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2014年10月13日 (月)

「極難信」の意味さえ知らなかったのに訂正もできない高森顕徹会長と愉快な仲間達

負け惜しみの荒らしコメントをする人物が未だにいて呆れています。
高森顕徹会長以下、親鸞会会員が意味も知らずに使っている仏語や根拠は、山ほどありますが、その1つが前回のエントリーで使った「極難信」です。これは『阿弥陀経』の異訳経である『称讃浄土経』に出てくるお言葉です。念仏1つで往生できると言う世間の常識、聖道門の常識では考えられない教えを「是の世間極難信の法」「是の如きの一切世間極難信の法」とあるのですが、これを『阿弥陀経』では「この一切世間難信の法」とあります。

この程度の知識など有る筈もない高森会長と会員ですが、善もせずして阿弥陀仏に救われることなど考えられない、というこを

難信

と教えられているのです。長い長い求道が必要だから難信なのではなく、求道の要らない教えであるから難信なのです。

このことを親鸞聖人は元照律師の『阿弥陀経義疏』を引いて『教行信証』信巻

元照律師のいはく(阿弥陀経義疏)、「他のなすことあたはざるがゆゑに甚難なり。世挙つていまだ見たてまつらざるがゆゑに希有なり」と。
またいはく(同)、「念仏法門は、愚智豪賤を簡ばず、久近善悪を論ぜず、ただ決誓猛信を取れば臨終悪相なれども、十念に往生す。これすなはち具縛の凡愚、屠沽の下類、刹那に超越する成仏の法なり。世間甚難信といふべきなり」と。

(現代語訳)

元照律師が『阿弥陀経義疏』にいっている。
「『阿弥陀経』には、釈尊がこの五濁の世に出られて仏となり、阿弥陀仏の教えを説かれたことを<甚難希有>と示されているが、他の仏がたのできないことであるから甚難であり、この世で今までになかったことであるから希有である」
また次のようにいっている。
「念仏の教えは、愚者と智者、富めるものと貧しいもののへだてなく、修行期間の長短や行の善し悪しを論じることなく、ただ決定の信心さえ得れば、臨終に悪相をあらわしても、たとえば十声念仏して往生をとげる。これこそは、煩悩に縛られた愚かな凡夫でも、また、生きものを殺し、酒を売って生活し、賤しいとされるものであっても、たちどころにすべてを跳び超えて仏になる教えである。まことに世間の常識を超えた信じがたい尊い教えというべきである」

と教えられています。「世間甚難信」については更に、元照律師の弟子の顕した『聞持記』を引かれて

『聞持記』にいはく、「〈愚智を簡ばず〉といふは、[性に利鈍あり。]〈豪賤を択ばず〉といふは、[報に強弱あり。]〈久近を論ぜず〉といふは、[功に浅深あり。]〈善悪を選ばず〉といふは、[行に好醜あり。]〈決誓猛信を取れば臨終悪相なれども〉といふは、[すなはち『観経』下品中生に地獄の衆火、一時にともに至ると等いへり。]〈具縛の凡愚〉といふは、[二惑まつたくあるがゆゑに。]〈屠沽の下類、刹那に超越する成仏の法なり。一切世間甚難信といふべきなり〉といふは、[屠はいはく、殺を宰る。沽はすなはちコ売。かくのごとき悪人、ただ十念によりてすなはち超往を得、あに難信にあらずや。]

(現代語訳)

『聞持記』にいっている。
「『阿弥陀経義疏』の文に、<愚者と智者のへだてなく>とあるのは、人々の性質に賢愚の違いがあることをいう。<富めるものと貧しいもののへだてなく>とあるのは、人々の生活に貧富の違いがあることをいう。<修行期間の長短を論じることなく>とあるのは、修行の功に浅深の違いがあることをいう。<行いの善し悪しを論じることなく>とあるのは、行いに善悪の違いがあることをいう。<決定の信心を得れば、臨終に悪相をあらわしても>とあるのは、『観無量寿教』の下品下生の文に<地獄の猛火が一斉に押し寄せてくる>などと説かれているありさまをいう。<煩悩に縛られた愚かな凡夫>とあるのは、見惑と思惑の煩悩をすべて持っているものをいう。<生きものを殺し、酒を売って生活し、賤しいとされるものであっても、たちどころにすべてを飛び超えて仏になる教えである。まことに世間の常識を超えた信じがたい尊い教えというべきである>とあるのは、生きものを殺すもの、酒を売るものなど、このような悪人でも、たとえば十声念仏して、たちまち飛び超えて浄土に往生することができるのであって、まことに信じがたいすぐれた教えではないか、という意味である。

と解説なされています。「屠沽の下類、刹那に超越する成仏の法」である18願は、「甚難信」の法ということです。「善悪を選ばず」であり「ただ十念によりてすなはち超往を得」とは、18願の救いには善が全く必要がないのです。従って、「甚難信」の法とは、「世間の常識を超えた信じがたい尊い教え」という意味です。

親鸞会の幹部会員が救われないのは、財施などの善が足りないからでも、高森会長の話を真剣に聞いていないからでもなく、「世間甚難信」つまり「世間の常識を超えた信じがたい尊い教え」を「世間甚易信」つまり「自分の常識で判断した信じやすい卑しい教え」に貶めているからです。

