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2014年9月

2014年9月30日 (火)

宿善厚き弥勒菩薩と宿悪重き耳四郎の矛盾に気が付いている高森顕徹会長

親鸞会では、宿善の定義として『口伝鈔』

宿善あつきひとは、今生に善をこのみ悪をおそる。宿悪おもきものは、今生に悪をこのみ善にうとし。

をよく使いますが、これをそのまま信じているとはとても思えません。たとえば、親鸞会でも有名な『教行信証』信巻

まことに知んぬ、弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし。念仏の衆生は横超の金剛心を窮むるがゆゑに、臨終一念の夕べ、大般涅槃を超証す。

とが同時に信じられるのなら、思考が相当におかしいです。
等覚の弥勒菩薩は、「宿善あつきひとは、今生に善をこのみ悪をおそる」の代表です。もしこれを否定するなら、もはや仏教徒ではありません。
一方で、親鸞会が宿善の厚かったと認めている耳四郎はどうですか。法然上人御説法を聞くまでは殺人、強盗を平気で行ってきて、獲信後も盗みを止めることができなかった人物ですので、「宿悪おもきものは、今生に悪をこのみ善にうとし」の代表です。

ここまできたら、普通の人は誰でも親鸞会の矛盾に気が付くと思います。
宿善あつき弥勒菩薩は、18願での救いを求める気持ちがありませんが、宿悪おもき耳四郎は、18願での救いを聞くつもりが無くてたまたま聞いたところ、たちどころに救われた。

ここまで書いてもまだ高森顕徹会長の言っていることが正しいと思うなら、思考できないのでしょう。

一応『口伝鈔』の御言葉の意味を述べると、この後の文章と併せて再度紹介すると、

宿善あつきひとは、今生に善をこのみ悪をおそる。宿悪おもきものは、今生に悪をこのみ善にうとし。ただ善悪のふたつをば過去の因にまかせ、往生の大益をば如来の他力にまかせて、かつて機のよきあしきに目をかけて往生の得否を定むべからずとなり。

となっていまして、「宿善あつきひと」「宿悪おもきもの」では「往生の得否を定むべからず」なのです。宿善が厚いか薄いかと往生できるかどうかは関係がないのです。

よって、弥勒菩薩が往生できず、耳四郎が往生しても、何の矛盾も無いのです。

高森邪義は、どこをどうみても矛盾に満ち溢れていますが、浄土真宗、親鸞聖人の教えは筋が通っているのです。

これまでの法論連戦連敗記録更新中の高森会長は、自己の矛盾に気が付いているのですが、それを永遠に訂正しないでしょう。

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2014年9月23日 (火)

浄なる果は衆生の因なくして得られないとする高森顕徹会長のトンデモ邪義

因果の道理による聖道門の論理では、阿弥陀仏の救いは理解できないことを、善導大師、源信僧都、法然上人、聖覚法印は指摘されてきたのですが、その因果の道理による論理で阿弥陀仏の救いを説明するのが高森顕徹会長と親鸞会です。

では親鸞聖人はどう仰っているかですが、当然ながら、上記の方々の解釈を継承されています。
『教行信証』序には、

たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ。

とありますが、まさに、「たまたま」なのです。これは源信僧都の「生死の因縁は不可思議なり」「この義、知りがたし」に通じるところがありますが、親鸞聖人は、更に踏み込んで以下のように仰っています。

『教行信証』信巻

しかれば、もしは行、もしは信、一事として阿弥陀如来の清浄願心の回向成就したまふところにあらざることあることなし。因なくして他の因のあるにはあらざるなりと、知るべし。

