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2014年8月

2014年8月31日 (日)

「因果の大道理を深信する親鸞学徒は極重の悪人」と寝惚けた妄言を吐く高森顕徹会長

以前にも何回かエントリーやコメントで言いましたが、私は、「本願寺あるいは伝統教学が正しくて、親鸞会は間違っている」という前提で親鸞会を非難したことはありませんし、するつもりもありません。私が言っていることは、親鸞会が大前提としている「親鸞聖人・覚如上人・蓮如上人が絶対に正しい」とするなら、高森顕徹会長と親鸞会は親鸞聖人・覚如上人・蓮如上人の仰せと全く違うことを教えている、という単純明快な話です。

したがいまして、親鸞聖人が正しいことを教えられている、覚如上人・蓮如上人が親鸞聖人の教えられた通りに教えられている、という検証はしていませんし、ましてや本願寺や伝統教学を鵜呑みにすることは一切しません。

補足しますと、「親鸞聖人・覚如上人・蓮如上人が絶対に正しい」という親鸞会の大前提を基に、親鸞聖人・覚如上人・蓮如上人が間違いない方と仰る七高僧と聖覚法印・隆寛律師・存覚上人と浄土三部経によって、高森会長と親鸞会の教義的矛盾について述べているだけです。

さて、未だに「因果の大道理を深信する親鸞学徒」なることを恥ずかしくもなく親鸞会は言っていますが、こんな単純明快な矛盾を平気で言わざるを得ないほど、親鸞会も追い詰められているのでしょう。

簡単に解説しておきますと、「因果の大道理を深信する」ことは散善三福の行福にあたるものです。

元々は『観無量寿経』にある「深信因果」ですが、これを善導大師は『序分義』

四に「深信因果」といふはすなはちその二あり。 一には世間の苦楽の因果を明かす。 もし苦の因を作ればすなはち苦の果を感じ、もし楽の因を作ればすなはち楽の果を感ず。 印をもつて泥に印するに、印壊れて文成ずるがごとし。 疑ふことを得ず。

(現代語訳)

四つに、「深く因果を信じ」というのは、これに二つある。一つには世間の苦楽の因果を明かす。もし苦のための因を作るならば苦の結果を受け、もし楽のための因を作れば楽の結果を受ける。あたかも臘印をもって泥に押して、これに金をとかして入れると蝋印が壊れて鋳物ができるようなものである。因果が相続することは疑うことができない。

とあり、更には『散善義』上品中生

三には深く世・出世の苦楽二種の因果を信じ、これらの因果およびもろもろの道理に疑謗を生ぜざることを明かす。

(現代語訳)

三つには、深く迷いとさとりとの苦楽二種の因果を信じて、これらの因果およびそのほか仏法のいろいろの道理を疑いそしらないことを明かす。

とあります。
要するに、因果の道理を深信する人は上品中生の1つの条件を満たした善人になります。

参考までに上品下生では

一には所信の因果不定なることを明かす。 あるいは信じ信ぜず。 ゆゑに名づけて「亦」となす。 あるいはまた前の〔上品中生の〕深信に同じかるべし。 また信ずといへども深からず。 善心しばしば退し、悪法しばしば起る。 これすなはち深く苦楽の因果を信ぜざるによりてなり。 もし深く生死の苦を信ずるものは、罪業畢竟じてかさねて犯さず。

(現代語訳)

一つには、因果を信ずることが定まらないことを明かす。すなわち、あるいは信じたり、あるいは信じないから、「亦」というのである。あるいは、亦た、上品中生に出る「深く因果を信ず」に同じといってもよい。亦た、信ずるといっても深くなくて、善心がしばしば退いて、悪い行いがしばしば起こる。これは、深く苦楽の因果を信じないからである。もし深く迷いの苦を信ずるならば、罪業を、ついに重ねては犯さない。

とありますから、因果の道理を深信はできなくても浅信していて、善を行ったり悪を行ったりしている人は、上品下生の条件の1つを満たした善人になります。

実に単純な話で、「因果の大道理を深信する親鸞学徒」は間違いなく善人でありますから、「全人類は極重の悪人と阿弥陀仏が見抜かれた」といっている高森会長の話とは完全に矛盾するということです。もちろん、「微塵の善もできない者」と知らされることは永久にありませんから、永久に救われないことになります。

この程度のことさえ理解できなくして、会員を金集め人集めに利用するのが親鸞会のマインドコントロールです。これを哀れと言わすして何と言うのでしょうか。

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2014年8月25日 (月)

