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2014年12月

2014年12月21日 (日)

高森顕徹会長にとって”最も難しい根拠”

前々回、前回と、「極重悪人唯称仏」について述べてきましたが、この元は『往生要集』であり、更にその元は『観無量寿経』下品下生です。

ちなみに、高森顕徹会長の”最も難しい根拠”は、『観無量寿経疏』でしょう。
知ったかぶって『観無量寿経』を解説しているように必死に演技していますが、『観無量寿経』は高森会長にとって”難しい根拠”の代表例であり、その解説書の『観無量寿経疏』に至っては、何が書かれてあるかすら、高森会長は全く知らないと言っても過言ではありません。

当ブログでは、これまで『観無量寿経』下品下生について、かなりしつこく述べてきたと思います。それで今回は、高森会長のために、”最も難しい根拠”の『観無量寿経疏』から、下品下生について紹介します。
『観無量寿経疏』の1巻である『玄義分』に、

下が下とは、「これらの衆生不善業たる五逆・十悪を作り、もろもろの不善を具す。 この人悪業をもつてのゆゑに、さだめて地獄に堕して多劫窮まりなからん。命終らんと欲する時、善知識の、教へて阿弥陀仏を称せしめ、勧めて往生せしむるに遇ふ。この人教によりて仏を称し、念に乗じてすなはち生ず」(観経・意)と。この人もし善に遇はずは、必定して下沈すべし。 終りに善に遇ふによりて七宝来迎す。

(現代語訳)

下品下生とは、「これらの衆生は、善くない業である五逆・十悪を造り、いろいろの悪を犯している。この人は悪業によるから必ず地獄に堕ちて多劫のあいだ窮まりない苦しみを受ける人であるが、命終わろうとするとき、善知識が南無阿弥陀仏と称えることを教え、往生を勧めてくださるのに遇う。この人はその教にしたがって念仏し、念仏によって往生する。」(観経・意)とある。この人がもし善知識に遇わなければ必ず地獄に堕ちるところであったが、臨終に善知識に遇うたことによって、七宝の蓮台に迎えられたのである。

とあります。
臨終に善知識から勧められたことは念仏だけです。これが『往生要集』の「ただ仏を称念して、極楽に往生することを得」であり、「他の方便なし」なのです。

過去世や平生に善をしてきた筈だ

と聖道門と同じ強引な理屈を捏ねるでしょうが、それについてこの前に下品を総称して

この三品の人ひと、 仏法・世俗の二種の善根あることなし。 ただ悪を作ることを知しるのみ。

(現代語訳)

この三種の人は、仏法につけ、世間につけ、いずれの善根もなく、ただ悪を作ることだけを知っている。

と仰っています。高森会長の好きな「あることなし」ですから、善根は過去世にも平生にもなかったし、勧められてもいません。

このように下品下生の極重の悪人には、善の勧めは全くないのです。唯念仏によって往生できる、としか釈尊も七高僧も親鸞聖人も教えられていなのです。

浄土真宗を語る上では、基礎の基礎です。

無二の善知識を演じたいのであれば、『観無量寿経』『観無量寿経疏』を”難しい根拠”と敬遠せすに、一度くらいは読んでみては如何でしょうか。真宗学の基礎がなければ、読んでもチンプンカンプンでしょうけど。

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2014年12月18日 (木)

高森顕徹会長の知らない根拠は”難しい根拠”だそうです

一年前に発刊した『なぜ生きる2』ですが、amazonのレビュー等で退会者から教義内容についての猛攻撃にあって、いとも簡単に撃沈し、広告費を会員から出させたものの、まともに広告すら出せない状況です。
余りにもお粗末というか、先が読め無さ過ぎるというか、はたまた”無二の善知識”と本気で思い込んでいたのか、いずれにしても、『なぜ生きる2』の発刊が大失敗であったことは、高森顕徹会長も判っているようです。

ところで、親鸞会内部では、私のことを、難しい根拠を出して煙にまいているだけだ、と評しているそうです。その”難しい根拠”の解釈をしないのが、高森会長と親鸞会らしいところです。
普通なら、相手が出してきた根拠に対しての自分の見解を述べますが、しません。というより、できません。
大体、”難しい根拠”とは何のことでしょうか。高森会長が知らない根拠のことを、”難しい根拠”と言っているのでしょう。単なる無知を公表しているに過ぎないのですが、こんなことを言って恥ずかしくないのでしょうか。