『浄土文類聚鈔』

しかれば、もしは因、もしは果、一事として阿弥陀如来の清浄願心の回向成就したまふところにあらざることあることなし。因、浄なるがゆゑに、果また浄なり、知るべし。

ともに「知るべし」で結んでおられますが、それだけ間違えやすいところであり、重要なところだということです。
ここで仰っていることは、阿弥陀仏の救いは、行も信も、因も果もすべて阿弥陀仏が回向されたものだということです。なぜなら、浄なる果は、浄なる因、行と信でなければ得られないからです。要するに、衆生の行も信も、因も果も全く関係ないということです。高森会長がいつも否定する他因自果が、阿弥陀仏の救いですから、因果の道理とは相容れないのです。それで源信僧都は「道理に違せり」と仰ったのですが、高森会長に言わせれば、「道理に順ぜり」でなければ間違いだ、と言うのでしょう。

親鸞会ではよく、

獲信には善は「間に合わぬから捨てよ」とは徹底して教えられていますが、どこにも「不要」とは教えられていません。

と言いますが、親鸞聖人は、衆生の行と因である善は「不要」と教えられているのです。

どんな詭弁を使おうとも、親鸞聖人の教えからは、往生・獲信のために善が必要だと言う概念は出てきようがありません。

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2014年9月20日 (土)

高森顕徹会長の小智は菩提のさまたげといへる

『浄土十疑論』の

能臨終遇善知識十念成就者、皆是宿善業強、始得遇善知識十念成就。

について、善導大師は完全に否定なされたのですが、法然上人も善導大師の解釈を継承なされています。

『往生浄土用心』

宿善によりて、往生すべしと人の申候らん、ひが事にては候はず。かりそめの此世の果報だにも、さきの世の罪、功徳によりて、よくもあしくもむまるる事にて候へば、まして往生程の大事、かならす宿善によるへしと、聖教にも候やらん。
ただし念仏往生は、宿善のなきにもより候はぬやらん。父母をころし、仏身よりちをあやしたるほとの罪人も、臨終に十念申て往生すと、観経にも見えて候。しかるに宿善あつき善人は、をしへ候はねども、悪にをそれ仏道に心すすむ事にて候へは、五逆なんどは、いかにもいかにもつくるまじき事にて候也。それに五逆の罪人、念仏十念にて往生をとげ候時に、宿善のなきにもより候ましく候。

往生は必ず宿善によるのだという聖教のあることを踏まえられて、念仏往生は宿善がなくても往生できることを教えておられます。下品下生の往生については「父母をころし、仏身よりちをあやしたるほとの罪人も、臨終に十念申て往生す」とまとめられています。

また

弥陀は、悪業深重の者を来迎し給ふちからましますとおぼしめしとりて、宿善のありなしも沙汰せず、つみのふかきあさきも返りみず、ただ名号となふるものの、往生するぞと信じおぼしめすべく候。

とも仰っています。宿善が有るか無いかに関係なく、「ただ名号となふるものの、往生する」のです。

このように善導大師、源信僧都、法然上人が『浄土十疑論』を否定されたのを承けて聖覚法印は『唯信鈔』に

つぎにまた人のいはく、「五逆の罪人、十念によりて往生すといふは、宿善によるなり。われら宿善をそなへたらんことかたし。いかでか往生することを得んや」と。
これまた痴闇にまどへるゆゑに、いたづらにこの疑をなす。そのゆゑは、宿善のあつきものは今生にも善根を修し悪業をおそる、宿善すくなきものは今生に悪業をこのみ善根をつくらず。宿業の善悪は今生のありさまにてあきらかにしりぬべし。しかるに善心なし、はかりしりぬ、宿善すくなしといふことを。われら罪業おもしといふとも五逆をばつくらず、宿善すくなしといへどもふかく本願を信ぜり。逆者の十念すら宿善によるなり、いはんや尽形の称念むしろ宿善によらざらんや。なにのゆゑにか逆者の十念をば宿善とおもひ、われらが一生の称念をば宿善あさしとおもふべきや。小智は菩提のさまたげといへる、まことにこのたぐひか。

(現代語訳 「21世紀の浄土真宗を考える会」宿善の厚薄 唯信鈔の言葉より)

