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2015年3月

2015年3月28日 (土)

19願の意味さえ知らない高森顕徹会長

三願転入、19願の実践と口うるさく言う割には、高森顕徹会長は19願のことをよく知りません。18願成就文のことは言っても、19願成就文については、高森会長が言ったことがありません。知らないからです。

『三経往生文類』には、

 至心発願の願(第十九願)成就の文、『大経』にのたまはく、「仏、阿難に告げたまはく、十方世界の諸天・人民、それ心を至して、かの国に生れんと願ずることあらん。おほよそ三輩あり。その上輩は、家を捨て欲を棄てて沙門となり、菩提心を発して一向にもつぱら無量寿仏を念じ、もろもろの功徳を修してかの国に生れんと願ぜん。これらの衆生、寿終らんときに臨みて、無量寿仏、もろもろの大衆とその人の前に現ぜん。{乃至}
阿難、それ衆生あつて、今世において無量寿仏を見たてまつらんと欲うて、無上菩提の心を発し功徳を修行してかの国に生れんと願ずべし。仏、阿難に語りたまはく、それ中輩は、十方世界の諸天・人民、それ心を至してかの国に生れんと願ずることあらん。行じて沙門となり、大きに功徳を修することあたはずといへども、まさに無上菩提の心を発して一向にもつぱら無量寿仏を念じ、多少善を修し、斎戒を奉持し、塔像を起立し、沙門に飯食せしめ、繒を懸け灯を燃し、華を散じ香を焼くべし。これをもつて回向してかの国に生れんと願ぜん。その人、終りに臨みて、{乃至}つぶさに真仏のごとく、もろもろの大衆とその人の前に現ぜん。{乃至}
仏、阿難に告げたまはく、それ下輩は、十方世界の諸天・人民、それ心を至してかの国に生れんと欲ふことあらん。たとひもろもろの功徳をなすことあたはずとも、まさに無上菩提の心を発して一向に意をもつぱらにして乃至十念、無量寿仏を念じて、その国に生れんと願ずべし。もし深法を聞きて歓喜信楽して疑惑を生ぜず、乃至一念、かの仏を念じて、至誠心をもつてその国に生れんと願ぜん。この人、終りに臨みて、夢にかの仏を見たてまつり、また往生を得ん。功徳・智慧、次いで中輩のもののごとくならんとなり」と。{以上略抄}

(現代語訳)

 至心発願の願 (第十九願) が成就したことを示す文は、 『大無量寿経』 に次のように説かれている。
 「釈尊が阿難に仰せになる。 すべての世界の神々や人々で、 心から無量寿仏の国に生れたいと願うものに、 大きく分けて上輩・中輩・下輩の三種がある。 まず上輩のものについていうと、 家を捨て欲を離れて修行者となり、 さとりを求める心を起して、 ただひたすら無量寿仏を念じ、 さまざまな功徳を積んで、 その国に生れたいと願うのである。 このものたちが命を終えようとするとき、 無量寿仏は多くの聖者たちとともにその人の前に現れてくださる。 (中略) だから阿難よ、 この世で無量寿仏を見たてまつりたいと思うものは、 この上ないさとりを求める心を起し、 功徳を積んでその仏の国に生れたいと願うがよい。
 また仰せになる。 次に中輩のものについていうと、 すべての世界の神々や人々で、 心から無量寿仏の国に生れたいと願うものがいて、 上輩のもののように修行者となって大いに功徳を積むことができないとしても、 この上ないさとりを求める心を起し、 ただひたすら無量寿仏を念じるのである。 そして善い行いをし、 八斎戒を守り、 堂や塔をたて、仏像をつくり、 修行者に食べものを供養し、 天蓋をかけ、 灯明をささげ、 散華や焼香をして、 それらの功徳を回向してその国に生れたいと願うのである。 この人が命を終えようとするとき、 (中略) 無量寿仏は報身さながらのおすがたで、 多くの聖者たちとともにその人の前に現れてくださるのである。 (中略)
 また仰せになる。 次に下輩のものについていうと、 すべての世界の神々や人々で、 心から無量寿仏の国に生れたいと願うものがいて、 たとえさまざまな功徳を積むことができないとしても、 この上ないさとりを求める心を起し、 ひたすら心を一つにしてたとえば十回でも無量寿仏を念じて、 その国に生れたいと願うのである。 もし奥深い教えを聞いて喜んで心から信じ、 疑いの心を起さず、 たとえば一回でも無量寿仏を念じ、 まことの心をもってその国に生れたいと願うなら、 命を終えようとするとき、 この人は夢に見るかのように無量寿仏を仰ぎ見て、 その国に往生することができ、 中輩のものに次ぐ功徳や智慧を得るのである」

