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2015年3月 1日 (日)

高森顕徹会長自身が証明している”三願転入の教え”の嘘

何が何でも三願転入の親鸞会ですが、会員も少し考えれば、疑問も出てきそうなものです。私の経験から言えば、35周年の時に突如三願転入の話が出て、次の教学講義の際に、「三願転入は、親鸞聖人の教えの根基」と講師部員が講師部講義で高森顕徹会長から聞いたことを言いだして、びっくりしたものです。なぜなら、その「根基」を今まで話さず隠していたのかと思ったからです。
私の場合は、その後も会員を続けていたのですが、その疑問はずっと無くなることはありませんでした。

高森会長の話の変化からもわかる通り、三願転入自体を教えなくても、そして知らなくても、阿弥陀仏の救いとは直接関係がないのです。その証拠が高森会長自身の過去の布教だと言えます。
それと三願転入の最初の19願についても、高森会長が以前に勧めたことはなかった訳ですから、大いなる矛盾なのです。

では親鸞聖人が、18願に入るために19願の実践を勧められているかと言えば、全く勧められていません。その証拠も高森会長の著書『なぜ生きる2』です。19願を勧めた根拠を1つも示していません。

また三願転入の文は、『教行信証』化土巻に書かれていますが、それ以外には、全くありません。この『教行信証』化土巻の一か所をもって、これが親鸞聖人の教えの根基などと断言するのは、まともな思考ではありえません。

親鸞聖人は、『教行信証』を一般の同行に読むように勧められたとも考えられません。親鸞聖人が、同行に読むように勧められた書について、『御消息』に何箇所か仰っています。

おほかたは、『唯信抄』・『自力他力の文』・『後世物語の聞書』・『一念多念の証文』・『唯信鈔の文意』・『一念多念の文意』、これらを御覧じながら、慈信が法文によりて、おほくの念仏者達の、弥陀の本願をすてまゐらせあうて候ふらんこと、申すばかりなく候へば、かやうの御文ども、これよりのちには仰せらるべからず候ふ。

よくよく『唯信鈔』・『後世物語』なんどを御覧あるべく候ふ。

ただ詮ずるところは、『唯信鈔』・『後世物語』・『自力他力』、この御ふみどもをよくよくつねにみて、その御こころにたがへずおはしますべし。いづかたのひとびとにも、このこころを仰せられ候ふべし。

また親鸞も偏頗あるものときき候へば、ちからを尽して『唯信鈔』・『後世物語』・『自力他力の文』のこころども、二河の譬喩なんど書きて、かたがたへ、ひとびとにくだして候ふも、みなそらごとになりて候ふときこえ候ふは、いかやうにすすめられたるやらん。不可思議のことときき候ふこそ、不便に候へ。よくよくきかせたまふべし。

親鸞聖人御自身の著書としては、『唯信鈔文意』・『一念多念証文』が挙げられていますが、後は聖覚法印著の『唯信鈔』、隆寛律師著の『一念多念分別事』・『自力他力事』と隆寛律師著と伝えられる『後世物語聞書』と善導大師の「二河の譬喩」です。これらの中に、三願転入に関連する内容はありませんし、19願の勧め、善の勧めも全くありません。

要するに、三願転入は同行が知る必要もないし、もちろん教える必要もないことがということです。現に、覚如上人も蓮如上人も、三願転入について言及された箇所がありません。

高森会長が、三願転入三願転入と強調すればするほど、高森会長の悪知識ぶりと詐欺的教義が明白になるだけです。

ワシはそんなこと言っておらん

と思考停止の会員を黙らせることができても、『なぜ生きる2』という高森顕徹著の本を出した以上、世間を欺くことは不可能です。真宗史上最悪最低最下の知識として名を残したまま、そう遠くない時期に後生へと旅立つのでしょう。悪因悪果、自因自果ですからね。

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三願転入」カテゴリの記事

コメント

いつも 丁寧に 教えて頂き ありがとうございます。
親鸞会にいて 「高森会長 間違いなし」を前提に 、ただ会長の言葉を 聞き漏らさず、聴聞録がちゃんと書けるように という気持ちで聞いていたので、
まさか、高森会長が、こんな詐欺まがいの事を、最もらしく話し、自分も 「親鸞聖人の教えと かけ離れたでっち上げの話し」を 有難がっていたとは、
我ながら、哀れであり、滑稽です。
飛雲さまの、しっかり根拠のある理論的な ブログの内容で、今までも、これからも 親鸞会のウソに気づき 親鸞会から離れていける人が たくさんいらっしゃると思います。
これからも、ブログ 長く続けて頂きますようお願いいたします。

投稿: | 2015年3月 1日 (日) 09時41分

親鸞会の経験から
人を誉めたり貶したりするのがあほらしくなった。
みんなが会長を尊敬するから自分も尊敬する、周りがバカにするから自分もバカにする、そんな人間にはもうなりたくない。

投稿: | 2015年3月 3日 (火) 01時21分

浄土真宗とは名ばかりで、聖道此岸の因果に立って善を勧めている高森さんだもの、
死んでも因果の道理からは逃れられる訳はないですね。
ま、可哀相とも思わないけど、さんざん人の往生妨げた罰を受けて頂きましょう。
言い訳の効かない世界に行ってからね・・・

投稿: | 2015年3月 4日 (水) 03時32分

「蓮如上人以来の五百年にお一人の善知識」の冠をかつての弟子に取られて、「真宗史上最低の悪知識」「宗教詐欺師」の衣を着せられ反論の余地すらない。高森さん、あなた今の境遇「我が身の蒔いたタネ」と深心因果できますか。あなたはこの世で「救われた」ならば「できる」と言い続けていたのです。

投稿: | 2015年3月 5日 (木) 20時41分

信心決定もしていない講師や会員が、
なぜヒステリックに、他人の信心を間違いだと騒ぐのか根本的に分からないです。

親鸞聖人は、逆でした。
しかもヒステリックな汚い言葉を使われなかった。

投稿: | 2015年3月 7日 (土) 10時47分

信心の沙汰といっても、会長の教義がどれほど刷り込まれたのかを確認するのが目的だった、と思います。祖師の仰せを平座で議論できたら、今日の凋落はなかったのかも。

投稿: | 2015年3月 8日 (日) 17時07分

日曜の早朝、小杉駅に集う眼鏡、スーツ姿に大きな荷物。中には首から風呂敷をかけていた人も。お互い名前は知らねど、どんな思いで参詣したか、わかっていました。年は離れど同じ会館で泊まれば、午前6時に大きな声で「おはようございます」。何かに流されていた自分が何か取り戻せたか、のように思えたものでした。家族に近い存在と思っていた友も、退会とともに連絡拒否。私が、今も思い出すのは、ご説法終了後、緞帳が下りたその前に念仏称えて「彌陀、後生の一大事助け給え」の後ろ髪引かれる思いで去ったものでした。今となっては懐かしい思い出です。

投稿: | 2015年3月 8日 (日) 17時33分

本当たくさんの人が、親鸞会に人生振り回され、人生潰されたんですね。ため息がでます。でも知らないまま、人生終わった人に比べたら、まだ喜ぶべきなんでしょう、飛雲さん、本当に有難う。ずっと、無間地獄に怯えていたのです。お名前は存じませんが退会できたのは、あなたのおかげです。

投稿: | 2015年3月14日 (土) 16時55分

コメントいただいた皆様

コメント有難うございます。
親鸞会からの反論ももちろんなく、反応さえないので、更新も怠ってきましたが、少しずつ更新していきます。
ただし、同じことの繰り返しになりますので、その点は御了承ください。

投稿: 飛雲 | 2015年3月15日 (日) 10時49分

こちらの記事、すべて読ませて頂きました。
私は浄土真宗親鸞会に属するものであり、高森先生のご教導により、信心決定した者である。

親鸞会は世間の組織であり、信心決定するための縁に過ぎないが、会員の中には大学生でも信心決定した者も現れている。
ましてや講師部の方々は何人も信心決定している。生涯講師を志すのであるから、当然であろう。
どうしても信用できないなら、名前を挙げることもできるが。

しかし、仏とも法とも知らなかった者が手取り足取り丁寧なご縁を頂きながら、よくもこのような教えを破壊する記事を書けたものだ。
恐ろしい法謗罪である。

『では親鸞聖人が、18願に入るために19願の実践を勧められているかと言えば、全く勧められていません。その証拠も高森会長の著書『なぜ生きる2』です。19願を勧めた根拠を1つも示していません。

また三願転入の文は、『教行信証』化土巻に書かれていますが、それ以外には、全くありません。この『教行信証』化土巻の一か所をもって、これが親鸞聖人の教えの根基などと断言するのは、まともな思考ではありえません。』

上記の内容は全く間違っている。


親鸞聖人は。
「阿弥陀如来の本願に、真実と方便の両願がある」と断言なされている。以下に根拠を示す。

●願海に就きて、真有り仮有り。
(教行信証真仏土巻)

阿弥陀如来の三願には、「随自意の願」と
「随他意の願」がある。

・18願=随自意の願(阿弥陀仏が本心を誓われた願)=真実の願=他力=真実の教え

・19願、20願=随他意の願(本心ではないが、導くために、衆生の心に随って建てられた願)
=方便の願=自力=方便の教え

◎方便=真実を体得するのに絶対に必要な教えで、弥陀の救いに値うために、全ての人が必ず通らなければならない道。


また、真実と方便の違いを知らないから助からないのだ、と教えられた親鸞聖人のお言葉もある。
以下に根拠を示す。

●真・仮を知らざるによりて、如来広大の恩徳を迷失す。
(教行信証真仏土巻)


