の機には聞かせるな、ですから、親鸞会で言うところの宿善と蓮如上人が仰る宿善とは意味が違うということです。

蓮如上人が仰る宿善の機とは、18願1つを勧められた法然上人、親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人の教えられたことを受け入れられる人のことです。一方で無宿善の機は、聖道門の教えを信じて、また聖道門から浄土門に入りながらも法然上人、親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人の教えを素直に信じられない人のことになります。

したがって、蓮如上人の仰る「宿善にかぎれり」とは、18願1つを勧められた法然上人、親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人の教えられたことを受け入れられるかどうかにかかっていることを仰ったに過ぎません。

もちろん、「いづれの経釈によるとも、すでに宿善にかぎれりとみえたり」と、「浄土の方便の善」とは、直接の繋がりがないのです。

しかし、

『大経』(下)にのたまはく、「若人無善本不得聞此経」ともいひ、「若聞此経 信楽受持 難中之難 無過斯難」ともいへり。また善導は「過去已曾 修習此法 今得重聞 則生歓喜」(定善義)とも釈せり。

とあるから、過去に行ってきた善ではないのか、と思われる方があるかも知れませんが、これは「善本」の意味を考えられれば判られると思います。親鸞会でも「善本」とは、名号と教えています。根拠は、『教行信証』化土巻に

善本とは如来の嘉名なり。この嘉名は万善円備せり、一切善法の本なり。ゆゑに善本といふなり。

とある通りです。また「若人無善本不得聞此経」のお言葉を、親鸞聖人は化土巻の真門釈のところで引いておられます。要門釈ではありません。
高森会長も『会報 第三集』に

係念の宿善というのは過去に於て自力ながらも心を阿弥陀仏一仏にかけて念仏してきた善根をいい、諸仏の浄土を願わず、ただ弥陀一仏に念を係けて来たのだから係念といわれる。
『大無量寿経』には、これを「若人無善本」といい、二十願には「植諸徳本」と説かれている。『定善義』に「過去已曾・修習此法・今得重聞」とあるのも、この係念の宿善を示すものである。

と書いています。参考までに「係念の宿善」という言葉は、浄土宗の鎮西派で使われるものです。
ですから、蓮如上人がここで仰っている「宿善」には、諸善の意味は含まれていないのです。

結局のところ蓮如上人が仰っているのは

宿善の機=過去世に念仏を称えてきた人
無宿善の機=過去世に念仏を称えてこなかった人

ということです。

このように指摘されて、高森会長は完全に詰みました。

後はお決まりの論点ずらしで、雑行の珍釈、方便の珍釈を一方的に言い出すしか手がなくなりました。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2015年6月12日 (金)

高森顕徹会長が大惨敗し逃亡した三願転入の法論5

退会者のブログを盗作して、近年に親鸞会が重要視するようになった『一念多念証文』の

おほよそ八万四千の法門は、みなこれ浄土の方便の善なり。これを要門といふ。これを仮門となづけたり。
この要門・仮門といふは、すなはち『無量寿仏観経』一部に説きたまへる定善・散善これなり。定善は十三観なり、散善は三福九品の諸善なり。これみな浄土方便の要門なり、これを仮門ともいふ。この要門・仮門より、もろもろの衆生をすすめこしらへて、本願一乗円融無碍真実功徳大宝海にをしへすすめ入れたまふがゆゑに、よろづの自力の善業をば、方便の門と申すなり。

ですが、これは、もともと『教行信証』化土巻の

宗師(善導)の意によるに、「心によりて勝行を起せり。門八万四千に余れり。漸・頓すなはちおのおの所宜に称へり。縁に随ふものすなはちみな解脱を蒙る」(玄義分)といへり。
しかるに常没の凡愚、定心修しがたし、息慮凝心のゆゑに。散心行じがたし、廃悪修善のゆゑに。ここをもつて立相住心なほ成じがたきがゆゑに、「たとひ千年の寿を尽すとも、法眼いまだかつて開けず」(定善義)といへり。いかにいはんや無相離念まことに獲がたし。ゆゑに、「如来はるかに末代罪濁の凡夫を知ろしめして、相を立て心を住すとも、なほ得ることあたはじと。いかにいはんや、相を離れて事を求めば、術通なき人の空に居て舎を立てんがごときなり」(同)といへり。
「門余」といふは、「門」はすなはち八万四千の仮門なり、「余」はすなはち本願一乗海なり。

(現代語訳)

