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2015年1月 5日 (月)

高森顕徹会長の説く迷信をこれでも信じることができるのでしょうか

親鸞会の迷信の1つに、

命懸けで善をすることによって、微塵の善もできないことが知らされる

というものがあります。退会者から善を勧められた御文の無いことを指摘された時に、会員が苦し紛れによくいうセリフです。
しかしこれは、大いなる勘違いと言っておきましょう。

まず、親鸞会でも有名な親鸞聖人の御言葉、『教行信証』信巻・信楽釈

一切凡小、一切時のうちに、貪愛の心つねによく善心を汚し、瞋憎の心つねによく法財を焼く。急作急修して頭燃を灸ふがごとくすれども、すべて雑毒雑修の善と名づく。
また虚仮諂偽の行と名づく。真実の業と名づけざるなり。この虚仮雑毒の善をもつて無量光明土に生ぜんと欲する、これかならず不可なり。

ですが、これは簡単に言えば、

命懸けで善をしても、真実の善は微塵もできないから、そんな善では報土には生れることができない

ということです。
微塵の善もできない」のではなく、「報土往生できる真実の善は微塵もできない」です。
この違いは国語の問題ですから、違いが理解できなければ、高校生にでも教えてもらってください。

親鸞聖人の御言葉を少し補足された御言葉が『改邪鈔』にあります。

かの三福の業はまた人天有漏の業なり。なかんづくに、深信因果の道理によらば、あに凡夫往生の望みをとげんや。(中略)いかにいはんや、出過三界の無漏無生の報国・報土に生るる道理あるべからず。

三福は散善ですが、凡夫の行う散善は煩悩の混じった有漏の善(雑毒の善)ですから、そんな有漏の善(雑毒の善)では報土に生れることはできません。なぜなら、煩悩のない無漏の報土に生れるには、無漏の善(真実の善)が必要だからです。

微塵の有漏の善(雑毒の善)もできない」ではなく、「微塵の無漏の善(真実の善)もできない」なのです。

では、無漏の善(真実の善)が少しでもできると思っている会員が一人でもいるかという問題です。もし無漏の善(真実の善)が少しでもできるかもしれないと思っている人があれば、その人は親鸞聖人の教えを信じることはなく、聖道門を信じるでしょう。

これは少し考えれば判ると思いますが、親鸞聖人は、真実の善ができる人はいないと断言されているのですから、自分は真実の善が少しくらいならできると思っている人は、親鸞聖人の教えを受け入れない人です。それよりも、真実の善を積んで出離し、成仏を目指す聖道門を信じなければおかしいでしょう。

したがいまして、親鸞聖人の教えを信じている人であるなら、真実の善ができるなどとは最初から思っていないし、自惚れてもいませんから、雑毒の善ができてもできなくても、何の関係も無い話です。

要するに、親鸞会で勧める財施、法施を命懸けでしたところで、それが真実の善になるとは最初から微塵も思っていませんので、その行為自体は往生とは何の関係もない、全くの無駄な行為だということです。

その無駄な行為に命を懸けたところで、それで何が得られるか考えてみてください。

大根の種を蒔いたら、大根の芽しか出てこないのです。スイカの種を蒔いたら、スイカの芽しか出てきません。高森顕徹会長から耳にタコができる程、聞いたことですが、珍しくこれは正しい話です。

報土往生の因は、阿弥陀仏が回向してくださる信と行(念仏)だけで、それ以外には何もありません。真宗の基礎の基礎の基礎です。

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コメント

飛雲さま まことに有難うございました。誰が聞いても正当な内容で、会に対する呪縛から離れることができました。本当に有難うございます。

投稿: | 2015年1月 5日 (月) 20時27分

親鸞会が真実の善をせよ、と勧めているなら、まだ理解はできるのですが、「雑毒の善でもよいからやれ」とか「19願は雑毒の善を勧めている」と教えているのは、自己矛盾も甚だしいですね。

雑毒の善を勧めて、どうして真実の善ができない自分を知らされるのでしょうか?

投稿: T | 2015年1月 5日 (月) 22時11分

会の講師が飛雲さんのブログ読まないとは考えられません。弁円が参詣者減少に探りを入れたのと同じように、気になって漫画喫茶でも読もうとすれば読めるでしょうに。向き合って考えることはないのだろうな。これこそ宿善まかせ、というべきか。

投稿: | 2015年1月 5日 (月) 22時43分

雑毒の善しかできない我が身と知らされる事が肝心で、だから、念仏に心傾くんだ、とか言うんでしょうね。あの会では。

投稿: | 2015年1月 5日 (月) 22時48分

知り合いの某会員は、こういうサイトを読むとディスプレイ壊したくなるほど腹立たしいらしい。普段は冷静なのに、感情で撥ね付けているということなのだろう。可哀想だなぁ…

投稿: | 2015年1月 6日 (火) 00時16分

腹立たしいということは気になっているということですし、読んでいるということですから、喜ぶべきことでしょうね。

投稿: | 2015年1月 6日 (火) 21時54分

何かが「知らされて」救われるのではないです。
救われて自力が廃ると有漏の善などしたくても出来なくなるのです。

投稿: お | 2015年1月10日 (土) 10時59分

コメント頂いた皆様

親鸞会の邪義で最もあくどいのが、善の勧めです。この間違いに気が付くだけでも、親鸞会の呪縛から離れることができると思います。

投稿: 飛雲 | 2015年1月11日 (日) 21時15分

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