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2014年10月

2014年10月25日 (土)

「称名を本願と誓ひたまへる」が「諸善を本願と誓ひたまへる」とすり替わる高森顕徹会長の邪義

私がブログで親鸞会の教えを非難していることに対して、「お前の言動がおかしい」という”反論”をしてくる会員が、最近目につくようになりました。このような”反論”は、私にとりましては大変光栄なことです。なぜなら、「お前の言っていることには反論はできないが、お前の言動は少なくともおかしい」ということで、教義的には降伏を宣言したことと同じなのですから。

さて、親鸞会の知らない浄土門の超常識である下品下生の往生について、これまで詳しく説明してきましたが、もう少し述べておきます。

親鸞聖人が書写されて同行に読むように勧められた『唯信鈔』に、

『観無量寿経』の下品下生の人の相を説くにいはく、「五逆・十悪をつくり、もろもろの不善を具せるもの、臨終のときにいたりて、はじめて善知識のすすめによりて、わづかに十返の名号をとなへて、すなはち浄土に生る」といへり。これさらにしづかに観じ、ふかく念ずるにあらず、ただ口に名号を称するなり。「汝若不能念」といへり、これふかくおもはざるむねをあらはすなり。「応称無量寿仏」と説けり、ただあさく仏号をとなふべしとすすむるなり。「具足十念称南無無量寿仏 称仏名故 於念々中 除八十億劫生死之罪」といへり。十念といへるは、ただ称名の十返なり。本願の文これになずらへてしりぬべし。 善導和尚はふかくこのむねをさとりて、本願の文をのべたまふに、「若我成仏 十方衆生 称我名号 下至十声 若不生者 不取正覚」といへり。十声といへるは口称の義をあらはさんとなり。

とあります。念仏軽視の親鸞会思想では全く理解できないと思いますが、下品下生の往生とは「五逆・十悪をつくり、もろもろの不善を具せるもの、臨終のときにいたりて、はじめて善知識のすすめによりて、わづかに十返の名号をとなへて、すなはち浄土に生る」であり、これが18願の意を顕わされたものだということです。つまり仏法世俗の二種の善を修してこなかった極悪人でも、臨終に初めて仏法を聞いて、善知識の勧められるまま十回の念仏を称えて往生できるのです。それが「口称の義」です。「諸善の義」ではありません。

以上を親鸞聖人が解説なされたのが『唯信鈔文意』です。

「汝若不能念」といふは、五逆・十悪の罪人、不浄説法のもの、やまふのくるしみにとぢられて、こころに弥陀を念じたてまつらずは、ただ口に南無阿弥陀仏ととなへよとすすめたまへる御のりなり。これは称名を本願と誓ひたまへることをあらはさんとなり。「応称無量寿仏」とのべたまへるはこのこころなり。「応称」はとなふべしとなり。
「具足十念 称南無無量寿仏 称仏名故 於念々中除八十億劫生死之罪」といふは、五逆の罪人はその身に罪をもてること、十八十億劫の罪をもてるゆゑに、十念南無阿弥陀仏ととなふべしとすすめたまへる御のりなり。一念に十八十億劫の罪を消すまじきにはあらねども、五逆の罪のおもきほどをしらせんがためなり。「十念」といふは、ただ口に十返をとなふべしとなり。しかれば選択本願には、「若我成仏 十方衆生 称我名号下至十声 若不生者 不取正覚」と申すは、弥陀の本願は、とこゑまでの衆生みな往生すとしらせんとおぼして十声とのたまへるなり。念と声とはひとつこころなりとしるべしとなり。念をはなれたる声なし、声をはなれたる念なしとなり。

(現代語訳)

『観無量寿経』 に 「汝若不能念 (なんぢもし念ずるあたはずは)」 と説かれているのは、 五逆・十悪の罪を犯した人や、 私利私欲のために教えを説いたものが、 病の苦しみに阻まれて、 心に阿弥陀仏を念じることができなければ、 ただ口に 「南無阿弥陀仏」 と称えよとお勧めになっているお言葉である。 これは称名念仏を本願の行としてお誓いになっていることをあらわそうとされているのである。 続いて 「応称無量寿仏 (まさに無量寿仏を称すべし)」 と説かれているのは、 この意味である。 「応称」 は、 称えよということである。
『観無量寿経』 に 「具足十念 称南無無量寿仏 称仏名故 於念念中 除八十億劫 生死之罪 (十念を具足して南無無量寿仏と称せしむ。 仏名を証するがゆゑに、 念々のなかにおいて八十億劫の生死の罪を除く)」 と説かれているのは、 五逆の罪を犯した人はその身に八十億*劫の十倍の罪をもつことになるので、 十回 「南無阿弥陀仏」 と称えよとお勧めになっているお言葉である。 一回の念仏で八十億劫の十倍の罪を消すことができないのではないけれども、 五逆の罪がどれほど重いのかを人々に知らせるために、 このようにいわれているのである。 「十念」 というのは、 ただ口に念仏を十回称えよというのである。 このようなわけで、 選択本願に 「若我成仏 十方衆生 称我名号 下至十声 若不生者 不取正覚 (もしわれ成仏せんに、 十方の衆生、 わが名号を称せん、 下十声に至るまで、 もし生れずは正覚を取らじ)」 と誓われていると 『往生礼讃』にいわれているのは、 阿弥陀仏の本願は、 念仏するのがたとえ十回ほどであっても、 みな浄土に往生することができることを知らせようと善導大師がお思いになって、 「十声」 といわれているのである。 「念」 と 「声」 とは同じ意味であると心得なさいというのである。 「念」 を離れた 「声」 はなく、 「声」 を離れた 「念」 はないということである。

