「ひとへに念仏すすめける」を「諸善すすめける」と大嘘をつく高森顕徹会長
親鸞聖人は、諸善を勧められてもいませんし、19願を勧められてもいません。その証拠が『なぜ生きる2』で、親鸞聖人が諸善、19願を勧められたお言葉を1つも出すことができません。ないのですから、出せないのは当然なことです。
では、七高僧方はどうかと言えば、それを『正信偈』に
印度西天之論家 中夏日域之高僧 顕大聖興世正意 明如来本誓応機
と仰っています。この意味について蓮如上人は『正信偈大意』に
「印度西天之論家 中夏日域之高僧 顕大聖興世正意 明如来本誓応機」といふは、印度西天といふは天竺なり、中夏といふは唐土(中国)なり、日域といふは日本のことなり。この三国の祖師等、念仏の一行をすすめ、ことに釈尊出世の本懐は、ただ弥陀の本願をあまねく説きあらはして、末世の凡夫の機に応じたることをあかしましますといへるこころなり。
と教えられています。「この三国の祖師等、念仏の一行をすすめ」は、諸善という他の行を勧められていないことを顕わされているということです。
『高僧和讃』等を見ても、「念仏を勧められた」とはあっても、「諸善を勧められた」とはどこにも仰っていません。
本師龍樹菩薩は
大乗無上の法をとき
歓喜地を証してぞ
ひとへに念仏すすめける
浄業さかりにすすめつつ
玄中寺にぞおはしける
魏の興和四年に
遥山寺にこそうつりしか
釈迦は要門ひらきつつ
定散諸機をこしらへて
正雑二行方便し
ひとへに専修をすすめしむ
「浄業」「専修」も念仏のことですが、勧められた行は、「ひとへに念仏」なのです。諸善を勧められていたら「ひとへに」ではありません。
あくまで方便として要門、諸善を教えられた、ということです。この方便も、高森会長が言っているような意味ではなく、「ひとへに念仏」に反発する「定散諸機」(=善人)のために、一時的に説かれた、という意味でしかないのです。
これは、定善・散善のできる善人には一時的に定善・散善を説かれて、最終的には「ひとへに念仏」と導く方便が必要であった、ということです。一方で善のできない悪人には源信讃に、
極悪深重の衆生は
他の方便さらになし
ひとへに弥陀を称してぞ
浄土にうまるとのべたまふ
とある通りです。「定散諸機」に説かれた「他の方便」は「さらになし」です。
まとめて言えば、自分は善のできない悪人だと思うなら最初から「ひとへに念仏すすめける」が親鸞聖人の教えですが、それに反発する善人がいるからそんな人には方便として諸善が教えられてはいるが最後は「ひとへに念仏すすめける」という二段階があるのです。これを対機説法と言います。
聖道門も19願も、何のため、誰のために説かれたのか、親鸞聖人は明確に教えられていることを知りながら、大嘘を言い続けている人物が、高森会長です。
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コメント
飛雲さま
「三国の祖師等、念仏の一行をすすめ」(正信偈大意)
「ひとへに念仏すすめける」(龍樹讃)
「浄業さかりにすすめつつ」(曇鸞讃)
「ひとへに専修をすすめしむ」(善導讃)
「ひとへに弥陀を称してぞ 浄土にうまる」(源信讃)
これらの御文で、「ひとへに念仏を勧められた」等とあるのは、行々相対で書かれたものです。
勧められている念仏は、信後の念仏のことですから、結局これらの御文は、「信心決定を勧められた」と読み替えなければならないのではないですか?
では、どうしたら信心決定させて頂くことができるのか?
「正雑二行方便し」
とあるように、善導大師は、信心決定までの道程(方便)を正雑二行にまとめて教えて下されているのですから、その教えの通り、五正行や六度万行が大切ということではないですか?
投稿: 一学徒F | 2015年3月 9日 (月) 13時35分
一学徒F 様
>これらの御文で、「ひとへに念仏を勧められた」等とあるのは、行々相対で書かれたものです。
>勧められている念仏は、信後の念仏のことですから、結局これらの御文は、「信心決定を勧められた」と読み替えなければならないのではないですか?
まず、ここが勝手な解釈と言えます。根拠のない勝手な読み替えをしてもよいのであれば、何でもOKになります。
親鸞聖人が常に問題にされているのは、行と信です。
19願の行は諸善、信は自力
20願の行は念仏、信は自力
18願の行は念仏、信は他力
今は行の話です。行は念仏でなければ、真実の報土に往生することはできません。
しかし、高森会長が行として念仏を勧めることはありません。諸善を勧めることしかないです。
ここが根本的に間違っていることをこのエントリーで言っているのです。
行が念仏である上で、信が自力か他力かを問うのが真宗です。行が念仏になるためにまず諸善に励むという理屈が一般常識でも通りませんし、もちろん真宗でもあり得ない話です。
>では、どうしたら信心決定させて頂くことができるのか?
>
>「正雑二行方便し」
>とあるように、善導大師は、信心決定までの道程(方便)を正雑二行にまとめて教えて下されているのですから、その教えの通り、五正行や六度万行が大切ということではないですか?
全くの創作捏造教義です。
他のエントリーで何十回も書いてきたことですが、簡単に言いますと、
善導大師は諸善を、聖道門の人を浄土門に導くための方便だと解釈なされたことをここで仰ったのであり、助業や六度万行が大切とは親鸞聖人を含めて、どなたも仰っていません。
その反対で「捨てよ」としか仰っていないことは、少しでも親鸞聖人の御著書を読めば判る、基本中の基本中の基本です。イロハのイです。
「捨てるためにはまずせよ」が高森会長の詭弁ですが、「捨てよ」に「まず拾え」という意味は古来から日本語にはありません。
「捨てよ」は、持っている人は捨てなさい、持っていなければ関係ない、ということです。
煙草を吸っている人にも吸っていない人にも、「吸うな」といいます。
「自殺をするな」を言われて、「まず自殺せよ」という馬鹿なことを言う人はいません。
具体的な根拠をこのコメントでは挙げませんが、必要なら、山ほど根拠を示しますので、遠慮なく仰ってください。
投稿: 飛雲 | 2015年3月 9日 (月) 13時57分
一学徒Fさんは立派ですよ
一生かけるんだから徹底的に検証した方が良いですよ
投稿: | 2015年3月 9日 (月) 21時47分
もう反論してこないのか…これほど高森学徒が脆いとは…
投稿: | 2015年3月10日 (火) 18時46分
行行相対で教えられている行は飛雲さんが言われるように信前信後のお念仏が含まれます。
お念仏と諸行の比較です。その後に行信論が来ます。
簡単に言えば諸行よりお念仏が優れていると言うことです。
どうして信後のみのお念仏と言われるのか、根拠が無いと思いますよ。
まず、そこが大きな間違いの始まりじゃ無いですか。
一度、行行相対という言葉をネットで調べてみてください。
親鸞会の間違った使い方が分かりますよ。
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏
投稿: とくよしみね | 2015年3月10日 (火) 23時32分
一学徒F さま
調べてみましたか。
廃版の会報は正しく書かれていますが、あなたの使われ方はおかしいでしょ。
途中が抜けていますよ。
せっかくここを覗いたんだから、最後まで調べてみてください。
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏
投稿: とくよしみね | 2015年3月11日 (水) 20時45分