次にまたある人が言うには「五逆罪を犯したような罪の深いものでも、10回の念仏で浄土に往生するというのは宿善(過去世の善根)によるものだ。私の場合、過去世に善根を積んできたとは思えない。どうして往生することができましょうか」と。
これもまた愚かなはからいによって、いたずらに阿弥陀仏の本願を疑っているのです。それはどうしてかというと、過去世の善根の積み重ねが多かった人は、今生においても善根を修め悪業を造ることを恐れますし、過去世に善根を積み重ねることが少なかった人は、今生においても悪を好み善をしようとしません。その人の過去世に善をしてきたかどうかは、今生のありさまから、明らかに知られるのです。我が身を振り返ると、善い心がありません。宿善が少ないということが思い知らされます。しかし、そんな罪の深い者ですが五逆の重罪は犯していませんし、善根が少ないといっても、阿弥陀仏の本願を信じさせて頂いています。五逆の者の10回の念仏でさえも宿善のおかげです。ましてや一生涯念仏を称えさせて頂けるのは宿善(阿弥陀仏の方からのお手廻し)のおかげであり、有り難いことです。五逆の重罪を犯した者が10回の念仏を称えるのが宿善によるとし、私たちが念仏を称えるのは宿善が浅いと思うのはどういう訳でしょうか。浅薄な分別心が往生成仏の妨げになるというのはこういう考えのことでしょう。

と書かれています。これは『浄土十疑論』の矛盾を説明したものです。

宿善を過去世の善根とする『浄土十疑論』によれば、五逆の者は、「今生に悪業をこのみ善根をつくらず」の「宿善すくなきもの」になる筈ですが、「逆者の十念すら宿善による」ならば、五逆罪を犯していない我々は、「宿善あさしとおもふべき」ではないし、平生から念仏の教えを聞いている人は五逆の罪人よりもより救われるということです。

親鸞会で教えている宿善論は、明らかに『浄土十疑論』に沿っています。善導大師、源信僧都、法然上人、聖覚法印が否定なされたものを肯定して、”これこそが親鸞聖人の正しいみ教えだ”と言っているのですから、「小智は菩提のさまたげといへる」の元凶が高森顕徹会長であることは疑いようがありません。

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2014年9月15日 (月)

高森顕徹流宿善論は、みづから失し他を誤りて害をなすことこれはなはだし

天台大師が顕したと伝えられる『浄土十疑論』の

能臨終遇善知識十念成就者、皆是宿善業強、始得遇善知識十念成就。

について、善導大師はその誤りを正されています。親鸞会でも有名な『正信偈』の一文

善導独明仏正意

ですが、これが自分の首を絞める御言葉と知りません。
善導大師は、聖道門の言う宿善論の誤りを正された、つまり高森顕徹会長の宿善論を完全に否定されたのです。

会員には信じられないことでしょうから、具体的に御文を紹介しておきます。

五逆罪の者が臨終に念仏を10回称えて往生する、と説かれた『観無量寿経』下品下生の往生を、文面通りに受け取れなかった聖道門の諸師は、過去世における善業が強いが故に、善知識に遇って10回の念仏で往生を遂げたのだと解釈しました。そのことを『玄義分』の中で、下品下生を含む下輩について、当時の聖道門の解釈をまとめて以下のように仰っています。

下輩の三人はこれ大乗始学の凡夫なり。 過の軽重に随ひて分ちて三品となす。 ともに同じく一位にして往生を求願す

臨終に初めて往生を願ったのではなく、過去世から大乗を学び始めて往生を願っていた凡夫だという解釈です。

それに対して善導大師は反論なされました。

『玄義分』

次に下輩の三人を対せば、諸師のいふ、「これらの人はすなはちこれ大乗始学の凡夫なり。過の軽重に随ひて分ちて三品となす。いまだ道位にあらず。 階降を弁ちがたし」とは、まさに謂ふにしからず。なんとなれば、この三品の人、仏法・世俗の二種の善根あることなし。ただ悪を作ることを知るのみ。
(中略)
下品の三人はこれ悪に遇へる凡夫なり。悪業をもつてのゆゑなり。終りに臨みて善によりて、仏の願力に乗じてすなはち往生を得。かしこに到りて華開けてまさにはじめて発心す。なんぞこれ始学大乗の人といふことを得んや。