称名を本願と誓ひたまへることをあらはさんとなり」「弥陀の本願は、とこゑまでの衆生みな往生すとしらせんとおぼして十声とのたまへるなり」と親鸞聖人が仰っているように、念仏を称えて往生するのが、18願です。善はどこにも出てきませんので、往生に善は不要なのです。もちろん過去世の善根も不要です。

どこをどう読もうが、高森顕徹流宿善論も、三願転入論も完全な間違いなのです。反論があるなら、いつでも根拠を挙げてコメントをください。もちろん、できないことは判っていますが。

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2014年10月21日 (火)

釈尊が臨終の父王に念仏三昧を勧められたと言いながら、会員に諸善を強要する高森顕徹会長

『観無量寿経』の下品下生で臨終の極悪人に勧められているのは、念仏だけです。これは浄土門はもちろん聖道門でも、常識中の常識です。どんな屁理屈を捏ねても、善を勧められているお言葉は出しようがありません。
これとは少し違いますが、『教学聖典』にもこんな問答があります。

(問)
 念仏無間という狂人どもを破る根拠を三つ以上あげよ。

(答)
 ○勿論、一切経に出ていない言葉である。
 ○それどころか「汝好くこの語を持て、この語を
  持てとはすなわちこれ無量寿仏の名(念仏)を持
  てとなり」と観無量寿経にある。
 ○釈尊が臨終の父王に念仏三昧を勧められる訳が
  ない。                 (観仏三昧経)

問いがカルトそのものですが、それはおいておくとして、釈尊が臨終の父親に勧められたことは、諸善ではなく念仏であると親鸞会でも認めているのです。

この根拠は『教行信証』行巻にあります。

『安楽集』にいはく、「『観仏三昧経』にいはく、〈父の王を勧めて念仏三昧を行ぜしめたまふ。父の王、仏にまうさく、《仏地の果徳、真如実相、第一義空、なにによりてか弟子をしてこれを行ぜしめざる》と。仏、父の王に告げたまはく、《諸仏の果徳、無量深妙の境界、神通解脱まします。これ凡夫の所行の境界にあらざるがゆゑに、父の王を勧めて念仏三昧を行ぜしめたてまつる》と。

(現代語訳)

『安楽集』にいわれている。
『観仏三昧経』に、<世尊は、父である浄飯王に念仏三昧を修めるようにお勧めになった。父の王は世尊に、≪仏のさとりの徳は真如実相第一義空とのことでありますが、それを観ずる行を、どうして弟子であるわたしに教えてくださらないのですか≫とお尋ねした。
世尊は父の王に、≪仏がたのさとりの徳は、はかりがたい深い境地であり、仏は神通力や智慧をそなえておいでになります。これはとうてい凡夫が修めることのできる境地ではありません。そこで、父の王に念仏三昧を修めることをお勧めしたのです≫と仰せになった。

釈尊は、神通力もなく浅い智慧しかない父王に対して、念仏三昧だけを勧められ、観行を勧められることはされませんでした。

これが何を意味するかは、説明するまでもないことです。

父王は過去世の善根が厚いから念仏三昧を勧められた、とは書かれていません。理由は「凡夫の所行の境界にあらざるがゆゑに」ですから、過去世の善根の厚薄は無関係であることも、よく判ります。

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2014年10月13日 (月)

「極難信」の意味さえ知らなかったのに訂正もできない高森顕徹会長と愉快な仲間達

負け惜しみの荒らしコメントをする人物が未だにいて呆れています。
高森顕徹会長以下、親鸞会会員が意味も知らずに使っている仏語や根拠は、山ほどありますが、その1つが前回のエントリーで使った「極難信」です。これは『阿弥陀経』の異訳経である『称讃浄土経』に出てくるお言葉です。念仏1つで往生できると言う世間の常識、聖道門の常識では考えられない教えを「是の世間極難信の法」「是の如きの一切世間極難信の法」とあるのですが、これを『阿弥陀経』では「この一切世間難信の法」とあります。

