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2015年5月13日 (水)

『観無量寿経』を一度も読んだことのない高森顕徹会長4

『観無量寿経』には、10種類の機について説かれています。そのことは退会者のブログで知ったのか、親鸞会でも近年になって言うようになりましたが、もちろん意味が違います。
まず、10種類の機とは

定善の機―──定善のできる機
上品上生─┐
上品中生  ├─行福のできる機
上品下生─┘
中品上生─┐
中品中生─┴─戒福のできる機
中品下生───世福のできる機
下品上生───無善十悪の機
下品中生───無善破戒の機
下品下生───無善五逆の機

ということです。
高森顕徹会長は、10の機といっても、真実は下品下生の逆謗の一機だと言っていますが、根本的に間違っています。敢えて書きましたが、定善の機は定善の【できる】機ですし、上品の三機は、行福の【できる】機です。定善・散善のできる機は存在しないのではなく、存在するから分けて説かれているのです。

ところで、念仏弾圧のきっかけとなった『興福寺奏状』第六には以下のようにあります。

もし専念なき故に往生せずとならば、智覚禅師は毎日一百箇の行を兼修せり、何ぞ上品上生を得たるや。

智覚禅師は、諸善を修して上品上生の往生を遂げられた、と書いていますが、これも含めて、法然上人の教えに徹底的な攻撃を聖道門の諸寺は加えて、承元の法難となりました。それに対して法然上人も親鸞聖人も、智覚禅師のことを次のように仰っています。

法然上人は『勅伝』

達磨宗の祖師、智覚禅師は、上品上生の往生人なり。

親鸞聖人は『教行信証』信巻

禅に参はり性を見ること、たれか高玉・智覚にしかんや。みな社を結び、仏を念じて、ともに上品に登りき。

(現代語訳)

高玉や智覚ほど禅定に入って自己の本性を見たものはいない。彼らもまた仲間とともに念仏し、すぐれた往生をとげた。

親鸞聖人も法然上人と同様に、智覚禅師は上品上生の往生をされた方との見方をされていることが判ります。

要するに、法然上人も親鸞聖人も更には聖道門でも、智覚禅師が行福のできた上品上生の方だとの認識で一致しているのです。

全人類が逆謗の一機だなどという考えは、聖道門にも法然上人にも親鸞聖人にも全くないことがお判り頂けると思います。
念のため言っておきますが、法然上人も親鸞聖人も、御自身のことでさえも、逆謗の機、下品下生だとまでは仰っていません。

高森会長の主張の根拠が大沼師にあることは、言うまでもありません。

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観無量寿経」カテゴリの記事

コメント

最近、読後にメーテルリンクの「青い鳥」を思い出します。縦の線がどうの、宿善がないと助からないとかの前に、「後生は私がどうこうできる問題ではない」という結論に達しました。そういうと十劫安心かとの非難になりそうですが、「往生するための方便を聞かされても実行できない、実行できないなら、私の機に合わない」と感じました。阿弥陀佛が成佛以来、私の身に沿うて離れず「任せろ」というなら「任せるより他どうにもならない」と信じております。これは間違いでしょうか。

投稿: | 2015年5月22日 (金) 22時47分

名無し 様

仰っていることは、その通りです。
蓮如上人が、「金を掘り出すような聖教」と絶賛された愛読書の『安心決定鈔』には

かるがゆゑに念仏の行者、名号をきかば、「あは、はやわが往生は成就しにけり、十方衆生、往生成就せずは正覚取らじと誓ひたまひし法蔵菩薩の正覚の果名なるがゆゑに」とおもふべし。また弥陀仏の形像ををがみたてまつらば、「あは、はやわが往生は成就しにけり、十方衆生、往生成就せずは正覚取らじと誓ひたまひし法蔵薩埵の成正覚の御すがたなるゆゑに」とおもふべし。また極楽といふ名をきかば、「あは、わが往生すべきところを成就したまひにけり、衆生往生せずは正覚取らじと誓ひたまひし法蔵比丘の成就したまへる極楽よ」とおもふべし。

