« 2014年10月 | トップページ | 2014年12月 »

2014年11月

2014年11月22日 (土)

お粗末な雑行詐欺を続けざるを得ない稀代の悪知識

親鸞会では、未だに雑行を強く勧めている頓珍漢な教義、というよりも、金集め人集めのための詐欺教義に徹しています。

10月1日号の顕正新聞には、雑行について

 煙草のまない人に”煙草のむな”と言う人がいないように、”煙草を止めよ”、と言われるのは、煙草をのんでいる人にである。
 同じく、雑行を棄てよ、と言われるのは、雑行をやっている人にである。

などと進歩も向上もない低レベルの詭弁を言い続けています。

高森顕徹会長の信者でなければ、こんな詭弁に引っ掛かる人はほとんどいないでしょうが、高森会長を唯一無二の善知識と信じ切っている会員は、この低レベルの詭弁を信じるより仕方がないのです。

これまで何度も何度も言ってきましたが、煙草のまない人にも”煙草のむな”と普通に言います。学生にも言いますし、喫煙習慣のない一般の人も含めて、煙草の害について説明して、”煙草を止めよ”と推進しています。
他の例を挙げれば、危険ドラッグを止めよ、と言われていますが、危険ドラッグを吸ってから止めよう、と思う愚か者はいません。
自殺を止めよ、と国挙げて言われていますが、それは自殺をした人に止めよ、と言われていると考えているなら、日本で普通に生活することは無理でしょう。自殺をする人が後を絶たないから、まだ自殺していない人に、自殺を止めよ、と言われるのです。当たり前過ぎる話です。

同じく、雑行をやっていない人に対しても、雑行を棄てよ、と言われます。

もし、私の言うことに反論したいのであれば、雑行をやっていない人にまず雑行をせよ、と教えられている歴代の善知識の御言葉を1つでも示せばいいのですが、それは絶対にできません。無いのですから。

前回のエントリーで書いた内容を再度掲示します。

19願--修善(行)+自力(信心)
20願--念仏(行)+自力(信心)
18願--念仏(行)+他力(信心)

雑行とは19願に属しますが、19願の外に聖道門があり、その外に外道があります。

高森詭弁通りなら、聖道門を棄てよ、と教えられますが、聖道門を信じ求めたことのない人は、まず聖道門を求めてから聖道門を棄てよ、です。
その前に、外道を棄てよ、と教えられますが、外道を信じたことのない人には、まず外道を信じてから外道を棄てよ、です。

しかし、外道も聖道門も信じ求めよとは、絶対に言わないことが、高森詭弁のお粗末さを表わしています。

行も信心も異なる19願雑行を問題にしていること自体、高森教義は、親鸞聖人の教えと対極の位置にあるのです。

実に簡単な理屈です。

振り込め詐欺よりも低レベルの詐欺師、稀代の悪知識に、いつまで騙され続ければ気が付くのでしょうか?

| | コメント (6) | トラックバック (0)

2014年11月13日 (木)

行と信心を混同させて金集め人集めを強要する高森顕徹会長

三願転入について再度確認しておきましょう。

19願--修善(行)+自力(信心)
20願--念仏(行)+自力(信心)
18願--念仏(行)+他力(信心)

18願と19願とは、行も信心も異なります。20願はその中間で、19願とは信心が同じで行が異なり、18願とは行が同じで信心が異なります。

親鸞会が拘っている

自力一杯求めなければ自力無功と知らされない

の自力とは、自力の心であり、自力の信心のことです。少し考えれば判りますが、「自力一杯求めなければ自力無功と知らされない」を言うのであれば、修善を命懸けで求めて結果的に自力無功と知らされるのではなく、念仏を自力の信心で命懸けで称えた結果として自力無功と知らされることになるはずです。

修善を捨てるには修善を命懸けでして、微塵の善もできないと知らされなければならない

と間の抜けた反論を親鸞会はしてくるでしょうが、修善を捨てた先には20願の念仏一行になるのです。

つまり、修善を命懸けでして微塵の善のできない者であった、と知らされたとしても、それが18願にはならないと言うことです。なぜなら三願転入を前提とするなら、微塵の善のできない者のために念仏を阿弥陀仏が御用意なされて、それを自力の信心で称えている段階の20願に移行するだけだからです。

『教行信証』化土巻・真門釈

まことに教は頓にして根は漸機なり。行は専にして心は間雑す。

(現代語訳)

まことに、名号はこの上ない功徳をまどかにそなえ、ただちにさとりに到る他力真実の法であるが、これを修めるものが、自力を離れることができず、速やかにさとりに到ることのできない衆生なのである。行は専すなわち念仏一行であるが、これを修める心は雑すなわち本願を疑う自力の心である。

