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2014年6月

2014年6月25日 (水)

世間的な発想しかできない無知な高森顕徹会長

親鸞会では、「善」に対する言葉は「悪」という世間的な発想しかありませんが、浄土門においては、「善」という行に対する言葉は「念仏」になります。したがいまして、浄土門において「雑行を捨てよ」は「念仏を専ら修せよ」の意味になります。
高森顕徹会長は、真宗の教義を何一つ知らないから、世間的な発想しかできないのは当然でしょう。

法然上人が諸善や定散二善に対して、念仏をいくつかの角度から比較されて仰っていることは『選択本願念仏集』を読めば誰でも判ることです。もちろん、高森会長は『選択本願念仏集』を開いてみたこともないでしょう。
親鸞聖人も、法然上人の教えられ方を継承されて『教行信証』行巻でこのように仰っています。

しかるに教について念仏諸善比挍対論するに、難易対、頓漸対、横竪対、超渉対、順逆対、大小対、多少対、勝劣対、親疎対、近遠対、深浅対、強弱対、重軽対、広狭対、純雑対、径迂対、捷遅対、通別対、不退退対、直弁因明対、名号定散対、理尽非理尽対、勧無勧対、無間間対、断不断対、相続不続対、無上有上対、上上下下対、思不思議対、因行果徳対、自説他説対、回不回向対、護不護対、証不証対、讃不讃対、付属不属対、了不了教対、機堪不堪対、選不選対、真仮対、仏滅不滅対、法滅利不利対、自力他力対、有願無願対、摂不摂対、入定聚不入対、報化対あり。

(現代語訳)

 しかるに教法について、念仏と諸善とを比較し、相対して論じると、次のようになります。
難易対、諸善は難行であり、念仏は易行である。
頓漸対、念仏は速やかに成仏し、諸善は長い時間を要する。
横竪対、念仏は他力によって横さまに迷いを超え、諸善は自力によって、竪さまに順を迫って迷いを離れていく。
超渉対、念仏は迷いの世界を飛び超えるが、諸善は歩いて渡るようなものである。
順逆対、念仏は本願に順じているが、諸善は本願に背いている。
大小対、念仏は大功徳であるが、諸善の功徳は小さい。
多少対、念仏は多善根であるが、諸善は少善根である。
勝劣対、念仏は最勝の行であり、諸善は劣行である。
親疎対、念仏は仏に親しく馴染み深いが、諸善は疎遠である。
近遠対、念仏は仏に近く、諸善は遠く離れている。
深浅村、念仏は深い法であり、諸善は浅薄である。
強弱対、念仏は強い本願に支えられているが、諸善を支える自力は弱い。
重軽対、念仏は重い願力に支えられているが、それのない諸善は軽い。
広狭対、念仏は一切を救うから広く、諸善は善人にかぎるから狭い。
純雑対、念仏は純粋な往生行であるが、諸善は三乗に通ずる行である。
径迂対、念仏はさとりに至る近道であり、諸善はまわり道である。
捷遅対、念仏は早くさとりに至る道であり、諸善は遅い道である
通別対、諸善は聖道に通ずる通途の法であり、念仏は特別の法である。
不退退対、念仏は不退転の法であり、諸善は退転のある法である。
直弁因明対、念仏は仏の出世の本意としてただちに説かれた法であり、諸善は自力の機に止むを得ず説かれた法である。
名号定散対、念仏は釈尊が付属された名号であり、諸善は付属されなかった定散二善である。
埋尽非理尽対、念仏は道理を尽くして説かれた完全な法であり、諸善は理を尽くさない不完全な説にすぎない。
勧無勧対、念仏は十方の諸仏が勧められる法であり、諸善には諸仏の勧めはない。
無間間対、念仏は他力に支えられているからその信心は途切れることがないが、諸善を修するものの信は途切れることがある。
断不断対、念仏は摂取されているから信心断絶しないが、諸善は断絶する。
相続不続対、念仏は法の徳によって臨終まで相続するが、諸善は相続しない。
無上有上対、念仏は無上の功徳を具しているが、諸善は有上功徳でしかない。
上上下下対、念仏は最も勝れた上上の法であるが、諸善は下下の法である。
思不思議対、念仏は不可思議の仏智の顕現であり、諸善は分別思議の法である。
因行果徳対、諸善は不完全な因人の行であるが、念仏は阿弥陀仏の果徳を与えられた完全な法である。
自説他説対、念仏は阿弥陀仏自身が説かれた行法であり、諸善はそうではない。
回不回向対、諸善は衆生が回向しなければ往生行にはならないが、念仏は如来回向の法であるから、衆生は回向する必要がない。
護不護対、念仏は如来に護念せられる法であるが、諸善には護念はない。
証不証対、念仏は諸仏が証明されているが、諸善には諸仏の証明がない。
讃不讃対、念仏は諸仏に讃嘆される法であるが、諸善は讃嘆されない。
付嘱不嘱対、念仏は釈迦・弥陀二尊の本意にかなった法であるから付属されたが、諸善は付属されなかった。
了不了教対、念仏は仏の本意が完全に説き示された法であるが、諸善はそうではなかった。
機堪不堪対、念仏はどのような愚劣の機にも堪えられるように成就された法であるが、諸善は劣機には堪えられない法である。
選不選対、念仏は如来が選び取られた法であり、諸善は選び捨てられた法である。
真仮対、念仏は真実の法であり、諸善はしばらく仮に用いられる方便の法である。
仏滅不滅対、諸善のものは往生しても入滅する応化仏を見るが、念仏往生のものは永久に入滅しない真仏を見る。
法滅利不利対、法減の時になっても念仏は滅びることなく衆生を利益し続けるが、諸善は滅びるから利益がない。しかし、これを法減不滅対と利不利対の二対に分ける説もある。
自力他力対、諸善は自力の法であり、念仏は他力の法である。
有願無願対、念仏は本願の行であり、諸善は本願の行ではない。
摂不摂対、念仏は摂取不捨の利益があり、諸善は摂取されない。
入定聚不入対、念仏は正定聚に入る法であるが、諸善は正定聚に入れない。
報化対、念仏は真実報土に往生する行であるが、諸善は化土にとどまる行である。

