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2015年4月22日 (水)

『観無量寿経』を一度も読んだことのない高森顕徹会長1

19願について何も知らないのが高森顕徹会長ですが、もちろん『観無量寿経』の内容も知りません。高森会長は『観無量寿経』を一度も読んだこともないのですから、当然でしょう。

『観無量寿経』の初めに頻婆娑羅王について説かれています。釈尊は目連と富楼那とを頻婆娑羅王の元に遣わして、王の求めに応じて八戒を授けられています。その後、頻婆娑羅王は亡くなりますが、その際に

一々の光、頻婆娑羅の頂を照らす。そのとき大王、幽閉にありといへども心眼障なく、はるかに世尊を見たてまつりて頭面、礼をなし、〔王の心は〕自然に増進して阿那含と成る。

と説かれていますように、頻婆娑羅王は阿那含という小乗仏教のさとりを獲ています。

『序分義』には

いまこの光口より出でてただちに王頂を照らすは、すなはちその小果を授くることを明かす。
(中略)
まさしく父の王、光の頂を照らすことを蒙りて心眼開くることを得て、障隔多しといへども自然にあひ見る。 これすなはち光によりて仏を見たてまつるは、意の期するところにあらず、敬を致し帰依するにすなはち第三の果を超証することを明かす。

(現代語訳)

今この光明が口から出てただちに王の頂を照らすのは、 すなわちその小乗のさとりを授けられることを明かすのである。
(中略)
まさしく父の王が、 仏の光明が頂を照らすのを受けて心眼が開け、 いろいろ妨げは多いけれども、 自然に仏と相見ることを明かす。 これは、 仏の光明によって仏を見たてまつることが、 王の予期したところではない。 そこで、 つつしんで敬い帰依して、 とび超えて第三の不還果をさとったのである。

と善導大師は解説なされています。

釈尊は頻婆娑羅王に浄土のことさえ説かれておらず、小乗仏教(聖道仏教)を説かれたのです。

一方で韋提希は『観無量寿経』で

やや、願はくは世尊、わがために広く憂悩なき処を説きたまへ。われまさに往生すべし。
(中略)
世尊、このもろもろの仏土、また清浄にしてみな光明ありといへども、われいま極楽世界の阿弥陀仏の所に生ぜんことを楽ふ。やや、願はくは世尊、われに思惟を教へたまへ、われに正受を教へたまへ

等と釈尊に申し上げているように、浄土を願ったのですから、頻婆娑羅王とは違います。
『序分義』でも

これ如来夫人の極楽に生ぜんと願じ、さらに得生の行を請ずるを見たまふに、仏の本心に称ひ、また弥陀の願意を顕すをもつて、この二請によりて広く浄土の門を開けば、

(現代語訳)

これは如来が韋提希夫人を見られるのに、 極楽に往生しようと願い、 さらに往生を得るための行を請うことが、 釈迦仏の本心にかない、 また弥陀の願意を顕わすことを明かすのである。 この韋提希の二つの願いによって広く浄土の法門をあらわされた。

とされ、韋提希の願いに応じて釈尊が浄土の教えを初めて説かれたのです。

これが対機説法です。頻婆娑羅王と韋提希とは機が違い、できる行が違うので、違う教えを説かれたということです。

判りやすく言えば、聖道門の行のできる人には聖道門を説かれ、浄土を願った人には浄土門を説かれた、ということです。聖道門が無意味な教えでないことは、『観無量寿経』中の頻婆娑羅王を通してでも判ります。

『観無量寿経』の最初の部分だけでも、高森顕徹会長の邪義というか無知が明白になります。

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コメント

刷り込みが深く、時おり「親鸞会は正しいことも教えているのでは。根拠をあれだけ示しての法話だったのに。」の思いが出てくることがあります。もう、辞めて数年になるものの今だに貴殿のブログで確認する次第です。リクエストしていいですか。信心については「時刻の極促」、「明闇仏智」とあっとも、すっとも、ギャーとも言わないほどの速さで救われる、と教えられましたがこれはどういうことえすか。時間があれば、教えてください。

投稿: | 2015年4月26日 (日) 22時13分

親鸞会は根拠を少し示して、いわゆる断章取義だったり、その解釈が根本的に間違っていることばかりです。
たとえていえば、親鸞聖人が「左へ行きなさい」と仰っている個所を親鸞会が示して「左に行くことが正しい」と教えているとします。
ところがその前後をよくよく読んでみると、「左へ行きなさい、と教えている人があるがそれは遠回りの道で、近道は右に行くことです」と親鸞聖人は仰っているのです。
三願転入なんかもその典型です。

「時剋の極促」については、2通りの意味があって、信心を賜る最初の時をあらわしたものと、時間的なきわまりをあらわしたものです。後者の意味では、親鸞会の言っていることも間違ってはいませんが、そのことを親鸞聖人をはじめ、どなたも強調されて教えられてはいません。親鸞会でよくいう、「千歳の闇室」は意味が全く違います。五逆・十悪という罪と念仏との軽重のたとえで、「千歳の闇室」というどんな重罪であっても、「光」という念仏で消えさるということであって、罪が消える時間の長さを例えられたものではありません。

投稿: 飛雲 | 2015年4月28日 (火) 06時23分

では、親鸞会のビデオの内容は何を根拠として作られたのでしょうか?

個人の想作でけであれだけのアニメの内容が作れるとは思えません。

投稿: | 2016年3月19日 (土) 16時08分

後の名無し 様

可能性としては、大沼師の味わいによる創作を『観無量寿経』の内容と信じて、そこに更に邪義を加えたのでしょう。
ただし、これについては、検証したことがないので、私の想像です。
少なくとも、『観無量寿経』について読んで作ったのではありません。内容が全く違いますから。

投稿: 飛雲 | 2016年3月19日 (土) 16時14分

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