高森顕徹会長、教に昏くして浄土門の門戸を知らず
高森顕徹会長の求心力の低下が、顕著になってきました。言っていることが度々変わり、出版直後は大絶賛していた『なぜ生きる2』は会員以外にはほとんど売れず、外部の評価は最低であり、そこに高森会長の年齢的な衰えが加わっているのですから、当然の流れです。
初期の顕正新聞には、すでに高森流宿善論が出ていますので、高森会長は親鸞会を作ってから、一貫して善の勧めを言い続けてきたことが判ります。華光会、大沼師が言われていない善の勧めは、親鸞会を維持・拡大する上で必須の邪義であり、高森会長や側近が独自に編み出したものと考えられます。高森会長の意図は、金集め・人集めであったことは言うまでもありませんが、高森会長が念仏を理解できなかったことがその原因とも言えます。
親鸞聖人は法然上人の教えを継承された方ですが、『教行信証』には『選択本願念仏集』の御文は2つしか引用されていません。なぜなら、それが法然上人の教えられたことの結論であるからです。
行巻に、
『選択本願念仏集』[源空集]にいはく、
「南無阿弥陀仏[往生の業は念仏を本とす]」と。
またいはく、「それすみやかに生死を離れんと欲はば、二種の勝法のなかに、しばらく聖道門を閣きて、選んで浄土門に入れ。浄土門に入らんと欲はば、正・雑二行のなかに、しばらくもろもろの雑行を抛ちて、選んで正行に帰すべし。正行を修せんと欲はば、正・助二業のなかに、なほ助業を傍らにして、選んで正定をもつぱらにすべし。正定の業とはすなはちこれ仏の名を称するなり。称名はかならず生ずることを得。仏の本願によるがゆゑに」と。
と引用されています。
「往生の業は念仏を本とす」「称名はかならず生ずることを得」を高森会長が知っていれば、念仏軽視というより念仏否定の邪義など、恥ずかしくて言えない筈です。
また、念仏に対する業は、諸善であることを強調されたのが、法然上人と親鸞聖人であることを知っていれば、善の勧めなど、人前で言えない筈です。
諸行を廃して念仏に帰せしめんがためにしかも諸行を説く。
定散を説くことは、念仏の余善に超過したることを顕さんがためなり。もし定散なくは、なんぞ念仏のことに秀でたることを顕さんや。
しかるに教について念仏諸善比挍対論するに、難易対、頓漸対、横竪対、超渉対、順逆対、大小対、多少対、勝劣対、親疎対、近遠対、深浅対、強弱対、重軽対、広狭対、純雑対、径迂対、捷遅対、通別対、不退退対、直弁因明対、名号定散対、理尽非理尽対、勧無勧対、無間間対、断不断対、相続不続対、無上有上対、上上下下対、思不思議対、因行果徳対、自説他説対、回不回向対、護不護対、証不証対、讃不讃対、付属不属対、了不了教対、機堪不堪対、選不選対、真仮対、仏滅不滅対、法滅利不利対、自力他力対、有願無願対、摂不摂対、入定聚不入対、報化対あり。
などです。
こんなことは、浄土門の門戸ですが、それさえも知らないのです。それでいて「真仮の門戸」を知っているのは、高森会長ただ一人と、高森会長自身も会員も最近まで信じ切っていたのですから、喜劇以外の何物でもありません。
しかし、喜劇も間もなく幕引きとなるでしょう。願わくば、高森会長が会員の目を醒ます形で幕を引いてもらいたいものです。
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コメント
高森会長は異常な名誉欲の亡者ですから、自分が間違っていたとは口が裂けても言えないでしょう。
投稿: | 2014年8月17日 (日) 22時40分
仏教以前の 道徳心があればせめて会長一代はなんとかなったと思いますが、阿弥陀様はそれを 許されなかった。
投稿: ヒマ | 2014年8月18日 (月) 00時49分
あっ日曜日 追悼法要でした?中身のない話を悪天候の中 会員さんは小杉まで行かれたのでしょうか?
ひどい話ですね。
投稿: ヒマ | 2014年8月18日 (月) 00時59分
どうでもいいことだけど親鸞会って親鸞って人の名前勝手に使ってんじゃねえよって思う。
高森さんは親鸞聖人の子孫でもないだろうし全然関係ないと思うし。本人の許可もないのに失礼なやっちゃなって思う。
しかも親鸞って呼び捨てで。尊敬してるとか言ってるけど傍から見たら利用してるだけに思えるな。
投稿: | 2014年8月19日 (火) 10時31分
昔、説法で、念仏と信心の喩えを聞きました。財布を受け取ってもお金が入っていない、カラの場合があり、安心できないと聞きました。今は、財布を受け取っても、お金ではなく、カラでもなく、入っているのは請求書。請求内容は「自力無効がわかるまで払え」と。少しずつ華麗に変化を遂げる絶対の幸福への教義。とうとう財布はお渡しする手段になりました。
投稿: 愚愚流 | 2014年8月19日 (火) 16時13分
仏教のことであまつさえ卑近なカネの話などに喩えることが多かったのは取りも直さず会長の本当の関心を示していたんでしょうね
投稿: | 2014年8月20日 (水) 09時43分
コメント頂いた皆様
いずれのコメントも、その通りと思います。
投稿: 飛雲 | 2014年8月25日 (月) 06時26分