諸善と念仏とは、全く異なる行であることを、親鸞聖人はくどいほど仰っているのですが、このことにより「雑行を捨てよ」とは何を意味するのか再度考えてみてください。

念仏を専ら修せよ

です。

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2014年6月22日 (日)

「報土往生の因は善行、でなければ悪行」と愚かなことを平気でいう無知な高森顕徹会長

前回の復習です。

報土往生の因は、念仏という行と他力の信心です。

ということは、報土往生するための行は念仏しかないのですから、諸善を勧めるのは、全く無意味だということです。高森顕徹会長が、如何に無知で異安心であるか、ここだけでも判断できると言うものです。

ところで、無知で異安心の高森会長がよくいう詭弁の1つに、「雑行を捨てよ」の曲解があります。

『なぜ生きる2』には

「雑行を捨てよ」とは、この悪い「自力の心」を捨てよということである。
 七高僧方が捨てよと言われるのも、「諸善」や「万行」のことではなく「自力の心」のことなのだ。
(中略)
「雑行を捨てよ」を「諸善は捨て物、必要ない」と曲解するのは、十九の願の門戸も知らず、弥陀・釈迦の「方便の善」もご存じない印象は覆いようもない。

とありますが、前回のことを踏まえれば、この詭弁を見抜くことができると思います。

一応解説しておくと、「雑行を捨てよ」とは、報土往生の行ではないから「諸善は捨て物、必要ない」ということです。「自力の心」という信の前に、間違った行である「諸善を捨てよ」なのです。更には、化土往生しかできない19願を捨てよです。
もう1つ、「方便の善」は方便化土往生の因となる行だから、報土往生の因ではない「方便の善」を捨てよです。

実に簡単な話です。因果の道理を信じているなら、報土往生するには報土往生の種以外は蒔いても無意味だと判るでしょうに。

それを徹底的に誤魔化して、会員に善の勧めという名目で、お金を巻き上げる高森会長の魂胆がみえみえです。

それとも、報土往生の種である念仏を蒔くには化土往生の種である諸善を蒔かないといけないとでもいうのでしょうか。スイカを収穫するためにはスイカの種を蒔かないといけませんが、スイカの種を蒔くためには、まず大根の種を蒔かないといけない、と言っているようなものです。

それで苦し紛れに、

では悪をすれば救われると言うのか

とこれまた愚かな詭弁を弄する高森会長と親鸞会ですが、これこそ、無知の証明です。

報土往生の因となる行は、念仏です。

これが根本的に判っていないのです。
愚かな質問をしてくる高森会長、講師部員、幹部会員を、鼻で笑って言い換えしてあげましょう。

悪行が報土往生の因だと思っているのですか。

本当に恥ずかしい指導者と団体です。

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2014年6月14日 (土)