最後に、親鸞聖人の「三願転入」の御文と、その根拠を示す。

●ここを以て、愚禿釈の鸞、論主の解義を仰ぎ、宗師の勧化によりて、久しく万行・諸善の仮門(19願)を出でて、永くそう樹林下の往生を離れ、善本・徳本の真門(20願)に廻入して、偏に難思往生の心を発しき。
然るに今特に方便の真門を出でて、選択の願海(18願)に転入し、速に難思往生の心を離れて、
難思議往生を遂げんと欲す。果遂の誓、良に由有るかな。
(教行信証化土巻)


『18願に入るために19願の実践を勧められているかと言えば、全く勧められていません。』
とあなたは邪義を唱えているが、
19願の実践が勧められていない根拠を示してください。

投稿: ユウ | 2015年5月26日 (火) 08時27分

ユウ 様

よくも平気で嘘がつけるものだと呆れかえります。
講師部員の中で、信心決定したものがいないことは周知の事実です。装っている人はたくさんいることも周知の事実。

それは、お互い証明できないことなので、これ以上は言っても平行線でしょうからいいませんが、教義については完全に決着しています。

まず、

願に真実と方便がある、だから方便の願を捨てよとしか親鸞聖人は仰っていません。何十回と書いた通りで、それが理解できないようなら学校の先生に国語を習ってきてください。

簡単に言えば、聖道門も方便、神も方便と至る所で仰っていますが、方便の聖道門を実践したり、方便の神を拝む必要がありますか?
ありませんよね。同じことで、方便の願を実践する必要がない、それ以上なにも言うことがありません。

19願については、『浄土和讃』に

臨終現前の願により
 釈迦は諸善をことごとく
 『観経』一部にあらはして
 定散諸機をすすめけり

と仰っています。
高森会長は誤魔化していますが、19願は、「定散諸機」に勧められたものだとしか仰っていませんよ。

これと対をなすのが『高僧和讃』

極悪深重の衆生は
 他の方便さらになし
 ひとへに弥陀を称してぞ
 浄土にうまるとのべたまふ

です。
「極悪深重の衆生」には、19願という方便はない、「ひとへに弥陀を称して」というのが親鸞聖人の教えです。

三願転入の文も、七高僧のお導きにより、19願を出て離れた、ですが、それを七高僧のお導きによって19願に入った、と勘違いしているのが親鸞会会員です。

このブログは日本語の能力がそれなりにないと読めませんので、簡単にまとめた

浄土真宗親鸞会は、親鸞聖人のみ教えと同じか?
http://sinrankaix.exblog.jp/

を読んで勉強してきてください。
親鸞会が三願転入の法論で大惨敗した記録を知りたいのであれば、

親鸞会法論惨敗の記録~飛雲より
http://shinrankaiuso.hatenablog.com/

でも読んでみてください。レベルがかなり高いので、あなたには無理かもしれません。会長でも、講師部員でもいいですから、私と法論すれば、一目瞭然ですよ。

法論から逃げ回る会長と講師部員を見て、判断するのもいいでしょう。

過去の法論について、いつでも解説してさしあげますよ。

投稿: 飛雲 | 2015年5月26日 (火) 08時42分

「方便の願を捨てよ」とは、19願、20願を実践するな、ということではない。

弥陀が、私たちを助かる縁なき極悪人だとお見抜きになり、私たちを真実へ導くために建てられた方便の願が19願、20願である。

投稿: ユウ | 2015年5月26日 (火) 09時14分

残念ですが、19願については

「実践するな」

ということですね。
化土巻

『観経』の定散の諸機は、極重悪人、ただ弥陀を称せよと勧励したまへるなり。濁世の道俗、よくみづからおのれが能を思量せよとなり、知るべし。


19願の対機である「定散の諸機」についてさえ、「ただ弥陀を称せよと勧励したまへるなり」ですね。念仏だけを勧められた、と親鸞聖人が仰っています。
念押しとして、「よくみづからおのれが能を思量せよ」ですね。自分の能力をよくわきまえろ、です。

20願に関しては親鸞聖人は一部勧められているところがあるので、微妙ですが、大半は「20願を実践するな」です。

投稿: 飛雲 | 2015年5月26日 (火) 09時21分

ただ念仏さえ称えていれば助かる、と信じている人たちの誤りを破られた蓮如上人のお言葉を、御文章三帖から以下に示す。

●まず世間にいま流行して旨と勧むるところの念仏と申すは、ただ何の分別もなく南無阿弥陀仏とばかり称うれば皆助かるべきように思えり、
それはおおきに覚束なきことなり。


浄土真宗の教えは、
「信心正因称名報恩」 というのだよ。

同じ涙でもうれし涙や悲し涙があるように、
念仏と言っても唱え心次第で全く違うが、
信心決定し、お礼の気持ちで称える念仏が本物である。

投稿: ユウ | 2015年5月26日 (火) 09時50分

ということは、親鸞聖人が

「ひとへに弥陀を称してぞ 浄土にうまるとのべたまふ」
「ただ弥陀を称せよと勧励したまへるなり」

と仰ったことは、間違いだということですね。
親鸞聖人のお言葉を否定するとは、まるで日蓮宗の主張ですね。

一応、日本語講座として教えておきますが、蓮如上人のお言葉は

「それはおおきに覚束なきことなり」

ですね。極楽に往生できない、ではなく、「覚束なき」というあいまいな表現です。
ということは、極楽に往生する人もあり、往生できない人もある、ということになりますが、この程度のことは理解できますか?

蓮如上人が仰っていることは

自力の念仏では極楽に往生できない(化土往生)
他力の念仏では極楽に往生できる(報土往生)

ということです。

これが親鸞聖人の最大の特徴で、簡単に言うと、

19願の行ー諸善 信ー自力
20願の行ー念仏 信ー自力
18願の行ー念仏 信ー他力

ということですね。

したがって、19願は行も信も間違っていますから最初から最後まで、勧められることはない訳ですよ。
問題は20願ですが、これは行は正しいく、信が間違っているということで、行自体は勧められている訳で、行と言う観点においては念仏は常に勧められる訳です。しかし、信が自力では報土往生できないから、信を他力にしなさい、と教えられているのです。

まとめると、
行として諸善を勧められることは、親鸞聖人の教えには100%ない、行としては念仏だけしか勧められていない、
ただし、信が自力では間違いなので他力になりなさいとしか教えられていない。

こういうことですよ。

ちなみに、『浄土和讃』には

定散自力の称名は
 果遂のちかひに帰してこそ
 をしへざれども自然に
 真如の門に転入する

とありまして、自力の念仏から他力の念仏へ「自然に転入する」と教えられています。

この簡単な理屈が理解できないのが、親鸞会の会員です。

投稿: 飛雲 | 2015年5月26日 (火) 10時05分

あなたの理屈は分かりました。

では、弥陀の真実・18願を疑うぬぼれ心(自力の心)を破り、出来ぬことをできぬと信知させるために、弥陀が建立なされた19願を、あなたは通らないのですね?

実践した人にしか分からない境地、訪れない結果がありますよ。

「臨終現前の願により
 釈迦は諸善をことごとく
 『観経』一部にあらはして
 定散諸機をすすめけり」

釈迦がなぜ因果の道理を説き、なぜ廃悪修善を勧められたのか。
なぜ弥陀はすべての人を相手に三願を建立なされたのか。

仏教の根幹からもう一度学び直してください。

投稿: ユウ | 2015年5月26日 (火) 11時10分

>では、弥陀の真実・18願を疑うぬぼれ心(自力の心)を破り、出来ぬことをできぬと信知させるために、弥陀が建立なされた19願を、あなたは通らないのですね?
>
>実践した人にしか分からない境地、訪れない結果がありますよ。

これはあなたの理屈ですね。

七高僧も親鸞聖人も、覚如上人も蓮如上人も、妙好人も、誰一人として、

「19願を通りなさい」

とは仰っていないのですが、それを否定する高森会長とあなたは、浄土真宗を破壊する者ということになりますが、違いますかね。

>釈迦がなぜ因果の道理を説き、なぜ廃悪修善を勧められたのか。
>なぜ弥陀はすべての人を相手に三願を建立なされたのか。

これについても、すでに何十回と親鸞聖人のお言葉を出して解説してきました。

簡単に言えば、「定散諸機」に対して因果の道理を説き、廃悪修善を勧められたとしか親鸞聖人は仰っていません。

もう一度

「臨終現前の願により
 釈迦は諸善をことごとく
 『観経』一部にあらはして
 定散諸機をすすめけり」

19願により、
釈尊は諸善をすべて
『観経』の中に説かれて、
定散諸機という善人に勧められた

こういうことですが、どこに、悪人に対して諸善を勧められたとありますか?悪人に対して因果の道理を信じなさいと仰っていますか?

創作教義をひろめていることを謗法罪といいますが、ご存知ですか?

