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2015年1月

2015年1月27日 (火)

高森顕徹会長が会員に勧めながら知らない散善

親鸞聖人が否定されたことを肯定されたと断言している書と罵倒嘲笑されている『なぜ生きる2』ですが、最近、また親鸞会がAmazonレビューで工作をしています。とはいっても、批判レビューに反論しているのではなく、批判を一般の人にできるだけ見えなくする程度の工作ですから、工作している人も親鸞会の間違いに気が付いていることでしょう。哀れなものです。

さて、高森顕徹会長の大きな大きな勘違いの1つが、五雑行です。以前に当ブログのコメント欄でも講師部員か幹部会員と思われる人物と論争したことがありますが、五雑行は諸善万行とは別物、つまりは19願、定散二善とは異なる物と思って、五雑行は捨てることは容易にできても19願、定散二善は信一念まで捨てることはできないと親鸞会では言っています。
単なる無知なだけですが、それを証明するに最も判りやすいのが、法然上人の『選択本願念仏集』です。

次に散善につきて二あり。一には三福、二には九品なり。初めの三福とは、『経』にのたまはく、「一には孝養父母、奉事師長、慈心不殺、修十善業。二には受持三帰、具足衆戒、不犯威儀。三には発菩提心、深信因果、読誦大乗、勧進行者なり」と。

とあり、『観無量寿経』の散善三福の具体的な内容を紹介された後、「読誦大乗」の説明を

「読誦大乗」とは、分ちて二となす。一は読誦、二は大乗なり。
(中略)
願はくは西方の行者、おのおのその意楽に随ひて、あるいは『法華』を読誦してもつて往生の業となし、あるいは『華厳』を読誦してもつて往生の業となし、あるいは『遮那』・『教王』および諸尊の法等を受持し読誦してもつて往生の業となし、あるいは「般若」・方等および『涅槃経』等を解説し、書写してもつて往生の業となせ。
これすなはち浄土宗の『観無量寿経』の意なり。

とされています。簡単に言えば、『法華経』『華厳経』『般若経』『涅槃経』等の経典を読誦することを往生の行とせよ、というのが『観無量寿経』の諸行往生の意味だということです。要するに、読誦雑行は、散善の1つであり、19願の行だということですから、高森会長の言う諸善万行の中に五雑行があるのです。
またこのようににも説明されています。

また読誦大乗の行あり。人みなおもへらく、大乗経を読誦してすなはち往生すべし。もし読誦の行なくは、往生すべからずと。
これにつきて二あり。一には持経、二には持呪なり。持経とは、「般若」・『法華』等の諸大乗経を持するなり。
持呪とは随求・尊勝・光明・阿弥陀等のもろもろの神呪を持するなり。

持呪」「神呪」とは、真言宗で唱える呪文のようなもののことです。親鸞会では完全に拒否している呪文のようなものを往生の行とすることが散善だということです。

親鸞会が勧めている散善の意味くらい知っておかないと恥ずかしいのですが、高森会長も会員も共に無知ですからこんな愚かな迷信を信じることになるのです。

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2015年1月18日 (日)

高森顕徹流因果の道理という迷信

現世利益をちらつかせながら、因果の道理で会員の繋ぎとめ、一般の人の取り込みに躍起になっているのが、現在の親鸞会です。「光に向かえば影がついてくる」は、大沼師からのパクリですが、高森顕徹会長の教えと指示の通りに従えば、親鸞会で言う相対の幸福も得られる、と会員に信じ込ませています。
もちろん、これも迷信です。
親鸞聖人が教えられている因果の道理とは、報土の因果の道理であって、世間の因果の道理ではありません。ましてや、親鸞聖人の教えを真面目に信じ求めたら、相対の幸福が得られるかという話は、親鸞聖人には全くありません。親鸞聖人が相対の幸福に恵まれた方であったのかどうかを少し考えてみれば、誰でも迷信に気が付くと思います。

親鸞聖人は報土の因果を、本願力回向で説明なされました。『教行信証』信巻

しかれば、もしは行、もしは信、一事として阿弥陀如来の清浄願心の回向成就したまふところにあらざることあることなし。因なくして他の因のあるにはあらざるなりと、知るべし。

(現代語訳)

このようなわけであるから、往生の行も信も、すべて阿弥陀仏の清らかな願心より与えてくださったものである。如来より与えられた行信が往生成仏の因であって、それ以外に因があるのではない。よく知るがよい

この御言葉は、『浄土文類聚鈔』にもあります。

親鸞聖人が教えられた因果の道理とは、衆生が報土往生する因は、100%阿弥陀仏が用意なされたものであるということです。ですから、私の方で何かを付け加えることは不要ですし、付け加えようとすること自体が間違いになるのです。

