浄なる果は衆生の因なくして得られないとする高森顕徹会長のトンデモ邪義
因果の道理による聖道門の論理では、阿弥陀仏の救いは理解できないことを、善導大師、源信僧都、法然上人、聖覚法印は指摘されてきたのですが、その因果の道理による論理で阿弥陀仏の救いを説明するのが高森顕徹会長と親鸞会です。
では親鸞聖人はどう仰っているかですが、当然ながら、上記の方々の解釈を継承されています。
『教行信証』序には、
たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ。
とありますが、まさに、「たまたま」なのです。これは源信僧都の「生死の因縁は不可思議なり」「この義、知りがたし」に通じるところがありますが、親鸞聖人は、更に踏み込んで以下のように仰っています。
しかれば、もしは行、もしは信、一事として阿弥陀如来の清浄願心の回向成就したまふところにあらざることあることなし。因なくして他の因のあるにはあらざるなりと、知るべし。
しかれば、もしは因、もしは果、一事として阿弥陀如来の清浄願心の回向成就したまふところにあらざることあることなし。因、浄なるがゆゑに、果また浄なり、知るべし。
ともに「知るべし」で結んでおられますが、それだけ間違えやすいところであり、重要なところだということです。
ここで仰っていることは、阿弥陀仏の救いは、行も信も、因も果もすべて阿弥陀仏が回向されたものだということです。なぜなら、浄なる果は、浄なる因、行と信でなければ得られないからです。要するに、衆生の行も信も、因も果も全く関係ないということです。高森会長がいつも否定する他因自果が、阿弥陀仏の救いですから、因果の道理とは相容れないのです。それで源信僧都は「道理に違せり」と仰ったのですが、高森会長に言わせれば、「道理に順ぜり」でなければ間違いだ、と言うのでしょう。
親鸞会ではよく、
獲信には善は「間に合わぬから捨てよ」とは徹底して教えられていますが、どこにも「不要」とは教えられていません。
と言いますが、親鸞聖人は、衆生の行と因である善は「不要」と教えられているのです。
どんな詭弁を使おうとも、親鸞聖人の教えからは、往生・獲信のために善が必要だと言う概念は出てきようがありません。
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コメント
『親鸞会で宿縁を慶べば行信を獲られる』と会長は教えている。
投稿: ヒマ | 2014年9月24日 (水) 07時36分
ヒマ 様
面白いギャグですね。この場合の行信とは、善と自力信心のことで、念仏と念仏1つと心が定まった他力信心を獲ることは親鸞会では、不可能と言っても過言ではありません。
投稿: 飛雲 | 2014年9月24日 (水) 19時01分
飛雲さま
他力回向の名号のみで往生が定まる、つまり「念仏さえ称えたら死んだら極楽」と教えられたのが親鸞聖人、「いくら何でもそんな簡単なはずないだろう」と思うのは疑情、それに対して「念仏称えただけでは助からん。名号一つにそんな力はあるはずがない」と誹謗するのが親鸞会と理解して居るのですが、正しいでしょうか?
投稿: 木綿豆腐 | 2014年9月24日 (水) 20時15分
木綿豆腐 様
少し違います。行と信ですから、信心が要ります。
信心とは、念仏1つで往生できると心が定まったことですので、『歎異抄』の言葉を使うなら、
「本願を信じ念仏を称えたら死んだら極楽」と教えられたのが親鸞聖人です。
それと親鸞会でも名号で助かることは言っていますが、名号と念仏との関係が良く判っていませんので、
「念仏称えただけでは助からん。念仏一つにそんな力はあるはずがない」と誹謗するのが親鸞会。
このようにすればよいです。
投稿: 飛雲 | 2014年9月24日 (水) 20時29分
親鸞会は、たまたま、という言葉の、計り知れない、その重さがわからないのでしょうか。阿弥陀仏に救われた聖人がどのような思いから書かれたのかを理解、想像できないのに唯一絶対無二の善知識とは噴飯ものです。
投稿: 愚愚流 | 2014年9月24日 (水) 21時08分
愚愚流 様
高森会長は、「たまたま」を「必然」というように会員に思わせています。騙されている会員が哀れです。
投稿: 飛雲 | 2014年9月25日 (木) 20時22分