会員を騙すことしか頭にない高森顕徹会長

親鸞会では、組織維持のために必死に必死に三願転入を声高に叫び、善の勧めと言う名目で、金集め人集めを会員に強要しています。

三願転入については、4年前のmixiでの法論で、完膚なきまでに叩きのめされて、その悔しさを紛らわすために『なぜ生きる2』で”反論”したのですが、即返り討ちにあって、『なぜ生きる2』の宣伝が大々的にできない状態に追い込まれています。

それでも会員向けには、高森顕徹会長の言っていることの”正しさ”を刷り込み続けています。その典型が、

19願には「十方衆生」とあるのに、親鸞会を非難している者は、19願は聖道門の人のためのものだと言っている

というものです。4年前から進歩向上もなければ、創意工夫もありません。

この直接的な根拠は、『教行信証』化土巻

 しかるに濁世の群萌、穢悪の含識、いまし九十五種の邪道を出でて、半満・権実の法門に入るといへども、真なるものははなはだもつて難く、実なるものははなはだもつて希なり。偽なるものははなはだもつて多く、虚なるものははなはだもつて滋し。
 ここをもつて釈迦牟尼仏、福徳蔵を顕説して群生海を誘引し、阿弥陀如来、本誓願を発してあまねく諸有海を化したまふ。

です。ここは前段と後段との繋がりで考えれば簡単な話です。

しかるに濁世の群萌、穢悪の含識、いまし九十五種の邪道を出でて、半満・権実の法門に入るといへども、真なるものははなはだもつて難く、実なるものははなはだもつて希なり。偽なるものははなはだもつて多く、虚なるものははなはだもつて滋し。

前段の意味は、仏教以外の宗教を出て、半満・権実の法門という聖道仏教に入ったといっても、その教えの通りに修行をしてさとりを開く人が甚だ少ない、ということです。

それを踏まえて「ここをもつて」です。

聖道門に行き詰まった人が多いから、釈尊は観経を説かれ、阿弥陀仏は19願を建てられたということですから、

『なぜ生きる2』にある

釈尊も阿弥陀仏も「群生海」「あまねく諸有海」という全人類に対して定散二善、19願を説かれた

が間違いになるのです。
もちろん他の根拠もあります。

『尊号真像銘文』

「唯除五逆誹謗正法」といふは、「唯除」といふはただ除くといふことばなり、五逆のつみびとをきらひ、誹謗のおもきとがをしらせんとなり。このふたつの罪のおもきことをしめして、十方一切の衆生みなもれず往生すべしとしらせんとなり。

18願の「唯除五逆誹謗正法」についての説明ですが、「唯除」とあるから、五逆罪・謗法罪の者も「十方衆生」から漏れていない、ということを親鸞聖人が仰っています。

ということは、「唯除五逆誹謗正法」のない19願の「十方衆生」には、漏れている者があるということです。簡単な論理です。

もっと直接的に仰ったのが、『浄土和讃』大経讃

臨終現前の願により
 釈迦は諸善をことごとく
 『観経』一部にあらはして
 定散諸機をすすめけり

です。

『なぜ生きる2』にもこれは載っていますが、その意訳がまた恣意的な誤魔化しです。

阿弥陀仏が十九の願に勧める善を、釈迦は『観無量寿経』一巻に定善・散善の二つで解き明かされている。

最後の行の「定散諸機をすすめけり」が無いのです。

ただし脚中には、

*定散諸機 弥陀の救いを求めて、定善や散善を実行する人々。

とあります。釈尊は「定散諸機」に対して観経の定散二善を説かれたと親鸞聖人が仰っています。高森氏の言葉を使うなら、釈尊は定善や散善を実行する人々に対して定散二善を説かれたということです。「定散諸機」と対比されるのが「逆悪の機」です。

『正信偈』に「矜哀定散与逆悪」とある通りです。

親鸞聖人が法然上人の法語を編纂された『西方指南抄』には、

第十九の願は、諸行之人を引入して、念仏の願に帰せしむと也。

とあります。19願は、諸善を実行してきた人を念仏の願に帰せしめるための願だということです。

以上のことから、『なぜ生きる2』の

釈尊も阿弥陀仏も「群生海」「あまねく諸有海」という全人類に対して定散二善、19願を説かれた

が完全に間違いで、諸善のできる人、つまりは元々聖道門で諸善を修してきた人のために建てられたのが19願と判ります。

簡単な話で、善のできない悪人に対して釈尊は定散二善を説かれたのでもなく、阿弥陀仏は19願を建てられたのではないということです。

高森会長もそのことは知っていますが、死ぬまで修正することはないでしょう。

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2014年8月17日 (日)