(現代語訳)

つぎに下輩の三種の人を対破するならば、他師らは、これらの人は大乗始学の十信位の凡夫であって、罪の軽重にしたがって三品に分けるが、まだ修行をしていないから、その上下を区別しがたいといっているが、そうではなかろうと思う。何となれば、この三種の人は、仏法につけ、世間につけ、いずれの善根もなく、ただ悪を作ることだけを知っている。
(中略)
下品の三種の人は悪縁に遇うた凡夫であって、悪業があるから、臨終に善知識により、弥陀の願力に乗託してすなわち往生することができ、かの国に至って華が開けて、そこで始めて菩提心をおこすのである。どうしてこれが大乗始学の十信位の人ということができようか。

と仰っています。

高森理論で言うところの”宿善の厚い者”は、「大乗始学の凡夫」「始学大乗の人」のことになり、これを善導大師は「なんぞこれ始学大乗の人といふことを得んや」と一刀両断に斬り捨てられています。
下品上生、下品中生、下品下生は、「この三品の人、仏法・世俗の二種の善根あることなし。ただ悪を作ることを知るのみ。」と明言なされていますので、過去世にも、仏道修行したことがないだけでなく、倫理道徳の善さえもしてこなかった、過去世の善根がない人のことです。過去世の善根がないのですから、高森理論では”無宿善の者”です。

要するに、高森理論での”無宿善の者”が、臨終の念仏のみで往生を遂げることを善導大師が断言なされて、それを「善導独明仏正意」と親鸞聖人が仰ったのです。ところが、そんなことさえ知らずに、聖道諸師と同じことを親鸞聖人が教えられたとか喚いているのが高森会長だということです。

この後善導大師は

もしこの見をなさば、みづから失し他を誤りて害をなすことこれはなはだし。

と続けられ、もし高森流宿善論に拘るなら、自らの利益を失い、他人を誤まらせ、害をなすことが甚だしい、とまで厳しく非難なされています。
それでもまだ高森流宿善論を信じますか。

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2014年9月14日 (日)

聖道門と同じ発想で宿善論を叫ぶ無恥な高森顕徹会長

親鸞会では、『観無量寿経』の下品下生の往生自体を知りませんし、知っても認めません。それで浄土真宗を名乗るのですから、お笑いです。
この下品下生の往生から聖道門が宿善という概念を生み出したのですが、それと同じことを言っているのが親鸞会です。無知とは恐ろしいものです。

過去現在善をやったこともなく、五逆・十悪を造っている悪人が、平生に仏法をきくこともなく、臨終になって初めて仏法を聞きたいと言う気持ちになり、善知識から勧められたのは念仏1つで、勧められるまま念仏を十回称えて往生する、ということを信じられない聖道門は、様々に強引な解釈をしてきました。その代表が天台大師智顗が著したとされる『浄土十疑論』です。

能臨終遇善知識十念成就者、皆是宿善業強、始得遇善知識十念成就。

とあります。臨終に善知識に遇って十回の念仏で往生を遂げる五逆罪を犯した者は、宿世に善を行ってきた宿善業の強い人であったので、往生できるのだと解釈したのです。ここに宿善という言葉が見られますが、単純に宿世の善根という意味で使われています。

これを承けて『往生要集』には

かの一生に悪業を作りて、臨終に善友に遇ひて、わづかに十たび仏を念じて、すなはち往生することを得。かくのごとき等の類は、多くこれ前世に、浄土を欣求してかの仏を念ぜるものの、宿善うちに熟していま開発するのみ。 ゆゑに『十疑』にいはく、「臨終に善知識に遇ひて十念成就するものは、ならびにこれ宿善強くして、善知識を得て十念成就するなり」と。

(現代語訳)

かの一生涯の悪業を作ったものでも、臨終に善知識に遇い、わずかに十たび念仏して、ただちに往生することができる。このような人たちは、多くは前世に浄土を欣い求めて、かの阿弥陀仏を念じていた者で、その宿善が内に熟して、いま開発したのに外ならぬ。
それ故に《十疑論》にいわれている。
臨終に、善知識に遇うて、十念が成就する者は、みな宿善が強いので、始めて善知識に遇うことができて、十念が成就するのである。