と親鸞聖人は示しておられます。いわゆる三輩の文です。

この19願成就文を簡単に言えば、上輩という出家の善人は諸々の善を修して往生し、中輩という在家の善人は上輩程ではないが諸々の善を修して往生し、下輩という善のできない悪人は善をせずに念仏で往生する、ということです。ちなみに「一向専念無量寿仏」とは念仏のことだと法然上人が明らかにされ、親鸞聖人もそのまま継承されています。
もし私たちが悪人で下輩だというのであれば、念仏で往生する、と教えなければならないのですが、それを言いません。私たちは悪人ではなく、在家の善人だと言うのなら、「斎戒を奉持し、塔像を起立し、沙門に飯食せしめ、繒を懸け灯を燃し、華を散じ香を焼くべし」と勧めるのが19願です。
ところが、在家の悪人である筈の会員に勧めているのは、上輩や中輩に対して勧められている”布施”です。

これでも、高森会長の言うことが正しいと思うのなら、オウムの信者と何ら変わりがありません。

ついでに言いますと、中輩に対して「十方世界の諸天・人民」とされ、下輩に対しても「十方世界の諸天・人民」です。もちろん上輩に対しても「十方世界の諸天・人民」です。何が言いたいのかと言えば、出家の善人だけでも「十方衆生」、在家の善人だけでも「十方衆生」、善のできない悪人だけでも「十方衆生」なのです。要するに、一部の人に対しても「十方衆生」と使われるのですから、「十方衆生」だから漏れているものがいない、関係のない人はいない、なんていう理屈は、真実の経である『大無量寿経』でも否定されているのです。

まとめて言いますと、19願の「修諸功徳」の善を勧められている対象は、出家の善人と在家の善人です。もし、善のできない悪人に19願の「修諸功徳」を当て嵌め、19願の「十方衆生」に悪人を含めるのなら、悪人に対して勧めるのは自力の念仏であって、善ではありません。

このことは『観無量寿経』でも同じです。訳のわからないその場しのぎの屁理屈を並べたところで、聖教を示されたら、無知と嘘がすぐにばれてしまいます。

オウムの信者並みの思考停止会員にしか高森邪義は通用しないのです。

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2015年3月15日 (日)

退会者の影に怯え続ける高森顕徹会長

今から3年前、あることがきっかけで私は親鸞会に直接法論を申し込みました。しかし、何の返答もなく、完全に逃げ回っています。ただ、そのことを指摘されて誤魔化すために、顕真で「ひと口問答」なるものを中途半端に連載したり、講師部講義で「高森オリジナル二河白道」の秘事法門を高森顕徹会長が力説したりと、かなりの狼狽振りでした。なぜなら、チューリップ法論までは勝利を偽装してきましたが、それ以降の法論では、全戦全敗だからです。
高森会長が指導した法論、講師部員が上司の許可なく臨んだ法論、元気な会員が正義感から単独で挑んだ法論など、ここ数年で何十回と法論が行われましたが、ただの一度も親鸞会側が勝ったと偽装すらできない程、大惨敗を続けています。
高森会長自身が退会者の影に怯え続けているのですから、当然の結果です。
参考までに3年前に親鸞会に送ったメールと書面の内容は以下です。