とある通りです。

要するに、信心は自力と他力を自分では選べないとしても、行は修善と念仏を自分で選ぶことになるのです。
それでもまだ屁理屈を言うのなら、親鸞会の大好きな三願転入の文を良く見てましょう。

論主の解義を仰ぎ、宗師の勧化によりて、久しく万行諸善の仮門を出でて、永く双樹林下の往生を離る。善本徳本の真門に回入して、ひとへに難思往生の心を発しき。

19願を離れて20願への回入は、「論主の解義を仰ぎ、宗師の勧化によりて」です。阿弥陀仏のお力によりてではないのです。
善知識方が勧められる通り、修善を捨てて念仏一行を自らの意思で選ぶのです。信前の人は、その念仏一行に自力の信心と他力の信心の違いがあることに悩むのであって、行の段階で修善か念仏かと悩んでいるのなら、「論主の解義」を否定し、「宗師の勧化」に背いている者なのです。

自力の信心を捨てることと、修善という行を捨てることは、別のことなのですが、それを混同させて、金集め人集めを会員に強要しているのが高森顕徹会長であることをよくよく知るべきです。会員もうんざりしている度重なる「なんとかお布施」が、18願と何の関係がありますか。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2014年11月 7日 (金)

どんな詭弁も通用しないことにようやく気が付いた高森顕徹会長と愉快な仲間達

『観無量寿経』下品下生の往生について、何が何でも否定したい親鸞会のいつもの難癖が、「親鸞聖人の教えは平生業成なのに、臨終でなければ救われないのはおかしい」です。

実に間の抜けた反論ですが、このことについては存覚上人の『浄土真要鈔』に問答形式で教えられています。

 問うていはく、『観経』の下輩の機をいふに、みな臨終の一念・十念によりて往生を得とみえたり。まつたく平生往生の義を説かず、いかん。
 答へていはく、『観経』の下輩は、みなこれ一生造悪の機なるがゆゑに、生れてよりこのかた仏法の名字をきかず、ただ悪業を造ることをのみしれり。 しかるに臨終のときはじめて善知識にあひて一念・十念の往生をとぐといへり。これすなはち罪ふかく悪おもき機、行業いたりてすくなけれども、願力の不思議によりて刹那に往生をとぐ。これあながちに臨終を賞せんとにはあらず、法の不思議をあらはすなり。もしそれ平生に仏法にあはば、平生の念仏、そのちからむなしからずして往生をとぐべきなり。

下輩(下品上生・下品中生・下品下生)は、「一生造悪の機」であり、「生れてよりこのかた仏法の名字をきかず、ただ悪業を造ることをのみしれり」の者のことです。生れてから今まで一度も仏法を聞いたこともない、悪しか造ってこなかった者が、「臨終のときはじめて善知識にあひて一念・十念の往生をとぐ」と『観無量寿経』に説かれています。これを否定したら、浄土門ではないので、親鸞会は浄土門外であることを公言しているようなものです。
そこで上記の難癖をつけてくるのですが、それについてまず「これすなはち罪ふかく悪おもき機、行業いたりてすくなけれども、願力の不思議によりて刹那に往生をとぐ。」と、阿弥陀仏の願力には、それまで仏法を聞いてきたかどうかも関係なく、もちろん善の有無も無関係であることを存覚上人は教えられています。
その上で、「これあながちに臨終を賞せんとにはあらず、法の不思議をあらはすなり。もしそれ平生に仏法にあはば、平生の念仏、そのちからむなしからずして往生をとぐべきなり。」と、親鸞会の難癖を一蹴されています。臨終の念仏で往生できるのですから、平生の念仏でも往生できるのは言うまでもないことです。あくまで最悪の状況下でも往生させる阿弥陀仏の不思議なお力を顕わされただけのことです。

高森顕徹会長や親鸞会の講師部員全員が寝ずに詭弁を考えてきたところで、そんな程度の詭弁は、すでに聖教の中で論破されていることばかりです。聖教を読んだことが無いから知らないだけで、詭弁を弄すれば弄するほど、単なる無知を晒し続けてきているのが、ここ数年の法論惨敗記録です。

法論しても勝ち目のないことをようやく理解し、今は残っている会員から、どれだけ絞り切れるかが、親鸞会上層部の会議の議題のようです。
しかし、それも長くは続かないでしょう。

| | コメント (15) | トラックバック (0)

« 2014年10月 | トップページ | 2014年12月 »