これと宿善との関連で言えば、

覚如上人の新定義「宿善あつきもの」「宿善のある機」は「難信」の教えを素直に信じている人のこと、
覚如上人の新定義「宿福なきもの」「宿善なき機」は善が必要だとする「易信」の教えを信じている人のこと

です。

これだけ懇切丁寧に説明しても、未だに「難信」の教えを平気で誹謗する「無宿善の機」のコメンテーターの相手はしません。当たり前のことです。

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コメント

荒らしコメンテーターさんの主張まとめ

1.因果の道理に順じて信心決定する

(親鸞聖人は、因果の道理とは無関係に救われる、と教えられた)

2.平生に善もせず、臨終に念仏称えただけで簡単に救われることはない

(親鸞聖人は、他の方便なしただ念仏して往生できるのが18願、と教えられた)

3.話をする対象を限定するのは仏教ではない、他の宗教

(親鸞聖人は、話をする対象を限定しなさい、と教えられた)

4.阿弥陀仏に救われたら現生で四弘誓願、度衆生心が起きて凡心が仏心になる

(親鸞聖人は、来生で四弘誓願、度衆生心が起きて凡心が仏心になる、と教えられた)

5.阿弥陀仏に救われたら常行大悲の益を現生に獲るから、話をする対象を限定するのは間違い

(親鸞聖人は、獲信者の言動がそのまま大悲を行事ていることになる、と教えられた)

6.簡単に救われるなら、沢山の人がすでに救われていて当然だ

(親鸞聖人は、簡単過ぎるから疑う人が多くて、救われる人が少ない、と教えられた)

7.極難信だから、簡単に救われるのは、間違いだ

(親鸞聖人は、念仏だけで簡単に救われるという18願を信じることが極めて難しいことを極難信、と教えられた)

8.三願転入が獲信の道程だ

(親鸞聖人は、聖道門の人のために19願が建てられたので三願転入は聖道門の人が通る可能性のある道であり、善のできない悪人には何の関係もない、と教えられた)

投稿: 新氏 | 2014年10月13日 (月) 22時21分

親鸞会では中々信心決定できないと不平不満を言う者に「難信なのだから」と「難信」という言葉を使いますが、間違ってますよね。
会員の皆さんが信心決定するのが難しいのは何も親鸞会の教義に合わせられないからではなく、親鸞会の教義に振り回されて18願の救いが「如来の加威力」「博く大悲広慧の力」によることを知らないからです。既に何度も挙げられていますが、如何に示しますと、

しかるに常没の凡愚、流転の群生、無上妙果の成じがたきにあらず、真実の信楽まことに獲ること難し。【なにをもつてのゆゑに、いまし如来の加威力によるがゆゑなり、博く大悲広慧の力によるがゆゑなり。】たまたま浄信を獲ば、この心顛倒せず、この心虚偽ならず。ここをもつて極悪深重の衆生、大慶喜心を得、もろもろの聖尊の重愛を獲るなり。(信文類)

ところで、常に迷いの海に沈んでいる凡夫、迷いの世界を生れ変り死に変りし続ける衆生は、この上もない証を開くことが難しいのではなく、そのさとりに至る真実の信心を得ることが実に難しいのである。なぜなら、信心を得るのは、如来が衆生のために加えられるすぐれた力によるものであり、如来の広大ですぐれた智慧の力によるものだからである。たまたま、清らかな信心を得たなら、この信心は真如にかなったものであり、またいつわりを離れている。そこで、きわめて深く重い罪悪をそなえた衆生も、大きな喜びの心を得て、仏がたはこのものをいとおしみ、お護りくださるのである。

この文章は『教学聖典(5)』問(14)の答えとして出てきますが、【】の部分は略されています。故意に略していると言えましょう。親鸞会はいかにも根拠を挙げて話をしているように見えますが、肝心な所の根拠がありません。
また難信であるのは、凡夫が仏になることがちょうど手のひらを返すようにきわめてたやすいので、かえって多くの疑惑を生じるからだともあります。

律宗の用欽のいはく、「法の難を説くなかに、まことにこの法をもつて凡を転じて聖となすこと、なほし掌を反すがごとくなるをや。大きにこれ易かるべきがゆゑに、おほよそ浅き衆生は多く疑惑を生ぜん。すなはち『大本』(大経・下)に〈易往而無人〉といへり。ゆゑに知んぬ、難信なり」と。(信文類)

律宗の用欽がいっている。「阿弥陀仏の教えを信じることが難しいと説くのは、まことにこの教えは、凡夫を転じて仏とすることが、ちょど手のひらを返すようだからである。きわめてたやすいから、かえって浅はかな衆生は多くの疑いを生じる。そこで『無量寿経』には、<浄土は往生しやすいにもかかわらず、往生する人がまれである>と説かれている。このようなわけで信じることが難しいと知られる」

親鸞会流因果の道理をもって18願の救いを捉えようとしている限り、本願力に乗ずることは勿論、理解することさえ困難極まりないでしょう。

投稿: 淳心房 | 2014年10月13日 (月) 23時13分

いつもありがとうございますm(__)m

投稿: | 2014年10月13日 (月) 23時39分

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