信行両座の諍論
高森顕徹会長の言う三大諍論の最後は、信行両座の諍論です。この諍論のデタラメ解釈により、親鸞会会員は信心決定が極めて特別な人にしかできないことと思わされています。もしかしたら、それはそのまま高森会長自身の実感かもしれません。
信行両座の諍論は、『御伝鈔』に記されていますが、高森会長が『御伝鈔』を読んでいないことは、『御伝鈔』を読んでみたら誰でも気が付くでしょう。言うまでもなく、大沼師の間違いをそのままパクッたのが原因です。
法然上人の御弟子の数について、『御伝鈔』では
そのとき三百余人の門侶みなその意を得ざる気あり。
ですが、高森会長は「三百八十余人」としています。念の為言っておきますが、この前に
常随昵近の緇徒その数あり、すべて三百八十余人と云々。
とあるのは、法然上人の御弟子と親しくしている僧を含めて「三百八十余人」です。
熊谷次郎直実のことを「蓮生房」としていますが、『御伝鈔』では
つぎに沙弥法力[熊谷直実入道]遅参して申していはく
となっていて、正しくは「法力房」です。
この程度の間違いだけなら、単なる不勉強で終わりますが、問題はこの諍論の内容です。
親鸞聖人が信不退の座と行不退の座を法然上人の御弟子「三百余人」に示された時に、その「三百余人」がどのように行動したのかをよく知らねばなりません。『御伝鈔』には、
そのとき三百余人の門侶みなその意を得ざる気あり。
としかありません。つまり、「行の座に決まっている」と躊躇することなく行の座に入ったのではなく、親鸞聖人の意図が判らなかったということです。
なぜなら、法然上人は行と信が揃って往生できると教えられていたからです。
『選択本願念仏集』には、
わたくしにいはく、引くところの三心はこれ行者の至要なり。所以はいかんぞ。『経』にはすなはち、「具三心者必生彼国」といふ。あきらかに知りぬ、三を具すればかならず生ずることを得べし。『釈』にはすなはち、「若少一心即不得生」といふ。
あきらかに知りぬ、一も少けぬればこれさらに不可なり。これによりて極楽に生れんと欲はん人は、まつたく三心を具足すべし。(現代語訳)
わたくしにいう。いま引いた三心は行者の最も要とするところである。そのわけはどうかというに、《観経》には「三心を具する者は必ずかの国に生まれる」と説かれてある。よって、三心を具えるならば必ず往生を得るということが明らかに知られる。善導大師の釈には、「もし一心をかいたならば往生はできない」といわれてある。三心のなかで一心をかくならばまた不可であるということが明らかに知られるのである。こういうわけであるから、極楽に往生しようと願う人は、全く三心を具うべきである。
と信心は往生に不可欠のものであることを明言されています。会員にとっては何のことかさっぱり判らないと思いますので、簡単に言うと、『観無量寿経』に説かれている至誠心・深心・回向発願心の三心が信心を顕わされていて、この三つとも揃って、真実の信心となり往生できるが、一つでも欠けると往生はできない、という内容です。
法然上人の御弟子で、このことを知らない人はいなかったでしょう。もちろん「念仏一行」で往生できると繰り返し法然上人が仰っていたことは、浄土門を信じる親鸞会以外の人には、超常識のことです。
したがって、行と信、どちらか一方で往生が決するか、という問いかけに対して、「そのとき三百余人の門侶みなその意を得ざる気あり」になったのは当然なことです。