と源信僧都は宿善の解説をなされています。『浄土十疑論』を引用しながら、意味を変えられ、宿善を

前世に、浄土を欣求してかの仏を念ぜる

と定義されています。

これは『大無量寿経』に

もし人、善本なければ、この経を聞くことを得ず。

とあることや『定善義』

この人は過去にすでにかつてこの法を修習して、いまかさねて聞くことを得てすなはち歓喜を生じ、正念に修行してかならず生ずることを得

と説かれているのも同様のことです。

ところがそのことを踏まえられた上で源信僧都は

まさに知るべし、生死の因縁は不可思議なり。薄徳のものの、聞くことを得るも、その縁知りがたし。

(現代語訳)

これによってわかるであろう。生死の因縁は不可思議なものである。功徳が少ないものでありながら、聞くことができるのは、そのわけを知ることが難しい。

とか、

問ふ。仏、往昔に、つぶさに諸度を修したまひしに、なほ八万歳にこの法を聞きたまふことあたはざりき。いかんぞ、薄徳のたやすく聴聞することを得る。 たとひ希有なりと許せども、なほ道理に違せり。

答ふ。この義、知りがたし。

(現代語訳)

問う。仏は昔つぶさに諸の菩薩の行を修めたもうたが、八万年に及んでも、この法を聞くことができなかったという。どうして、功徳の少ないものが、たやすく聴聞することができようか。たとい、それは稀な例であると認めても、やはり道理に違うであろう。

答える。この義は、なかなか難しい。

とも仰っているように、下品下生の往生を遂げる者の過去世がどうであったのかを知ることは源信僧都でも判らなかったのです。

源信僧都でさえ判らないことを判ったふりをして大上段に構えて宿善論を言いふらしているのが高森顕徹会長ですが、高森会長は源信僧都以上の善知識ですか、あるいはハッタリの悪知識ですか。よくよく考えてみましょう。

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2014年9月13日 (土)

『観無量寿経』を重視しながら、最も重要な下品下生の往生について完全無知な高森顕徹会長

『観無量寿経』下品下生について説明すると、阿弥陀仏の救いは臨終にしかできないのか、ということを言ってくる人がいます。親鸞会の会員の場合は、意味もよく知らないのに、平生業成という言葉だけが先行していますので、尚更です。

このことについて存覚上人が『浄土真要鈔』でこのように教えられています。

 問うていはく、『観経』の下輩の機をいふに、みな臨終の一念・十念によりて往生を得とみえたり。まつたく平生往生の義を説かず、いかん。
 答へていはく、『観経』の下輩は、みなこれ一生造悪の機なるがゆゑに、生れてよりこのかた仏法の名字をきかず、ただ悪業を造ることをのみしれり。しかるに臨終のときはじめて善知識にあひて一念・十念の往生をとぐといへり。これすなはち罪ふかく悪おもき機、行業いたりてすくなけれども、願力の不思議によりて刹那に往生をとぐ。これあながちに臨終を賞せんとにはあらず、法の不思議をあらはすなり。もしそれ平生に仏法にあはば、平生の念仏、そのちからむなしからずして往生をとぐべきなり。

判りやすい内容ですが、少し解説をすれば、「生れてよりこのかた仏法の名字をきかず、ただ悪業を造ることをのみしれり」の「一生造悪の機」が、「臨終のときはじめて善知識にあひて一念・十念の往生をとぐ」と説かれているのが『観無量寿経』です。しかし、これは臨終に救われることを教えられたのではなく、臨終という最悪の状況でも救われると言う「法の不思議」を表現されたものであって、「平生に仏法にあはば、平生の念仏、そのちからむなしからずして往生をとぐべきなり。」なのです。

