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2014年4月 2日 (水)

信心同異の諍論

誤解されている方があるようですので、一応述べておきます。
このブログは、仏教以外の宗教を信じている方のためでもなく、他宗を信じている方のためでもなく、真宗を信じている方でしかも親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人の仰せを信じている親鸞会会員か退会者向けに書いています。親鸞会では親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人が正しいというのが大前提ですから、この三方の信憑性を疑ったら会員とは話が通じなくなるので、その大前提は崩しません。
その上で、親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人の仰せと高森顕徹会長の言っていることが全く違うことを明らかにすることがこのブログの趣旨です。

したがいまして、真宗を信じている方であってでも、覚如上人、蓮如上人の仰せを否定的に見られる方にとっては、このブログで書いた内容に異論が出てくるのも当然でしょうが、その点は御了承ください。

さて、三大諍論の2番目として、信心同異の諍論を親鸞会では教えます。その内容は、覚如上人の書かれた『御伝鈔』に出てきますが、『歎異抄』にもあります。
珍しいことに、高森会長の説明でも表面上は概ね問題ありません。しかし、その意図を高森会長は理解できていないようです。
結論である法然上人の御言葉を『御伝鈔』では、

「信心のかはると申すは、自力の信にとりてのことなり。すなはち智慧各別なるゆゑに信また各別なり。他力の信心は、善悪の凡夫ともに仏のかたよりたまはる信心なれば、源空が信心も善信房の信心も、さらにかはるべからず、ただひとつなり。わがかしこくて信ずるにあらず、信心のかはりあうておはしまさんひとびとは、わがまゐらん浄土へはよもまゐりたまはじ。よくよくこころえらるべきことなり」

とありますが、『歎異抄』では

「源空が信心も、如来よりたまはりたる信心なり、善信房の信心も、如来よりたまはらせたまひたる信心なり。
されば、ただ一つなり。別の信心にておはしまさんひとは、源空がまゐらんずる浄土へは、よもまゐらせたまひ候はじ」

と簡潔に書かれています。共に、信心は阿弥陀仏から賜るものであるから、信心決定した人は皆同じ信心になるということです。
これを『教行信証』信巻では、

「信心」といふは、すなはち本願力回向の信心なり。

と仰っています。高森会長から、「本願力回向」という言葉を聞いたことはありませんが、多分知らないのでしょう。
ただし、ここで終わっては半分です。更にもう一歩踏み込む必要があります。
信巻には

しかれば、もしは行、もしは信、一事として阿弥陀如来の清浄願心の回向成就したまふところにあらざることあることなし。因なくして他の因のあるにはあらざるなりと、知るべし。

とあります。
信心だけでなく行も、阿弥陀仏から回向されたものであるということです。阿弥陀仏の回向成就なされた信心と行以外には、往生の因は全くないということです。

つまり、自力の信心も行も、往生とは無関係だと言うことです。
このことを覚如上人は『口伝鈔』で親鸞聖人の御言葉として

機に生れつきたる善悪のふたつ、報土往生の得ともならず失ともならざる条勿論なり。

と紹介され、その後覚如上人の御言葉として

ただ善悪のふたつをば過去の因にまかせ、往生の大益をば如来の他力にまかせて、かつて機のよきあしきに目をかけて往生の得否を定むべからずとなり。

と仰っています。
過去世・現在世においてなしてきた善悪は往生とは無関係だということで、宿善論も三願転入論もナンセンスだということになります。

信心同異の諍論は、もちろん信心についての話なのですが、信心と行とは切っても切り離せない関係であり、信前の自力の行が必要だと言っているようでは、この諍論が半分しか理解できていないと言っても過言ではありません。

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三大諍論」カテゴリの記事

コメント

>親鸞会では親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人が正しいというのが大前提ですから、この三方の信憑性を疑ったら会員とは話が通じなくなるので、その大前提は崩しません。

一貫して会員の人たちを思い遣る飛雲さんの姿勢に、こころ打たれます。
この機会に、改めて敬意を表しておきます。
飛雲さんこれからも頑張ってください。

南無阿弥陀仏

投稿: 一同行 | 2014年4月 3日 (木) 04時38分

一同行 様

有難うございます。御批判もあろうかと思いますが、私なりに頑張ります。

投稿: 飛雲 | 2014年4月 3日 (木) 05時44分

親鸞会で信心同異の諍論というと、教義にかかわる部分というよりアニメの描写のひどさに唖然としますけどね。あれはメンバーの年齢構成がメチャメチャで、遅くともキャラクターシートが出た段階で突っ込みが入らないとおかしいレベルです。特に勢観房は法然一門の阿難と言われるくらい「若さ」で知られる人ですが、まるで一番歳上みたいですからね。こんなちょっと調べればできる程度の擦り合わせもしていないのだから、制作サイドも親鸞会サイドも揃って非常識なくらいの怠慢ぶりです。高森会長が逐一チェックしたというアニメにしてこれですから、余程宗祖の生涯に興味がないのでしょうね彼らは。

