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2014年9月13日 (土)

『観無量寿経』を重視しながら、最も重要な下品下生の往生について完全無知な高森顕徹会長

『観無量寿経』下品下生について説明すると、阿弥陀仏の救いは臨終にしかできないのか、ということを言ってくる人がいます。親鸞会の会員の場合は、意味もよく知らないのに、平生業成という言葉だけが先行していますので、尚更です。

このことについて存覚上人が『浄土真要鈔』でこのように教えられています。

 問うていはく、『観経』の下輩の機をいふに、みな臨終の一念・十念によりて往生を得とみえたり。まつたく平生往生の義を説かず、いかん。
 答へていはく、『観経』の下輩は、みなこれ一生造悪の機なるがゆゑに、生れてよりこのかた仏法の名字をきかず、ただ悪業を造ることをのみしれり。しかるに臨終のときはじめて善知識にあひて一念・十念の往生をとぐといへり。これすなはち罪ふかく悪おもき機、行業いたりてすくなけれども、願力の不思議によりて刹那に往生をとぐ。これあながちに臨終を賞せんとにはあらず、法の不思議をあらはすなり。もしそれ平生に仏法にあはば、平生の念仏、そのちからむなしからずして往生をとぐべきなり。

判りやすい内容ですが、少し解説をすれば、「生れてよりこのかた仏法の名字をきかず、ただ悪業を造ることをのみしれり」の「一生造悪の機」が、「臨終のときはじめて善知識にあひて一念・十念の往生をとぐ」と説かれているのが『観無量寿経』です。しかし、これは臨終に救われることを教えられたのではなく、臨終という最悪の状況でも救われると言う「法の不思議」を表現されたものであって、「平生に仏法にあはば、平生の念仏、そのちからむなしからずして往生をとぐべきなり。」なのです。

同じ『浄土真要鈔』には18願においての説明があります。

この願のこころは、「たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、心を至し信楽してわが国に生れんと欲うて、乃至十念せん。もし生れずは、正覚を取らじ」となり。この願文のなかに、まつたく臨終と説かず平生といはず、ただ至心信楽の機において十念の往生をあかせり。しかれば、臨終に信楽せば臨終に往生治定すべし、平生に至心せば平生に往生決得すべし。

18願には平生とも臨終ともありませんから、臨終に救われる人もあれば、平生に救われる人もあります、

要するに、下品下生の往生というのは、最下の者が最悪の状況でも救われることを顕わされたものであって、下品下生でない者でも、平生でも、もちろん救われるのです。

高森流三願転入論とは無関係の救いが18願であることを明確に教えられているのが、浄土真宗の教えです。

高森顕徹会長からは、このような説明は永久に聞けないでしょう。

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三願転入」カテゴリの記事

コメント

いつもいつもありがとうございますm(__)m
感謝します。

投稿: | 2014年9月13日 (土) 00時32分

>長いですが、簡単に言えば、過去現在、善をやったことのなく、五逆・十悪を造っている悪人が、
>平生に仏法をきくこともなかったのが、臨終になって初めて仏法を聞きたいと言う気持ちになり、
>善知識から勧められたのは念仏1つで、勧められるまま念仏を十回称えて往生する、ということです。
>「他の方便」である善は不要、「ただ弥陀を称して」弥陀の本願に救い摂られるのです。

http://hiun.cocolog-nifty.com/blog/2014/09/post-256d.html#comments

>18願には平生とも臨終ともありませんから、臨終に救われる人もあれば、平生に救われる人もあります、


上記の意味がよくわからないので違っていたら教えて頂きたいのですが、
例えば、飛雲様が病院に行き末期の癌を患っている患者に仏法を説き、その教えにより弥陀の救いにあわせることができる。
例えば、飛雲様が命のダイヤルに電話をかけてきた人に仏法を説き、その教えにより弥陀の救いにあわせることができる。

例えば、飛雲様が街頭に出られて人に仏法を説き、その教えにより弥陀の救いにあわせることができる。
(病気の人や自殺しようと思っている人を優先して頂きたい想いはありますが…)
ということでしょうか。