実際、信の座に入っていない人で、真実信心を賜ったとされている人は、何人もいます。親鸞聖人が聖覚法印と共に「よきひとびと」「すでに往生をもしておはしますひとびと」と仰って、その著書を同行に読むように勧められ、更には親鸞聖人が解説書まで書かれた隆寛律師の名前がありません。あるいは高森会長が信心決定した御弟子として認定している耳四郎・住蓮・安楽の名もありません。また、法然上人が『選択本願念仏集』の書写を許された証空上人等の高弟の名もありませんが、まさか法然上人が御弟子の理解や信心を見誤ったとでも言うつもりでしょうか。
要するに、信の座に入らなかったことで真実信心ではないと判定することはできないわけです。
それで『御伝鈔』でも
これおそらくは自力の迷心に拘はりて、金剛の真信に昏きがいたすところか。
とぼかした言い方しかされていません。
三業では信心を判定できない、とか、善知識が信心を認定するのは土蔵秘事に類するもの、とか言いながら、信行両座の諍論で認定しているのが、高森顕徹会長です。
| 固定リンク
「三大諍論」カテゴリの記事
- 「正定の業因はすなはちこれ仏名をとなふるなり。正定の因といふは、かならず無上涅槃のさとりをひらくたねと申すなり。」が絶対に理解できない高森顕徹会長(2018.01.19)
- 体失往生を否定しながら肯定する高森顕徹会長(2017.06.28)
- レベルが下がり続けて、言っていることが訳判らなくなった高森顕徹会長(2017.06.25)
- 信行両座の諍論(2014.04.10)
- 信心同異の諍論(2014.04.02)
この記事へのコメントは終了しました。
コメント
信行両座でかつて、アニメ座談会で会員からお聖教の御文と違うことを質問されたときに、「心は行の座に入っておった」とかのたまってたね。
投稿: ああああ | 2014年4月12日 (土) 22時15分
最近の顕正新聞が面白い。
会に対する批判の言葉を使って自己を正当化しているように見えて笑える。
・お釈迦様は、「人によらずに、法によれ、教えに依れ」と遺言なされている。(4/1号の論説)
反論できないからいつとはなしに教義を変えて
(4/1号の4コマ)
特に3/15号の「視点」は最高のギャグ
そのパレードは奇観である。群集の前を「裸の王様」が歩く。でも、建前では服を着ていることになっている。ただ「この服は、バカには見えない」という触れ込みだから、王様も家来も、見物人も本当のことが言えない。
その中、小さな子供が叫ぶ。「王様は裸だよ!」。次第に群集も皆、王様は裸だと笑い始める。王様も「それが正しい」とは思うが、今更行進もやめられず、召使も仕方なくありもしない裾を持って歩いた。
(中略)
反論できず、完全に沈黙した。
(中略)
全ての「武器」を奪われて、パレードならぬ“布教”はいつまで続くのだろう。有ると思わせてきた他力信心の服が、実は無かったと門徒衆が見抜く時、声は上がる。「王様は裸だよ!」
(以下略。引用終)
この記事を書いた人が、会の間違いに気づいているとしたら、もの凄い自虐です、どういう思いで書いたんでしょう。
『なぜ生きる2』もそうでしたが、親鸞会への批判を意識しているようにしか見えないんですよね。
投稿: 元熱心な会員 | 2014年4月13日 (日) 22時08分
拝見致しました。今回のテーマとは関係ありませんが、、、、。雑縁は自分で断つと覚悟するしかありません。親鸞会は本当の真宗ではない安楽椅子です。阿弥陀仏は布施をしないと救わないとは言われていません。親鸞聖人が布施を要求されたことは聞いたことがありません。会員さんは親鸞会を捨てものとして、自分と向き合ってはじめて仏願の生起本末を聞くことになるでしょう。
投稿: 愚愚流 | 2014年4月13日 (日) 22時14分
疑問なんですが、そもそも法然上人の草庵にそんな広い部屋があったんでしょうか?
