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2014年4月

2014年4月29日 (火)

親鸞聖人を馬鹿にする高森顕徹会長と親鸞会

いわゆる三大諍論を通して、高森顕徹会長は親鸞会会員に、

信心決定は極めて難しいことで、その希有な体験をしたのがほかならぬワシだ

との洗脳を必死に行っています。
4月号の顕真には、体失不体失往生の諍論についての妄想解釈と共に、「顕正一口メモ」が載っています。

◎ある人
  親鸞会には救われている者が、
  いないのではないか②
◎親鸞学徒
  貴方たちの程度の信仰を
  求めているのではない。
  我々の求めているのは
  他力真実の信心なのだ。

最後の一行を「高森真実の信心なのだ」と修正すれば、全くその通りでしょう。しかし、「他力真実の信心」と「高森真実の信心」とは、全く異なるものです。

まず、親鸞会で言う「他力真実の信心」が、宝くじに当たるよりも低い割合の人にしか、賜らないものというのは、根拠のないことです。尤もらしく根拠を出していますが、高森会長一流の勘違いです。

親鸞聖人は、「難信」について『教行信証』信巻で次のように教えられています。

しかるに常没の凡愚、流転の群生、無上妙果の成じがたきにあらず、真実の信楽まことに獲ること難し。
なにをもつてのゆゑに、いまし如来の加威力によるがゆゑなり、博く大悲広慧の力によるがゆゑなり。

(現代語訳)

ところで、常に迷いの海に沈んでいる凡夫、迷いの世界を生れ変り死に変りし続ける衆生は、この上もない証を開くことが難しいのではなく、そのさとりに至る真実の信心を得ることが実に難しいのである。なぜなら、信心を得るのは、如来が衆生のために加えられるすぐれた力によるものであり、如来の広大ですぐれた智慧の力によるものだからである。

とあります。
真実の信楽まことに獲ること難し」の理由は「如来の加威力」と「大悲広慧の力」によって獲られるものであるからだと親鸞聖人は仰っています。
つまり、衆生の方で何かをする必要は全くないにもかかわらず、自分で何かをしなければならないという愚かな計らいを入れるから、「真実の信楽まことに獲ること難し」なのです。
具体的には、高森会長の説く因果の道理と「真実の信楽」とが関係あるとか、過去に行ってきた善やこれから行うであろう善と「真実の信楽」とが関係あるとか、19願を通らなければ「真実の信楽」を獲られない、とかいう愚かな計らいです。
如来の加威力」と「大悲広慧の力」とは、衆生に何か用意してくることを期待したものではありません。世間的な発想や、聖道門的な発想とは別次元であるのが「如来の加威力」と「大悲広慧の力」ですが、それを同次元に思うから「真実の信楽まことに獲ること難し」なのです。逆にいえば、親鸞会で聞いてきたような世間的な発想や、聖道門的な発想をすべて捨てされば、「真実の信楽まことに獲ること難し」ではなくなります。

信巻には、また

律宗の用欽のいはく、「法の難を説くなかに、まことにこの法をもつて凡を転じて聖となすこと、なほし掌を反すがごとくなるをや。大きにこれ易かるべきがゆゑに、おほよそ浅き衆生は多く疑惑を生ぜん。すなはち『大本』(大経・下)に〈易往而無人〉といへり。ゆゑに知んぬ、難信なり」と。

(現代語訳)

律宗の用欽がいっている。
「阿弥陀仏の教えを信じることが難しいと説くのは、まことにこの教えは、凡夫を転じて仏とすることが、ちょど手のひらを返すようだからである。きわめてたやすいから、かえって浅はかな衆生は多くの疑いを生じる。そこで『無量寿経』には、<浄土は往生しやすいにもかかわらず、往生する人がまれである>と説かれている。このようなわけで信じることが難しいと知られる」

とあります。高森会長の邪説を払拭すれば、「凡を転じて聖となすこと、なほし掌を反すがごとくなる」です。高森会長の邪説をいつまでも引き摺っていることを、「おほよそ浅き衆生は多く疑惑を生ぜん」と言われているのです。聖教に書かれた通りにそのまま従えば、「凡を転じて聖となすこと、なほし掌を反すがごとくなる」ですが、聖教を額面通りに受け取らず、裏を詮索するのを「おほよそ浅き衆生は多く疑惑を生ぜん」と非難されているのです。

まとめると、衆生の方で何かをしたり準備する必要がないと阿弥陀仏が誓われた本願に背いて、善をしなければ、因果の道理を信じなければ、との高森邪説を信じてしまうから「真実の信楽まことに獲ること難し」なのです。高森邪説を捨て去ったならば、「凡を転じて聖となすこと、なほし掌を反すがごとくなる」と知らされるのです。