もしそうならば、どんどんして頂きたいと思います。
そうして多くの人が救われるならば、真宗も発展し正しい教えもひろまっていくと思います。

もし、それが難しいとするならばどのような理由で困難なのでしょうか。

早く飛雲聖人になって頂きたいと思います。

投稿: | 2014年9月13日 (土) 06時50分

後の名無し 様

根本的な誤解をされています。私はどんなに頑張ったところで聖人と呼ばれるような人物にはなりえません。阿弥陀仏の救いにあわせるのではなく、救いにある縁を与えることしかできません。判りやすく言えば、臨終であろうが自殺願望者であろうが、その人に聞く気がなければ救われることはありません。

投稿: 飛雲 | 2014年9月13日 (土) 06時56分

>その人に聞く気がなければ救われることはありません。
とありますが、

どのような人が聞く気になって、
どのような人が聞く気にならないのでしょうか。

結果が異なるならば原因があると思います。

投稿: 後の名無し | 2014年9月13日 (土) 07時18分

飛雲さんは、なんども書かれてますが、聞く聞かないの原因については源信僧都もわからないとおっしゃってます。

投稿: し | 2014年9月13日 (土) 07時32分

し様、飛雲様

以下のリンクのことでしょうか。
http://hiun.cocolog-nifty.com/blog/2013/08/post-277b.html


そのように考えると、問いが異なります。以下往生要集を引用します。

問ふ。もししからば、聞くものは決定して信ずべし。なんがゆゑぞ、聞くといへども、信じ信ぜざるものある。

答ふ。 『無量清浄覚経』にのたまはく、「善男子・善女人ありて、無量清浄仏の名を聞きて、歓喜し踊躍して、身の毛起つことをなし、抜け出づるがごとくなるものは、みなことごとく宿世宿命に、すでに仏事をなせるなり。それ人民ありて、疑ひて信ぜざるものは、みな悪道のなかより来りて、殃悪いまだ尽きざるなり。これいまだ解脱を得ざるなり」と。{略抄}

また『大集経』の第七にのたまはく、「もし衆生ありて、すでに無量無辺の仏の所にしてもろもろの徳本を殖ゑたるものは、すなはちこの如来の十力・四無所畏・不共の法・三十二相を聞くことを得ん。{乃至}下劣の人は、かくのごとき正法を聞くことを得ることあたはじ。たとひ聞くことを得とも、いまだかならずしもよく信ぜず」と。{以上}
まさに知るべし、生死の因縁は不可思議なり。薄徳のものの、聞くことを得るも、その縁知りがたし。

ここでは、仏教を聞くものがいて、その中で信ずるものと信じないものがいる。その違いを質問していると思います。
例えば、自分が知っている人で信じた人がいて、その人がどのような因縁で信じることができたかを質問していると考えると分かりやすいと思います。

それに対して源信僧都は経典を引用されて、いくつかの因縁を教えられますが、どのような因縁で信じることができたかは知りがたしと教えられていると思います。

今回は、信じるではなく聞く気の問題です。(ここから聞く気についても考えることも可能としても良いかもしれませんが…)

次に、
例えば、飛雲様が病院に行き末期の癌を患っている患者に仏法を説き、その教えにより弥陀の救いにあわせることができる。
例えば、飛雲様が命のダイヤルに電話をかけてきた人に仏法を説き、その教えにより弥陀の救いにあわせることができる。
と書いたのは、街頭の人よりは仏教を聞くことができるように思ったからです。


>長いですが、簡単に言えば、過去現在、善をやったことのなく、五逆・十悪を造っている悪人が、
>平生に仏法をきくこともなかったのが、臨終になって初めて仏法を聞きたいと言う気持ちになり、
>善知識から勧められたのは念仏1つで、勧められるまま念仏を十回称えて往生する、ということです。
>「他の方便」である善は不要、「ただ弥陀を称して」弥陀の本願に救い摂られるのです。