投稿: | 2014年4月14日 (月) 05時07分
他にも疑問があるのですが、覚如上人はその場にいないはずなのに、まるでその場にいたかのように書かれてますが、情報源はなんなのでしょうか?誰かから口伝えで聞いたのなら、誰から聞いたのでしょう?それともその場にいた誰かが書いた歴史的文献があるのでしょうか?何だか書いてるうちに覚如上人に対して不信感がわいてきました。気を悪くされる方がいましたらすいません。
投稿: | 2014年4月14日 (月) 05時38分
維摩経に狭い部屋に神通力かなにかで大勢入ってしまった話がありますね
投稿: | 2014年4月16日 (水) 09時56分
仏教を信じている立場なら言葉そのものに拘る必要はないと思います。お経にしても覚如上人にしても。著者は何を伝えたかったのか、そして私は何を感じたかのほうが大事だと思います。
個人的には、歴史的背景や科学的根拠などは仏教には不要だと思います。信じているから、信じたいから信じているだけですし。まあ全く論理性、整合性がないものは信じようとは思いませんが…
まとめますと、あまり変な所に拘っていてもしょうがないということです。
投稿: A | 2014年4月16日 (水) 15時17分
コメント頂いた皆様
信行両座の諍論があったのかなかったのか、様々な御意見はあろうかと思います。
なかったという御意見も、御尤もです。
ただし、何度も言いますように、覚如上人が書かれたことを是とする立場でブログを書いていますので、その点は御了承下さい。
Aさんも仰るように、覚如上人が何を伝えたかったのかを知ることが重要だと思います。ここでは、親鸞聖人が行よりも信に重きをおかれたことを顕わされたかった、ということです。
だからといって、信の方に重きをおかない人が未信だとは言えないということを、このエントリーで述べたかったのです。
投稿: 飛雲 | 2014年4月16日 (水) 20時17分
質問した者です。お答えありがとうございます。しかしながら、親鸞会在籍時にはアニメによるマインドコントロールにより信行両座の諍論にはかなり苦しめられました。ゆえに覚如上人には恨みに近い感情をいまだに持っています。私は素人ですが、覚如上人がこの三つのお話から表したかったのは、親鸞聖人を神格化する事だと思います。そして、その血筋を引く覚如上人ご自身の神格化をはかり、教団の組織化の成功を狙ったのだと思います。そこには、後の世の人々を想う気持ちがほとんど感じらません。だから失敗なされたのだと思います。蓮如上人の出現により、はからずも覚如上人の思いは達成されました。だからと言って覚如上人が創作したこの三つのお話は架空のお話であり事実ではないと思います。最近想うのですが、覚如上人は歎異鈔の信心同異の諍論からヒントを得たのだと思いますが、私はこれも唯円さんの創作なのではと思えてきました。そうだとしても、唯円さんを恨む気持ちには不思議となれません。覚如上人の事情や立場はあると思いますが、それを考えても狂気じみたものを感じます。私は覚如上人が創作された三大諍論は、架空のものであり事実ではないと思います。私は飛雲様の活動を応援している立場ですが、この事は譲れません。長文失礼しました。
投稿: | 2014年4月17日 (木) 01時28分
我の混じった法は必ず害を生む
高森会で嫌というほど知らされました
珍しき法をひろめず、とはこのことじゃないですかね
凡夫のはからいは全て碌なもんじゃないでしょう
いろいろあるんでしょうが盲信するのは抵抗がありますね
投稿: | 2014年4月17日 (木) 10時09分
3つの諍論が歴史上の事実であったかどうかは、確かめる術がありません。なかったという主張も理解できますし、あったという主張も否定はできません。
私の個人的な思いはありますが、このブログでそれを書くつもりはありません。このブログは、親鸞会が絶対に正しいとする親鸞聖人・覚如上人・蓮如上人の仰せと、高森会長及び親鸞会の言っていることとの矛盾を指摘することに主眼をおいているからです。
したがいまして、覚如上人を否定することはこのブログではしません。
盲信とも違います。
仏教が正しい、という証明をすることもしませんし、親鸞聖人の教えが正しい、という証明もしません。
もちろん、覚如上人・蓮如上人の仰せが正しい、という証明をするつもりもありません。
そのように御理解いただけるとありがたいです。
投稿: 飛雲 | 2014年4月17日 (木) 20時15分
でもブログのタイトルに「正しい親鸞聖人の教えとは」と書かれてますよね。矛盾してませんか?
投稿: | 2014年4月19日 (土) 02時21分
こだわりますな~
「親鸞聖人の教えの正しさ」ではなく「親鸞聖人の教えを正しく」の意味でしょ。
「親鸞聖人の教えを間違って」伝えている親鸞会に「親鸞聖人の教えを正しく」伝えていくのが、このブログってことで、何か矛盾がある?