投稿: dandelion | 2014年4月 9日 (水) 19時12分

最近このブログを見始めたので、今までのお話を繰り返すことになってしまうかもしれませんが、質問させて頂きます。
ご了承ください。
往生の因は行も信も他力廻向ということは、親鸞会でもお聞きしております。(少なくとも私はそう理解しています)

そこまでの道程について、飛雲さんと、親鸞会とで異なると思います。
飛雲さんは、他力になるまで自力で求めよというのは間違いだと言われますが、それでは、他力になるまではどうすればよろしいのでしょうか?
自分の行いが信心決定と全く無関係で、何もしなくて良いならば、仏教を聞いたことがない人が、ふと助かることもあるのでしょうか。。。

投稿: 819 | 2014年4月10日 (木) 07時41分

819 様

今時間が無いので、簡潔に言います。
往生の因としての行に過去世現在世の善根を含めるのが親鸞会です。
それが、「宿せの善根は獲信の因縁になる」という言葉に集約されています。
因縁という言葉で誤魔化していますが、宿世に善根を積んでこなかった宿善の薄い者は、宿善が厚くならないと獲信できないと会長は断言しています。これが完全に間違いです。

同様に、他力になる迄自力で求めよは間違いです。
他力なるまで他力を聞く、言葉をかえると自力を捨てて他力に帰せ、です。
他力になる前は自力しかないから、自力で求めよと言うことではないか、と思われるかもしれませんが、その拘りを捨てるのです。

>仏教を聞いたことがない人が、ふと助かることもあるのでしょうか

ここが会長のトリックです。
もう一度書きます。
他力になるまで他力を聞くのです。他力とは、往生の因は、行も信もすべて阿弥陀仏から賜るものであり、我々がなす行と往生とは無関係だということです。

投稿: 飛雲 | 2014年4月10日 (木) 08時17分

聞く、ということをなにか自力の行のように考えているんですかね、あの団体は。

投稿: | 2014年4月10日 (木) 11時04分

続きです。

「他力になるまで自力で求めよ」が自力で、

しかれば、もしは行、もしは信、一事として阿弥陀如来の清浄願心の回向成就したまふところにあらざることあることなし。因なくして他の因のあるにはあらざるなりと、知るべし。

に反しているのです。
「他力になるまで他力を聞け」なら判りますが、「他力になるまで自力で求めよ」は結局のところ、「阿弥陀如来の清浄願心の回向成就したまふところ」以外の因を、自分で用意しなければならないと思っている考えです。この考えが自力ですから、その自力の間違った考えを捨てよ、と親鸞聖人が教えられているのです。

では「他力を聞く」とはなんだ、ということですが、他力の話も聞かない人が救われることはありません。他力の話を聞いて、自分の間違った考えをすべて捨て去ってそのまま受けとめたことが、自力を捨てて他力に帰すということです。

それは何か特別なことが判ることではありません。何も判らないまま、そのまま受け取るということです。それを覚如上人は『執持鈔』で

往生ほどの一大事、凡夫のはからふべきことにあらず、ひとすぢに如来にまかせたてまつるべし。すべて凡夫にかぎらず、補処の弥勒菩薩をはじめとして仏智の不思議をはからふべきにあらず、まして凡夫の浅智をや。かへすがへす如来の御ちかひにまかせたてまつるべきなり。これを他力に帰したる信心発得の行者といふなり。
さればわれとして浄土へまゐるべしとも、また地獄へゆくべしとも、定むべからず。

と教えられています。往生とは何かが判るのでもなく、死んだ後の世界が浄土であるとか地獄であることが判るのでもありません。阿弥陀仏が浄土に生まれさせて下さると誓われているので、そのまま受け取るのであって、浄土がどんな世界か判るのとは違います。もちろん、地獄の世界が判るのでもありません。

高森会長の言っていることは、親鸞聖人の仰せにも覚如上人の仰せにも蓮如上人の仰せにも反しています。

また何かあれば、質問してください。

投稿: 飛雲 | 2014年4月10日 (木) 18時11分

お忙しい中、詳しいお返事、有難うございました。

分かったような、分からないような感じがします。

まず、私は親鸞会で御説法をお聞きしてきましたが、宿善が厚くならないと獲信できないとは理解していません。
宿善が薄い人は、獲信できない、宿善が厚くならないといけないと思う心が自力だとお聞きしてきました。

また、他力になるまで他力を聞けということも聞いてきました。
しかし、それがどういうことか分からない人が、他力になるまでは自力で求めるのだ、と勝手に理解しているのだと思います。
私も、「他力を聞く」ということが分からないので、分かるまでは、教えられていることとは違うのだけども自力で求めるしかないな、と思っています。それもすべて他力だったと知らされたことを「遠く宿縁を慶べ」と親鸞聖人が言われているのだとお聞きしています。

また、他力を聞こうとしても聞けない状態を「聴」、他力が聞こえたことを「聞」と言われ、
親鸞会では、聴聞が勧められていますから、何が間違いと言われているのかがよく分かりません。

飛雲さんと親鸞会の教えの解釈の違いについて、もう少し教えて頂けないでしょうか?

