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2014年5月

2014年5月30日 (金)

三願転入の文より重要な体験文

三願転入の文は親鸞聖人の体験文であり、親鸞聖人が万人共通の道として教えられた

と高森顕徹会長は説明しています。ここに疑問を持たないと、思考力が心配です。
なぜなら、他の体験文は万人共通ではないが、三願転入の文だけは万人共通だとする意味が判りません。親鸞聖人が、三願転入の文だけは万人共通の体験だ、と仰っているなら別ですが、そのようなお言葉は全くありません。

親鸞聖人は七高僧の体験についても仰っているところがあります。
龍樹菩薩については『正信偈』で、

大乗無上の法を宣説し、歓喜地を証して安楽に生ぜん

とあるのは、会員でも知っているでしょう。
また『教行信証』真仏土巻に『讃阿弥陀仏偈』を引かれて

尊語を伏承して歓喜地にして、阿弥陀に帰して安楽に生ぜしむ。

(現代語訳)

釈尊のお言葉を承り、歓喜地の位にあって、阿弥陀仏に帰依して浄土に往生された。

と仰っています。
龍樹菩薩は、聖道門で歓喜地を証されて後に阿弥陀仏に帰依された体験をなされている、と親鸞聖人が仰っています。『高僧和讃』にも同様のことを仰っていますから、親鸞聖人は龍樹菩薩の体験を殊更強調されています。一箇所しか書かれていない三願転入の文よりも重要だと親鸞聖人は見做されているのは明らかです。

曇鸞大師についてはやはり『正信偈』

三蔵流支、浄教を授けしかば、仙経を焚焼して楽邦に帰したまひき。

とありますし、『高僧和讃』にも、

本師曇鸞和尚は
 菩提流支のをしへにて
 仙経ながくやきすてて
 浄土にふかく帰せしめき

と仰っています。
曇鸞大師は道教から浄土教に入られた、と親鸞聖人が曇鸞大師の体験を繰り返し仰っていますので、これも一箇所にしか書かれていない三願転入の文よりも重要な位置にあるのは、言うまでもありません。
龍樹菩薩と曇鸞大師の体験については、親鸞聖人が一字一涙の思いで書かれたと高森会長が説明している『正信偈』にあるくらいですから、当然な結論です。

親鸞聖人御自身の一箇所の体験文の方が、龍樹菩薩や曇鸞大師の複数箇所の体験文よりも格上だ

と訳の判らない屁理屈を言ってきそうですが、それならば、その最も重要な親鸞聖人の三願転入の体験文を覚如上人、蓮如上人が紹介されていないのはなぜでしょうか。

答えは、重要ではないし、知る必要がないからです。

ちょっと思考を働かせれば判ることですが、高森会長が絶対正しい、の思考停止状態では騙されるのです。

高森会長や講師部員と法論をして勝つことは、容易いことです。
ちょっと思考を働かせて、相手の矛盾点を突くだけで終わりです。

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2014年5月24日 (土)

高森顕徹会長の知らない三願転入のイロハ

高森顕徹会長のインチキ解釈に騙されて、未だに三願転入がどうのこうのと言っているのが会員です。
少し考えれば判ると思うのですが、三願転入のことを仰ったのは、親鸞聖人だけです。しかも親鸞聖人は『教行信証』でしか仰っていません。『教行信証』は、一般の同行向けに書かれた書ではありません。親鸞聖人のお手紙には、読むように勧められた書が挙げられています。一番多く書かれているのが、善鸞義絶状です。

おほかたは、『唯信抄』・『自力他力の文』・『後世物語の聞書』・『一念多念の証文』・『唯信鈔の文意』・『一念多念の文意』、これらを御覧じながら、慈信が法文によりて、おほくの念仏者達の、弥陀の本願をすてまゐらせあうて候ふらんこと、申すばかりなく候へば、かやうの御文ども、これよりのちには仰せらるべからず候ふ。

これ以外のお手紙のほとんどは、『唯信鈔』・『後世物語』・『自力他力の文』だけです。どこにも『教行信証』を読むように勧められたお手紙はありませんし、第一、『教行信証』を読んで理解できる人が弟子でも何人あったかと考えると、極めて限られた人だけが、三願転入の文を読んだことがある、という程度でしょう。

蓮如上人も、多くのお手紙を出されていますが、一度として三願転入について書かれていませんし、19願についての言及さえもありません。それどころか、往生のために善を勧められた箇所も全くありません。念の為いっておきますと、聖道門では善が勧められている、と書かれたものを、「これこそ蓮如上人が善を勧められた御文」、とお目出度く大騒ぎしているところはありますが。

つまり、親鸞聖人を含めて、誰一人として、三願転入を同行に対して教えられていないということです。教えられていないのですから、知る必要はなく、ましてや実践する必要がある筈もありません。