善導大師の説かれた『観経疏』によれば、「衆生の心にしたがって釈尊はすぐれた行をお説きになった。その教えは八万四千を超えている。漸教も頓教もそれぞれ衆生の資質にかなったものであり、縁にしたがってその行を修めればみな迷いを離れることができる」(玄義分)といわれている。
しかし、はかり知れない昔から迷い続けてきた愚かな凡夫は、定善の行を修めることができない。心を乱さず思いを一つに集中して浄土の相を観ずる行だからである。散善の行も修めることができない。悪い行いをやめて善い行いをすることだからである。このようなわけで、仏や浄土の相を観じて思いを一つに集中することさえできないのだから、『観経疏』には、「たとえ千年という長い寿命を費やしても、真実を見る智慧の眼が開かない」(定善義)といわれている。ましてすべての相を離れ、真如法性をそのまま観ずることなど決してできない。だから、『観経疏』には、「釈尊は、はるかに遠く、末法の世の煩悩に汚れた衆生のことを、仏や浄土の相を観じて思いを一つに集中することなどできないと見通しておられる。ましてすべての相を離れて真如法性を観じようとするなら、それは、神通力のないものが空中に家を建てようとするようなものであり、決してできるはずがない」(定善義)といわれている。
『観経疏』に「その教えは八万四千を超えている」(玄義文)といわれているのは、「教え」とは八万四千の方便の教えであり、自力聖道門のことである。「超えている」のは本願一乗海の教えであり、他力浄土門のことである。

を視点を変えて仰ったものです。

意味は、機に応じて釈尊は「八万四千の法門」を説かれました。その教え通りに如実に修行できれば解脱することができるのですが、そんな者は甚だ少ないのです。それで、『観無量寿経』で、定散二善を説かれたのですが、「常没の凡愚」には、定善も散善もできないので、そんな「常没の凡愚」のために、「八万四千の仮門」の他に「本願一乗海」である真実の法門、弘願があることを教えられている、ということです。

一言で言えば、化土巻では、仏教を

「門」はすなはち八万四千の仮門なり、
「余」はすなはち本願一乗海なり。

の二つに分けて教えられているだけですが、これを『一念多念証文』では、

八万四千の法門」を「本願一乗円融無碍真実功徳大宝海」に導くための方便という解釈で仰ったのです。つまり、聖道門と19願は、18願に導くための方便、ということですが、ポイントは、聖道門です。聖道門抜きの「八万四千の法門」はあり得ませんので、もし、全人類が必ず「八万四千の法門」を通って「本願一乗円融無碍真実功徳大宝海」に入るのならば、聖道門を通る必要があるということになります。

要するに、19願と言うのは、聖道門との関係抜きでは語ることができないのです。

八万四千の法門」とは、ほとんど聖道門と同義語といっても過言ではありませんが、聖道門から19願に誘引して、18願に導く、という以上のことは仰っていないことになります。

ですから、どんな屁理屈を使っても、『一念多念証文』の御文は、浄土門の人も含めた全人類は19願を必ず通って18願に入る、という意味にはなりません。

聖道門を19願に誘引する「浄土の方便の善」=「欣慕浄土の善根」を裏づける根拠でしかないのです。

鈍い高森顕徹会長も、この辺で自己矛盾に気が付いたようで、起死回生の詭弁を捻りだしてきます。もちろん、簡単に返り討ちにあいます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2015年6月 9日 (火)

高森顕徹会長が大惨敗し逃亡した三願転入の法論4

欣慕浄土の善根」というのは、親鸞聖人が19願を説明なされる中で、最重要キーワードと言えますが、高森顕徹会長も講師部員も、全く聞いたことがなかったため、mixiでの法論では完全に意表を突かれた形になりました。難しい話ではないのですが、こんなことさえ知らない無二の善知識なのです。

前回述べた第三深信ですが、この善導大師の解釈について『教行信証』化土巻に

これみな辺地・胎宮・懈慢界の業因なり。ゆゑに極楽に生ずといへども三宝を見たてまつらず。仏心の光明、余の雑業の行者を照摂せざるなり。仮令の誓願(第十九願)まことに由あるかな。仮門の教、欣慕の釈、これいよいよあきらかなり。

(現代語訳)