W 様

御無沙汰しております、○○です。
昨日の件は、聞いております。法論の申し込みを書面でせよ、とのことですので、本日申し込みの書面を書留で送りました。
内容は以下の通りです。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
              法論の申し込み
                            平成24年3月18日
弘宣局長 W 様

御無沙汰しております、○○です。

昨年、K講師を通して、法論を申し込みましたが無視されました。
しかしその件で、「弘宣局に直接法論を申し込むように」と貴方が言われたそうですので、ここに書面をもって法論を正式に申し込みます。

法論の条件は、

1.法論の土俵はお聖教であり、お聖教にない文底秘沈のような主張はしない
2.文章でやりとりをする
3.法論の場は、以下とする
  mixi内の信仰と対話コミュニティ*「三願転入」議論継続トピック*
  
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=53217382&comm_id=2135313
4.相手の質問に対して質問で返さず、相手の質問に答えてから新たな質問をする

以上の4点です。

かつて親鸞会は公約していた筈です。

「親鸞会は公約しています。親鸞会の主張に対して異議、反論のある方は遠慮なく申し出てください。相手が集団であれ、個人であれ、公開であれ、非公開であれ、討論であれ、文書討論であれ、相手の希望される方法で、時と場所を問わず、本当の親鸞聖人のみ教えを開顕するために、喜んで対決に応じます。」

これが口先だけであったとは、言わせません。

私の主張は、「親鸞会教義の誤り」「飛雲」「親鸞会の邪義を正す」等のブログで書かれている通りです。一読された上で、法論に臨んで頂きたいと思います。
親鸞聖人の仰せと高森顕徹会長の主張との相違点を以下に列記しておきます。

1.獲信していない人の死後はどうなるか

親鸞聖人 六道輪廻(19願・20願の同行は化土往生)
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高森会長 必堕無間

2.五逆罪・謗法罪について

親鸞聖人 造っている人と造っていない人がいる
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高森会長 造っていない人はいない、全ての人は生まれながらに造っている

3.善人と悪人について

親鸞聖人 善人と悪人とがいる
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高森会長 善人はいない、すべての人は悪人である

4.獲信のために善は必要か

親鸞聖人 念仏1つ、獲信に善は不要
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高森会長 善をしなければ絶対に獲信できない

5.白道とは

親鸞聖人 自力の心にあらず
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高森会長 自力

6.定散二善について

親鸞聖人 定散二善を捨てよ
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高森会長 定散二善をせよ

7.19願について

親鸞聖人 19願を捨てよ
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高森会長 19願を実践せよ

8.宿善について

親鸞聖人 過去世の善根の厚薄と、往生・獲信とは関係ない
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高森会長 過去世の善根の薄い者が、そのままで往生・獲信することはありえない

9.機の深信について

親鸞聖人 自力では出離できない
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高森会長 逆謗の屍と必ず知らされる

10.善知識に無条件服従しなければならないか

親鸞聖人 法に従うのであって、人に従うのではない
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高森会長 善知識に無条件服従せよ

なお、法論に応じられても応じられなくても、返事を頂いても頂かなくても、すべて公開しますので、御了承ください。

                                           ○○○○
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

mixiでの三願転入の法論は、親鸞会の逃亡とトピック削除で幕を閉じましたが、とりあえずその続きをしたいと考えております。

なお、上に挙げたブログをすべて読まれるのは大変でしょうから、最低限、添付ファイルのところだけでも読んでおいて頂けませんでしょうか。

目的は親鸞聖人のみ教えを開顕するためですので、よいお返事をお待ちしております。

○○○○

もし、悔しいと思う講師部員や会員があるのなら、いつでも法論に応じますので、遠慮なく仰ってください。なお、高森会長が法論に応じることは、絶対にないでしょうから、敢えて高森会長には呼びかけません。無二の善知識の実態を講師部員も会員も直視した方がよいと思いますよ。