ではなぜ、親鸞聖人は三願転入を『教行信証』でのみ仰ったのかと言えば、法然上人の教えを徹底的に非難攻撃した聖道門の学僧に対する反論書が『教行信証』だからです。

法然上人が聖道門を無視されたことに対して、聖道門の学僧が非難したのではありません。法然上人が19願を無視されたことに対して、聖道門の学僧は非難してきたのです。

判りやすく言えば、

法然上人-18願が本願
聖道門-19願も本願ではないか、それに18願は悪人を仏教に導き、最終的に聖道門に入れるための方便の願であろう

そこで親鸞聖人が仰ったのが親鸞会でも有名な、真仏土巻

真仮を知らざるによりて、如来広大の恩徳を迷失す。

です。19願は真ではなく仮であり、18願は仮ではなく真である、ということです。

聖道門の学僧の主張である「18願は悪人を19願そして聖道門に導き入れる方便」を親鸞聖人は反対にされて、「19願は善人(聖道門の人)を浄土門そして18願に導き入れる方便」と仰ったのです。

ここで対象が重要です。19願は誰の為の方便かですが、親鸞聖人の御著書のどこを読んでも、善人(聖道門の人)としか仰ってないのです。

今回は難しい御文を出していませんが、会員でもちょっと調べればこれくらいのことは理解できるでしょう。

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2014年5月 8日 (木)

高森会長の戯言を完全否定したなら「易信」

親鸞聖人は『教行信証』序

ああ、弘誓の強縁、多生にも値ひがたく、真実の浄信、億劫にも獲がたし。たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ。

と仰っています。
4月号の顕真では、この御言葉を以って、

真実の信心は、五十年や百年で獲られる信心ではなかったと、「多生にも値いがたく」「億劫にも獲がたし」と言われています。

と説明していますが、浅はかな詭弁です。少しでも思考をはたらかせることができれば、この詭弁を見抜くことができると思います。
念のために説明しておきますと、これは親鸞聖人が、多生の間、聖道門に迷い続けてきて、18願を信じようとしなかったことを振り返って仰ったものであり、18願での救いを求めてから長い時間がかかることを仰ったものではありません。

その証拠に、この前の1文が

穢を捨て浄を欣ひ、行に迷ひ信に惑ひ、心昏く識寡く、悪重く障多きもの、ことに如来の発遣を仰ぎ、かならず最勝の直道に帰して、もつぱらこの行に奉へ、ただこの信を崇めよ。

(現代語訳)

煩悩に汚けがれた世界を捨てて清らかなさとりの世界を願いながら、行に迷い信に惑い、心が暗く知るところが少なく、罪が重くさわりが多いものは、 とりわけ釈尊のお勧めを仰ぎ、必ずこのもっともすぐれたまことの道に帰して、ひとえにこの行につかえ、ただこの信を尊ぶがよい。

です。
親鸞会でも知っている根拠を挙げるなら『正像末和讃』

三恒河沙の諸仏の
 出世のみもとにありしとき
 大菩提心おこせども
 自力かなはで流転せり

でもそれは判ります。

まあ、親鸞会を聖道門に含めるなら、親鸞会に属していれば「真実の信心は、五十年や百年で獲られる信心ではなかった」となるのは筋が通ります。
要するに、親鸞会を離れて初めて

ああ、弘誓の強縁、多生にも値ひがたく、真実の浄信、億劫にも獲がたし。

と知らされるのです。

さて、前回紹介した元照律師の『阿弥陀経義疏』に続いて信巻で親鸞聖人は、

『聞持記』にいはく、「〈愚智を簡ばず〉といふは、[性に利鈍あり。]〈豪賤を択ばず〉といふは、[報に強弱あり。]〈久近を論ぜず〉といふは、[功に浅深あり。]〈善悪を選ばず〉といふは、[行に好醜あり。]〈決誓猛信を取れば臨終悪相なれども〉といふは、[すなはち『観経』下品中生に地獄の衆火、一時にともに至ると等いへり。]〈具縛の凡愚〉といふは、[二惑まつたくあるがゆゑに。]〈屠沽の下類、刹那に超越する成仏の法なり。一切世間甚難信といふべきなり〉といふは、[屠はいはく、殺を宰る。沽はすなはち醞売。かくのごとき悪人、ただ十念によりてすなはち超往を得、あに難信にあらずや。]

(現代語訳)

『聞持記』にいっている。「『阿弥陀経義疏』の文に、<愚者と智者のへだてなく>とあるのは、人々の性質に賢愚の違いがあることをいう。<富めるものと貧しいもののへだてなく>とあるのは、人々の生活に貧富の違いがあることをいう。<修行期間の長短を論じることなく>とあるのは、修行の功に浅深の違いがあることをいう。<行いの善し悪しを論じることなく>とあるのは、行いに善悪の違いがあることをいう。<決定の信心を得れば、臨終に悪相をあらわしても>とあるのは、『観無量寿教』の下品下生の文に<地獄の猛火が一斉に押し寄せてくる>などと説かれているありさまをいう。<煩悩に縛られた愚かな凡夫>とあるのは、見惑と思惑の煩悩をすべて持っているものをいう。<生きものを殺し、酒を売って生活し、賤しいとされるものであっても、たちどころにすべてを飛び超えて仏になる教えである。まことに世間の常識を超えた信じがたい尊い教えというべきである>とあるのは、生きものを殺すもの、酒を売るものなど、このような悪人でも、たとえば十声念仏して、たちまち飛び超えて浄土に往生することができるのであって、まことに信じがたいすぐれた教えではないか、という意味である。