ちなみに因果の道理を深信することは、行福という散善の1つです。上品中生に説かれたレベルの高い善ですが、因果の道理を深信できるなら、あなたは上品中生の善人です。

親鸞聖人のお言葉でしか、私は説明してきませんでしたが、あなたにはそれがほとんどない。

どういうことかといえば、

親鸞聖人が仰っていないことを仰ったかのように嘘を言っているだけ

こういうことです。
日蓮宗でいう文底秘沈と同じですね。

以下でもじっくり読んで、学校の国語の先生にでも解説してもらってきてください。


浄土真宗親鸞会は、親鸞聖人のみ教えと同じか?
http://sinrankaix.exblog.jp/


親鸞会法論惨敗の記録~飛雲より
http://shinrankaiuso.hatenablog.com/

投稿: 飛雲 | 2015年5月26日 (火) 11時24分

ユウさんの悔しい気持ちはよくわかります。
飛雲さんの言われていることが間違いに決まっているから破邪顕正してやる、との正義感からコメントしたもののあえなく撃沈。
とどのつまり、お聖教の御文に根拠がないことをあるかのように信じ込んでいただけとわかっただけでもよかったじゃないですか。

親鸞会の最後の牙城が、因果の道理ですが、それについても上記のブログで飛雲さんが教えてくだされていますよ。
読む気がないかもしれませんので、ここに転載しておきます。


「飛雲」から親鸞会への教義非難

12.因果の道理について

親鸞聖人  罪福の因果を信じることは自力・仏智不思議を疑う心
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -- - - - -
高森会長  因果の道理を深信しなければならない


これに反論した親鸞会の回答
 なし

ダンマリの親鸞会に示した問答
「飛雲」の問答


問い

仏教の根幹は因果の道理です。
因果の道理を信じれば、廃悪修善の気持ちが出てきて当然です。

答え

親鸞聖人は「定散の専心とは、罪福を信ずる心をもつて本願力を願求す、これを自力の専心と名づくるなり。」(教行信証化土巻)と仰り、因果の道理を信じることは自力の心だと教えておられます。
また、「罪福信ずる行者は 仏智の不思議をうたがひて 疑城胎宮にとどまれば 三宝にはなれたてまつる」(正像末和讃)と、因果の道理を信じることは仏智不思議を疑う心だとまで仰っています。
つまり、因果の道理を信じるように勧めることは、自力・仏智不思議を疑う心を増長させることになります。


問い

因果の道理を深信するのが、仏教徒であり、親鸞学徒ではないですか。

答え

因果の道理を深信することは、散善の行福に当たりますし、上品中生の条件になります。「深く世・出世の苦楽二種の因果を信じ、これらの因果およびもろもろの道理に疑謗を生ぜざることを明かす。」(観無量寿経疏)。
ここまではできなくても、上品下生の条件として「所信の因果不定なることを明かす。 あるいは信じ信ぜず。 ゆゑに名づけて「亦」となす。 あるいはまた前の深信に同じかるべし。 また信ずといへども深からず。 善心しばしば退し、悪法しばしば起る。 これすなはち深く苦楽の因果を信ぜざるによりてなり。」(同)とあります。因果の道理を信じる時もあれば信じない時もある、深信ではないが浅くでも信じていることをいいます。
貴方の主張通りなら、親鸞学徒はみな上品下生以上の善人ということになります。


問い

因果の道理を否定しては、如何なる仏教も成り立ちません。

答え

親鸞会の言う自因自果を肯定しては、報土の因果は成り立ちません。
「しかれば、もしは行、もしは信、一事として阿弥陀如来の清浄願心の回向成就したまふところにあらざることあることなし。因なくして他の因のあるにはあらざるなりと、知るべし。」(教行信証信巻)。報土往生の因は、阿弥陀仏が回向なされた行と信以外にはありません。
つまり、衆生からすれば報土往生という果に対しては他因しかなく、自因は全くない、ということです。
もちろん炭素とダイヤのたとえも間違いになります。


問い

阿弥陀仏の本願も仏教ですから、因果の道理と無関係である筈がありません。

答え

覚如上人は「おほよそ他力の一門においては、釈尊一代の説教にいまだその例なき通途の性相をはなれたる言語道断の不思議なり」(改邪鈔)と仰っています。18願の教えは、釈尊一代の説法に例がなく、通仏教の教えとはまったく別の、言語を超絶した不思議な教え、ということです。
蓮如上人の愛読書であった『安心決定鈔』にも、「願行は菩薩のところにはげみて、感果はわれらがところに成ず。世間・出世の因果のことわりに超異せり。」とあります。18願の救いは、世間の因果・出世の因果に超異している、ということです。
要するに、因果の道理を信じれば信じる程、18願を疑うことになり、高森会長の話を聞くことは害にしかなりません。


問い

では、因果の道理の話を聞くことが18願の救いの害になるという根拠でもあるというのですか。

答え

覚如上人は「もし因果相順の理にまかせば、釈迦・弥陀・諸仏の御ほねをりたる他力の別途むなしくなりぬべし。」(改邪鈔)と仰っています。もし因果の道理にしたがうならば、釈尊と阿弥陀仏と諸仏が御苦労なされた、他力の特別な教えが空しくなってしまう、ということです。
世間の因果を、18願の救いと無関係に信じているだけなら、いいですよ。
なお、18願に救われるために因果の道理を信じなければならない、という根拠があるのなら、即座に出してください。


問い

信心決定したら、因果の道理が深信させられるのです。

答え

これこそ異安心の証拠です。
真実の信心を顕わされた二種深信を含む七深信の中に、「深信因果」はありません。
敢えて言うならば、第三深信の「また決定して深く、釈迦仏この『観経』に三福九品・定散二善を説きて、かの仏の依正二報を証讃して、人をして欣慕せしむと信ず。」(観無量寿経疏・教行信証信巻)が関係します。救われて深信させられることは、釈尊が『観無量寿経』に「深信因果」という散善を説かれたのは、浄土を願っていない聖道門の人に浄土を願わしめて浄土門に入れるための方便だった、ということです。
ところで、全人類の実機は因果を撥無する闡提ではなかったのですか。因果の道理を深信させられた闡提とは意味が判りません。

投稿: アイ | 2015年5月26日 (火) 11時54分

楽しくなってきましたね。
弥陀の大音は常に十方に響いていますよ♪

●あながちにもろもろの聖教を読み、物を知りたりというとも、一念の信心の謂を知らざる人は徒事なり。
(御文章)

●それ、八万の法蔵を知るというとも後世を知らざる人を愚者とす、たとい一文不知の尼入道なりというとも後世を知るを智者とすと言えり。
(御文章五帖)

いかに一切経を丸暗記していても、信心獲得の一念の体験がなければ、ただの物知りである。

親鸞聖人の御教えは私たちのような凡夫の頭では納得できないことはありますが、
それを自分の都合の良いようにねじ曲げることは恐ろしい謗法罪。
蓮如上人も仰られているように、ひたすら教えに従うのみです。

インテリ系の人は特に自分の理屈で迷いやく、相手にすると正直面倒。
たが見捨ててはおけない。

18歳の時に弥陀の救いに値われ、
親鸞聖人の御教えを正確に、私たちに分かるように、説いてくだされている高森先生を無二の善知識として仰ぐかどうかはあなたたちの自由です。
親鸞会以外の環境で信心決定できるならそれでいいのですよ。

私は他力の世界に出たとき、
全く弥陀のお力によって本願まことだったと知らされ、
自分が助かる縁なき極悪人だとはっきり知らされました。

そして今後も仏恩報謝の活動を続けます。

阿弥陀仏の救いは、すべての人が対象です。

今からでも遅くありません。

ぜひアイさんも皆さんもよい縁を求めてくださいませ。

投稿: ユウ | 2015年5月26日 (火) 13時24分

ユウ 様

完全な負け惜しみですね。
高森顕徹という人物について、私はあなたよりもずっとよく知っています。
その人物が嘘を平気でつくことも、直接に見聞きしてきました。

聖教の御文では、親鸞会が全く反論ができないのは、なぜでしょう。

いかなる法論でも受けると言いながら、私から逃げまくる高森会長のことを無二の善知識と信じるのは勝手ですが、公言するのは恥ずかしいことですよ。
自己の体験談でしか、”正しさ”を証明できないのは間違いだ、と高森会長が言っていたことを、お忘れでしょうか。

悔しければ、いつでも法論の相手をしますので、遠慮なく申し出てください。

ただし、”体験談”でしか話のできない、体験至上主義の方は、相手にしませんので、ご了承ください。


いつもの14項目

1.獲信していない人の死後はどうなるか

親鸞聖人 六道輪廻(19願・20願の同行は化土往生)
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高森会長 必堕無間

2.五逆罪・謗法罪について

親鸞聖人 造っている人と造っていない人がいる
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高森会長 造っていない人はいない、全ての人は生まれながらに造っている

3.善人と悪人について

親鸞聖人 善人と悪人とがいる
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高森会長 善人はいない、すべての人は悪人である

4.獲信のために善は必要か

親鸞聖人 念仏1つ、獲信に善は不要
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高森会長 善をしなければ絶対に獲信できない

5.白道とは

親鸞聖人 自力の心にあらず
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高森会長 自力

6.定散二善について

親鸞聖人 定散二善を捨てよ
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高森会長 定散二善をせよ

7.19願について

親鸞聖人 19願を捨てよ
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高森会長 19願を実践せよ

8.宿善について

親鸞聖人 過去世の善根の厚薄と、往生・獲信とは関係ない
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高森会長 過去世の善根の薄い者が、そのままで往生・獲信することはありえない

9.機の深信について

親鸞聖人 自力では出離できない
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高森会長 逆謗の屍と必ず知らされる

10.法の深信について

親鸞聖人 往生ほどの一大事、凡夫のはからふべきことにあらず
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高森会長 浄土往生が火に触ったよりも明らかに知らされる