これらはみな自力の行であって、 辺地・疑城胎宮・懈慢界といわれる方便の浄土に生れる因なのである。 だから、 浄土に生れても仏を見たてまつることができず、 教えを聞くことができず、 菩薩や声聞たちを見ることもできない。 阿弥陀仏の光明は自力の行をまじえるものを照らしおさめることはないのである。第十九願を方便の願とするのは、まことに意味深いことである。釈尊が『観無量寿経』に定善・散善を説かれ、善導大師がこれは浄土を慕い願わせるための方便の教えであると解釈されたおこころが、いよいよ明らかに知られるのである。

とあります。19願、定散二善の実践に励んでも化土往生しかできないが、ではなぜそんな教えを説かれたのかと言えば、欣慕のためである、ということです。

また『三経往生文類』にも、

観経往生といふは、修諸功徳の願(第十九願)により、至心発願のちかひにいりて、万善諸行の自善を回向して、浄土を欣慕せしむるなり。

とやはり同じことを仰っています。
浄土を願っていない聖道門の人には、浄土を願わせる「欣慕浄土善根」が必要です。浄土を願わない者が往生することはないからです。そのための19願、定散二善という方便だと親鸞聖人は繰り返し仰っているのです。

念のため、聖道門と浄土門の定義を『教行信証』化土巻から

この界のうちにして入聖得果するを聖道門と名づく
安養浄刹にして入聖証果するを浄土門と名づく

浄土を願っていない人が聖道門浄土を願っている人が浄土門ということです。

それを先程の『三経往生文類』のお言葉を使って説明するなら、

万善諸行の自善を回向しないで、浄土を欣慕しないのが聖道門、
万善諸行の自善を回向して、浄土を欣慕するのが19願

となります。同じ善ですが、回向するかしないか、浄土を欣慕するかしないかの差が、聖道門と19願の違いになるのです。

ところが、これを敢えて捻くれた解釈をして誤魔化そうと、最近は

定散二善をすることで、十方衆生が浄土を願うのだ

と訳のわからないことを言っています。前後を反対にしたのです。

浄土を願って善を行えば、その人を19願の行者といい定散二善を修するという

が正しいのです。浄土を願っていなければ、定散二善にはなりません。聖道門の善です。

まとめて言いますと、

浄土を願っていない人とは聖道門の人のことであり、浄土を願って聖道門と同じ善を修すると、19願になり定散二善になるので、聖道門から浄土門へ導く方便の願が19願であり、方便の善が定散二善なのです。

浄土をすでに願っている浄土門の人に、「欣慕浄土の善根」は関係ないのが、親鸞聖人の教えです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2015年6月 6日 (土)

高森顕徹会長が大惨敗し逃亡した三願転入の法論3

浄土門の人にも19願が必要であるという根拠として親鸞会が出したのが、『一念多念証文』

おほよそ八万四千の法門は、みなこれ浄土の方便の善なり。これを要門といふ。これを仮門となづけたり。 この要門・仮門といふは、すなはち『無量寿仏観経』一部に説きたまへる定善・散善これなり。定善は十三観なり、散善は三福九品の諸善なり。これみな浄土方便の要門なり、これを仮門ともいふ。この要門・仮門より、もろもろの衆生をすすめこしらへて、本願一乗円融無碍真実功徳大宝海にをしへすすめ入れたまふがゆゑに、よろづの自力の善業をば、方便の門と申すなり。

です。「浄土の方便の善」とあるから、18願に入るには絶対に必要な「浄土の方便の善」なのだ、という訳のわからない理屈です。

現代語訳は

総じて八万四千といわれる釈尊の教えは、みな浄土の教えに導く方便としての善なのである。これを要門といい、これを仮門と名づけるのである。この要門・仮門というのは、すなわち『観無量寿経』にお説きになっている定善・散善の教えである。定善とは、心を一つに定めて修める十三の観察の行であり、散善とは、散漫な心のまま修める三福の行であり、九品のものの修めるさまざまな善である。これらはみな浄土の教えに導く方便としての要門であり、これを仮門ともいうのである。この要門・仮門により、さまざまな衆生を導き育んで、阿弥陀仏の本願すなわち一乗円融無礙の真実功徳の大宝海に導き入れてくださるのであるから、すべての自力の善は、これを方便の教えというのである。

ですが、「浄土の方便の善」とは、「浄土の教えに導く方便としての善」ということです。聖道門の人を浄土門に導くのが、「浄土の方便の善」ということで、浄土門の人を18願に導く「浄土の方便の善」ではありません。