この程度の知識など有る筈もない高森会長と会員ですが、善もせずして阿弥陀仏に救われることなど考えられない、というこを

難信

と教えられているのです。長い長い求道が必要だから難信なのではなく、求道の要らない教えであるから難信なのです。

このことを親鸞聖人は元照律師の『阿弥陀経義疏』を引いて『教行信証』信巻

元照律師のいはく(阿弥陀経義疏)、「他のなすことあたはざるがゆゑに甚難なり。世挙つていまだ見たてまつらざるがゆゑに希有なり」と。
またいはく(同)、「念仏法門は、愚智豪賤を簡ばず、久近善悪を論ぜず、ただ決誓猛信を取れば臨終悪相なれども、十念に往生す。これすなはち具縛の凡愚、屠沽の下類、刹那に超越する成仏の法なり。世間甚難信といふべきなり」と。

(現代語訳)

元照律師が『阿弥陀経義疏』にいっている。
「『阿弥陀経』には、釈尊がこの五濁の世に出られて仏となり、阿弥陀仏の教えを説かれたことを<甚難希有>と示されているが、他の仏がたのできないことであるから甚難であり、この世で今までになかったことであるから希有である」
また次のようにいっている。
「念仏の教えは、愚者と智者、富めるものと貧しいもののへだてなく、修行期間の長短や行の善し悪しを論じることなく、ただ決定の信心さえ得れば、臨終に悪相をあらわしても、たとえば十声念仏して往生をとげる。これこそは、煩悩に縛られた愚かな凡夫でも、また、生きものを殺し、酒を売って生活し、賤しいとされるものであっても、たちどころにすべてを跳び超えて仏になる教えである。まことに世間の常識を超えた信じがたい尊い教えというべきである」

と教えられています。「世間甚難信」については更に、元照律師の弟子の顕した『聞持記』を引かれて

『聞持記』にいはく、「〈愚智を簡ばず〉といふは、[性に利鈍あり。]〈豪賤を択ばず〉といふは、[報に強弱あり。]〈久近を論ぜず〉といふは、[功に浅深あり。]〈善悪を選ばず〉といふは、[行に好醜あり。]〈決誓猛信を取れば臨終悪相なれども〉といふは、[すなはち『観経』下品中生に地獄の衆火、一時にともに至ると等いへり。]〈具縛の凡愚〉といふは、[二惑まつたくあるがゆゑに。]〈屠沽の下類、刹那に超越する成仏の法なり。一切世間甚難信といふべきなり〉といふは、[屠はいはく、殺を宰る。沽はすなはちコ売。かくのごとき悪人、ただ十念によりてすなはち超往を得、あに難信にあらずや。]

(現代語訳)

『聞持記』にいっている。
「『阿弥陀経義疏』の文に、<愚者と智者のへだてなく>とあるのは、人々の性質に賢愚の違いがあることをいう。<富めるものと貧しいもののへだてなく>とあるのは、人々の生活に貧富の違いがあることをいう。<修行期間の長短を論じることなく>とあるのは、修行の功に浅深の違いがあることをいう。<行いの善し悪しを論じることなく>とあるのは、行いに善悪の違いがあることをいう。<決定の信心を得れば、臨終に悪相をあらわしても>とあるのは、『観無量寿教』の下品下生の文に<地獄の猛火が一斉に押し寄せてくる>などと説かれているありさまをいう。<煩悩に縛られた愚かな凡夫>とあるのは、見惑と思惑の煩悩をすべて持っているものをいう。<生きものを殺し、酒を売って生活し、賤しいとされるものであっても、たちどころにすべてを飛び超えて仏になる教えである。まことに世間の常識を超えた信じがたい尊い教えというべきである>とあるのは、生きものを殺すもの、酒を売るものなど、このような悪人でも、たとえば十声念仏して、たちまち飛び超えて浄土に往生することができるのであって、まことに信じがたいすぐれた教えではないか、という意味である。

と解説なされています。「屠沽の下類、刹那に超越する成仏の法」である18願は、「甚難信」の法ということです。「善悪を選ばず」であり「ただ十念によりてすなはち超往を得」とは、18願の救いには善が全く必要がないのです。従って、「甚難信」の法とは、「世間の常識を超えた信じがたい尊い教え」という意味です。

親鸞会の幹部会員が救われないのは、財施などの善が足りないからでも、高森会長の話を真剣に聞いていないからでもなく、「世間甚難信」つまり「世間の常識を超えた信じがたい尊い教え」を「世間甚易信」つまり「自分の常識で判断した信じやすい卑しい教え」に貶めているからです。