再度「顕正一口メモ」を修正するなら

◎ある人
  親鸞会には救われている者が、
  いないのではないか②
◎高森学徒
  親鸞聖人の程度の信仰を
  求めているのではない。
  我々の求めているのは
  高森真実の信心なのだ。

親鸞聖人を馬鹿にする高森会長と親鸞会です。

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2014年4月22日 (火)

自身と親鸞会の利益になる因だけを勧めている高森顕徹会長

親鸞会の際限のない財施要求により、昔からの会員は蓄えもなく、出せる金額も細っているため、非会員を倫理道徳的な話で誘いこみ、因果の道理でマインドコントロールして入会させ、お金をむしり取るという構造ができあがっています。
倫理道徳を無視した団体が、倫理道徳を語ること自体矛盾していますが、親鸞聖人がこの世の幸せを得るための話をされているかを考えてみる必要があります。
造悪無碍を誡められたお言葉はいくつもあります。しかし、仏法の善にしても、倫理道徳の善にしても、勧められた御言葉はありません。罪福の因果の道理にしても、積極的に信じるように、と仰ったお言葉はありません。

親鸞聖人が教えられたことは、報土の因果についてです。会員には罪福の因果との違いがよく判らないでしょうが、全く別であるというのが、親鸞聖人の教えです。世俗的なことも含めて会員でも判るようにいうならば、

お金を儲けるには、お金を儲けることをしなければなりません。親鸞会の活動・財施をしてお金が儲かることはありません。会員はここさえ誤解しているでしょうが、当たり前のことです。

大学を優秀な成績で卒業するには、勉強するしかありません。親鸞会の活動をしても、成績上昇の何の足しにもなりません。学友部では、この辺りもマインドコントロールされて、卒業できない学生が多くいますが、愚かな思考です。

同様に、報土に往くには報土に往く因が必要ですが、その因は100%阿弥陀仏が用意されている、と教えられたのが親鸞聖人です。それだけでなく、我々の方で何かを加えることは不要、というよりも、何かを加えることが報土に往けなくする因だ、と教えられているのです。
因果の関係で言えば、お金を儲けることも成績を上げることも、報土に往くことも同じなのですが、全く違うのが、自因自果か他因自果(この場合の他は阿弥陀仏)かということです。

このことだけを知っても、親鸞聖人が倫理道徳の善、罪福の因果を勧められていない理由が判るでしょう。積極的に勧めれば、報土の因果との関係で誤解するからです。かといって、造悪無碍になっても困るので、誡めという形でしか仰っていないのです。

大体、親鸞聖人の御一生を見れば判りますが、親鸞聖人は亡くなられるまで生活に困窮されるような生活でした。世俗的な幸福とは程遠い御一生と言っても過言でないかもしれません。そんな親鸞聖人が親鸞会のいう因果の道理を強調されて、説得力があるかを考えてみたら宜しいでしょう。

高森顕徹会長の考えていることは、親鸞聖人とは全て反対です。高森会長の教えは、全て、自身と親鸞会の利益になる因を勧めているだけです。会員の不利益にしかなりません。この世も、来世も棒に振る前に、会員はよくよく思案すべきでしょう。

いつもの13項目

1.獲信していない人の死後はどうなるか

親鸞聖人 六道輪廻(19願・20願の同行は化土往生)
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高森会長 必堕無間

2.五逆罪・謗法罪について

親鸞聖人 造っている人と造っていない人がいる
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高森会長 造っていない人はいない、全ての人は生まれながらに造っている

3.善人と悪人について

親鸞聖人 善人と悪人とがいる
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高森会長 善人はいない、すべての人は悪人である

4.獲信のために善は必要か

親鸞聖人 念仏1つ、獲信に善は不要
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高森会長 善をしなければ絶対に獲信できない

5.白道とは

親鸞聖人 自力の心にあらず
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高森会長 自力

6.定散二善について

親鸞聖人 定散二善を捨てよ
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高森会長 定散二善をせよ

7.19願について

親鸞聖人 19願を捨てよ
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高森会長 19願を実践せよ

8.宿善について

親鸞聖人 過去世の善根の厚薄と、往生・獲信とは関係ない
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高森会長 過去世の善根の薄い者が、そのままで往生・獲信することはありえない

9.機の深信について

親鸞聖人 自力では出離できない
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高森会長 逆謗の屍と必ず知らされる

10.善知識に無条件服従しなければならないか

親鸞聖人 法に従うのであって、人に従うのではない
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高森会長 善知識に無条件服従せよ

11.因果の道理について

親鸞聖人 罪福の因果を信じることは自力・仏智不思議を疑う心
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高森会長 因果の道理を深信しなければならない

12.三願転入について

親鸞聖人 聖道門の人を浄土門に導く方便が19願であり、19願の勧めはない
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高森会長 全人類は19願から始めなければならない