それでは、前回御約束した「極重悪人唯称仏」について、無知の高森会長には”難しい根拠”を出して説明しておきます。
この元は源信僧都の『往生要集』にある

『観経』に「極重の悪人は、他の方便なし。ただ仏を称念して、極楽に往生することを得」と。

です。
『往生要集』のこのお言葉は、『教行信証』行巻にも引かれていますが、『高僧和讃』源信讃にも

極悪深重の衆生は
 他の方便さらになし
 ひとへに弥陀を称してぞ
 浄土にうまるとのべたまふ

と親鸞聖人は仰っています。
更には蓮如上人は『正信偈大意』

「極重悪人唯称仏」といふは、極重の悪人は他の方便なし、ただ弥陀を称して極楽に生ずることを得よといへる文のこころなり。

と仰っています。

これは『観無量寿経』にある下品下生の往生についてのことを仰ったものです。下品が悪人で、悪人の中の最低が下品下生であり、それを「極重の悪人」と表現なされています。最低の悪人には、念仏以外の方便である善は全くないことを仰ったものです。
逆の言い方をすれば、上品と中品の善人には、念仏以外の方便である善が勧められています。『観無量寿経』を少しでも勉強したことがあれば、超常識です。
このことを親鸞聖人は『浄土和讃』

臨終現前の願により
 釈迦は諸善をことごとく
 『観経』一部にあらはして
 定散諸機をすすめけり

と仰っています。
まとめると

善人(定散諸機)には、諸善(他の方便)が勧められている
極重の悪人には、諸善(他の方便)がなく、唯念仏で極楽に生れる

こう言うことです。
ですから、日本語上も教義上でも「極重悪人唯称仏」は、「念仏を称えさえすれば、誰でも死んだら極楽だ」という意味にしかならないのです。

ちなみに善人(定散諸機)は、諸善(他の方便)を実践してどうなるのかについて親鸞聖人は『教行信証』化土巻・要門釈で化土往生しかできないと仰った結論として

『観経』の定散の諸機は、極重悪人、ただ弥陀を称せよと勧励したまへるなり。濁世の道俗、よくみづからおのれが能を思量せよとなり、知るべし。

と仰っています。

定散の諸機」には他の方便はありますが、極楽に生れるには「極重悪人」同様、「ただ弥陀を称せよと勧励したまへるなり」なのです。

再度まとめると
他の方便のある善人も、他の方便のない悪人も、「ただ弥陀を称せよ」が結論なのです。

高森会長の知らない”難しい根拠”をいくつか出しましたが、”難しい根拠”に対する高森流解釈を是非とも聞きたいものです。

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2014年12月16日 (火)

日本語の能力が著しく欠けている高森顕徹会長の珍釈

12月1日号の顕正新聞の論説に「極重の悪人は唯仏を称すべし」(正信偈)についての珍釈が載っています。

「私は煩悩具足の凡夫であった」と、自己の真実が知らされると同時に、そんな極悪人を無条件で救う本願に疑い晴れ、念仏称えずにおれない身になった人のことを、源信僧都は「極重の悪人は唯、念仏を称えなさい」と言われているのである。
「私が極悪人なものか、アイツよりはマシだ」とうぬぼれ、自分を善のカケラもない煩悩具足の巨魁とは少しも思っていない者に、「念仏を称えさえすれば、誰でも死んだら極楽だ」と仰ったのではない。

読者の皆さんなら、間違いをすぐに指摘できると思いますが、高森顕徹会長の珍しき法しか聞いたことが無い会員には、おかしなところが判らないかもしれません。

まず、日本語が少しでも理解できるのならば、「極重の悪人は唯仏を称すべし」は、親鸞会が否定する「念仏を称えさえすれば、誰でも死んだら極楽だ」という意味になります。親鸞会では日本語をまともに使えないので、こんなおかしなことを平気でいうのです。親鸞聖人の教えられたことを正確に言うならば、「念仏を称えさえすれば、誰でも死んだら報土か化土だ」ということになります。根拠は沢山ありますが、たとえば『浄土和讃』の一番最初の

弥陀の名号となへつつ
 信心まことにうるひとは
 憶念の心つねにして
 仏恩報ずるおもひあり

誓願不思議をうたがひて
 御名を称する往生は
 宮殿のうちに五百歳
 むなしくすぐとぞときたまふ

信心を獲た念仏は報土、信心を獲ていない念仏は化土と親鸞聖人は明言されています。

次に「煩悩具足の凡夫」と「極重の悪人」とは、意味が違います。2つの関係を判りやすく言えば、「煩悩具足の凡夫」の中に「極重の悪人」に分類される人がいると言うことです。嘘だと思う会員のために根拠を挙げておきます。蓮如上人の書かれた『正信偈大意』

「善導独明仏正意 矜哀定散与逆悪」といふは、浄土門の祖師その数これおほしといへども、善導にかぎり独り仏証をこうて、あやまりなく仏の正意を明かしたまへり。されば定散の機をも五逆の機をも、もらさずあはれみたまひけりといふこころなり。

五逆の機」(=「極重の悪人」)とは別に「定散の機」があります。言うまでもありませんが、「もらさずあはれみたまひけり」ですから、「五逆の機」も「定散の機」も共に信前の機です。
本願に疑い晴れ、念仏称えずにおれない身になった人のこと」を「極重の悪人」と言うような愚かな解釈ができる筈もありません。

