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2014年6月14日 (土)

親鸞聖人の教えられた因果の道理と正反対の高森顕徹流因果の道理

高森顕徹会長は、因果の道理を知りません。正確に言えば、世間や外道の因果の道理は知っていますが、親鸞聖人が教えられた因果の道理には無知です。
親鸞聖人は、浄土の因果、往生の因果を教えられています。
前々回、前回と『三経往生文類』を紹介してきましたが、そこにも教えられています。

諸善という行と自力の信を因とする果は、化土往生である。(19願)

念仏という行と自力の信を因とする果は、化土往生である。(20願)

念仏という行と他力の信を因とする果は、報土往生である。(18願)

古文が理解できない人のために、別の観点から説明をすると、『教行信証』の行巻で報土往生の行である念仏を、信巻で報土往生の信である他力の信心について教えられ、化土巻で化土往生の行である諸善と自力の信心について教えられています。

一方、高森会長はどう教えているでしょうか。

諸善という行と自力の信を因とする果は、必堕無間である。

念仏という行と自力の信を因とする果は、必堕無間である。

諸善という行と他力の信を因とする果は、報土往生である。(三願転入)

これが親鸞聖人の教えと同じかどうかは、小学生でも判断できるでしょう。ちなみに、最近は必堕無間をぼかしてはいますが、それに近いことを未だに言っていますし、化土往生は否定しています。
念仏を軽視し、諸善という行を宿善として積み重ねて報土往生できるという、奇妙奇天烈な珍釈を公言しているのですから、実に恥ずかしいことです。「浄土真宗」とか「親鸞聖人の教え」と言わなければ、おもしろい宗教を考えた変な人が富山にいたものだ、で終わるでしょう。

では、親鸞聖人の御言葉を示しておきましょう。
『教行信証』信巻

しかれば、もしは行、もしは信、一事として阿弥陀如来の清浄願心の回向成就したまふところにあらざることあることなし。因なくして他の因のあるにはあらざるなりと、知るべし。

阿弥陀仏の清らかな願心より与えてくださった行と信以外には、報土往生の因は何一つない、ということです。数字の好きな高森会長に合わせていうなら、行も信も100%阿弥陀仏から賜るものです。衆生の側の行と信は0%です。1%も、0.001%もないのです。衆生の為した諸善を宿善として、とか寝恍けたことは仰っていません。高森会長は、信心のことしか頭にないようですが、行も100%阿弥陀仏から賜ったものです。

次に自力の信心についてですが、これは上記の親鸞聖人の御言葉に反発する信心です。
親鸞聖人の御言葉を示せば、『教行信証』化土巻

定散の専心とは、罪福を信ずる心をもつて本願力を願求す、これを自力の専心と名づくるなり。

とありますように、「罪福を信ずる心」が自力の信心になります。「善いことをしたら善い運命が返ってくる、悪いことをしたら悪い運命が返ってくる、自分のやった行為は自分の運命として返ってくる」を信じる心が自力の信心です。何のことはない、高森会長の教えている因果の道理そのままが自力の信心なのです。
『正像末和讃』誡疑讃にも

罪福信ずる行者は
 仏智の不思議をうたがひて
 疑城胎宮にとどまれば
 三宝にはなれたてまつる

仏智不思議をうたがひて
 罪福信ずる有情は
 宮殿にかならずうまるれば
 胎生のものとときたまふ

とありますが、高森会長の教える因果の道理を信じることは仏智不思議を疑う心、疑情そのものです。

要するに、高森会長は親鸞聖人の教えられる因果の道理を知らないだけではなく、親鸞聖人の教えられる因果の道理と正反対のことを教えているだけなのです。

高森会長の話を聞いて信心決定できないのですか、と会員からよく尋ねられますが、答えるまでもないことです。ただし、高森会長の話を誤解して正反対に理解する聞き方をすれば、信心決定はできるでしょうが。

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コメント

飛雲様
拝読させて頂きました。
よければ下記ご和讃の意味をご教示頂ければ幸いです。
何卒よろしくお願い致します。

正像末の三時には
弥陀の本願ひろまれり
像季末法のこの世には
諸善竜宮にいりたまふ
(正像末和讃)

以上


投稿: 愚愚流 | 2014年6月15日 (日) 02時44分

愚愚流 様

この御和讃は前後をみると、よくお判りになられると思います。

末法五濁の有情の
 行・証かなはぬときなれば
 釈迦の遺法ことごとく
 竜宮にいりたまひにき

正像末の三時には
 弥陀の本願ひろまれり
 像季末法のこの世には
 諸善竜宮にいりたまふ

『大集経』にときたまふ
 この世は第五の五百年
 闘諍堅固なるゆゑに
 白法隠滞したまへり

簡単に言えば、像法から末法への変わり目のこの世には、諸善の教えは意味をなさないが、18願は正像末通じて全ての人を救いたもう教えだ、ということです。
ただし、この場合の諸善は、聖道門のことを直接的には指していると思います。

投稿: 飛雲 | 2014年6月15日 (日) 18時12分

飛雲様
ご教示有難うございました。
報土往生できない自力の教えを捨てなければならないのが
聖人の教えだとわかりました。
南無阿弥陀仏

投稿: 愚愚流 | 2014年6月16日 (月) 22時42分

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