高森顕徹会長、教に昏くして浄土門の門戸を知らず

高森顕徹会長の求心力の低下が、顕著になってきました。言っていることが度々変わり、出版直後は大絶賛していた『なぜ生きる2』は会員以外にはほとんど売れず、外部の評価は最低であり、そこに高森会長の年齢的な衰えが加わっているのですから、当然の流れです。

初期の顕正新聞には、すでに高森流宿善論が出ていますので、高森会長は親鸞会を作ってから、一貫して善の勧めを言い続けてきたことが判ります。華光会、大沼師が言われていない善の勧めは、親鸞会を維持・拡大する上で必須の邪義であり、高森会長や側近が独自に編み出したものと考えられます。高森会長の意図は、金集め・人集めであったことは言うまでもありませんが、高森会長が念仏を理解できなかったことがその原因とも言えます。

親鸞聖人は法然上人の教えを継承された方ですが、『教行信証』には『選択本願念仏集』の御文は2つしか引用されていません。なぜなら、それが法然上人の教えられたことの結論であるからです。

行巻に、

 『選択本願念仏集』[源空集]にいはく、
「南無阿弥陀仏[往生の業は念仏を本とす]」と。
 またいはく、「それすみやかに生死を離れんと欲はば、二種の勝法のなかに、しばらく聖道門を閣きて、選んで浄土門に入れ。浄土門に入らんと欲はば、正・雑二行のなかに、しばらくもろもろの雑行を抛ちて、選んで正行に帰すべし。正行を修せんと欲はば、正・助二業のなかに、なほ助業を傍らにして、選んで正定をもつぱらにすべし。正定の業とはすなはちこれ仏の名を称するなり。称名はかならず生ずることを得。仏の本願によるがゆゑに」と。

と引用されています。

往生の業は念仏を本とす」「称名はかならず生ずることを得」を高森会長が知っていれば、念仏軽視というより念仏否定の邪義など、恥ずかしくて言えない筈です。
また、念仏に対する業は、諸善であることを強調されたのが、法然上人と親鸞聖人であることを知っていれば、善の勧めなど、人前で言えない筈です。

『選択本願念仏集』

諸行を廃して念仏に帰せしめんがためにしかも諸行を説く。

定散を説くことは、念仏の余善に超過したることを顕さんがためなり。もし定散なくは、なんぞ念仏のことに秀でたることを顕さんや。

行巻

しかるに教について念仏諸善比挍対論するに、難易対、頓漸対、横竪対、超渉対、順逆対、大小対、多少対、勝劣対、親疎対、近遠対、深浅対、強弱対、重軽対、広狭対、純雑対、径迂対、捷遅対、通別対、不退退対、直弁因明対、名号定散対、理尽非理尽対、勧無勧対、無間間対、断不断対、相続不続対、無上有上対、上上下下対、思不思議対、因行果徳対、自説他説対、回不回向対、護不護対、証不証対、讃不讃対、付属不属対、了不了教対、機堪不堪対、選不選対、真仮対、仏滅不滅対、法滅利不利対、自力他力対、有願無願対、摂不摂対、入定聚不入対、報化対あり。

などです。

こんなことは、浄土門の門戸ですが、それさえも知らないのです。それでいて「真仮の門戸」を知っているのは、高森会長ただ一人と、高森会長自身も会員も最近まで信じ切っていたのですから、喜劇以外の何物でもありません。
しかし、喜劇も間もなく幕引きとなるでしょう。願わくば、高森会長が会員の目を醒ます形で幕を引いてもらいたいものです。

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2014年8月 6日 (水)

高森顕徹会長と親鸞会は、今後どこまで教義を修正してくるか

某大手新聞社が、過去の誤報を認めたと話題となっています。国際問題にまで発展し、未だに尾を引いている一連の報道ですが、その一部ではあっても、間違いを認めたことに時代の変化を感じます。このブログで、その報道内容についてどうこう言うことは一切しませんが、他の新聞社や週刊誌、インターネット、更には首相からも激しく非難され、販売部数が減った結果として、間違いを一部認めざるを得なくなったと思われます。

同じことが高森顕徹会長、親鸞会でも言えます。
無二の善知識、完璧な教学、法論無敗を大きく宣伝してきた高森会長と親鸞会は、ここ数年の猛烈な教義批判に屈し続けています。