それと、親鸞会では「他力の話」は聞けないということでしょうか?
どこに行けば「他力の話」が聞けるのでしょうか?

投稿: 819 | 2014年4月11日 (金) 13時49分

他力の信心(真実信心)とは、“仏願の生起本末”を疑いなく聞いているということです。
親鸞会は、“仏願の生起本末”の“本末”を正しく説いていないから獲信者が皆無ですね。
あんな所でどれだけ聞いても八方塞がりにされるだけなので、時間の無駄ですよ。
“仏願の生起本末”を正しく説いている所は、私の知る限りでは“本願寺”と“華光会”です。
それと宮田先生(安心問答の山も山さん)は、信心も教学も両方ある方なので、一度連絡を取ってみられたらいいと思います。

投稿: ひな | 2014年4月11日 (金) 17時56分

819様

>まず、私は親鸞会で御説法をお聞きしてきましたが、宿善が厚くならないと獲信できないとは理解していません。
>宿善が薄い人は、獲信できない、宿善が厚くならないといけないと思う心が自力だとお聞きしてきました。

最近は、言っていることが変わったのでしょうか、それとも高森会長の教えを”聞き間違えて”いるのかもしれません。

『本願寺なぜ答えぬ』では、

 宿善薄く生まれた者は、どうもがいても、宿善厚くなれないのなら、宿善開発(信心獲得)はありえない。

と断言し、つい最近までそのように教えていると伝え聞いています。
宿善(宿世の善根)が薄いままで、あるいは宿善(宿世の善根)が無い者がそのまま救われるのが、18願です。
よって、高森会長の宿善論は完全な間違いです。宿善(宿世の善根)の有無・厚薄とは無関係の救いと言うことです。

そのように理解されているのなら、問題ありません。

>私も、「他力を聞く」ということが分からないので、分かるまでは、教えられていることとは違うのだけども自力で求めるしかないな、と思っています。それもすべて他力だったと知らされたことを「遠く宿縁を慶べ」と親鸞聖人が言われているのだとお聞きしています。

ここは、少し違います。
自力で求めるしかないのではなく、自力を捨てることを求めると言うべきです。
あなたの言う「自力で求める」ことがすべて他力だったと知らされるのではなく、「自力で求める」ことがすべて他力に反していたと知らされるのです。それが機の深信です。
「遠く宿縁を慶べ」とは、阿弥陀仏のお育てを慶びなさい、ということで、自力に拘ってきた人にとっては、このような方便があってここまで導いて下されたのだ、と喜ぶことであり、自力で求めることを正当化された御言葉ではありません。
三願転入も同じで、親鸞聖人は19願のお力によって、聖道門から浄土門に導かれて18願に転入することができた、と慶ばれているのであり、19願を通りなさいと勧められたのではありません。

もっと判りやすく言えば、親鸞聖人は善に迷っている人に対して聖道門や19願の方便があるのであり、善に拘らない、他力の救いを求めている人には聖道門も19願も関係ないと教えられているのです。

>また、他力を聞こうとしても聞けない状態を「聴」、他力が聞こえたことを「聞」と言われ、
親鸞会では、聴聞が勧められていますから、何が間違いと言われているのかがよく分かりません。

これは高森会長の勝手な解釈で、親鸞聖人も蓮如上人も仰っていません。
親鸞聖人が仰っているのは、他力の話(自力を捨てよという教え)をそのまま受け入れよ、それを受け入れたことを「聞」といい、信心と教えられているのです。それ以外にはありません。

もう一度言います、「自力で求めよ」、ではなく、「自力を捨てよ」が他力を求めるということです。「自力で求めよ」などという教えはどこにもありません。その考えが自力ですから、その考えを捨てよ、です。

>それと、親鸞会では「他力の話」は聞けないということでしょうか?

聞けません。なぜなら、他力の意味を知らないからです。
他力の意味を知らない高森会長や講師部員に、他力の話ができる筈もありません。

>どこに行けば「他力の話」が聞けるのでしょうか?

ひなさんの仰る通りですが、本願寺や華光会で話をしている人もそれぞれですから、これはちょっと、という人がいるのも事実です。
もし、退会者で真宗の教えを聞いている近所の人と連絡が取れるのならば、その人に助言してもらうのがよいと思います。地域によって、法話の事情が異なるからです。

http://shinshuhouwa.info/

ここに法話案内がありますので、一度、その布教使の話を聞いてみて、信心について強調しているようなら、概ね宜しいかと思います。

また何かあれば、コメントください。

投稿: 飛雲 | 2014年4月11日 (金) 18時41分

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