とあります。
親鸞会では十劫安心と言ってけなしますが、これが他力の信心です。十劫安心との違いは、ここに三回出てくる「おもふべし」が有るか無いかの違いです。言葉を換えれば、疑心が有るか無いかの違いです。

投稿: 飛雲 | 2015年5月23日 (土) 05時17分

お忙しいところ、ご回答頂きまして有難うございます。すべての者を救いの対象にして本願を立てておられるなら、すべての者が行じられる行であり信心でなければ、極楽往生は絵に描いた餅でしかありません。衆生が差し向けた善もどきで、極楽往生がどうこうできるものではなく、阿弥陀仏のお誓いに任せるより他ありません。親鸞会が、縦の線やら、「宿善を厚くしなければ助かりません」というなら、宿善の薄い方が大半であろう末法においては、助からない衆生が大半で、阿弥陀仏の願いは叶いません。六道輪廻に苦しみ悩む衆生を極楽に生まれさせてやりたい、という願いを果たす本願ですから、衆生の「どうこうする、どうこうできる」という問題ではない。まして、真実の自己を知らせて助けるなど噴飯まのです。乱文ですが、このように領解してよろしいでしょうか。

投稿: | 2015年5月23日 (土) 15時11分

これでよいと思います。

投稿: 飛雲 | 2015年5月24日 (日) 21時19分

率直に申し上げて、質問があります。決してふざけているのではなく、自分も死期がそう遠くない年齢になり、この問題だけは決着をつけておきたいので、お尋ねします。

このコメント欄がふさわしいとは思いませんが、取り急ぎ質問します。飛雲さまなら、信心も学識も浅からぬゆえ、お答えいただけると思いました。さて、

阿弥陀仏の救いは、フィクションではないのでしょうか。真宗、仏教、宗教といっても、壮大なフィクションの体系ではないのでしょうか。死の苦しみの解決をなんとか図りたいという人々の願いに応える形で、発展したものではないのでしょうか。

それとも、信を得たら、やはりハッキリするものなのでしょうか。

お答えをよろしくお願い申し上げます。

投稿: 白澄 | 2015年5月26日 (火) 19時48分

白澄 様

フィクションかどうかということについては、正直答えようがありません。フィクションかノンフィクションかを証明する手だてがないからです。
そして信を獲ても、それを知る智恵がないからわかりません。

『執持鈔』には、

往生ほどの一大事、凡夫のはからふべきことにあらず、ひとすぢに如来にまかせたてまつるべし。すべて凡夫にかぎらず、補処の弥勒菩薩をはじめとして仏智の不思議をはからふべきにあらず、まして凡夫の浅智をや。かへすがへす如来の御ちかひにまかせたてまつるべきなり。これを他力に帰したる信心発得の行者といふなり。
さればわれとして浄土へまゐるべしとも、また地獄へゆくべしとも、定むべからず。故聖人[黒谷源空聖人の御ことばなり]の仰せに、「源空があらんところへゆかんとおもはるべし」と、たしかにうけたまはりしうへは、たとひ地獄なりとも故聖人のわたらせたまふところへまゐるべしとおもふなり。

とありますように、何もわからないのが信心ともいえます。
信心とは、「かへすがへす如来の御ちかひにまかせたてまつるべきなり」となったことを言います。

阿弥陀仏におまかせしたことだけが判る、これが信心です。

あとは、釈尊の教えられたこと、七高僧、親鸞聖人が仰ったことを信じることができるかどうかです。

投稿: 飛雲 | 2015年5月26日 (火) 20時11分

飛雲さま
さっそくのご返答、まことにありがとうございます。

簡潔で的確なお返事をありがとうございました。
お言葉をかみしめさせていただきます。取り急ぎ

投稿: | 2015年5月26日 (火) 20時32分

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