蓮如上人が「金をほりいだすやうなる聖教なり」とまで絶賛された『安心決定鈔』にも

まことに往生せんとおもはば、衆生こそ願をもおこし行をもはげむべきに、願行は菩薩のところにはげみて、感果はわれらがところに成ず。世間・出世の因果のことわりに超異せり。和尚(善導)はこれを「別異の弘願」とほめたまへり。衆生にかはりて願行を成ずること、常没の衆生をさきとして善人におよぶまで、一衆生のうへにもおよばざるところあらば、大悲の願満足すべからず。面々衆生の機ごとに願行成就せしとき、仏は正覚を成じ、凡夫は往生せしなり。

とあります。世間の因果の道理と聖道門の因果の道理に超越し異なった因果の道理だということです。

親鸞聖人は『正像末和讃』

罪福信ずる行者は
 仏智の不思議をうたがひて
 疑城胎宮にとどまれば
 三宝にはなれたてまつる

と仰っているように、世間・出世の因果と報土の因果とを同一視していることを疑心と仰っているのですから、高森会長の教えは疑心の教えであり、報土往生を完全に妨げる教えです。

この最も重要な要の中の要の教えを捻じ曲げて、宿善だの三願転入だの光に向かへと言って世間的な因果の道理と結びつけて、金集め、人集めを強要しているのが、親鸞会です。

大根の種を蒔いたら、大根の芽しか出てこないし、スイカの種を蒔いたら、スイカの芽しか出てきません。珍しくまともな高森会長の理論ですが、それなら、相対の幸福の芽は、相対の幸福の種を蒔かないと出てきません。
具体的に言えば、お金を儲けるにはお金を儲ける努力をすることです。お金を儲けるにもいろいろありまして、大金持ちになるにはコンビニで24時間365日バイトしてもできません。大金持ちになるためにはたとえば事業を起すとか別の方法や違う努力をしなければなりません。ましてや親鸞会の活動をして多額の献金をしたことが因となってお金持ちになれることがありますか。それこそ、大根の種を蒔いてスイカをとろうと期待すること以上に愚かな思考です。
もっと言えば、”真実のため”という名目で反社会的な活動や卑怯な宣伝活動、嘘をついて、相対の幸福が得られると思っているなら、カルト宗教の信者そのものでしょう。

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2015年1月11日 (日)

高森顕徹会長が刷り込む迷信

親鸞会では、多くの迷信が蔓延っていますが、最も根深いものが、

善に励んで宿善が厚くならなければ信心決定できない

あるいは、

善をしなければ信仰が進まない

というものです。
人によって信心決定する時期が異なることから、退会後もこのような迷いに陥る人が意外に多いのですが、語弊を恐れずに敢えて言えば、逆です。
善に励んできた人程、または親鸞会で他の会員よりも活動をしてきた人程、信心決定しにくい傾向にあります。
その理由は、善に励むことができる人は、自力に拘るからです。自分のやってきたことが宿善になる、信仰にプラスになるという思いが強いと、どうしても自力を捨てにくくなります。

このことを端的に表現されているのが『歎異抄』第3条

善人なほもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや。しかるを世のひとつねにいはく、「悪人なほ往生す、いかにいはんや善人をや」。この条、一旦そのいはれあるに似たれども、本願他力の意趣にそむけり。そのゆゑは、自力作善のひとは、ひとへに他力をたのむこころかけたるあひだ、弥陀の本願にあらず。しかれども、自力のこころをひるがへして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐるなり。

です。この「善人」とは、善に励んでいる人のことです。「悪人」は善をする気の無い人のことです。会員で幹部の人は「善人」と言ってもよいかもしれません。幽霊会員は「悪人」と言えるでしょう。
つまり、幹部会員でさえ往生できるのなら、幽霊会員は尚更往生できることになりますから、上記のことを裏付ける根拠にもなるのです。

「悪人」とは全人類のことで、「善人」とは自分が「悪人」と思えず「善人」と自惚れている人のことだ

とか、これまたお目出度いことを親鸞会は言いますが、このことを覚如上人は『口伝鈔』第19条に法然上人、親鸞聖人、如信上人からの口伝として、

これも悪凡夫を本として、善凡夫をかたはらにかねたり。かるがゆゑに傍機たる善凡夫、なほ往生せば、もつぱら正機たる悪凡夫、いかでか往生せざらん。しかれば善人なほもつて往生す、いかにいはんや悪人をやといふべし