11.善知識に無条件服従しなければならないか

親鸞聖人 法に従うのであって、人に従うのではない
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高森会長 善知識に無条件服従せよ

12.因果の道理について

親鸞聖人 罪福の因果を信じることは自力・仏智不思議を疑う心
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高森会長 因果の道理を深信しなければならない

13.三願転入について

親鸞聖人 聖道門の人を浄土門に導く方便が19願であり、19願の勧めはない
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高森会長 全人類は19願から始めなければならない

14.「一向専念無量寿仏」について

親鸞聖人 諸善を廃して念仏1つになること
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高森会長 阿弥陀仏1仏に向かって諸善をすることも含む

『歎異抄』について

第1章

1.「ただ信心を要とす」の「信心」とは

親鸞聖人 「ただ念仏で往生できる」と信じた心
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高森会長 「助かった」とハッキリした心

2.「本願を信ぜんには他の善も要にあらず」とは

親鸞聖人 本願に救われるには善は不要
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高森会長 救われたなら善は不要だが、救われる前には善が勧められている

3.「悪をもおそるべからず」とは

親鸞聖人 本願に救われるのに、悪が妨げになることはない
----------------------------------
高森会長 悪を恐れ不安になるのは、地獄一定の悪人と知らされていないからだ

第2章

4.「ただ念仏して」の「ただ」とは

親鸞聖人 念仏一行
-----------
高森会長 びっくり仰天

5.「総じてもつて存知せざるなり」とは

親鸞聖人 念仏が浄土に生れる因なのか地獄に行く因なのかを知る智慧を持っていない
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高森会長 知り過ぎた知らん

6.「弥陀の本願まことにおわしまさば」は仮定か断定か

親鸞聖人 仮定
--------
高森会長 断定

第3章

7.「善人なほもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや」とは

親鸞聖人 善人ではなく悪人のために18願を建てられた
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高森会長 「悪人」とは、全人類のことであり、「人間」の代名詞にほかならない

投稿: 飛雲 | 2015年5月26日 (火) 13時34分

どうやら、今生で高森先生とのご縁は尽きたようですね。

誠に残念です。

今回のやり取りがいずれの世かの仏縁になることを願います。

私はあなたの理屈に泣かされました。

さようなら。

投稿: ユウ | 2015年5月26日 (火) 13時45分

もちろん、高森会長との悪縁は断っています。

しかし、親鸞聖人との御縁、もちろん阿弥陀仏の御縁は親密になりました。

私の理屈ではなく、親鸞聖人の理屈に対して、何一つ反論できない体験至上主義を恥じるなら、心を入れ替えて、親鸞聖人の御著書を読んでみてください。

謗法の大罪を犯さないことを願うばかりですが、無理でしょうかね。哀れですね。

投稿: 飛雲 | 2015年5月26日 (火) 13時56分

ユウさんもこれで少しはわかられたと思います。
どんな屁理屈を捏ねても、高森親鸞会が親鸞聖人の教えとは似ても似つかぬ教えで、高森会長の言うことに、親鸞聖人と同じ内容のことがほとんどないということがです。

でもよかったではないですか、飛雲さんに泣かされて今気が付いて、臨終に気がついても遅いですからね。

これからは、体験至上主義の高森会長のことを疑って、まじめに親鸞聖人のお言葉に耳を傾けましょうね。

投稿: アイ | 2015年5月26日 (火) 16時00分

なんともあっけない幕切れでした。
ユウさんの主張(会長の主張)は、飛雲さんにとっては赤子の手を捻るくらい容易く論破されてしまいました。
余りと言えば余りにもお粗末教義です。

>私はあなたの理屈に泣かされました。

これは完敗ですと白旗を上げた証拠ですが、講師部員たるもの、こんなことでいいのですか?
破邪の闘士、顕正の菩薩が、聞いて呆れるというものです。

投稿: 元幽霊学徒 | 2015年5月26日 (火) 18時22分

見捨ててはおけないので再びコメントさせて頂く。

私はあなたの理屈に泣かされました(親鸞聖人の教えを自分の都合の良いようにねじ曲げる、救いようのない屁理屈馬鹿だと呆れました)が、あなたを光へ向かわせるために最終警告をして差し上げましょう。これで最後です。さよなら。


>19願については、『浄土和讃』に

臨終現前の願により
 釈迦は諸善をことごとく
 『観経』一部にあらはして
 定散諸機をすすめけり

と仰っています。
高森会長は誤魔化していますが、19願は、「定散諸機」に勧められたものだとしか仰っていませんよ。


上記は19願を否定するあなたに都合のよい勝手な理屈ですね。そもそも定散諸機の意味を分かっていますか?
定散諸機とは、弥陀の救いを求めて、定善や散善を実行する人々、つまり悪人のことです。
全人類は、微塵の悪も見逃さぬ見聞知の仏様の眼から見れば全員極悪人です。

さらに近年発見された親鸞聖人ご真筆のご和讃には、

●如来の遺教(生涯、弥陀の19願=方便を解説された釈迦の教え)を疑謗し
方便破壊せんものは
弓削の守屋と思うべし
親しみ近づくことなかれ (親鸞聖人)

弥陀の19願は要らないと言っているあなたは、方便破壊してることになりますね。

また、親鸞聖人は教行信証化身土巻に

●釈迦むに仏、福徳蔵(19願)を顕説して群生海(すべての人)を誘引し、阿弥陀如来、本、誓願を発して普く諸有海(すべての人)を化したまう。既にして悲願有す、「修諸功徳の願」(19願)と名づく

●仮令の誓願(19願)、良に由あるかな。(不可欠な深いご方便だったと知らされたこと)
仮門の教、ごんぼの釈、これいよいよ明らかなり

と仰っています。

19願が特別な人や一部の人だけに限定されて説かれたという邪義をいつまで騒ぎ続けるつもりなのだろうか。
親鸞聖人が通られた19願をなぜ不要と言えるのだろうか。


>これと対をなすのが『高僧和讃』

極悪深重の衆生は
 他の方便(19願、20願以外の方便は)さらになし
 ひとへに弥陀を称してぞ
 浄土にうまるとのべたまふ

です。
「極悪深重の衆生」には、19願という方便はない、「ひとへに弥陀を称して」というのが親鸞聖人の教えです。


上記も19願を実践したくないあなたの勝手な理屈ですね。

もし19願という方便がないというなら、浄土和讃の

●諸善万行ことごとく
至心発願せるゆえに(19願のこと)
往生浄土の方便の
善とならぬはなかりけり

は一体何なんですか?完全な矛盾ですね。

阿弥陀如来に向かっての諸善はすべて宿善になると親鸞聖人は仰っているではありませんか。

また、御文章には

●いずれの経釈によるとも既に宿善に限れりと見えたり

●無宿善の機に至りては力及ばず

●されば弥陀に帰命すというも信心獲得すというも宿善にあらずということなし

と無宿善は絶対に助からないと仰っています。

さらに後生の一大事を知らされるほど、善根功徳を修めずにおれなくなるものだと蓮如上人は教えられています。

●これにつけても、人間は老少不定と聞く時はは、急ぎいかなる功徳・善根をも修しいかなる菩提・涅槃をも願うべき事なり。
(御文章)

最後に、あなたが大変尊敬している親鸞聖人が、
19願は、弥陀が18願・真実の願へ十方衆生(すべての人)を導き入れるために不可欠な方便だと明かされている和讃を以下に示します。

●至心発願欲生と
十方衆生を方便し
衆善の仮門(諸々の善をせよという方便)ひらきてぞ
現其人前と願じける

一体善の実践(19願)を否定する根拠がどこにあるというのか。
廃悪修善を徹底するための因果の道理、19願に励むために仏教の根幹である

投稿: ユウ | 2015年6月 1日 (月) 05時18分

19願に励むため、仏教の根幹である因果の道理からもう一度学び直してください。

投稿: ユウ | 2015年6月 1日 (月) 05時24分

ユウ 様

このブログの中で何十回と書いてきたことですし、5年前のmixiでの三願転入法論すでに出尽くした内容ですね。
だから、それを読んでといったのに、恥の上塗りとはこういうことをいうのですよ。

>上記は19願を否定するあなたに都合のよい勝手な理屈ですね。そもそも定散諸機の意味を分かっていますか?
>定散諸機とは、弥陀の救いを求めて、定善や散善を実行する人々、つまり悪人のことです。
>全人類は、微塵の悪も見逃さぬ見聞知の仏様の眼から見れば全員極悪人です。

あなたは正信偈も読んだことがないようですね。

定散と逆悪とを矜哀して、光明・名号因縁を顕す。

「定散諸機」と「逆悪の機」と別に仰っています。善人と悪人のこと。
お勤めもしたことがなければ、話になりません。


>●如来の遺教(生涯、弥陀の19願=方便を解説された釈迦の教え)を疑謗し
>方便破壊せんものは
>弓削の守屋と思うべし
>親しみ近づくことなかれ (親鸞聖人)

>弥陀の19願は要らないと言っているあなたは、方便破壊してることになりますね。

これはね、親鸞聖人がお手紙の中に仰っていること。

そのゆゑは、釈迦如来のみことには念仏する ひとをそしるものをば「名無眼人」と説き、「名無耳人」と仰せおかれたることに候ふ。善導和尚は、「五濁増時多疑謗 道俗相嫌不用聞 見有修行起瞋毒方便破壊競生怨」(法事讃・下)とたしかに釈しおかせたまひたり。この世のならひにて念仏をさまたげんひとは、そのところの領家・地頭・名主のやうあることにてこそ候はめ、とかく申すべきにあらず。念仏せんひとびとは、かのさまたげをなさんひとをばあはれみをなし、不便におもうて、念仏をもねんごろに申して、さまたげなさんを、たすけさせたまふべしとこそ、ふるきひとは申され候ひしか。よくよく御たづねあるべきことなり。