と紹介されています。最後の一文「かくのごとき悪人、ただ十念によりてすなはち超往を得、あに難信にあらずや。」に全て集約されています。
過去世にも現在世でも善のしたことのない、悪しかしてこなかった悪人でも、「十念」だけで浄土往生できるのが18願ですから、「難信」なのです。

前回同様ですが、親鸞会の教えていることとは正反対で、何の条件もなく、過去世の善根の有無も、19願を実践するか否かに関わらず、救われるのが18願ですから、「難信」なのです。もっと端的に言えば、高森顕徹会長の戯言を信じているから「難信」なのであり、高森会長の戯言を完全否定したなら「易信」です。

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2014年5月 3日 (土)

高森邪義を完全否定する救いであるから「甚難希有」

善人なほもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや。

この意味については、何度も何度も述べてきた通りです。
定善・散善を実践している善人でさえも往生できるのだから、それらを実践できない悪人は尚更往生できる、ということです。この意味が理解できれば、これは親鸞会の会員にも当てはまると判ると思いますが、如何でしょうか。

熱心に求道している会員(熱心に求道していた元会員)なおもって往生をとぐ、いはんや求道についていけない会員(ついていけなかった元会員)をや。

親鸞会で熱心に求道している会員、あるいは熱心に求道していた元会員は、求道できない会員、できなかった元会員よりも、明らかに”善人”です。親鸞会の求道が善かどうかは別として、善であるなら、そこに”善人”と”悪人”の差ができます。

そうでありますから、結果的に、親鸞会にいた時に熱心でなかった元会員の方が、熱心であった元会員よりも往生を遂げやすい、信心決定しやすい傾向にあります。

なぜなら、求道だとか、善だとか、自力にいつまでもいつまでも拘るのは、ほぼ間違いなく前者です。

雑行・雑修・自力を捨てよ

としか教えられていないのに、捨てるためには命懸けでしなければならない、とか捻くれた理屈をいうのも前者です。捨てよと教えられているから、捨てました、と素直に従うのが後者です。

私が会員、元会員の皆さんに言いたいことは、親鸞会で教えられてきたこと、高森顕徹会長が言っていたことはすべて否定してから、親鸞聖人の教えを聞き直してください、ということです。高森会長の言ったことでも、半分くらいは合っている、部分的には正しい、とか思うから、いつまで経っても、邪義が抜けずに、自力を肯定し続けるのです。

親鸞聖人は元照律師の『阿弥陀経義疏』を引いて『教行信証』信巻で

元照律師のいはく(阿弥陀経義疏)、「他のなすことあたはざるがゆゑに甚難なり。世挙つていまだ見たてまつらざるがゆゑに希有なり」と。
またいはく(同)、「念仏法門は、愚智豪賤を簡ばず、久近善悪を論ぜず、ただ決誓猛信を取れば臨終悪相なれども、十念に往生す。これすなはち具縛の凡愚、屠沽の下類、刹那に超越する成仏の法なり。世間甚難信といふべきなり」と。

(現代語訳)

元照律師が『阿弥陀経義疏』にいっている。
「『阿弥陀経』には、釈尊がこの五濁の世に出られて仏となり、阿弥陀仏の教えを説かれたことを<甚難希有>と示されているが、他の仏がたのできないことであるから甚難であり、この世で今までになかったことであるから希有である」
また次のようにいっている。
「念仏の教えは、愚者と智者、富めるものと貧しいもののへだてなく、修行期間の長短や行の善し悪しを論じることなく、ただ決定の信心さえ得れば、臨終に悪相をあらわしても、たとえば十声念仏して往生をとげる。これこそは、煩悩に縛られた愚かな凡夫でも、また、生きものを殺し、酒を売って生活し、賤しいとされるものであっても、たちどころにすべてを跳び超えて仏になる教えである。まことに世間の常識を超えた信じがたい尊い教えというべきである」

と教えられています。「愚智豪賤を簡ばず」「久近善悪を論ぜず」ということは、熱心な会員、熱心だった元会員が見下している、不真面目な会員、不真面目だった会員も隔てなく救われるのですから、親鸞会での熱心な求道など、往生とは無関係だと早く気が付くべきです。

「いや、そう言われてもなかなかそう思えない」となるから、「甚難希有」と『阿弥陀経』に説かれているのです。命懸けの求道がなかなかできないから「甚難希有」ではなく、求道できない人でも往生できると高森邪義を完全否定する救いであるから「甚難希有」なのです。

再度言います。
高森会長の言っていることは全て間違っていると思ってください。親鸞聖人の教えをそのまま聞いていく中で、極めて希に高森会長の言っていることと合致する部分があったと発見する、これくらいの思いで丁度よいです。

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