親鸞聖人の教えられた因果の道理と正反対の高森顕徹流因果の道理

高森顕徹会長は、因果の道理を知りません。正確に言えば、世間や外道の因果の道理は知っていますが、親鸞聖人が教えられた因果の道理には無知です。
親鸞聖人は、浄土の因果、往生の因果を教えられています。
前々回、前回と『三経往生文類』を紹介してきましたが、そこにも教えられています。

諸善という行と自力の信を因とする果は、化土往生である。(19願)

念仏という行と自力の信を因とする果は、化土往生である。(20願)

念仏という行と他力の信を因とする果は、報土往生である。(18願)

古文が理解できない人のために、別の観点から説明をすると、『教行信証』の行巻で報土往生の行である念仏を、信巻で報土往生の信である他力の信心について教えられ、化土巻で化土往生の行である諸善と自力の信心について教えられています。

一方、高森会長はどう教えているでしょうか。

諸善という行と自力の信を因とする果は、必堕無間である。

念仏という行と自力の信を因とする果は、必堕無間である。

諸善という行と他力の信を因とする果は、報土往生である。(三願転入)

これが親鸞聖人の教えと同じかどうかは、小学生でも判断できるでしょう。ちなみに、最近は必堕無間をぼかしてはいますが、それに近いことを未だに言っていますし、化土往生は否定しています。
念仏を軽視し、諸善という行を宿善として積み重ねて報土往生できるという、奇妙奇天烈な珍釈を公言しているのですから、実に恥ずかしいことです。「浄土真宗」とか「親鸞聖人の教え」と言わなければ、おもしろい宗教を考えた変な人が富山にいたものだ、で終わるでしょう。

では、親鸞聖人の御言葉を示しておきましょう。
『教行信証』信巻

しかれば、もしは行、もしは信、一事として阿弥陀如来の清浄願心の回向成就したまふところにあらざることあることなし。因なくして他の因のあるにはあらざるなりと、知るべし。

阿弥陀仏の清らかな願心より与えてくださった行と信以外には、報土往生の因は何一つない、ということです。数字の好きな高森会長に合わせていうなら、行も信も100%阿弥陀仏から賜るものです。衆生の側の行と信は0%です。1%も、0.001%もないのです。衆生の為した諸善を宿善として、とか寝恍けたことは仰っていません。高森会長は、信心のことしか頭にないようですが、行も100%阿弥陀仏から賜ったものです。

次に自力の信心についてですが、これは上記の親鸞聖人の御言葉に反発する信心です。
親鸞聖人の御言葉を示せば、『教行信証』化土巻

定散の専心とは、罪福を信ずる心をもつて本願力を願求す、これを自力の専心と名づくるなり。

とありますように、「罪福を信ずる心」が自力の信心になります。「善いことをしたら善い運命が返ってくる、悪いことをしたら悪い運命が返ってくる、自分のやった行為は自分の運命として返ってくる」を信じる心が自力の信心です。何のことはない、高森会長の教えている因果の道理そのままが自力の信心なのです。
『正像末和讃』誡疑讃にも

罪福信ずる行者は
 仏智の不思議をうたがひて
 疑城胎宮にとどまれば
 三宝にはなれたてまつる

仏智不思議をうたがひて
 罪福信ずる有情は
 宮殿にかならずうまるれば
 胎生のものとときたまふ

とありますが、高森会長の教える因果の道理を信じることは仏智不思議を疑う心、疑情そのものです。

要するに、高森会長は親鸞聖人の教えられる因果の道理を知らないだけではなく、親鸞聖人の教えられる因果の道理と正反対のことを教えているだけなのです。

高森会長の話を聞いて信心決定できないのですか、と会員からよく尋ねられますが、答えるまでもないことです。ただし、高森会長の話を誤解して正反対に理解する聞き方をすれば、信心決定はできるでしょうが。

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2014年6月10日 (火)

十劫安心の体験談しか自慢できない親鸞会

最近の顕正新聞、顕真を見ると、会員の体験談しか載っていない、といっても過言ではありません。もちろん、救われた体験ではなく、求道体験です。体験談しか自慢するものがない、と華光会を批判しながら、親鸞会が求道の体験談しか自慢できないのは、なんとも愚かな話です。