投稿: | 2014年4月19日 (土) 03時24分
やはりこういうセンシティブな話題になると「足枷」が相当きつくなってくる感じがしますね。親鸞会というのは本当に知の世界の孤島です。彼らに話を合わせようとする限り、取れないスタンスはたくさん出てくるし、普通だったら必要のない無駄な説明もたくさんしなければならない。ハイコストなんですよね。
こういう足枷さえなかったら話はスムーズに進むんですよ。たとえば覚如上人の記述の信憑性を否定したうえで、それでもかの言葉を法語として頂くことは可能だと、そういう論法を採ることだって何の無理もなくできます。というか(体失不体失で話が荒れた時も思ったし余程書こうかとも思ったのですが)、三大諍論の記述に信憑性が薄いところがあるからといって、すぐに話が捏造だ悪意だという話になるのは、私から見れば話が短絡的すぎるんですよね。そういう短絡性は親鸞会由来の病理です。なぜなら、普通の人だったら記述の信憑性が疑わしい場合ある程度そのことを割り引いて受け取ることができるところ、親鸞会絡みの文脈ではすぐに話がゼロサムになって荒れてしまうからです。
私からすればどのみち親鸞会が沈みゆくものである以上脱会後のことを考えることが重要になってくるし、そのとき必要なのはこういう「病理」を治癒することだと見えるのですが、こちらのブログのスタンスを貫こうとする以上、話はつねにその前段階で終わるでしょう。もちろん、前段階までは有効でしょうが。
やはり、今回のような軋轢は今後慢性的に起こってくる気がして仕方がありません。もちろんそれでも飛雲さんはストイックにこの限定的なスタンスを続行されるでしょうし私も応援しますが、こういうのが延々続くことを想像すると、やはりちょっともったいないなとも思ってしまうわけで。。
まあ、余計な心配でしょうね。毎度ながら長文失礼しました。
投稿: dandelion | 2014年4月20日 (日) 01時44分
会は至るところで捏造しことは周知の事実ですが、今回は「光に向かって」シリーズより。「貧者の一灯」(アジョセ王授決経)は老女によるもので、「三人の妻」(雑阿含経)では、四人の妻となっていて(四人目の妻は徳で後生を連れ添うとあります。)「限りなき欲に殺される」は僧シュミラの話で農夫の話ではありません。会の本は嘘が多いんです。
投稿: | 2014年4月20日 (日) 21時00分
dandelion 様
仰ることはよくわかります。
このブログの方向性は一貫していて、変えるつもりはありません。
ただし、ブログを離れれば、私の個人的な意見も言いますし、いわゆる味わいの話も大いにします。
割り切って考えています。
投稿: 飛雲 | 2014年4月22日 (火) 07時14分
親鸞会現会員さんのマインドコントロールを解くことに特化したブログは必要だと思います。
私もこれらのブログのおかげで退会することができました。
正しい教義を学ぶのは、まず親鸞会から解放されて、親鸞会教義(邪義)の染み抜きをしてからで十分だと思います。
投稿: ひな | 2014年4月22日 (火) 09時20分
誤解を受ける書き方をしたような気がしますので、もう少し書き加えさせて下さい。
私は飛雲さんが正しい教義を説いていないと言っているのではなくて、親鸞会で“浄土真宗ではない話”を聞いている人にいきなり“覚如上人の記述の信憑性云々”の話をしてもあまり意味がないと思うのです。
それよりも現会員さんが受け入れ易い形の方を取る飛雲さんのスタンスを応援します。
投稿: ひな | 2014年4月22日 (火) 09時48分
しつこいようですが、連投お許し下さい。
覚如上人の著書を読んだことがなくても、聞くべきことを聞けば獲信はできます。
教義の細かい部分にこだわるのではなく、現会員さんを一日も早く“阿弥陀仏の本願”を正しく聞ける場所に引っ張り出してあげることの方が大切だと思います。
そういう意味で、飛雲さんのスタンスを応援します、と申し上げたのです。
投稿: ひな | 2014年4月22日 (火) 10時31分
ひな 様
私のスタンスを御理解頂き、有難うございます。
会員が退会する縁になるならば、このスタンスのまま続けていくつもりです。
投稿: 飛雲 | 2014年4月22日 (火) 20時06分