「念仏するひとをそしるもの」「念仏をさまたげんひと」のことを「如来の遺教を疑謗し方便破壊せんもの」と仰っている訳ですよ。
つまり、高森会長とあなたが、「如来の遺教を疑謗し方便破壊せんもの」ということ。

この善導大師のお言葉を法然上人は『選択本願念仏集』でこう仰っています。

善導の『法事讃』(下)に、この文を釈していはく、
「世尊法を説きたまふこと、時まさに了りなんとして、慇懃に弥陀の名を付属したまふ。
五濁増の時は疑謗多く、道俗あひ嫌ひて聞くことを用ゐず。修行することあるを見ては瞋毒を起して、方便して破壊して競ひて怨を生ず。
かくのごとき生盲闡提の輩は、頓教を毀滅して永く沈淪す。
大地微塵劫を超過すとも、いまだ三途の身を離るることを得べからず。
大衆同心にみな、あらゆる破法罪の因縁を懺悔せよ」と。

「方便して破壊して」であって、「方便を破壊して」ではないのですよ。この「方便」は、手段、方法という一般的な意味ですよ。
ちなみに、聖道門も方便ですし、神も方便と仰っていますが、聖道門を謗り、神を貶している親鸞会は完全に「方便破壊せんもの」ですね。


>●釈迦むに仏、福徳蔵(19願)を顕説して群生海(すべての人)を誘引し、阿弥陀如来、本、誓願を発して普く諸有海(すべての人)を化したまう。既にして悲願有す、「修諸功徳の願」(19願)と名づく

この前に、

しかるに濁世の群萌、穢悪の含識、いまし九十五種の邪道を出でて、半満・権実の法門に入るといへども、真なるものははなはだもつて難く、実なるものははなはだもつて希なり。偽なるものははなはだもつて多く、虚なるものははなはだもつて滋し。
ここをもつて

とある訳ですね。つまり。外道から聖道門に入りながら偽なるもの虚なるものが多いから、阿弥陀仏は十九願を建てられ、釈尊は定散二善を説かれた。
この一文で、高森会長は大惨敗をしたのが、mixiでの法論だったのですがね。


>●仮令の誓願(19願)、良に由あるかな。(不可欠な深いご方便だったと知らされたこと)
>仮門の教、ごんぼの釈、これいよいよ明らかなり


「欣慕」の意味も知らないようですね。
これは善導大師が仰った第三深信

また決定して、釈迦仏、この『観経』に三福・九品・定散二善を説きて、かの仏の依正二報を証讃して人をして欣慕せしむと深信すと。

のことで、浄土を願っていない人に浄土を願わせるために釈尊が三福・九品・定散二善を説かれたと深信する、ということで、浄土を願っていない聖道門の人に浄土を願わせて浄土門に入れさせるために三福・九品・定散二善を説かれたということ。

つまりは、聖道門で偽、虚なる人のために説かれた、ということですよ。


>●諸善万行ことごとく
>至心発願せるゆえに(19願のこと)
>往生浄土の方便の
>善とならぬはなかりけり

>は一体何なんですか?完全な矛盾ですね。

これはね、現代語訳してあげると

諸善万行はすべて、
至心発願したならば、
往生浄土の方便の
善となるのですよ

ということ。聖道門で教えられている諸善万行は、浄土を願っての善ではないが、
それを至心発願と浄土を願ったならば、往生浄土の方便の善となる、つまり定散二善となる、もっといえば雑行になる、と教えられたもの。
聖道門の善と浄土門の善との関係は「至心発願」するかしないか、先程の言葉を使えば「欣慕浄土」するかしないかの違いということですよ。

雑行の定義を親鸞聖人は化土巻で


それ雑行・雑修、その言一つにして、その意これ異なり。雑の言において万行を摂入す。五正行に対して五種の雑行あり。雑の言は、人・天・菩薩等の解行、雑せるがゆゑに雑といへり。もとより往生の因種にあらず、回心回向の善なり。ゆゑに浄土の雑行といふなり。


と仰っています。「もとより往生の因種にあらず」の諸善万行を、「回心回向」したら「浄土の雑行といふなり」なのです。
雑行の説明をこの和讃でされたということ。説明されたら、勧められたと思っているのですか?
聖道門の説明を親鸞聖人は、何箇所かでされてますが、あなたの理屈なら聖道門の説明をされているから、聖道門を勧められている訳ですね。

投稿: 飛雲 | 2015年6月 1日 (月) 05時44分

>●いずれの経釈によるとも既に宿善に限れりと見えたり

>●無宿善の機に至りては力及ばず

>●されば弥陀に帰命すというも信心獲得すというも宿善にあらずということなし

宿善の意味も分かっていないでしょ。

一番目のお言葉の前後に

それ、当流の他力信心のひととほりをすすめんとおもはんには、まづ宿善・無宿善の機を沙汰すべし。さればいかに昔より当門徒にその名をかけたるひとなりとも、無宿善の機は信心をとりがたし。まことに宿善開発の機はおのづから信を決定すべし。されば無宿善の機のまへにおいては、正雑二行の沙汰をするときは、かへりて誹謗のもとゐとなるべきなり。この宿善・無宿善の道理を分別せずして、手びろに世間のひとをもはばからず勧化をいたすこと、もつてのほかの当流の掟にあひそむけり。
されば『大経』(下)にのたまはく、「若人無善本不得聞此経」ともいひ、「若聞此経 信楽受持 難中之難 無過斯難」ともいへり。また善導は「過去已曾 修習此法 今得重聞 則生歓喜」(定善義)とも釈せり。いづれの経釈によるとも、すでに宿善にかぎれりとみえたり。しかれば宿善の機をまもりて、当流の法をばあたふべしときこえたり。

とありますね。
これは、簡単に言うと宿善の機には話をしてもよいが、無宿善の機には話をしてはいけない、ということを説明されたものです。
宿善の機とは、蓮如上人が話をされる親鸞聖人の教えを聞きたいと言う人、無宿善の機とは、親鸞聖人の教えを聞く気のない人のこと。
善とは無関係ですね。その証拠が、「若人無善本不得聞此経」ですが、「善本」とは念仏のことと会長も教えていたでしょ。
過去世に念仏を称えてこなかった人は、この経を聞くことができない、ということで善とは無関係ですよ。
同じことで「過去已曾 修習此法 今得重聞 則生歓喜」は、過去に「此法」を聞いてきた人が、今重ねて「此法」を聞いて救われる、のですから、「此法」とは普通に考えれば18願のことですが、もう少し調べると20願も含めた内容のことであって、19願は含まれていません。


>さらに後生の一大事を知らされるほど、善根功徳を修めずにおれなくなるものだと蓮如上人は教えられています。

>●これにつけても、人間は老少不定と聞く時はは、急ぎいかなる功徳・善根をも修しいかなる菩提・涅槃をも願うべき事なり。
(御文章)

これも前後をしっかり読まないから珍釈になるのですよ。


それ、当時世上の体たらく、いつのころにか落居すべきともおぼえはんべらざる風情なり。しかるあひだ、諸国往来の通路にいたるまでも、たやすからざる時分なれば、仏法・世法につけても千万迷惑のをりふしなり。これによりて、あるいは霊仏・霊社参詣の諸人もなし。これにつけても、人間は老少不定ときくときは、いそぎいかなる功徳善根をも修し、いかなる菩提涅槃をもねがふべきことなり。
しかるに今の世も末法濁乱とはいひながら、ここに阿弥陀如来の他力本願は今の時節はいよいよ不可思議にさかりなり。


前半は、この世の中が乱れて大変な時期でこんな時には、「人間は老少不定ときくときは、いそぎいかなる功徳善根をも修し、いかなる菩提涅槃をもねがふべきことなり」のはずなのに、現実は「霊仏・霊社参詣の諸人もなし」だなあ。
「しかるに」阿弥陀仏の18願は今盛んになっている。

「しかるに」とは、前の話題と次の話題を変える時に使います。前の話題の延長の時には、「しかれば」です。
簡単に言えば、

聖道門では善を勧めているからこんな世の中なら盛んになってもいいはずなのにさびれているな、しかし、18願は盛んだよ

ということです。だから、国語の先生に教えてもらいなさいと忠告してあげたのに。


>●至心発願欲生と
>十方衆生を方便し
>衆善の仮門(諸々の善をせよという方便)ひらきてぞ
>現其人前と願じける

これは19願をそのまま和讃に言いかえられたものです。
その19願の意味を親鸞聖人が

臨終現前の願により
 釈迦は諸善をことごとく
 『観経』一部にあらはして
 定散諸機をすすめけり

と解説なされている訳ですよ。

もう一度言いましょうか、蓮如上人の『正信偈大意』に

「善導独明仏正意 矜哀定散与逆悪」といふは、浄土門の祖師その数これおほしといへども、善導にかぎり独り仏証をこうて、あやまりなく仏の正意を明かしたまへり。されば定散の機をも五逆の機をも、もらさずあはれみたまひけりといふこころなり。


とありますが、「されば定散の機をも五逆の機をも、もらさずあはれみたまひけり」なんですね。「定散の機」は善人、「五逆の機」は悪人の代表で違うのですよ。

日本語は理解できますか?