と紹介なされています。
凡夫に「善凡夫」と「悪凡夫」という二種類の人が存在していて、阿弥陀仏の18願は、「善凡夫」を「傍機」とし、「悪凡夫」を「正機」となされていると明言なされてきたことになります。

もう一度会員に当て填めてみると、阿弥陀仏の18願は、
幹部会員を「傍機」とし、幽霊会員を「正機」となされているのですから、幹部会員、元幹部会員よりも、幽霊会員や元幽霊会員だった人の方が、早く信心決定するのは、当然とも言えます。
もちろん、幹部会員や元幹部会員でも、「自力のこころをひるがへして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐるなり」ですから、自力の行である善に拘ることをきっぱり捨てることです。
宿善が厚くならなければ、とか、これだけ善に励んできたから他の人よりも信仰が進んでいる、とかいう迷信を直ちに捨てれば、他力をたのむことができます。

高森顕徹会長の刷り込みは、かなり巧妙です。しかし、高森顕徹会長の話で、まともなところはほとんどありませんので、すべてが間違っていると思う所から、親鸞聖人の教えを聞き直すのがよいと思います。

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2015年1月 5日 (月)

高森顕徹会長の説く迷信をこれでも信じることができるのでしょうか

親鸞会の迷信の1つに、

命懸けで善をすることによって、微塵の善もできないことが知らされる

というものがあります。退会者から善を勧められた御文の無いことを指摘された時に、会員が苦し紛れによくいうセリフです。
しかしこれは、大いなる勘違いと言っておきましょう。

まず、親鸞会でも有名な親鸞聖人の御言葉、『教行信証』信巻・信楽釈

一切凡小、一切時のうちに、貪愛の心つねによく善心を汚し、瞋憎の心つねによく法財を焼く。急作急修して頭燃を灸ふがごとくすれども、すべて雑毒雑修の善と名づく。
また虚仮諂偽の行と名づく。真実の業と名づけざるなり。この虚仮雑毒の善をもつて無量光明土に生ぜんと欲する、これかならず不可なり。

ですが、これは簡単に言えば、

命懸けで善をしても、真実の善は微塵もできないから、そんな善では報土には生れることができない

ということです。
微塵の善もできない」のではなく、「報土往生できる真実の善は微塵もできない」です。
この違いは国語の問題ですから、違いが理解できなければ、高校生にでも教えてもらってください。

親鸞聖人の御言葉を少し補足された御言葉が『改邪鈔』にあります。

かの三福の業はまた人天有漏の業なり。なかんづくに、深信因果の道理によらば、あに凡夫往生の望みをとげんや。(中略)いかにいはんや、出過三界の無漏無生の報国・報土に生るる道理あるべからず。

三福は散善ですが、凡夫の行う散善は煩悩の混じった有漏の善(雑毒の善)ですから、そんな有漏の善(雑毒の善)では報土に生れることはできません。なぜなら、煩悩のない無漏の報土に生れるには、無漏の善(真実の善)が必要だからです。

微塵の有漏の善(雑毒の善)もできない」ではなく、「微塵の無漏の善(真実の善)もできない」なのです。

では、無漏の善(真実の善)が少しでもできると思っている会員が一人でもいるかという問題です。もし無漏の善(真実の善)が少しでもできるかもしれないと思っている人があれば、その人は親鸞聖人の教えを信じることはなく、聖道門を信じるでしょう。

これは少し考えれば判ると思いますが、親鸞聖人は、真実の善ができる人はいないと断言されているのですから、自分は真実の善が少しくらいならできると思っている人は、親鸞聖人の教えを受け入れない人です。それよりも、真実の善を積んで出離し、成仏を目指す聖道門を信じなければおかしいでしょう。

したがいまして、親鸞聖人の教えを信じている人であるなら、真実の善ができるなどとは最初から思っていないし、自惚れてもいませんから、雑毒の善ができてもできなくても、何の関係も無い話です。

要するに、親鸞会で勧める財施、法施を命懸けでしたところで、それが真実の善になるとは最初から微塵も思っていませんので、その行為自体は往生とは何の関係もない、全くの無駄な行為だということです。

その無駄な行為に命を懸けたところで、それで何が得られるか考えてみてください。

大根の種を蒔いたら、大根の芽しか出てこないのです。スイカの種を蒔いたら、スイカの芽しか出てきません。高森顕徹会長から耳にタコができる程、聞いたことですが、珍しくこれは正しい話です。

報土往生の因は、阿弥陀仏が回向してくださる信と行(念仏)だけで、それ以外には何もありません。真宗の基礎の基礎の基礎です。

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