これと宿善との関連で言えば、

覚如上人の新定義「宿善あつきもの」「宿善のある機」は「難信」の教えを素直に信じている人のこと、
覚如上人の新定義「宿福なきもの」「宿善なき機」は善が必要だとする「易信」の教えを信じている人のこと

です。

これだけ懇切丁寧に説明しても、未だに「難信」の教えを平気で誹謗する「無宿善の機」のコメンテーターの相手はしません。当たり前のことです。

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2014年10月11日 (土)

ちょっと話がややこしくなるだけで理解不能に陥る高森顕徹会長

親鸞会では宿善厚い人(宿世に善根を多くしてきた人)が救われて、宿善薄い人(宿世に善を余りしてこなかった人)はそのままでは救われないし、ましてや無宿善の人(宿世に善を全くしてこなかった人)が救われることはあり得ない、としています。

この考え方自体が聖道門の発想であり、それを徹底的に否定されたのが善導大師、法然上人、聖覚法印、親鸞聖人、覚如上人であることをこれまで述べてきました。このことは、親鸞会が全く反論できない内容です。

ところが覚如上人は、上記のことを踏まえられた上で、敢えて、宿善の意味を替えて教えられていますので、そこで話がややこしくなって、高森顕徹会長のようなトンデモ邪義がでてきたのです。

『口伝鈔』には

十方衆生のなかに、浄土教を信受する機あり、信受せざる機あり。いかんとならば、『大経』のなかに説くがごとく、過去の宿善あつきものは今生にこの教にあうてまさに信楽す。宿福なきものはこの教にあふといへども念持せざればまたあはざるがごとし。「欲知過去因」の文のごとく、今生のありさまにて宿善の有無あきらかにしりぬべし。
しかるに宿善開発する機のしるしには、善知識にあうて開悟せらるるとき、一念〔も〕疑惑を生ぜざるなり。

とあり、また『改邪鈔』には、

かつはまた宿善のある機は正法をのぶる善知識に親しむべきによりて、まねかざれどもひとを迷はすまじき法灯にはかならずむつぶべきいはれなり。宿善なき機は、まねかざれどもおのづから悪知識にちかづきて善知識にはとほざかるべきいはれなれば、むつびらるるもとほざかるも、かつは知識の瑕瑾もあらはれしられぬべし。所化の運否、宿善の有無も、もつとも能・所ともに恥づべきものをや

とありまして、「宿善あつきもの」「宿善のある機」は善知識に遇って18願の法を聞くことができますが、「宿福なきもの」「宿善なき機」は善知識から遠ざかって悪知識に近付いて18願の法を聞くことができないと教えられています。

ここで、やはり宿世に善をしてきたかどうかで善知識に遇えるか遇えないか、聞くか聞かないかが決まってくるではないか、と早とちりするのが単純思考の親鸞会ですが、そうではないことは、少しでも思考能力があれば判る筈です。

ここで覚如上人が仰っていることは

宿善あつきもの
=「宿善のある機
=「浄土教を信受する機
=「今生にこの教にあうてまさに信楽す
=「善知識に親しむべき

宿福なきもの
=「宿善なき機
=「浄土教を信受せざる機
=「この教にあふといへども念持せざればまたあはざるがごとし
=「悪知識にちかづきて善知識にはとほざかるべきいはれ

になります。
要するに、18願の教えを信じる人が「宿善あつきもの」「宿善のある機」であり、18願を信じる気の無い人が「宿福なきもの」「宿善なき機」になるのです。

これを前回までのことと併せて言うならば、あくまで傾向として以下のことが言えます。

宿世の善根厚き機」(善人)≒「宿福なきもの」「宿善なき機
宿世の善根薄き機」・「宿世の善根無き機」(悪人)≒「宿善あつきもの」「宿善のある機

です。これが『歎異抄』

善人なほもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや。

になるのです。ここで悪人正機・善人傍機が18願だということに繋がってくる訳です。

弥勒菩薩を初めとして、聖道門の修行に勤しむ善人は、18願のことを知りながら、信じる気がないのです。知らないのではありません、知っていても自分とは関係ないと考えるのです。もちろん18願に「十方衆生」とあることは当然知っていますが、それでも関係ないと考えるのが、聖道門の常識なのです。

簡単に救われる教えであるが故に、善人には18願を信じる気が起きないのです。宿世に多くの善根を積んできた人ほど、18願を疑います。だから極難信なのです。

浄土真宗の教えは、話がすべて繋がっています。ただ、宿善に関しては、覚如上人が二つの定義を並立させて説明されたが故に、聖教を読んだことのない無知の高森会長が誤解したという結末なのです。

理解力の乏しい会員の為に再度まとめると

「(通仏教)宿善厚き機」≒「(覚如上人の新定義)宿善なきもの
「(通仏教)宿善薄き機」「(通仏教)宿善無き機」≒「(覚如上人の新定義)宿善あつきもの

です。

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