親鸞会でしか話を聞いたことがなければ判りにくいと思いますが、これは、『教行信証』化土巻・隠顕釈

釈家(善導)の意によりて『無量寿仏観経』を案ずれば、顕彰隠密の義あり。顕といふは、すなはち定散諸善を顕し、三輩・三心を開く。しかるに二善・三福は報土の真因にあらず。諸機の三心は自利各別にして、利他の一心にあらず。如来の異の方便、欣慕浄土の善根なり。これはこの経の意なり。

(現代語訳)

善導大師の解釈された意向にしたがって 観無量寿経をうかがうと、 顕彰隠密の義がある。その顕とは、 定善・散善のさまざまな善を顕わすものであり、 往生するものについて上・中・下の三輩を区別し、 至誠心・深心・回向発願心の三心を示している。 しかし、 定善・散善の二善、 世福・戒福・行福の三福は、 報土に生れるまことの因ではない。 三輩のそれぞれがおこす三心は、 それぞれの能力に応じておこす自力の心であって、 他力の一心ではない。 これは釈尊が弘願とは異なる方便の法として説かれたものであり、 浄土往生を願わせるために示された善である。 これが観無量寿経の表に説かれている意味であり、 すなわち顕の義である。

にある、「如来の異の方便、欣慕浄土の善根」のことを指しています。

これは更に、善導大師の『散善義』深心釈の第三深信を指して仰ったものです。

また決定して深く、釈迦仏、この『観経』の三福・九品・定散二善を説きて、かの仏の依正二報を証讃して、人をして欣慕せしめたまふと信ず。

(現代語訳)

また釈迦仏がこの《観経》に、阿弥陀仏の依正二報を讃嘆せられて、三福・九品・定散二善の行を説かれてあるのは、衆生を誘引したもう方便の善である、と決定して深く信ずる。

『観無量寿経』に説かれている善は、「欣慕浄土の善根」、浄土往生を願わせるために示された善なのです。つまり、浄土を願っていない人に対して浄土を願わせるための善ということで、結局は、浄土を願っていない聖道門の人に対しての方便の善ということです。

元々の『教行信証』化土巻・要門釈

しかるに濁世の群萌、穢悪の含識、いまし九十五種の邪道を出でて、半満・権実の法門に入るといへども、真なるものははなはだもつて難く、実なるものははなはだもつて希なり。偽なるものははなはだもつて多く、虚なるものははなはだもつて滋し。
ここをもつて釈迦牟尼仏、福徳蔵を顕説して群生海を誘引し、阿弥陀如来、本誓願を発してあまねく諸有海を化したまふ。

が、聖道門の人に対して19願が建てられ、定散二善が説かれた、という解釈の正しさを裏付ける根拠になっただけです。

高森顕徹会長は完全に墓穴を掘ったのです。

これによって、高森会長はますます追い詰められます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2015年6月 4日 (木)

高森顕徹会長が大惨敗し逃亡した三願転入の法論2

18願の「十方衆生」と19願の「十方衆生」は、当然同じ意味だ、というのが親鸞会の理屈です。一見、まともなことを言っているように思えますが、よく調べてみると実は意味が違うのです。

mixiの法論で出たのが、『尊号真像銘文』

「唯除五逆誹謗正法」といふは、「唯除」といふはただ除くといふことばなり、五逆のつみびとをきらひ、誹謗のおもきとがをしらせんとなり。このふたつの罪のおもきことをしめして、十方一切の衆生みなもれず往生すべしとしらせんとなり。

です。

これは、「唯除五逆誹謗正法」という抑止のお言葉によって、抑止すべき五逆罪、謗法罪を造っている極悪人も含めた一切の衆生が18願の救いの対象になっていると親鸞聖人は教えられています。念の為申しますと、一切の衆生が五逆罪、謗法罪の者という意味ではありませんので、間違われないようにしてください。

一方で、19・20願にはこの抑止のお言葉がありませんので、抑止する必要のない善人のみを対象とされているということです。

つまり、三願には共通の「十方衆生」と誓いの対象が同じお言葉で表現されていても、その内容が異なっているのです。18願の「十方衆生」は「唯除五逆誹謗正法」とセットになってすべての人が対象で、漏れている人はありません。しかし、19・20願の「十方衆生」は「唯除五逆誹謗正法」と無関係の善人が対象ということになるのです。

このことは『大無量寿経』の異訳経を確認すると、更によく判ります。『大無量寿経』での18願と19願の対機は、共に「十方衆生」と表現されていますが、『平等覚経』『大阿弥陀経』では、救いの対象、対機が明らかに異なっています。