では前回に続いて、『三経往生文類』の20願をみておきます。

弥陀経往生といふは、植諸徳本の誓願によりて不果遂者の真門にいり、善本徳本の名号を選びて万善諸行の少善をさしおく。しかりといへども定散自力の行人は、不可思議の仏智を疑惑して信受せず。如来の尊号をおのれが善根として、みづから浄土に回向して果遂のちかひをたのむ。不可思議の名号を称念しながら、不可称不可説不可思議の大悲の誓願を疑ふ。その罪ふかくおもくして、七宝の牢獄にいましめられて、いのち五百歳のあひだ自在なることあたはず、三宝をみたてまつらず、つかへたてまつることなしと、如来は説きたまへり。しかれども如来の尊号を称念するゆゑに、胎宮にとどまる。徳号によるがゆゑに難思往生と申すなり。不可思議の誓願、疑惑する罪によりて難思議往生とは申さずと知るべきなり。

(現代語訳)

「弥陀経往生」 というのは、 植諸徳本の願 (第二十願) によって 「不果遂者」 と誓われた真門に入り、 あらゆる功徳をそなえた名号を選んで善根の少ないさまざまな行を捨てるのである。 ところが、 自力で修める行にとらわれている人は、 阿弥陀仏の不可思議の智慧を疑って信じずに、 如来の名号を自分の善根とし、 その功徳を自ら回向して、 必ず浄土往生を果たしとげさせると誓われた願に頼るのである。 本願に誓われた不可思議の名号を称えていながら、 たたえ尽すことも、 説き尽すことも、 思いはかることもできない大いなる慈悲の心からおこされたその本願を疑っている。 それは深く重い罪であり、 浄土に生れても七つの宝でできた牢獄に閉じこめられて、 五百年の間、 自由に振舞うことができず、 仏にも教えにも菩薩や声聞たちにも会うことができず、 お仕えすることもできないと如来は説いておられる。 それでも、 如来の名号を称えるから、 胎宮といわれる方便の浄土にはとどまるのである。 あらゆる功徳をそなえた名号によるから 「難思往生」 というのである。 不可思議の本願を疑う罪によって 「難思議往生」 とはいわないと知らなければならない。

ここで判ることは、「善本徳本の名号を選びて万善諸行の少善をさしおく」とあるように、諸善を捨てて念仏1つを選ぶのが20願です。したがって、19願を捨てなければ20願に入れないのです。言葉を変えると雑行と雑修(助業)を捨てなければ念仏1つにはなりません。
信前に雑行を捨てることができるのか、という愚かな質問の答えはここにあります。もちろん、自分自身の意思で捨てるのです。阿弥陀仏によらなければ19願、雑行、助業を捨てることができないなどというのも、迷信、邪義、異安心です。

三願転入の文を読めば明らかです。
論主の解義を仰ぎ、宗師の勧化によりて」、19願を離れたのですから、阿弥陀仏によりてではありません。もし、阿弥陀仏のお力によって19願を捨てることができたと言うのであれば、外道を捨てるのも、聖道門を捨てるのも阿弥陀仏のお力によると言うべきです。そうなると親鸞会は十劫安心と同じです。十劫の昔から、助かることになっているから時間が解決してくれる、と言う話です。
敢えていうならば、阿弥陀仏のお育てによって自らの意思で外道・聖道門・19願を捨てることができた、でしょう。
いずれにしましても、自分の意思で外道を捨て、聖道門を捨て、19願を捨て、雑行を捨て、助業を捨てるのです。

要するに、19願はいつでも捨てることができますし、雑行もいつでも捨てることができますので、屁理屈を捏ねずに、今すぐ19願、雑行を捨ててください。
自力を捨てて他力に帰すにはどうすれば、という悩みは19願、雑行を捨てて念仏1つになってからの話です。自力一杯求めていれば、いつか自力が廃る、などという十劫安心に陥って、その体験談を自慢しているのが親鸞会です。
親鸞会は自力他力以前の問題なのです。

高森顕徹会長の教えていることが、「浄土真宗」でもなければ「親鸞聖人の教え」でもない、と外部から非難されているのは、今回のエントリーだけでも当然のことと御理解いただけるのではないでしょうか。

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2014年6月 6日 (金)