の意味が、何もしていなくても仏教を聞く気になればすぐに救われるという意味ならば、特に難しいことはないと思います。

やはり、早く飛雲聖人になって頂きたいと思います。

投稿: 後の名無し | 2014年9月13日 (土) 13時25分

飛雲様

以下のリンクのように、終末期よばれる患者に仏教を説いておられる方がいらっしゃいます。
ということは、仏教を聞く気の方がいらっしゃることだと思います。

早く飛雲聖人になって頂きたいと思います。そして、ご自身が主張することをどんどん証明して頂きたいと思います。


一般社団法人 在家仏教協会
2013年7月25日 ·
公益財団法人仏教伝道協会は7月24日、第47回仏教伝道文化賞の受賞者を発表しました。
◆文化賞:一般財団法人多山報恩会(昭和18年、株式会社広島電鉄社長の故多山恒次郎氏が私財全部を提供して設立。長年にわたり多くの福祉事業、社会事業の充実、発展に寄与するとともに広島赤十字原爆病院内で仏教布教活動を推進している)
◆沼田奨励賞:長倉伯博氏(浄土真宗本願寺派善福寺住職。鹿児島において、終末期医療の現場で患者と対話し、仏縁を結ぶ活動を地道に広げている)
贈呈式は仏教伝道協会で10月2日午前11時より。
――以上、仏教伝道協会の発表資料より抜粋

https://www.facebook.com/zaikebukkyo/posts/273675679441464

投稿: 後の名無し | 2014年9月13日 (土) 13時51分

まさに知るべし、生死の因縁は不可思議なり。 薄徳のものの、聞くことを得るも、その縁知りがたし。


信じるではなく、聞くですよ。

投稿: し | 2014年9月13日 (土) 13時54分

し様

確かに、し様の言う通りだと思います。では、因縁がわからなくてもあると思いますが、それについてはどう考えられますか。

投稿: 後の名無し | 2014年9月13日 (土) 14時13分

因縁はあるがわからない。

それだけのこと。

投稿: し | 2014年9月13日 (土) 14時28分

し様

そうしたら、その因縁と言うのは仏縁のことでしょうか。
それともわかりませんか?

投稿: 後の名無し | 2014年9月13日 (土) 14時34分

ここでの因縁と仏縁の違いがわかりませんが、いずれにしても、不可思議だと源信僧都がおっしゃってます。
わかったら、源信僧都以上の大善知識、大聖人です。

投稿: し | 2014年9月13日 (土) 14時40分

し様

>因縁と仏縁の違いがわかりませんが、

因縁とは、正確には因縁果の道理のことで、因縁により結果が生じることです。
この場合は、仏法を聞くという結果についての因縁を問題にしているので、
縁について仏縁なのか、仏縁とはかぎらないか(仏教とはまったくがぎらないのか)という質問です。

>わかったら、源信僧都以上の大善知識、大聖人です。
先にも書いたとおり、個別具体的な因縁のことを源信僧都はおっしゃっているように感じます。
私は過去世のことはわかりませんし、今生の因縁についてもほとんどわかりません。

投稿: 後の名無し | 2014年9月13日 (土) 15時00分

縁について仏縁なのか、仏縁とはかぎらないか(仏教とはまったくがぎらないのか)という質問です。

愚問です。それを知ってどうなりますか?
善知識方がおっしゃっていないことは、愚問でしょうね。

あなたもわからない、源信僧都もわからない。

これ以上何を知りたい、あるいは源信僧都以上の大善知識になりたいのですか?

投稿: し | 2014年9月13日 (土) 15時09分

し様

何もそんなに興奮しないでください。

「過去已曾 修習此法 今得重聞 則生歓喜」のお言葉や
「過去の宿善あつきものは今生にこの教にあうてまさに信楽す。」

のお言葉から思いました。

また、し様も飛雲さまがおっしゃることを信じるならば、
し様も早く、し様聖人になってください。

投稿: 後の名無し | 2014年9月13日 (土) 19時59分

後の名無しさんも、ムキになるのがかわいいですね。
源信僧都が「過去已曾 修習此法 今得重聞 則生歓喜」を踏まえて「不可思議」と仰っているんですけどね。

まあどんなに頑張っても、あなたが源信僧都を越えることはできませんし、越えることができるなんてあなた以外、誰も思っていませんから、妄想の世界で遊んでいてね。

ついでに「過去の宿善あつきものは今生にこの教にあうてまさに信楽す。」の意味はね、阿弥陀仏の本願を聞く気のある人(過去の宿善あつきもの)は、今生に阿弥陀仏の本願の教えにあって本願をきく(今生にこの教にあうて)、そしてまさに救われる(まさに信楽す)。

