ちょっと話がややこしくなるだけで理解不能に陥る高森顕徹会長
親鸞会では宿善厚い人(宿世に善根を多くしてきた人)が救われて、宿善薄い人(宿世に善を余りしてこなかった人)はそのままでは救われないし、ましてや無宿善の人(宿世に善を全くしてこなかった人)が救われることはあり得ない、としています。
この考え方自体が聖道門の発想であり、それを徹底的に否定されたのが善導大師、法然上人、聖覚法印、親鸞聖人、覚如上人であることをこれまで述べてきました。このことは、親鸞会が全く反論できない内容です。
ところが覚如上人は、上記のことを踏まえられた上で、敢えて、宿善の意味を替えて教えられていますので、そこで話がややこしくなって、高森顕徹会長のようなトンデモ邪義がでてきたのです。
『口伝鈔』には
十方衆生のなかに、浄土教を信受する機あり、信受せざる機あり。いかんとならば、『大経』のなかに説くがごとく、過去の宿善あつきものは今生にこの教にあうてまさに信楽す。宿福なきものはこの教にあふといへども念持せざればまたあはざるがごとし。「欲知過去因」の文のごとく、今生のありさまにて宿善の有無あきらかにしりぬべし。
しかるに宿善開発する機のしるしには、善知識にあうて開悟せらるるとき、一念〔も〕疑惑を生ぜざるなり。
とあり、また『改邪鈔』には、
かつはまた宿善のある機は正法をのぶる善知識に親しむべきによりて、まねかざれどもひとを迷はすまじき法灯にはかならずむつぶべきいはれなり。宿善なき機は、まねかざれどもおのづから悪知識にちかづきて善知識にはとほざかるべきいはれなれば、むつびらるるもとほざかるも、かつは知識の瑕瑾もあらはれしられぬべし。所化の運否、宿善の有無も、もつとも能・所ともに恥づべきものをや
とありまして、「宿善あつきもの」「宿善のある機」は善知識に遇って18願の法を聞くことができますが、「宿福なきもの」「宿善なき機」は善知識から遠ざかって悪知識に近付いて18願の法を聞くことができないと教えられています。
ここで、やはり宿世に善をしてきたかどうかで善知識に遇えるか遇えないか、聞くか聞かないかが決まってくるではないか、と早とちりするのが単純思考の親鸞会ですが、そうではないことは、少しでも思考能力があれば判る筈です。
ここで覚如上人が仰っていることは
「宿善あつきもの」
=「宿善のある機」
=「浄土教を信受する機」
=「今生にこの教にあうてまさに信楽す」
=「善知識に親しむべき」
「宿福なきもの」
=「宿善なき機」
=「浄土教を信受せざる機」
=「この教にあふといへども念持せざればまたあはざるがごとし」
=「悪知識にちかづきて善知識にはとほざかるべきいはれ」
になります。
要するに、18願の教えを信じる人が「宿善あつきもの」「宿善のある機」であり、18願を信じる気の無い人が「宿福なきもの」「宿善なき機」になるのです。
これを前回までのことと併せて言うならば、あくまで傾向として以下のことが言えます。
「宿世の善根厚き機」(善人)≒「宿福なきもの」「宿善なき機」
「宿世の善根薄き機」・「宿世の善根無き機」(悪人)≒「宿善あつきもの」「宿善のある機」
です。これが『歎異抄』の
善人なほもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや。
になるのです。ここで悪人正機・善人傍機が18願だということに繋がってくる訳です。
弥勒菩薩を初めとして、聖道門の修行に勤しむ善人は、18願のことを知りながら、信じる気がないのです。知らないのではありません、知っていても自分とは関係ないと考えるのです。もちろん18願に「十方衆生」とあることは当然知っていますが、それでも関係ないと考えるのが、聖道門の常識なのです。
簡単に救われる教えであるが故に、善人には18願を信じる気が起きないのです。宿世に多くの善根を積んできた人ほど、18願を疑います。だから極難信なのです。
浄土真宗の教えは、話がすべて繋がっています。ただ、宿善に関しては、覚如上人が二つの定義を並立させて説明されたが故に、聖教を読んだことのない無知の高森会長が誤解したという結末なのです。
理解力の乏しい会員の為に再度まとめると
「(通仏教)宿善厚き機」≒「(覚如上人の新定義)宿善なきもの」
「(通仏教)宿善薄き機」「(通仏教)宿善無き機」≒「(覚如上人の新定義)宿善あつきもの」
です。
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コメント
飛雲さま
宿善についてはきちんと学んだことがなく、難しく感じていました。
覚如上人は解釈を変えられたのですね。聞いたことはあるものの、よく解っていませんでした。
今回のエントリーでよくわかりました。
有り難うございます。
投稿: 最初の名無し | 2014年10月12日 (日) 23時05分