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2015年3月10日 (火)

5年前の三願転入の法論で高森顕徹会長が大惨敗した最大要因「欣慕浄土の善根」

親鸞聖人の御著書さえ読んだことがない高森顕徹会長が、善導大師の御著書について知る筈もありませんが、コメント欄で質問がきていましたので、少し解説しておきます。

善導大師が『観無量寿経』に説かれた定散二善の解釈について、親鸞聖人は「欣慕浄土の善根」と仰っています。そのことを、『教行信証』化土巻・隠顕釈には、

釈家の意によりて『無量寿仏観経』を案ずれば、顕彰隠密の義あり。顕といふは、すなはち定散諸善を顕し、三輩・三心を開く。しかるに二善・三福は報土の真因にあらず。諸機の三心は自利各別にして、利他の一心にあらず。如来の異の方便、欣慕浄土の善根なり。これはこの経の意なり。
すなはちこれ顕の義なり。

(現代語訳)

善導大師の解釈された意向にしたがって『観無量寿経』をうかがうと、顕彰隠密の義がある。その顕とは、定善・散善のさまざまな善を顕わすものであり、往生するものについて上・中・下の三輩を区別し、至誠心・深信・回向発願心の三心を示している。しかし、定善・散善の二善、世福・戒福・行福の三福は、報土に生れるまことの因ではない。三輩のそれぞれがおこす三心は、それぞれの能力に応じておこす自力の心であって、他力の一心ではない。これは釈尊が弘願とは異なる方便の法として説かれたものであり、浄土往生を願わせるために示された善である。これが『観無量寿経』の表に説かれている意味であり、すなわち顕の義である。

とあります。釈尊が『観無量寿経』で定散二善を説かれたのは、浄土往生を願わせるためであったと善導大師は解釈なされ、それに親鸞聖人は従われているのです。浄土を願っていない人に、浄土を願わせるのが目的である、ということで、つまりは聖道門の人に浄土を願わせるために定散二善が説かれたことになります。親鸞聖人の論理はこれで一貫しています。

元の善導大師のお言葉は、『散善義』深心釈にあり、『教行信証』信巻と化土巻にも引かれています。

また決定して深く、釈迦仏この『観経』に三福九品・定散二善を説きて、かの仏の依正二報を証讃して、人をして欣慕せしむと信ず。

(現代語訳)

また、釈尊は『観無量寿経』に、世福・戒福・行福の三福、浄土を願うもののそれぞれの資質、定善・散善についてお説きになり、浄土や阿弥陀仏および聖者たちをほめたたえて、人々に浄土を求めさせておられるのであると、疑いなく深く信じる。

七深信の第三深信と呼ばれる部分です。
要するに、定散二善は実践させることに意味があるのではなく、浄土を願わせるための手段に過ぎないのです。もちろん19願も同じです。

この善導大師の解釈について同じく化土巻に

これみな辺地・胎宮・懈慢界の業因なり。ゆゑに極楽に生ずといへども三宝を見たてまつらず。仏心の光明、余の雑業の行者を照摂せざるなり。仮令の誓願(第十九願)まことに由あるかな。仮門の教、欣慕の釈、これいよいよあきらかなり。

(現代語訳)

これらはみな自力の行であって、 辺地・疑城胎宮・懈慢界といわれる方便の浄土に生れる因なのである。 だから、 浄土に生れても仏を見たてまつることができず、 教えを聞くことができず、 菩薩や声聞たちを見ることもできない。 阿弥陀仏の光明は自力の行をまじえるものを照らしおさめることはないのである。第十九願を方便の願とするのは、まことに意味深いことである。釈尊が『観無量寿経』に定善・散善を説かれ、善導大師がこれは浄土を慕い願わせるための方便の教えであると解釈されたおこころが、いよいよ明らかに知られるのである。