妄想の大善知識様には、理解できないでしょうけど。

興奮じゃないよ、完全に馬鹿にしているのですよ。

投稿: し | 2014年9月13日 (土) 20時11分

し様

>ついでに「過去の宿善あつきものは今生にこの教にあうてまさに信楽す。」の意味はね、阿弥陀仏の本願を聞く気のある人
>(過去の宿善あつきもの)は、今生に阿弥陀仏の本願の教えにあって本願をきく(今生にこの教にあうて)、
>そしてまさに救われる(まさに信楽す)。

因縁とは、正確には因縁果の道理のことで、因縁により結果が生じることです。
この場合は、仏法を聞くという結果についての因縁を問題にしているので、
縁について仏縁なのか、仏縁とはかぎらないか(仏教とはまったくがぎらないのか)という質問しましたが、

し様は「(過去の宿善あつきもの)は、今生に阿弥陀仏の本願の教えにあって本願をきく」との主張ですが、
過去の宿善とは、仏縁といえると思います。つぎに、「本願の教えにあって本願をきく」とは、聞く気になることをあらわしていると
思います。

そうすると、し様も私が主張することに同意されるのでしょうか。

そして、早く、し聖人になって頂きたいと思います。

投稿: 後の名無し | 2014年9月13日 (土) 20時22分

はは、やっぱり源信僧都以上の大善知識様ですな。

し様は「(過去の宿善あつきもの)は、今生に阿弥陀仏の本願の教えにあって本願をきく」との主張ですが、
過去の宿善とは、仏縁といえると思います。つぎに、「本願の教えにあって本願をきく」とは、聞く気になることをあらわしていると
思います。

違うんだねこれが。口伝鈔を読んでみたら?

十方衆生のなかに、浄土教を信受する機あり、信受せざる機あり。いかんとならば、『大経』のなかに説くがごとく、過去の宿善あつきものは今生にこの教にあうてまさに信楽す。宿福なきものはこの教にあふといへども念持せざればまたあはざるがごとし。

浄土教を信受する機=過去の宿善あつきもの

ですけど。
わかりやすくいったら、

阿弥陀仏の本願を聞く気のある人

も同じ意味。

まだわからないでしょうね。

阿弥陀仏の本願を聞く気のある人が浄土教を信受する機で宿善あつきものね。

それと下輩の定義を知らないでしょ。

この三品の人、仏法・世俗の二種の善根あることなし。 ただ悪を作ることを知るのみ。

過去世も現在世も仏法の善根あることなしですよ。
過去に仏法を聞いてきた人は下輩じゃないね。

投稿: し | 2014年9月13日 (土) 20時31分

し様

>過去世も現在世も仏法の善根あることなしですよ。

そのように思いますよ、祖師聖人も「疑謗を縁として」と言われています。
疑謗でも仏縁になると思います。

あと興奮していると書いたのは、議論に必要ないことを書いていたからそう思いました。
自分の意見に自信がないので、直接関係がないことを書いて煽っているように感じます。

投稿: 後の名無し | 2014年9月13日 (土) 20時41分

関係のないことって、これですね

し様も早く、し様聖人になってください。
そして、早く、し聖人になって頂きたいと思います。


自分の意見に自信がないので、直接関係がないことを書いて煽っているように感じます。

投稿: し | 2014年9月13日 (土) 20時43分

後の名無し 様

結論は、源信僧都の仰せの通り「不可思議」な因縁によって、本願を聞くということで宜しいですね。

なお、飛雲聖人とかし様聖人とかふざけたコメントを今後された場合は、削除の上、コメント拒否します。

と言いたい所ですが、これまでのふざけたコメントは目に余りますので、すでに拒否設定しました。

投稿: 飛雲 | 2014年9月13日 (土) 20時46分

後の名無し 様

論も証拠もないのが親鸞会です。

論も証拠もない、善のすすめ
http://hiun.cocolog-nifty.com/blog/2011/04/post-c472.html

論なし証拠なし
http://hiun.cocolog-nifty.com/blog/2010/02/post-924a.html


ふざけたコメントで荒らしをする暇があれば、読んでおいてください。

投稿: 飛雲 | 2014年9月13日 (土) 21時34分

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