13.「一向専念無量寿仏」について

親鸞聖人 諸善を廃して念仏1つになること
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高森会長 阿弥陀仏1仏に向かって諸善をすることも含む

『歎異抄』について

第1章

1.「ただ信心を要とす」の「信心」とは

親鸞聖人 「ただ念仏で往生できる」と信じた心
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高森会長 「助かった」とハッキリした心

2.「本願を信ぜんには他の善も要にあらず」とは

親鸞聖人 本願に救われるには善は不要
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高森会長 救われたなら善は不要だが、救われる前には善が勧められている

3.「悪をもおそるべからず」とは

親鸞聖人 本願に救われるのに、悪が妨げになることはない
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高森会長 悪を恐れ不安になるのは、地獄一定の悪人と知らされていないからだ

第2章

4.「ただ念仏して」の「ただ」とは

親鸞聖人 念仏一行
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高森会長 びっくり仰天

5.「総じてもつて存知せざるなり」とは

親鸞聖人 念仏が浄土に生れる因なのか地獄に行く因なのかを知る智慧を持っていない
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高森会長 知り過ぎた知らん

6.「弥陀の本願まことにおわしまさば」は仮定か断定か

親鸞聖人 仮定
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高森会長 断定

第3章

7.「善人なほもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや」とは

親鸞聖人 善人ではなく悪人のために18願を建てられた
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高森会長 「悪人」とは、全人類のことであり、「人間」の代名詞にほかならない

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2014年4月10日 (木)

信行両座の諍論

高森顕徹会長の言う三大諍論の最後は、信行両座の諍論です。この諍論のデタラメ解釈により、親鸞会会員は信心決定が極めて特別な人にしかできないことと思わされています。もしかしたら、それはそのまま高森会長自身の実感かもしれません。

信行両座の諍論は、『御伝鈔』に記されていますが、高森会長が『御伝鈔』を読んでいないことは、『御伝鈔』を読んでみたら誰でも気が付くでしょう。言うまでもなく、大沼師の間違いをそのままパクッたのが原因です。

法然上人の御弟子の数について、『御伝鈔』では

そのとき三百余人の門侶みなその意を得ざる気あり。

ですが、高森会長は「三百八十余人」としています。念の為言っておきますが、この前に

常随昵近の緇徒その数あり、すべて三百八十余人と云々。

とあるのは、法然上人の御弟子と親しくしている僧を含めて「三百八十余人」です。

熊谷次郎直実のことを「蓮生房」としていますが、『御伝鈔』では

つぎに沙弥法力[熊谷直実入道]遅参して申していはく

となっていて、正しくは「法力房」です。
この程度の間違いだけなら、単なる不勉強で終わりますが、問題はこの諍論の内容です。

親鸞聖人が信不退の座と行不退の座を法然上人の御弟子「三百余人」に示された時に、その「三百余人」がどのように行動したのかをよく知らねばなりません。『御伝鈔』には、

そのとき三百余人の門侶みなその意を得ざる気あり。

としかありません。つまり、「行の座に決まっている」と躊躇することなく行の座に入ったのではなく、親鸞聖人の意図が判らなかったということです。

なぜなら、法然上人は行と信が揃って往生できると教えられていたからです。
『選択本願念仏集』には、

わたくしにいはく、引くところの三心はこれ行者の至要なり。所以はいかんぞ。『経』にはすなはち、「具三心者必生彼国」といふ。あきらかに知りぬ、三を具すればかならず生ずることを得べし。『釈』にはすなはち、「若少一心即不得生」といふ。
あきらかに知りぬ、一も少けぬればこれさらに不可なり。これによりて極楽に生れんと欲はん人は、まつたく三心を具足すべし。

(現代語訳)

わたくしにいう。いま引いた三心は行者の最も要とするところである。そのわけはどうかというに、《観経》には「三心を具する者は必ずかの国に生まれる」と説かれてある。よって、三心を具えるならば必ず往生を得るということが明らかに知られる。善導大師の釈には、「もし一心をかいたならば往生はできない」といわれてある。三心のなかで一心をかくならばまた不可であるということが明らかに知られるのである。こういうわけであるから、極楽に往生しようと願う人は、全く三心を具うべきである。

と信心は往生に不可欠のものであることを明言されています。会員にとっては何のことかさっぱり判らないと思いますので、簡単に言うと、『観無量寿経』に説かれている至誠心・深心・回向発願心の三心が信心を顕わされていて、この三つとも揃って、真実の信心となり往生できるが、一つでも欠けると往生はできない、という内容です。
法然上人の御弟子で、このことを知らない人はいなかったでしょう。もちろん「念仏一行」で往生できると繰り返し法然上人が仰っていたことは、浄土門を信じる親鸞会以外の人には、超常識のことです。
したがって、行と信、どちらか一方で往生が決するか、という問いかけに対して、「そのとき三百余人の門侶みなその意を得ざる気あり」になったのは当然なことです。