同じ『浄土真要鈔』には18願においての説明があります。

この願のこころは、「たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、心を至し信楽してわが国に生れんと欲うて、乃至十念せん。もし生れずは、正覚を取らじ」となり。この願文のなかに、まつたく臨終と説かず平生といはず、ただ至心信楽の機において十念の往生をあかせり。しかれば、臨終に信楽せば臨終に往生治定すべし、平生に至心せば平生に往生決得すべし。

18願には平生とも臨終ともありませんから、臨終に救われる人もあれば、平生に救われる人もあります、

要するに、下品下生の往生というのは、最下の者が最悪の状況でも救われることを顕わされたものであって、下品下生でない者でも、平生でも、もちろん救われるのです。

高森流三願転入論とは無関係の救いが18願であることを明確に教えられているのが、浄土真宗の教えです。

高森顕徹会長からは、このような説明は永久に聞けないでしょう。

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2014年9月 4日 (木)

聖教も無視、文法も無視して必死に金集めを正当化する高森顕徹会長

いつも言っていますように、何が何でも善の勧めだけは絶対に修正しないのが、高森顕徹会長であり親鸞会です。
最近の顕正新聞や顕真は、全国の会館紹介とそれに付随する形で、善の勧めを必死で強調しています。
たとえば『歎異抄』第1章

しかれば本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきゆゑに。悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきゆゑにと[云々]。

の高森流ヘンテコ解釈です。
文法そのままでは、「弥陀の本願に救われるには」と信前になるが、ここは文法に外れた「弥陀の本願に救い摂られたならば」という信後のことだとするものです。

以前はこれを本気で信じ込んでいた高森会長ですが、今ではこれが間違いだと徹底的に指摘されて知っているのです。知っていながら、嘘を付きとおし金集めの正当性を言わざるをえないのです。

高森邪義は簡単に論破できます。根拠は沢山ありますが、親鸞会の会員でさえ知っている根拠を提示するなら、『正信偈』

極重の悪人はただ仏を称すべし。

です。これも信後だ、あるいは信一念の時だ、といいそうですが、この元は『往生要集』にあり、親鸞聖人は『教行信証』行巻でも紹介されています。

『観経』には「極重の悪人他の方便なし。ただ弥陀を称して極楽に生ずることを得」

親鸞会の大好きな「方便」ですが、「他の方便なし」です。「弥陀を称して」以外の方便がない、つまり極重の悪人には善の勧めがない、もっと端的に言えば、弥陀の本願に救われるのに善は不要、という根拠です。

これでも、信一念のことだ、とか寝恍けたことをいうのなら、この大元の『観無量寿経』下品下生を見れば明らかなことです。

下品下生といふは、あるいは衆生ありて不善業たる五逆・十悪を作り、もろもろの不善を具せん。かくのごときの愚人、悪業をもつてのゆゑに悪道に堕し、多劫を経歴して苦を受くること窮まりなかるべし。かくのごときの愚人、命終らんとするときに臨みて、善知識の種々に安慰して、ために妙法を説き、教へて念仏せしむるに遇はん。 この人、苦に逼められて念仏するに遑あらず。善友、告げていはく、〈なんぢもし念ずるあたはずは、まさに無量寿仏〔の名〕を称すべし〉と。かくのごとく心を至して、声をして絶えざらしめて、十念を具足して南無阿弥陀仏と称せしむ。仏名を称するがゆゑに、念々のなかにおいて八十億劫の生死の罪を除く。
命終るとき金蓮華を見るに、なほ日輪のごとくしてその人の前に住せん。一念のあひだのごとくにすなはち極楽世界に往生することを得。

長いですが、簡単に言えば、過去現在、善をやったことのなく、五逆・十悪を造っている悪人が、平生に仏法をきくこともなかったのが、臨終になって初めて仏法を聞きたいと言う気持ちになり、善知識から勧められたのは念仏1つで、勧められるまま念仏を十回称えて往生する、ということです。
他の方便」である善は不要、「ただ弥陀を称して」弥陀の本願に救い摂られるのです。

会員は『正信偈』くらいは、拝読したら如何ですか。高森会長の邪義は『正信偈』で論破できるのです。

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