高森流三願転入論を完全に否定された親鸞聖人

『なぜ生きる2』が売れていないことを訝しんでいる会員が、少なくありません。
親鸞会の中では大絶賛しているのに、会員以外には最低の評価をされていることも、薄々気が付いています。
当然と言えば当然な結果ですが、こうなることを予想できずに出版した高森顕徹会長の愚かさにも目を向けるべきでしょう。
嘘を隠すために嘘をつき、その嘘を隠すために更に嘘をつく。これを繰り返して、嘘がばれないと思っている方がおかしいです。

さて、三願転入について語りたいのなら、『三経往生文類』に書かれた内容を読むべきですが、親鸞会では『三経往生文類』自体をほとんど知りません。書名からも判りますが、『大無量寿経』・『観無量寿経』・『阿弥陀経』についての往生、言い換えると18願・19願・20願について、親鸞聖人がそのまままとめられた御著書です。

結論を先に言えば、高森流三願転入論を完全に否定されています。

観経往生といふは、修諸功徳の願により、至心発願のちかひにいりて、万善諸行の自善を回向して、浄土を欣慕せしむるなり。しかれば『無量寿仏観経』には、定善・散善、三福・九品の諸善、あるいは自力の称名念仏を説きて、九品往生をすすめたまへり。これは他力のなかに自力を宗致としたまへり。このゆゑに観経往生と申すは、これみな方便化土の往生なり。 これを双樹林下往生と申すなり。

(現代語訳)

「観経往生」 というのは、 修諸功徳の願 (第十九願) によって 「至心発願」 と誓われた要門に入り、 さまざまな善や多くの行によって自ら積んだ功徳を回向し、 浄土往生を願うのである。 そこで 『観無量寿経』 には、 定善・散善、 三福の行や九品のさまざまな善、 あるいは自力の念仏を説いて、 九品それぞれに異なる往生をお勧めになっている。 これは、 他力の中で自力をかなめとして説かれた教えである。 このようなわけで 「観経往生」 というのは、 どれもみな方便の浄土への往生である。 これを 「双樹林下往生」 というのである。

まず、19願の役割を「浄土を欣慕せしむるなり」とありますように、浄土を願っていない人に浄土を願わせるためのものであることを仰っています。
では、浄土を願っていない人とは誰のことかといえば、浄土門を信じていない人、つまりは聖道門を信じている人のことです。このことについては、4年前mixiでの三願転入法論で最初から議論になったところで、高森会長がどんな詭弁を弄しても覆すことのできなかった内容です。高森会長が逃亡し、トピックまで削除するという、名実ともに大惨敗で終わった法論でした。

次に、『観無量寿経』・19願で勧められていることは何かについて、「定善・散善、三福・九品の諸善、あるいは自力の称名念仏を説きて、九品往生をすすめたまへり」とあります。ここで仰っていることは、機に応じた行による往生が勧められている、ということですが、少し説明すると

上品上生・上品中生・上品下生には行福による往生
中品上生・中品中生には戒福による往生
中品下生には世福による往生
下品上生・下品中生・下品下生には自力念仏による往生

ということです。
ところで、親鸞会では、全人類は下品下生と断言しているのですから、勧めるのは自力念仏でなければならない筈です。しかし、実際に勧めているのは財施の行福です。明らかに矛盾しています。

それと、『三経往生文類』で親鸞聖人が仰っているのは、九品往生が『観無量寿経』・19願で勧められているのであって、20願・18願に入るために勧められているとは仰っていないことが重要です。どういうことかと言えば、19願では19願の往生を目指して19願の往生を遂げる、という説明しか親鸞聖人はなされていないのです。もっと端的に言えば、19願を18願に入るための道程として仰っていないということです。19願と18願は完全に別物で関連付けて仰っていないのですから、三願転入が万人共通の道程という理屈は否定される訳です。

更には、この『観無量寿経』・19願の往生については、「これみな方便化土の往生なり」と仰って、報土往生はできないとされています。よって、『観無量寿経』・19願の往生を目指すな、が親鸞聖人の結論です。

今回のエントリーをまとめると

『三経往生文類』において19願とは、

1.浄土を願っていない聖道門の人に浄土を願わせるためのもの
2.下品下生を含む悪人には、自力念仏での往生が勧められている
3.18願に入るための万人共通の道程ではない
4.化土往生しかできないから19願を求めるな

になります。
高森邪義が完全に否定されています。

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