実際、信の座に入っていない人で、真実信心を賜ったとされている人は、何人もいます。親鸞聖人が聖覚法印と共に「よきひとびと」「すでに往生をもしておはしますひとびと」と仰って、その著書を同行に読むように勧められ、更には親鸞聖人が解説書まで書かれた隆寛律師の名前がありません。あるいは高森会長が信心決定した御弟子として認定している耳四郎・住蓮・安楽の名もありません。また、法然上人が『選択本願念仏集』の書写を許された証空上人等の高弟の名もありませんが、まさか法然上人が御弟子の理解や信心を見誤ったとでも言うつもりでしょうか。

要するに、信の座に入らなかったことで真実信心ではないと判定することはできないわけです。
それで『御伝鈔』でも

これおそらくは自力の迷心に拘はりて、金剛の真信に昏きがいたすところか。

とぼかした言い方しかされていません。

三業では信心を判定できない、とか、善知識が信心を認定するのは土蔵秘事に類するもの、とか言いながら、信行両座の諍論で認定しているのが、高森顕徹会長です。

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2014年4月 2日 (水)

信心同異の諍論

誤解されている方があるようですので、一応述べておきます。
このブログは、仏教以外の宗教を信じている方のためでもなく、他宗を信じている方のためでもなく、真宗を信じている方でしかも親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人の仰せを信じている親鸞会会員か退会者向けに書いています。親鸞会では親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人が正しいというのが大前提ですから、この三方の信憑性を疑ったら会員とは話が通じなくなるので、その大前提は崩しません。
その上で、親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人の仰せと高森顕徹会長の言っていることが全く違うことを明らかにすることがこのブログの趣旨です。

したがいまして、真宗を信じている方であってでも、覚如上人、蓮如上人の仰せを否定的に見られる方にとっては、このブログで書いた内容に異論が出てくるのも当然でしょうが、その点は御了承ください。

さて、三大諍論の2番目として、信心同異の諍論を親鸞会では教えます。その内容は、覚如上人の書かれた『御伝鈔』に出てきますが、『歎異抄』にもあります。
珍しいことに、高森会長の説明でも表面上は概ね問題ありません。しかし、その意図を高森会長は理解できていないようです。
結論である法然上人の御言葉を『御伝鈔』では、

「信心のかはると申すは、自力の信にとりてのことなり。すなはち智慧各別なるゆゑに信また各別なり。他力の信心は、善悪の凡夫ともに仏のかたよりたまはる信心なれば、源空が信心も善信房の信心も、さらにかはるべからず、ただひとつなり。わがかしこくて信ずるにあらず、信心のかはりあうておはしまさんひとびとは、わがまゐらん浄土へはよもまゐりたまはじ。よくよくこころえらるべきことなり」

とありますが、『歎異抄』では

「源空が信心も、如来よりたまはりたる信心なり、善信房の信心も、如来よりたまはらせたまひたる信心なり。
されば、ただ一つなり。別の信心にておはしまさんひとは、源空がまゐらんずる浄土へは、よもまゐらせたまひ候はじ」

と簡潔に書かれています。共に、信心は阿弥陀仏から賜るものであるから、信心決定した人は皆同じ信心になるということです。
これを『教行信証』信巻では、

「信心」といふは、すなはち本願力回向の信心なり。

と仰っています。高森会長から、「本願力回向」という言葉を聞いたことはありませんが、多分知らないのでしょう。
ただし、ここで終わっては半分です。更にもう一歩踏み込む必要があります。
信巻には

しかれば、もしは行、もしは信、一事として阿弥陀如来の清浄願心の回向成就したまふところにあらざることあることなし。因なくして他の因のあるにはあらざるなりと、知るべし。

とあります。
信心だけでなく行も、阿弥陀仏から回向されたものであるということです。阿弥陀仏の回向成就なされた信心と行以外には、往生の因は全くないということです。

つまり、自力の信心も行も、往生とは無関係だと言うことです。
このことを覚如上人は『口伝鈔』で親鸞聖人の御言葉として

機に生れつきたる善悪のふたつ、報土往生の得ともならず失ともならざる条勿論なり。

と紹介され、その後覚如上人の御言葉として

ただ善悪のふたつをば過去の因にまかせ、往生の大益をば如来の他力にまかせて、かつて機のよきあしきに目をかけて往生の得否を定むべからずとなり。

と仰っています。
過去世・現在世においてなしてきた善悪は往生とは無関係だということで、宿善論も三願転入論もナンセンスだということになります。

信心同異の諍論は、もちろん信心についての話なのですが、信心と行とは切っても切り離せない関係であり、信前の自力の行が必要だと言っているようでは、この諍論が半分しか理解できていないと言っても過言ではありません。

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