とあります。19願、定散二善の実践に励んでも化土往生しかできないが、ではなぜそんな教えを説かれたのかと言えば、欣慕のためである、ということです。

また『三経往生文類』にも、

観経往生といふは、修諸功徳の願(第十九願)により、至心発願のちかひにいりて、万善諸行の自善を回向して、浄土を欣慕せしむるなり。

とやはり同じことを仰っています。
浄土を願っていない聖道門の人には、浄土を願わせる欣慕浄土善根必要です。浄土を願わない者が往生することはないからです。そのための19願、定散二善という方便だと親鸞聖人は繰り返し仰っているのです。

信心決定するために、定散二善の実践が必要であるとか、そんな奇妙奇天烈摩訶不思議な論理は、高森会長と親鸞会以外のどこにも存在しません。

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2015年3月 8日 (日)

「ひとへに念仏すすめける」を「諸善すすめける」と大嘘をつく高森顕徹会長

親鸞聖人は、諸善を勧められてもいませんし、19願を勧められてもいません。その証拠が『なぜ生きる2』で、親鸞聖人が諸善、19願を勧められたお言葉を1つも出すことができません。ないのですから、出せないのは当然なことです。

では、七高僧方はどうかと言えば、それを『正信偈』に

印度西天之論家 中夏日域之高僧 顕大聖興世正意 明如来本誓応機

と仰っています。この意味について蓮如上人は『正信偈大意』

「印度西天之論家 中夏日域之高僧 顕大聖興世正意 明如来本誓応機」といふは、印度西天といふは天竺なり、中夏といふは唐土(中国)なり、日域といふは日本のことなり。この三国の祖師等、念仏の一行をすすめ、ことに釈尊出世の本懐は、ただ弥陀の本願をあまねく説きあらはして、末世の凡夫の機に応じたることをあかしましますといへるこころなり。

と教えられています。「この三国の祖師等、念仏の一行をすすめ」は、諸善という他の行を勧められていないことを顕わされているということです。

『高僧和讃』等を見ても、「念仏を勧められた」とはあっても、「諸善を勧められた」とはどこにも仰っていません。

龍樹讃

本師龍樹菩薩は
 大乗無上の法をとき
 歓喜地を証してぞ
 ひとへに念仏すすめける

曇鸞讃

浄業さかりにすすめつつ
 玄中寺にぞおはしける
 魏の興和四年に
 遥山寺にこそうつりしか

善導讃

釈迦は要門ひらきつつ
 定散諸機をこしらへて
 正雑二行方便し
 ひとへに専修をすすめしむ

浄業」「専修」も念仏のことですが、勧められた行は、「ひとへに念仏」なのです。諸善を勧められていたら「ひとへに」ではありません。
あくまで方便として要門、諸善を教えられた、ということです。この方便も、高森会長が言っているような意味ではなく、「ひとへに念仏」に反発する「定散諸機」(=善人)のために、一時的に説かれた、という意味でしかないのです。

これは、定善・散善のできる善人には一時的に定善・散善を説かれて、最終的には「ひとへに念仏」と導く方便が必要であった、ということです。一方で善のできない悪人には源信讃に、

極悪深重の衆生は
 他の方便さらになし
 ひとへに弥陀を称してぞ
 浄土にうまるとのべたまふ

とある通りです。「定散諸機」に説かれた「他の方便」は「さらになし」です。

まとめて言えば、自分は善のできない悪人だと思うなら最初から「ひとへに念仏すすめけるが親鸞聖人の教えですが、それに反発する善人がいるからそんな人には方便として諸善が教えられてはいるが最後は「ひとへに念仏すすめける」という二段階があるのです。これを対機説法と言います。

聖道門も19願も、何のため、誰のために説かれたのか、親鸞聖人は明確に教えられていることを知りながら、大嘘を言い続けている人物が、高森会長です。

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2015年3月 1日 (日)

