一口問答(法の深信6)
問い
法の深信は「かの阿弥陀仏の四十八願は衆生を摂受して、疑なく慮りなくかの願力に乗じて、さだめて往生を得と深信す」ですから、救われたら往生が判ると仰っているではないですか。
答え
善導大師は法の深信について別の言い方をされています。
「二には深心。すなはちこれ真実の信心なり。(中略)いま弥陀の本弘誓願は、名号を称すること下十声・一声等に至るに及ぶまで、さだめて往生を得と信知して」(往生礼讃)
念仏称えて往生できると信知(深信)すると仰っています。念仏称えて助かるは間違いだ、と言いきっている高森会長は異安心確定ですね。
「さだめて往生を得」と仰っているのは、未だ遂げていない往生について、その道は「かの願力に乗じて」「名号を称する」ことだけだとハッキリしたことと仰っています。浄土往生が認識できたのではなく、浄土往生への道を信知(深信)するのです。
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コメント
真理に近づかせて頂くことの素晴らしさを知らずに、いきなり自らが仏になってしまったと勘違いしてしまったなら会員に帰依を要求するのも頷けます。明らかに間違った信心ですが。
全くの私見ですが往生とは往って生まれるという意味もあれば、真理に近づかせて頂く、生かされて往くという意味もあると感じています。私は教学もなく、この世のことしかわかりません。
投稿: 愚愚流 | 2014年7月10日 (木) 20時21分
愚愚流 様
間違った信心のまま、60年も過ごしてきて、大いなる勘違いが更なる勘違いを生んできたのでしょう。
往生の味わいは、それぞれもっていて良いと思います。ただし、誰かのように味わいを教学と勘違いされないように。
投稿: 飛雲 | 2014年7月10日 (木) 21時09分
飛雲様
有難うございます。肝に命じます。
投稿: 愚愚流 | 2014年7月10日 (木) 21時15分