投稿: 飛雲 | 2015年6月 1日 (月) 06時03分

因果の道理については一口問答をもう一度読みましょう。


問い

仏教の根幹は因果の道理です。
因果の道理を信じれば、廃悪修善の気持ちが出てきて当然です。

答え

親鸞聖人は「定散の専心とは、罪福を信ずる心をもつて本願力を願求す、これを自力の専心と名づくるなり。」(教行信証化土巻)と仰り、因果の道理を信じることは自力の心だと教えておられます。
また、「罪福信ずる行者は 仏智の不思議をうたがひて 疑城胎宮にとどまれば 三宝にはなれたてまつる」(正像末和讃)と、因果の道理を信じることは仏智不思議を疑う心だとまで仰っています。
つまり、因果の道理を信じるように勧めることは、自力・仏智不思議を疑う心を増長させることになります。


問い

因果の道理を深信するのが、仏教徒であり、親鸞学徒ではないですか。

答え

因果の道理を深信することは、散善の行福に当たりますし、上品中生の条件になります。「深く世・出世の苦楽二種の因果を信じ、これらの因果およびもろもろの道理に疑謗を生ぜざることを明かす。」(観無量寿経疏)。
ここまではできなくても、上品下生の条件として「所信の因果不定なることを明かす。 あるいは信じ信ぜず。 ゆゑに名づけて「亦」となす。 あるいはまた前の深信に同じかるべし。 また信ずといへども深からず。 善心しばしば退し、悪法しばしば起る。 これすなはち深く苦楽の因果を信ぜざるによりてなり。」(同)とあります。因果の道理を信じる時もあれば信じない時もある、深信ではないが浅くでも信じていることをいいます。
貴方の主張通りなら、親鸞学徒はみな上品下生以上の善人ということになります。


問い

因果の道理を否定しては、如何なる仏教も成り立ちません。

答え

親鸞会の言う自因自果を肯定しては、報土の因果は成り立ちません。
「しかれば、もしは行、もしは信、一事として阿弥陀如来の清浄願心の回向成就したまふところにあらざることあることなし。因なくして他の因のあるにはあらざるなりと、知るべし。」(教行信証信巻)。報土往生の因は、阿弥陀仏が回向なされた行と信以外にはありません。
つまり、衆生からすれば報土往生という果に対しては他因しかなく、自因は全くない、ということです。
もちろん炭素とダイヤのたとえも間違いになります。


問い

阿弥陀仏の本願も仏教ですから、因果の道理と無関係である筈がありません。

答え

覚如上人は「おほよそ他力の一門においては、釈尊一代の説教にいまだその例なき通途の性相をはなれたる言語道断の不思議なり」(改邪鈔)と仰っています。18願の教えは、釈尊一代の説法に例がなく、通仏教の教えとはまったく別の、言語を超絶した不思議な教え、ということです。
蓮如上人の愛読書であった『安心決定鈔』にも、「願行は菩薩のところにはげみて、感果はわれらがところに成ず。世間・出世の因果のことわりに超異せり。」とあります。18願の救いは、世間の因果・出世の因果に超異している、ということです。
要するに、因果の道理を信じれば信じる程、18願を疑うことになり、高森会長の話を聞くことは害にしかなりません。


問い

では、因果の道理の話を聞くことが18願の救いの害になるという根拠でもあるというのですか。

答え

覚如上人は「もし因果相順の理にまかせば、釈迦・弥陀・諸仏の御ほねをりたる他力の別途むなしくなりぬべし。」(改邪鈔)と仰っています。もし因果の道理にしたがうならば、釈尊と阿弥陀仏と諸仏が御苦労なされた、他力の特別な教えが空しくなってしまう、ということです。
世間の因果を、18願の救いと無関係に信じているだけなら、いいですよ。
なお、18願に救われるために因果の道理を信じなければならない、という根拠があるのなら、即座に出してください。


問い

信心決定したら、因果の道理が深信させられるのです。

答え

これこそ異安心の証拠です。
真実の信心を顕わされた二種深信を含む七深信の中に、「深信因果」はありません。
敢えて言うならば、第三深信の「また決定して深く、釈迦仏この『観経』に三福九品・定散二善を説きて、かの仏の依正二報を証讃して、人をして欣慕せしむと信ず。」(観無量寿経疏・教行信証信巻)が関係します。救われて深信させられることは、釈尊が『観無量寿経』に「深信因果」という散善を説かれたのは、浄土を願っていない聖道門の人に浄土を願わしめて浄土門に入れるための方便だった、ということです。
ところで、全人類の実機は因果を撥無する闡提ではなかったのですか。因果の道理を深信させられた闡提とは意味が判りません。

投稿: 飛雲 | 2015年6月 1日 (月) 06時06分

ユウさんよかったですね。
高森邪義が少しでも理解できましたよね。
理解できたら、親鸞会にさよならしてください。

もし理解できないとするなら、再び国語の勉強から始めましょうね。

投稿: アイ | 2015年6月 1日 (月) 07時53分

ユウさんのおかげで、親鸞会の間違いがよくわかりました。
mixiでの法論で、高森会長が勘違いしていた、誤魔化していた根拠を、すべて出してもらったので、
どう騙されていたのかもわかりました。
ユウさんに感謝します。

投稿: ミー | 2015年6月 1日 (月) 11時18分

ユウさんは、残念なことに嘲笑の的になってます。

なぜだか分かりますか?

高森氏の言っていることが、可笑しいからです。

高森氏は、お聖教を読んだことがないから、大沼氏がピックアップしたワンフレーズを自己流に解釈したというお笑いなんちゃって善知識だったのですが、信じたくないでしょうね。

でも、それが現実です。

ユウさんも、早く高森氏のインチキに気がついて、正しい信心を獲てください。

投稿: OH | 2015年6月 1日 (月) 18時19分

浄土真宗の開祖・親鸞(1173〜1262)が聖徳太子をたたえた5・7・5調の和讃(わさん)(歌)の一首が見つかった。3日発表した本願寺維持財団(京都市山科区)は、親鸞の真筆としている。
 親鸞は1255(建長7)年、和讃「皇太子聖徳奉讃(こうたいししょうとくほうさん)」計75首をしたためた。もともとは1ページに1首ずつ記した冊子形式だったとみられるが、切れ切れの断簡(だんかん)になって散逸。これまでに14首ほどの断簡の現存が確認されており、今回見つかったのは第六十四首で親鸞83歳の作とみられる。
(平成24年10月4日 毎日新聞より引用)

 その『和讃』には、
「如来の遺教を疑謗し 
 方便破壊せんものは
 弓削の守屋と思うべし
 親しみ近づくことなかれ」

と記されている。
 

「如来の遺教を疑謗し、方便破壊せんもの」とは、釈迦一代の教えを疑謗し、仏教を破壊する者のことである。
「弓削の守屋と思うべし、親しみ近づくことなかれ」とは、それらの者は聖徳太子を疑謗破滅した仏敵・物部守屋と思って間違いない、決して近づいてはならない、との教誡である。
 釈迦一代の教えを疑謗することが、なぜ仏教の方便を破壊することになるのだろうか。親鸞聖人は『一念多念証文』に、
「凡そ八万四千の法門は、みな是れ浄土の方便の善なり、これを『要門』という」
と明言されている。
 これは釈迦一代の教えは、浄土(阿弥陀仏)往生の方便の善が説かれているのだとの親鸞聖人の断定である。そのような浄土(弥陀)の方便が説かれている仏教を疑謗することは、仏教の方便を破壊することになることは自明のことである。
 仏教で「方便」とは、目的を果たすに不可欠な方法手段をいう。
 十方諸仏の本師本仏でまします阿弥陀仏は、
「どんな人も、必ず絶対の幸福に救い摂る」
と真実の十八願で誓われている。その自らの約束を果たすために、必要不可欠な方法手段として弥陀が建てられたのが、十九、二十の方便願だと親鸞聖人は教えられている。
 その弥陀の十九願は「修諸功徳の願」とも言われ、諸善のお勧めである。
 本師本仏の弥陀の方便である十九の願意を釈迦は生涯かけて明らかにされたから、釈迦一代の教えが廃悪修善(※)であったのは当然であろう。ゆえに聖人は、その釈迦の教えを疑謗する者を「弥陀の方便を破壊する者」と言われているのである。

※廃悪修善
「悪いことをやめて(廃悪)、善をせよ(修善)」ということ。
 仏教の根幹は、因果の道理です。因果とは原因と結果、道理とは、いつでも(三世)どこでも(十方)変わらぬものをいいます。因果の道理とは、善因善果(善いことをすれば、善い結果があらわれる)、悪因悪果(悪いことをすれば、悪い結果が引き起こる)、自因自果(自分のまいた種は、自分が刈り取らねばならない)をいい、これが三世十方を貫く真理です。廃悪修善を説かない仏教はありえません。

 さらに、親鸞聖人が「方便破壊」と書かれた意味について言及されている。
 ここで親鸞聖人が、「真実破壊せん者」と書かれずに、あえて「方便破壊せん者」と記されていることに注目しなければならない。
何人たりとも、方便なくして真実に入ることは絶対にできないから、方便の破壊は即ち真実の破壊であるからだ。
こんな和讃があるのは親鸞聖人のご在世にも、方便を破壊する者が多かったからであろう。500年前の蓮如上人の時代にも、同様の者があったと見えて、次のような記録がある。