『大無量寿経』18願の「十方衆生
=『平等覚経』17願の「諸天人民蠕動之類者
=『大阿弥陀経』4願の「諸天人民飛蠕動之類
諸々の神々や人々や虫の類

『大無量寿経』19願の「十方衆生
=『平等覚経』18願の「諸佛國人民有作菩薩道者
=『大阿弥陀経』7願の「八方上下無央數佛國諸天人民若善男子善女人有作菩薩道
諸々の仏国土の菩薩の行を行う者

つまり、『大無量寿経』18願は、すべての生物です。漏れているものはいません。一方、『大無量寿経』19願は、菩薩の行を行える人と限定されています。虫も入っていませんし、人間でも菩薩の行を行えない悪人は入りません。ですから同じ「十方衆生」でも『大無量寿経』の18願と19願とでは対機が大きく異なるのです。

親鸞会は、全く反論できませんでした。これで完全終了なのですが、今まで無敗を装ってきた高森顕徹会長にとって、このまま終わる訳にはいかず、詭弁の反撃が試みられますが、すべて返り討ちにされ、醜態を曝すことになりました。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2015年6月 2日 (火)

高森顕徹会長が大惨敗し逃亡した三願転入の法論1

今から5年前、mixi上で、法論が行われました。内容は三願転入についてです。”こうへい”を名乗る講師部員の後ろで、高森顕徹会長が直接指示して進められた法論でしたが、結果は、親鸞会史上最悪の大惨敗でした。高森会長もこうへい氏も逃亡しただけでなく、トピック自体を削除するという暴挙にも出ました。
なぜにこのような大失態を曝したのかと言えば、高森会長が出してくる聖教上のお言葉が、悉く、断章取義、勘違い、曲解であったことが判ったからでした。
その時のやり取りの一部は、

親鸞会法論惨敗の記録~飛雲より

にも、まとめてあります。

無二の善知識を演じていた高森会長の実態を知った会員が、次々と退会し、それを喰い止めるために書いた本が『なぜ生きる2』です。その証拠に、『なぜ生きる2』で書いてある内容は、5年前のmixiでの法論の内容そのままであるからです。もちろん、間違いを指摘した内容は一切書いてありません。
ところがそんなことも知らない情報弱者の会員が、『なぜ生きる2』を鵜呑みにして、当ブログでコメントしてきたのには、少し驚きました。まだこんなことを言っているのかと。

5年という区切りの年でもありますし、もう一度、mixiでの三願転入の法論について振り返ってみたいと思います。

事の発端は、19願は誰のために建てられたのか、というところから始まっています。親鸞会側が出した根拠が『教行信証』化土巻

釈迦牟尼仏、福徳蔵を顕説して群生海を誘引し、阿弥陀如来、本誓願を発してあまねく諸有海を化したまふ。

でした。「群生海を誘引し」「あまねく諸有海を化したまふ」とあるから、全人類に関係があると自信満々に親鸞会側は言ったのです。

ところがこれが断章取義だったのです。この前に

しかるに濁世の群萌、穢悪の含識、いまし九十五種の邪道を出でて、半満・権実の法門に入るといへども、真なるものははなはだもつて難く、実なるものははなはだもつて希なり。偽なるものははなはだもつて多く、虚なるものははなはだもつて滋し。
ここをもつて(以下、上記に続く)

とあることを知らなかったのでしょう。読んだことがないのですから。
この意味は、

五濁の世の人々、煩悩に汚れた人々が、外道を出て、聖道門に入ったといっても、真実のものははなはだ少なく、虚偽のものははなはだ多い。このようなわけで、

となります。全体を簡単に言えば、

聖道門に入っても虚偽のものがはなはだ多いから、釈尊は定散二善を説かれ、阿弥陀仏は19願を建てられた

となります。19願を建てられた理由が、「聖道門に入っても虚偽のものがはなはだ多いから」なのです。

この根拠一つで、親鸞会の邪義が明らかになったのですが、そこで屁理屈を付けたのが、

聖道門の人だけでなく、浄土門の人も含まれている

という無茶苦茶な理屈です。判らない人のために一応言っておきますが、親鸞聖人は「ここをもつて」と繋いでおられますので、浄土門の人のことがどこにも書いてなければ、浄土門に入っている人は関係がないことになります。

そこで

19願が浄土門の人に勧められた根拠を出して

と詰め寄られて、迷走が始まります。

| | コメント (5) | トラックバック (0)

« 2015年5月 | トップページ | 2015年7月 »