高森顕徹会長自身が証明している”三願転入の教え”の嘘

何が何でも三願転入の親鸞会ですが、会員も少し考えれば、疑問も出てきそうなものです。私の経験から言えば、35周年の時に突如三願転入の話が出て、次の教学講義の際に、「三願転入は、親鸞聖人の教えの根基」と講師部員が講師部講義で高森顕徹会長から聞いたことを言いだして、びっくりしたものです。なぜなら、その「根基」を今まで話さず隠していたのかと思ったからです。
私の場合は、その後も会員を続けていたのですが、その疑問はずっと無くなることはありませんでした。

高森会長の話の変化からもわかる通り、三願転入自体を教えなくても、そして知らなくても、阿弥陀仏の救いとは直接関係がないのです。その証拠が高森会長自身の過去の布教だと言えます。
それと三願転入の最初の19願についても、高森会長が以前に勧めたことはなかった訳ですから、大いなる矛盾なのです。

では親鸞聖人が、18願に入るために19願の実践を勧められているかと言えば、全く勧められていません。その証拠も高森会長の著書『なぜ生きる2』です。19願を勧めた根拠を1つも示していません。

また三願転入の文は、『教行信証』化土巻に書かれていますが、それ以外には、全くありません。この『教行信証』化土巻の一か所をもって、これが親鸞聖人の教えの根基などと断言するのは、まともな思考ではありえません。

親鸞聖人は、『教行信証』を一般の同行に読むように勧められたとも考えられません。親鸞聖人が、同行に読むように勧められた書について、『御消息』に何箇所か仰っています。

おほかたは、『唯信抄』・『自力他力の文』・『後世物語の聞書』・『一念多念の証文』・『唯信鈔の文意』・『一念多念の文意』、これらを御覧じながら、慈信が法文によりて、おほくの念仏者達の、弥陀の本願をすてまゐらせあうて候ふらんこと、申すばかりなく候へば、かやうの御文ども、これよりのちには仰せらるべからず候ふ。

よくよく『唯信鈔』・『後世物語』なんどを御覧あるべく候ふ。

ただ詮ずるところは、『唯信鈔』・『後世物語』・『自力他力』、この御ふみどもをよくよくつねにみて、その御こころにたがへずおはしますべし。いづかたのひとびとにも、このこころを仰せられ候ふべし。

また親鸞も偏頗あるものときき候へば、ちからを尽して『唯信鈔』・『後世物語』・『自力他力の文』のこころども、二河の譬喩なんど書きて、かたがたへ、ひとびとにくだして候ふも、みなそらごとになりて候ふときこえ候ふは、いかやうにすすめられたるやらん。不可思議のことときき候ふこそ、不便に候へ。よくよくきかせたまふべし。

親鸞聖人御自身の著書としては、『唯信鈔文意』・『一念多念証文』が挙げられていますが、後は聖覚法印著の『唯信鈔』、隆寛律師著の『一念多念分別事』・『自力他力事』と隆寛律師著と伝えられる『後世物語聞書』と善導大師の「二河の譬喩」です。これらの中に、三願転入に関連する内容はありませんし、19願の勧め、善の勧めも全くありません。

要するに、三願転入は同行が知る必要もないし、もちろん教える必要もないことがということです。現に、覚如上人も蓮如上人も、三願転入について言及された箇所がありません。

高森会長が、三願転入三願転入と強調すればするほど、高森会長の悪知識ぶりと詐欺的教義が明白になるだけです。

ワシはそんなこと言っておらん

と思考停止の会員を黙らせることができても、『なぜ生きる2』という高森顕徹著の本を出した以上、世間を欺くことは不可能です。真宗史上最悪最低最下の知識として名を残したまま、そう遠くない時期に後生へと旅立つのでしょう。悪因悪果、自因自果ですからね。

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