「因果の大道理を深信する親鸞学徒は極重の悪人」と寝惚けた妄言を吐く高森顕徹会長
以前にも何回かエントリーやコメントで言いましたが、私は、「本願寺あるいは伝統教学が正しくて、親鸞会は間違っている」という前提で親鸞会を非難したことはありませんし、するつもりもありません。私が言っていることは、親鸞会が大前提としている「親鸞聖人・覚如上人・蓮如上人が絶対に正しい」とするなら、高森顕徹会長と親鸞会は親鸞聖人・覚如上人・蓮如上人の仰せと全く違うことを教えている、という単純明快な話です。
したがいまして、親鸞聖人が正しいことを教えられている、覚如上人・蓮如上人が親鸞聖人の教えられた通りに教えられている、という検証はしていませんし、ましてや本願寺や伝統教学を鵜呑みにすることは一切しません。
補足しますと、「親鸞聖人・覚如上人・蓮如上人が絶対に正しい」という親鸞会の大前提を基に、親鸞聖人・覚如上人・蓮如上人が間違いない方と仰る七高僧と聖覚法印・隆寛律師・存覚上人と浄土三部経によって、高森会長と親鸞会の教義的矛盾について述べているだけです。
さて、未だに「因果の大道理を深信する親鸞学徒」なることを恥ずかしくもなく親鸞会は言っていますが、こんな単純明快な矛盾を平気で言わざるを得ないほど、親鸞会も追い詰められているのでしょう。
簡単に解説しておきますと、「因果の大道理を深信する」ことは散善三福の行福にあたるものです。
元々は『観無量寿経』にある「深信因果」ですが、これを善導大師は『序分義』で
四に「深信因果」といふはすなはちその二あり。 一には世間の苦楽の因果を明かす。 もし苦の因を作ればすなはち苦の果を感じ、もし楽の因を作ればすなはち楽の果を感ず。 印をもつて泥に印するに、印壊れて文成ずるがごとし。 疑ふことを得ず。
(現代語訳)
四つに、「深く因果を信じ」というのは、これに二つある。一つには世間の苦楽の因果を明かす。もし苦のための因を作るならば苦の結果を受け、もし楽のための因を作れば楽の結果を受ける。あたかも臘印をもって泥に押して、これに金をとかして入れると蝋印が壊れて鋳物ができるようなものである。因果が相続することは疑うことができない。
とあり、更には『散善義』上品中生に
三には深く世・出世の苦楽二種の因果を信じ、これらの因果およびもろもろの道理に疑謗を生ぜざることを明かす。
(現代語訳)
三つには、深く迷いとさとりとの苦楽二種の因果を信じて、これらの因果およびそのほか仏法のいろいろの道理を疑いそしらないことを明かす。
とあります。
要するに、因果の道理を深信する人は上品中生の1つの条件を満たした善人になります。
参考までに上品下生では
一には所信の因果不定なることを明かす。 あるいは信じ信ぜず。 ゆゑに名づけて「亦」となす。 あるいはまた前の〔上品中生の〕深信に同じかるべし。 また信ずといへども深からず。 善心しばしば退し、悪法しばしば起る。 これすなはち深く苦楽の因果を信ぜざるによりてなり。 もし深く生死の苦を信ずるものは、罪業畢竟じてかさねて犯さず。
(現代語訳)
一つには、因果を信ずることが定まらないことを明かす。すなわち、あるいは信じたり、あるいは信じないから、「亦」というのである。あるいは、亦た、上品中生に出る「深く因果を信ず」に同じといってもよい。亦た、信ずるといっても深くなくて、善心がしばしば退いて、悪い行いがしばしば起こる。これは、深く苦楽の因果を信じないからである。もし深く迷いの苦を信ずるならば、罪業を、ついに重ねては犯さない。
とありますから、因果の道理を深信はできなくても浅信していて、善を行ったり悪を行ったりしている人は、上品下生の条件の1つを満たした善人になります。
実に単純な話で、「因果の大道理を深信する親鸞学徒」は間違いなく善人でありますから、「全人類は極重の悪人と阿弥陀仏が見抜かれた」といっている高森会長の話とは完全に矛盾するということです。もちろん、「微塵の善もできない者」と知らされることは永久にありませんから、永久に救われないことになります。
この程度のことさえ理解できなくして、会員を金集め人集めに利用するのが親鸞会のマインドコントロールです。これを哀れと言わすして何と言うのでしょうか。
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