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2014年6月10日 (火)

十劫安心の体験談しか自慢できない親鸞会

最近の顕正新聞、顕真を見ると、会員の体験談しか載っていない、といっても過言ではありません。もちろん、救われた体験ではなく、求道体験です。体験談しか自慢するものがない、と華光会を批判しながら、親鸞会が求道の体験談しか自慢できないのは、なんとも愚かな話です。

では前回に続いて、『三経往生文類』の20願をみておきます。

弥陀経往生といふは、植諸徳本の誓願によりて不果遂者の真門にいり、善本徳本の名号を選びて万善諸行の少善をさしおく。しかりといへども定散自力の行人は、不可思議の仏智を疑惑して信受せず。如来の尊号をおのれが善根として、みづから浄土に回向して果遂のちかひをたのむ。不可思議の名号を称念しながら、不可称不可説不可思議の大悲の誓願を疑ふ。その罪ふかくおもくして、七宝の牢獄にいましめられて、いのち五百歳のあひだ自在なることあたはず、三宝をみたてまつらず、つかへたてまつることなしと、如来は説きたまへり。しかれども如来の尊号を称念するゆゑに、胎宮にとどまる。徳号によるがゆゑに難思往生と申すなり。不可思議の誓願、疑惑する罪によりて難思議往生とは申さずと知るべきなり。

(現代語訳)

「弥陀経往生」 というのは、 植諸徳本の願 (第二十願) によって 「不果遂者」 と誓われた真門に入り、 あらゆる功徳をそなえた名号を選んで善根の少ないさまざまな行を捨てるのである。 ところが、 自力で修める行にとらわれている人は、 阿弥陀仏の不可思議の智慧を疑って信じずに、 如来の名号を自分の善根とし、 その功徳を自ら回向して、 必ず浄土往生を果たしとげさせると誓われた願に頼るのである。 本願に誓われた不可思議の名号を称えていながら、 たたえ尽すことも、 説き尽すことも、 思いはかることもできない大いなる慈悲の心からおこされたその本願を疑っている。 それは深く重い罪であり、 浄土に生れても七つの宝でできた牢獄に閉じこめられて、 五百年の間、 自由に振舞うことができず、 仏にも教えにも菩薩や声聞たちにも会うことができず、 お仕えすることもできないと如来は説いておられる。 それでも、 如来の名号を称えるから、 胎宮といわれる方便の浄土にはとどまるのである。 あらゆる功徳をそなえた名号によるから 「難思往生」 というのである。 不可思議の本願を疑う罪によって 「難思議往生」 とはいわないと知らなければならない。

ここで判ることは、「善本徳本の名号を選びて万善諸行の少善をさしおく」とあるように、諸善を捨てて念仏1つを選ぶのが20願です。したがって、19願を捨てなければ20願に入れないのです。言葉を変えると雑行と雑修(助業)を捨てなければ念仏1つにはなりません。
信前に雑行を捨てることができるのか、という愚かな質問の答えはここにあります。もちろん、自分自身の意思で捨てるのです。阿弥陀仏によらなければ19願、雑行、助業を捨てることができないなどというのも、迷信、邪義、異安心です。

三願転入の文を読めば明らかです。
論主の解義を仰ぎ、宗師の勧化によりて」、19願を離れたのですから、阿弥陀仏によりてではありません。もし、阿弥陀仏のお力によって19願を捨てることができたと言うのであれば、外道を捨てるのも、聖道門を捨てるのも阿弥陀仏のお力によると言うべきです。そうなると親鸞会は十劫安心と同じです。十劫の昔から、助かることになっているから時間が解決してくれる、と言う話です。
敢えていうならば、阿弥陀仏のお育てによって自らの意思で外道・聖道門・19願を捨てることができた、でしょう。
いずれにしましても、自分の意思で外道を捨て、聖道門を捨て、19願を捨て、雑行を捨て、助業を捨てるのです。

要するに、19願はいつでも捨てることができますし、雑行もいつでも捨てることができますので、屁理屈を捏ねずに、今すぐ19願、雑行を捨ててください。
自力を捨てて他力に帰すにはどうすれば、という悩みは19願、雑行を捨てて念仏1つになってからの話です。自力一杯求めていれば、いつか自力が廃る、などという十劫安心に陥って、その体験談を自慢しているのが親鸞会です。
親鸞会は自力他力以前の問題なのです。

高森顕徹会長の教えていることが、「浄土真宗」でもなければ「親鸞聖人の教え」でもない、と外部から非難されているのは、今回のエントリーだけでも当然のことと御理解いただけるのではないでしょうか。

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コメント

飛雲様
もし聖道門が、自力無効と分かるまで求めなければならないのなら、その前に、無宗教無効と分かるまで、無宗教を求めるのが、高森親鸞会の教えであり、その次は、外道無効まで命がけで外道を求めないと外道から離れられないことになります。よくよく考えるとすべてを横超するのが親鸞聖人の教えの肝ではありませんか。仏法を聞いて黄金の雨が降っても、その黄金は相対の幸福であると遥か昔の高森親鸞会はそのように言って、破邪顕正をやっておったはずですが。所詮高森親鸞会は相対の幸福を求める団体であったと領解致しました。

投稿: 愚愚流 | 2014年6月10日 (火) 22時44分

愚愚流 様

仰る通りです。

投稿: 飛雲 | 2014年6月12日 (木) 06時53分

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