「蓮如上人仰せられ候。『方便を悪しということは有る間敷なり。方便を以て真実を顕わす廃立の義、よくよく知るべし。弥陀・釈迦・善知識の善巧方便によりて、真実の信をば獲ることなる』由、仰せられ候と云々」
(蓮如上人御一代記聞書)

(意訳)
「蓮如上人が仰せになった。『方便など要らないなどとは、言語道断言うべきことではない。恐ろしい大法謗である。方便からしか真実に入れぬと説かれた、親鸞聖人の教えが全く分かっていないのだ。弥陀・釈迦・善知識の善巧方便によってのみ弥陀の救いに値う(真実の信心を獲る)ことができるのである』」

いつの時代も
「十九願など我々には関係ない。十八願だけを素直に聞いておればいいのだ」
「方便など要らない。真実だけ聞けばいい」
「善の勧めは不要だ。遠回りだ」
と放言する方便破壊の群賊悪獣が溢れていることが分かる。
 
「善をしなければならないのか」
と尋ねる人あらば、
「阿弥陀仏が、お勧めになられていることなのだ」
と答えればよい。
 
 本師本仏の阿弥陀仏には、四十八のお約束がある。その中で「あらゆる人を救い摂る」と誓われた願は十八・十九・二十の三願のみである。
 
「どんな人をも、必ず絶対の幸福に救う」と誓われた十八願は、阿弥陀仏御自身の意(本心)に随って建てられたものだから随自意の願とか、王本願といわれる。
 
 昿劫流転の自惚れ強く、相対の幸福しか知らない私たちを、絶対の幸福まで導くことは、難中の難事、善巧方便が不可欠だったのだ。
 十九・二十の二願は、そのために、阿弥陀仏が建立なされたものである。十八願、絶対の幸福の世界へ導くために、しばらく我々(他)の意に随って誓われたものだから、十九・二十を、随他意の願といわれる。
 
 強情我慢で自惚れ強く、自力の執着から離れ切れず、流転を重ねる私たちに、できるかできぬかやってみよ、気の済むまでやってみよ(十九・二十の随他意の願)。
 できないままを、無条件で救い摂る(十八の随自意の願)のが、阿弥陀仏の御心なのである。
 
 随自意、真実の願に誘引するための、随他意、方便の願だから、三願は孤立したものでないことを明らかになされたのが親鸞聖人の『教行信証』である。弥陀が、十八願のみで救済できるなら、方便二願(十九願、二十願)を建てられるはずがない。
 
 その阿弥陀仏の十九の誓いは、「修諸功徳の願」と言われている。「諸の功徳を修し」とは、諸善万行、善と教えられるものなら何でもしなさい。知っただけでは観念の遊戯、論語読みの論語知らず、になってしまう。実行しなければ、結果は分からない。「力一杯、功徳(善)を修めなさい」と、阿弥陀仏がすべての人(十方衆生)に勧められているのが十九の願である。
 
「では、信仰が進めば、救われるのか」
と、聞きたい人がいるに違いない。
それは、凡夫の計ろうべきことではない。偏に弥陀のお計らいである。阿弥陀仏の絶対の救済を、どうして私たちが計らえるだろうか。
 
「方便などいらぬ」と計らっているのは、阿弥陀仏の上に立っていることに気づかぬ凡夫の浅ましさに違いない。
 
 不可称・不可説・不可思議の弥陀の本願を計らうことの愚かさを、親鸞聖人は、こうたしなめられている。
 
「補処の弥勒菩薩をはじめとして、仏智の不思議を計らうべき人は候わず」
(末灯鈔)
“最も仏に近い、弥勒菩薩でさえ、弥陀の本願力不思議は想像も思慮もできないのに、阿弥陀如来の仏智を計らえる人がいるはずないではないか”

 
 阿弥陀仏のお勧めにしたがい、光に向かって進ませていただくのが、親鸞学徒の進むべき道なのである。

投稿: 名無し | 2015年6月 3日 (水) 03時13分

ユウ 様

最後とか言いながら、嘘ばかりですね。『なぜ生きる2』のでたらめがまだ判らないみたいです。

「如来の遺教を疑謗し 
 方便破壊せんものは
 弓削の守屋と思うべし
 親しみ近づくことなかれ」

これは、前回かきましたが、以下再掲

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
これはね、親鸞聖人がお手紙の中に仰っていること。

そのゆゑは、釈迦如来のみことには念仏する ひとをそしるものをば「名無眼人」と説き、「名無耳人」と仰せおかれたることに候ふ。善導和尚は、「五濁増時多疑謗 道俗相嫌不用聞 見有修行起瞋毒方便破壊競生怨」(法事讃・下)とたしかに釈しおかせたまひたり。この世のならひにて念仏をさまたげんひとは、そのところの領家・地頭・名主のやうあることにてこそ候はめ、とかく申すべきにあらず。念仏せんひとびとは、かのさまたげをなさんひとをばあはれみをなし、不便におもうて、念仏をもねんごろに申して、さまたげなさんを、たすけさせたまふべしとこそ、ふるきひとは申され候ひしか。よくよく御たづねあるべきことなり。

「念仏するひとをそしるもの」「念仏をさまたげんひと」のことを「如来の遺教を疑謗し方便破壊せんもの」と仰っている訳ですよ。
つまり、高森会長とあなたが、「如来の遺教を疑謗し方便破壊せんもの」ということ。

この善導大師のお言葉を法然上人は『選択本願念仏集』でこう仰っています。

善導の『法事讃』(下)に、この文を釈していはく、
「世尊法を説きたまふこと、時まさに了りなんとして、慇懃に弥陀の名を付属したまふ。
五濁増の時は疑謗多く、道俗あひ嫌ひて聞くことを用ゐず。修行することあるを見ては瞋毒を起して、方便して破壊して競ひて怨を生ず。
かくのごとき生盲闡提の輩は、頓教を毀滅して永く沈淪す。
大地微塵劫を超過すとも、いまだ三途の身を離るることを得べからず。
大衆同心にみな、あらゆる破法罪の因縁を懺悔せよ」と。

「方便して破壊して」であって、「方便を破壊して」ではないのですよ。この「方便」は、手段、方法という一般的な意味ですよ。
ちなみに、聖道門も方便ですし、神も方便と仰っていますが、聖道門を謗り、神を貶している親鸞会は完全に「方便破壊せんもの」ですね。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

念仏を誹謗し、様々な方法で破壊するものは、弓削の守屋と思って、親しく近づいてはいけない

ということですが、それを善導大師、法然上人、親鸞聖人のお言葉で示したのに、無知で愚かな会長の珍釈を信じているとは、哀れですね。

親鸞学徒ではなく、完全に高森学徒ですが、それで信心決定とかお笑いですよ。

>「蓮如上人仰せられ候。『方便を悪しということは有る間敷なり。方便を以て真実を顕わす廃立の義、よくよく知るべし。弥陀・釈迦・善知識の善巧方便によりて、真実の信をば獲ることなる』由、仰せられ候と云々」
>(蓮如上人御一代記聞書)

>(意訳)
>「蓮如上人が仰せになった。『方便など要らないなどとは、言語道断言うべきことではない。恐ろしい大法謗である。方便からしか真実に入れぬと説かれた、親鸞聖人の教えが全く分かっていないのだ。弥陀・釈迦・善知識の善巧方便によってのみ弥陀の救いに値う(真実の信心を獲る)ことができるのである』」

ここで「善巧方便」とは念仏、18願のこと。もう一つの方便を「権仮方便」といい、諸善。聖道門、19願のこと。

「善巧方便」(=念仏、18願)を悪しということは有る間敷なり。方便の中でも捨てるべき「権仮方便」(=諸善。聖道門、19願)と、立てるべき「善巧方便」(=念仏、18願)の教えをよく知りなさい。
弥陀・釈迦・善知識の「善巧方便」(=念仏、18願)によりて真実の信心を獲ることになる

こういうことですよ。
根拠は化土巻


これによりて方便の願(第十九願)を案ずるに、仮あり真あり、また行あり信あり。願とはすなはちこれ臨終現前の願なり。行とはすなはちこれ修諸功徳の善なり。信とはすなはちこれ至心・発願・欲生の心なり。この願の行信によりて、浄土の要門、方便権仮を顕開す。


19願は、「権仮方便」。「善巧方便」ではないですよ。無知の会長に騙されているだけのこと。

さて、親鸞聖人。蓮如上人のお言葉で反論ができなくなったら、終わりです。

投稿: 飛雲 | 2015年6月 3日 (水) 03時33分

ユウさんは、まだ頑張っているんだ。

>「十九願など我々には関係ない。十八願だけを素直に聞いておればいいのだ」
>「方便など要らない。真実だけ聞けばいい」
>「善の勧めは不要だ。遠回りだ」
>と放言する方便破壊の群賊悪獣が溢れていることが分かる。

これって、親鸞聖人がすべて仰ったことです。親鸞聖人のことを群賊悪獣と言いきるなんて、さすがはユウさん。
日々、謗法の罪に勤しんでいるユウさんの後生が心配です。

投稿: アイ | 2015年6月 3日 (水) 06時34分

ユウさんは幸せですよ。

記事を読んで中々納得できない事でも、実際に議論してみると分かってきます。
なんとなく親鸞会にとどまっている人は死ぬまで騙されるかもしれませんが、
ユウさんは真面目に親鸞聖人の教えに取り組もうとしているからこそ、
誤った信心から抜け出せるチャンスにあります。