最近の法論は、すべて高森会長と親鸞会の惨敗です。mixiでの三願転入の法論も、某巨大掲示板での多くの法論も、当ブログを含めたブログ上での法論も、またアマゾンのレビューでの法論も含めれば、数十回の法論が記録として残っていますが、一度として親鸞会側が勝ったことがありません。
『なぜ生きる2』の新聞広告が、おまけ程度になっているのもその影響ですし、法論で醜態を晒した講師部員が処分されたりしています。
どんな詭弁を使おうとも、退会者の反論には為す術がないのが現実です。
このようなことから、間違いを表明することはしませんが、教義を少しずつ修正してきているのは事実です。

若不生者」の「」は、信楽に生れるの意であって、死後に浄土に生まれるの意ではない、とあれだけ言い続けていたのに、それを翻したことは、皆さんご存知のことと思います。
また、「白道」の意味を、信前の求道としていたのが、親鸞聖人の教えられ方では信後であるが善導大師の教えられ方では信前になると言ったりもしています。もちろん、それも間違いですが、少なくとも高森会長の言っていることは親鸞聖人の教えられ方と異なると認めています。
他には、「後生の一大事」の意味を、必堕無間一辺倒から、信前は必堕無間、信後は往生の一大事に変わり、更には往生できるかどうかの一大事へと変化しています。その必堕無間自体も、最近では言わなくなってきています。

高森会長の言っていることは、悉く間違っているのですが、特に重要な点については以下にまとめてあります。

いつもの14項目

1.獲信していない人の死後はどうなるか

親鸞聖人 六道輪廻(19願・20願の同行は化土往生)
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高森会長 必堕無間

2.五逆罪・謗法罪について

親鸞聖人 造っている人と造っていない人がいる
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高森会長 造っていない人はいない、全ての人は生まれながらに造っている

3.善人と悪人について

親鸞聖人 善人と悪人とがいる
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高森会長 善人はいない、すべての人は悪人である

4.獲信のために善は必要か

親鸞聖人 念仏1つ、獲信に善は不要
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高森会長 善をしなければ絶対に獲信できない

5.白道とは

親鸞聖人 自力の心にあらず
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高森会長 自力

6.定散二善について

親鸞聖人 定散二善を捨てよ
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高森会長 定散二善をせよ

7.19願について

親鸞聖人 19願を捨てよ
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高森会長 19願を実践せよ

8.宿善について

親鸞聖人 過去世の善根の厚薄と、往生・獲信とは関係ない
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高森会長 過去世の善根の薄い者が、そのままで往生・獲信することはありえない

9.機の深信について

親鸞聖人 自力では出離できない
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高森会長 逆謗の屍と必ず知らされる

10.法の深信について

親鸞聖人 往生ほどの一大事、凡夫のはからふべきことにあらず
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高森会長 浄土往生が火に触ったよりも明らかに知らされる

11.善知識に無条件服従しなければならないか

親鸞聖人 法に従うのであって、人に従うのではない
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高森会長 善知識に無条件服従せよ

12.因果の道理について

親鸞聖人 罪福の因果を信じることは自力・仏智不思議を疑う心
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高森会長 因果の道理を深信しなければならない

13.三願転入について

親鸞聖人 聖道門の人を浄土門に導く方便が19願であり、19願の勧めはない
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高森会長 全人類は19願から始めなければならない

14.「一向専念無量寿仏」について

親鸞聖人 諸善を廃して念仏1つになること
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高森会長 阿弥陀仏1仏に向かって諸善をすることも含む

『歎異抄』について

第1章

1.「ただ信心を要とす」の「信心」とは

親鸞聖人 「ただ念仏で往生できる」と信じた心
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高森会長 「助かった」とハッキリした心

2.「本願を信ぜんには他の善も要にあらず」とは

親鸞聖人 本願に救われるには善は不要
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高森会長 救われたなら善は不要だが、救われる前には善が勧められている

3.「悪をもおそるべからず」とは

親鸞聖人 本願に救われるのに、悪が妨げになることはない
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高森会長 悪を恐れ不安になるのは、地獄一定の悪人と知らされていないからだ

第2章

4.「ただ念仏して」の「ただ」とは

親鸞聖人 念仏一行
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高森会長 びっくり仰天

5.「総じてもつて存知せざるなり」とは

親鸞聖人 念仏が浄土に生れる因なのか地獄に行く因なのかを知る智慧を持っていない
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高森会長 知り過ぎた知らん

6.「弥陀の本願まことにおわしまさば」は仮定か断定か

親鸞聖人 仮定
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高森会長 断定

第3章

7.「善人なほもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや」とは

親鸞聖人 善人ではなく悪人のために18願を建てられた
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高森会長 「悪人」とは、全人類のことであり、「人間」の代名詞にほかならない

今後、どこまで修正してくるかは判りませんが、善の勧めだけは、親鸞会が消滅するまで言い続けることでしょう。

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