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2014年7月22日 (火)

一口問答(法の深信12)

問い

弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて、往生をばとぐるなりと信じて念仏申さんとおもひたつこころのおこるとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり。」(歎異抄)と仰っているように、「摂取不捨の利益」にあずかったら絶対の幸福になるのです。

答え

前にも言ったように、「我亦在彼摂取中 煩悩障眼雖不見 大悲無倦常照我」(正信偈)の通りで、「摂取不捨の利益」にあずかっても、煩悩によって阿弥陀仏を見ることができないのです。救われたら、諸仏や菩薩や神などが見えるようになる訳でも判るようになる訳でもありません。要するに現生十種の益を獲たからといって、それが判る境地になるのではありません。

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コメント

エントリーで答えていただき感謝します。
阿弥陀仏に摂め取られ、極楽に往ける身になるが、それは親鸞会の言う絶対の幸福ではない、と理解しました。

また親鸞会では「なぜ生きる 親鸞聖人のお言葉」のカードを作って
「阿弥陀仏に救われると難度海の人生が光明の広海に転ずるのだ」と会員に徹底しようとしています。
「光明の広海に浮かぶ」は「絶対の幸福の自覚」と言えるのでしょうか?

投稿: | 2014年7月25日 (金) 17時48分

名無し 様

まず、言葉の定義からですが、絶対の幸福という限りは、この上ない、比べる物のない幸福ということになります。常識的に考えれば、それは仏の境地です。
したがって、仏になったことを絶対の幸福になったというのなら、話は通じますが、凡夫の状態で絶対の幸福とか言っていること自体、おかしいです。
次に、「光明の広海に浮かぶ」とは、まさに「大悲無倦常照我」のことであり、そのような身になっても、阿弥陀仏を見ることはできません。
煩悩は変わらず、仏の智慧の一部さえも現生で獲ることができなくて、なぜ絶対の幸福なのでしょうか。

投稿: 飛雲 | 2014年7月25日 (金) 20時02分

「善をやらねば」とか「悪を慎もう」とか、
あれダメこれイイということから解放された、
何をやっても大丈夫な世界に変わりますから、
それを 「広い海」と言われたものです。

自身が「阿弥陀仏を南無する」身になってしまえば、
念仏さえ称える「必要」がなくなりますから、
称えたいときに好きなだけ称えていれば満足という、
何とも贅沢な身になりますし、

疑情が晴れれば、
何にも怖いことのない安心に包まれますので、
「煩悩どんとコーイ」みたいな安らぎがあります。

ああ、「大安心、大満足」とはこのことだったかと、
体でお聖教を読める有難い身の上です。

投稿: 名無し2号 | 2014年7月26日 (土) 01時35分

飛雲様、名無し2号様
詳しい説明ありがとうございました。

投稿: | 2014年7月28日 (月) 17時36分

エントリーの内容とは全く関係ない質問ですが。。

全く仏教を知らない人に対して因果の道理から説明することは間違っていますか?個人的にはそこから入るととてもわかりやすくいいと思うのですが。

投稿: A | 2014年7月29日 (火) 11時06分

A 様

全く仏教を知らない人に、どういった話をするかはケースバイケースだと思います。
問題は、因果の道理を強調し過ぎると阿弥陀仏の本願を受け入れないようになる可能性があります。
あくまで、仏教への導入話としてなら、人によっては良いのではないでしょうか。

投稿: 飛雲 | 2014年7月29日 (火) 20時57分

「阿弥陀仏に救われました」と言う人が全くいない親鸞会なのにね。
「救われたら」っていう仮定の話ばかり強調してますね。
会長が間違っているから自分達が救われないって現実を見なさいと言いたい。

投稿: ヒマ | 2014年7月30日 (水) 22時52分

あっカードを作って のコメントの感想です。

投稿: ヒマ | 2014年7月30日 (水) 22時54分

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