今までの信心が崩れるのが苦しいことなのは私にも分かります。
しかし、親鸞聖人も比叡山を下山されて念仏の教えに出会われました。

親鸞聖人と同じ三願転入の道を通ろうと思うなら、
今こそ19願を出て、念仏に帰する時ではないでしょうか。

投稿: | 2015年6月 3日 (水) 21時43分

私は飛雲さんが完全に正しいとも、ユウさん(親鸞会)が完全に間違っているとも思いません。

結局何が真実で何が間違っているのかは阿弥陀如来(親鸞聖人)しか分からないからです。

同じお言葉を見ても、そこから感じることや解釈は各人各様です。

難しい根拠を持ってきて理屈をこねくりまわすことは誰でもできます。

結局人間自分に都合の良いようにしか物事を捉えられないのです。

ですが、やはり信心は理屈ではないように思います。

後地球唯一の仏様である釈尊が説かれた「因果の道理」は三世十方変わらない宇宙の真理

であることに間違いはないと思います。

なので人のため、自分のために善を実践するのを否定し、良い結果を得ようという考えは

普通の人間社会でもおかしいのかなと思います。善いことを実践しなければ良い結果は来ないからです。

大宇宙の諸仏方も

「諸悪莫作
 衆善奉行
 自浄其意
 是諸仏教」

と悪を慎み善に励めと教えられています。釈迦は様々な善を六度万行にまとめられています。

善なんかせずに、ただ念仏さえ称えていれば自然に助かれば楽ですが、

果たしてそんなことがあるのかと疑問に思っています。

仏教は座学ではなく行学と聞きますが、実践なしで助かることがあるのでしょうか。

親鸞聖人のように、真面目に自己と向き合い修行(善を実践)した結果、自力は間に合わない

と知らされ、信心決定(弥陀に救われた)というなら納得ができます。

一体信心決定し、弥陀の本願を説く真の知識はどこにいるのでしょうか。

投稿: | 2015年6月 6日 (土) 02時35分

名無し 様

正しいの基準が何か、ということですが、それは”親鸞聖人の教え”です。親鸞聖人がどう仰って、どのように教えられたのか、そして七高僧方、覚如上人、蓮如上人が教えられたこと、それが基準です。

従いまして、”親鸞聖人の教え”が正しいかどうかは別問題になります。

「諸悪莫作
 衆善奉行
 自浄其意
 是諸仏教」

これは、比叡山が法然上人を非難したときに使った根拠です。
これを示すことが、すでに”親鸞聖人の教え”とは異なっていることになります。

難しい根拠と仰いますので、判りやすい根拠を出しますと、法然上人のお言葉で


口伝なくして浄土の法門を見るは、往生の得分を見うしなふなり。
其故は極楽の往生は上は天親竜樹をすゝめ、下は末世の凡夫十悪五逆の罪人まですすめ給へり。
しかるをわが身は最下の凡夫にて、善人をすゝめ給へる文を見て、卑下の心おこして、往生を不定におもひて、順次の往生を得ざるなり。
しかれば善人をすゝめ給へる所をば善人の分と見、悪人を勧め給へる所をば我分と見て得分にするなり。
かくのごとくみさだめぬれば、決定往生の信心かたまりて、本願に乗じて順次の往生をとぐるなり。


があります。出典は『勅修御伝』です。
意味は

浄土の教えは善知識方から伝えられてきたことを学ばずに、自分で勝手に解釈すると往生が難しくなります。
その理由は、浄土往生は、上は天親菩薩・龍樹菩薩、下は末世の凡夫十悪五逆の罪人まですすめられています。
そのなかで、自分は最下の凡夫であるから、善人に勧められた御文を読んで、自分には無理だから往生は難しいと思って、そして往生はできなくなる。
そうであるから善人に勧められた教えを龍樹菩薩や天親菩薩のような善人のためのものと思い、悪人に勧められた教えを自分のためのものと思いなさい。
そのようにすれば、信心決定し、本願によって往生できます。

こういうことです。

>善なんかせずに、ただ念仏さえ称えていれば自然に助かれば楽ですが、

>果たしてそんなことがあるのかと疑問に思っています。

それが仏智不思議を疑う心です。何度も出していますが、

罪福信ずる行者は
 仏智の不思議をうたがひて
 疑城胎宮にとどまれば
 三宝にはなれたてまつる
       (正像末和讃)

と、因果の道理を信じることは仏智不思議を疑う心だと親鸞聖人が仰っています。

ただし、世間のこととして罪福の因果を信じることは何も問題ありません。それを往生と関係付けると仏智不思議を疑う心になるのです。

同じことで、善をすることを否定しているのではなく、往生のために善をすることを否定しているのです。

この違いを知りながら混同させているのが高森会長です。

結局どういうことかと言えば、

「善のできる人は善に励みなさい、しかしそれで往生しよう、往生と関連付けようと思うなよ。
善のできない人のために、阿弥陀仏は念仏を用意して下されたので念仏を称えなさい、そうすれば往生できます。」

と心が定まったことが、信心決定ということで、この信心で往生できるということです。

理屈を捏ね繰り回す必要は全くありませんし、そんなことを私はしていません。善知識方が仰ったことをそのまま書いているだけです。

投稿: 飛雲 | 2015年6月 6日 (土) 03時25分

詳しい解説ありがとうございます。
非常に分かりやすかったです。

そのように聞かせて頂きますと救われた
気がして安心しますね。信心決定はなんと楽なことなのでしょう。
浄土往生には釈尊が説かれた因果の道理も六度万行も要らなかったのですね。
19願で誓われているように、浄土往生を願って善を実践する必要はなかったのですね。
親鸞聖人の後生の一大事の解決を求めての厳しい修行(善の実践)はなんだったんでしょうね。

重い荷物が目の前にあって、
自分にはできないと頭の中では分かっていても、
持つ前から「どうせ私には持てない、無理だからやらなくていい」という境地と、
実際に持ってみて「あ~本当に私には持てませんでした、無理でした」という境地とは
雲泥の差があり、結果も違うと思っていたのでびっくりしました。


後、こんなことを質問すると失礼だと思いますが、
浄土往生を願って善を実践せずに、念仏称える身となった
飛雲さんは、

後生の一大事は解決できましたか?浄土往生はっきりしましたか?
本願に疑い晴れましたか?

二種深信は立っていますか?

他力の念仏(お礼の念仏)称える身となっていますか?

あなたが真の知識であるならこの質問に詳しく答えて頂きたく思います。

投稿: | 2015年6月 6日 (土) 04時42分

私は、本願に救いとられました。
二種深信を親鸞会では特別な境地のように言っていますが、要は、

自力では出離できない
阿弥陀仏のお力でのみ出離させて頂ける

ということです。
浄土往生がはっきりしたか、という御質問に対しては、上記のことがはっきりしたのであって、浄土が見えた、浄土が判るようになったということはありませんので、浄土が判らないまま阿弥陀仏が連れて行ってくだされるところへ往くだけ、ということです。
他力の念仏をお礼の念仏という言い方は、語弊がありますが、先程の法の深信を言い換えると

念仏でのみ出離させて頂ける

となりますので、称える念仏がそのまま阿弥陀仏が浄土へ連れて行って下されるのだ、有難いことだと思って称えています。

真の知識という言い方は好きではありませんが、敢えて使えば
親鸞聖人が教えられたことをそのままお伝えしている人があれば、その人は真の知識です。
御文の解釈が正しくできるかどうかではなく、前のコメントで書いたことから外れていないことを教えている人は、全国に何人もいらっしゃいます。

親鸞会の退会者の集まりもありますので、そちらで近くの方とお知り合いになって、近くの布教使や法座を紹介してもらうのもよろしいかと思います。
http://blog.livedoor.jp/skai_as/archives/43978995.html

投稿: 飛雲 | 2015年6月 6日 (土) 06時32分

名無しさま

一言申します。
貴方は貴方の善知識というイメージを作られ、信心決定された方は雲の上のような方と思い込んでおられるのではないでしょうか。
「そう簡単に信心決定などあってたまるか。」と自分で決めておられるのではないですか。
簡単に信心決定できるなどとは言いませんが、親鸞会のように命の限り善と呼ばれる財施や人集めをして救われるようなものでもなく、また、たぶん貴方のイメージとは全く異なりますよ。
にわかに信じることは出来ないでしょうが、親鸞会以外のご法話を沢山聞かれることをお勧めします。
もうそうされているなら余計なお世話ですね。

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏

投稿: とくよしみね | 2015年6月 6日 (土) 11時24分

名無しさん

「自分の善を後生の一大事のあてにしようという心は自力の心と言って、阿弥陀如来の胸に五寸釘を打っている心だ」
「自力を捨てて他力に帰せよ」
と親鸞会で聞きました。
(人間社会では、怠けていては良い結果は得られませんが)

法然上人も親鸞聖人も、聖道門から浄土門に入られた方ですが、
難行苦行で悟りは得られないと、下山されたときはたいへん苦しまれたと思います。

ですが、阿弥陀如来に救われて振り返られて、
「比叡山での修行も、ご方便であった」と思われたのではないでしょうか。

親鸞会の勧める求道についてこれる人だけ救われるのなら、殆どの人は救われないと思います。
「念仏1つで救われる」と聞いて私にとっては、価値観が壊れる苦しみもありましたが、
「これで、自分も他人も、臨終の人でも救われる。良かった」という喜びもありました。

投稿: 名無し2 | 2015年6月 6日 (土) 12時08分

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