同様に「自分を善のカケラもない煩悩具足の巨魁とは少しも思っていない者」も、大きな勘違いです。これも「煩悩具足の凡夫」の中に「極重の悪人」のような「善のカケラもない」者がいるのですが、一方で善のできる「定散の機」もいます。

まとめると、「極重の悪人は唯仏を称すべし」とは、善のできない「極重の悪人」は唯念仏しか往生の道はない、ということです。

今回は簡単な説明をしておきましたが、次回は「極重の悪人は唯仏を称すべし」の御言葉自体の解説を根拠を基にします。それは、根拠のない妄想珍釈の高森会長との違いをはっきりさせるためです。

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2014年12月 2日 (火)

高森顕徹会長の知らない雑行のイロハ

五雑行はものがらが悪いから捨てよ、諸善万行はものがらはよいが心がけが悪いからその悪い心がけを捨てよ

という頓珍漢なことを言っているのが、高森顕徹会長です。この言葉だけ見ても、高森会長の無知がハッキリ判ります。

高森会長の妄言しか知らない会員の為に、雑行のイロハを根拠を基に説明します。

親鸞聖人は『教行信証』化土巻・雑行釈

それ雑行・雑修、その言一つにして、その意これ異なり。雑の言において万行を摂入す。五正行に対して五種の雑行あり。雑の言は、人・天・菩薩等の解行、雑せるがゆゑに雑といへり。もとより往生の因種にあらず、回心回向の善なり。ゆゑに浄土の雑行といふなり。

(現代語訳)

さて、雑行と雑修とは同じような言葉であるが、意味は違っている。雑という言葉には、すべての行をおさめてしまうのである。五種の正行に対しては、五種の雑行がある。この雑という言葉は、人間や神々に生れる行や菩薩の行などがさまざまにまじっているという意味で雑というのである。これはもとより阿弥陀仏の浄土に往生する因ではなく、浄土を願う心をおこし、これらの行を浄土往生のための善としなければならないから、浄土往生の行としては雑行というのである。

少し理解しづらいかもしれませんが、簡単に言えば、「もとより往生の因種にあらず」の善を「回心回向」したものを雑行というのです。つまり、往生とはもともと関係の無い善である聖道門で教えられる善(倫理道徳の善も含む)を、浄土往生の為と思ってしたならば、それが雑行になるのです。

これと同じことを仰ったのが、高森会長が善の勧めの根拠に利用している『浄土和讃』

諸善万行ことごとく
 至心発願せるゆゑに
 往生浄土の方便の
 善とならぬはなかりけり

(現代語訳)

諸善万行は、 本来、 聖道門の行である。
けれども、 この行によって浄土往生を願わせたいと、 阿弥陀如来が至心発願の誓いをお立てくださったので、
浄土往生のための方便の
善とならないものはなかったのである。

この御和讃は善を勧められたのではなく、雑行の説明をされただけのことです。

会員は頭が混乱していると思いますので、別の根拠を挙げるなら、『選択本願念仏集』

初めに往生の行相を明かすといふは、善導和尚の意によらば、往生の行多しといへども大きに分ちて二となす。一には正行、二には雑行なり。

(現代語訳)

初めに往生の行相を明かすというのは、善導和尚の意によると、往生の行は多いけれども大きく分けて二つとする。一つには正行、二つには雑行である。

如何でしょうか。雑行とは「往生の行」です。「往生の行」でないものは、雑行ではありません。

ここまでくれば、最初の妄言が妄言と理解できると思いますが、一応解説しますと、高森会長がものがらが悪いとして捨てよと言っている五雑行も、ものがらがよいと言っている諸善万行も、ものがらは同じ聖道門の行(倫理道徳の善を含む)なのです。具体的に言えば、さとりを求めて法華経を読誦すれば、それは聖道門の行であり雑行ではありません。しかし、往生のために法華経を読誦すれば雑行になります。さとりを求めて布施をすれば、それは聖道門の行であり雑行ではありません。しかし、往生のために布施をすれば雑行になります。
要するに、五雑行と諸善万行とは同じものがらで、諸善万行の中に五雑行と呼ばれる善行があるに過ぎません。

ここでもう少し思考を働かせれば、自らの意思でものがらの悪い五雑行を捨てるのですから、同様に自らの意思で同じく悪いものがらの諸善万行を捨てることができるのです。

ちなみに高森会長の言う「心がけが悪い」に当たるのが、「回心回向」「至心発願」です。つまり、往生の為に、という心がけです。この心がけを捨てたなら、五雑行も諸善万行も聖道門の行(倫理道徳の善を含む)になるのですから、18願での往生を願う行者は、往生とは無関係と思って倫理道徳の善に大いに励めば宜しいでしょう。
もし本気で往生したいと思うのなら、往生の為にと思って布施に励むことは直ちに止めましょう。

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