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2014年3月25日 (火)

体失不体失往生の諍論

高森顕徹会長は、いわゆる三大諍論が好きです。なぜなら本願寺では三大諍論を言わないので、三大諍論を強調すればするほど、自己の偉大さをアピールできると考えているからです。
もちろん三大諍論は、大沼師からのパクリです。
大沼師の著書に、三大浄論は散見されますが、これが何を意味しているのかを理解する能力が、高森会長にはありません。

まず、体失不体失往生の諍論について。

証空上人は不体失往生を教えていなかったのかといえば、そうではありません。

『定善義他筆抄』に

此世とは、即便往生を云ひ、後生とは、当得往生を云う也。

とあります。
不体失往生である「即便往生」と、体失往生である「当得往生」の2つを明言しています。高森会長の言う、死んでからの救いのみを教えられたのが証空上人であるということが全くのデタラメであることがこの一文ではっきりします。

一方で『女院御書』には

他力本願をたのみて、過去の罪をも、今生の罪をも懺悔して、仏かならず迎給へと思ひて念仏せば、かならず本願にも相叶ひて臨終には仏の来迎にもあづかるべきものなり。

とあるように、臨終来迎についの言及もあります。

ところが親鸞聖人は、臨終来迎については否定的にしか仰っていません。
たとば『末灯鈔』には

来迎は諸行往生にあり、自力の行者なるがゆゑに。臨終といふことは、諸行往生のひとにいふべし、いまだ真実の信心をえざるがゆゑなり。また十悪・五逆の罪人のはじめて善知識にあうて、すすめらるるときにいふことなり。真実信心の行人は、摂取不捨のゆゑに正定聚の位に住す。このゆゑに臨終まつことなし、来迎たのむことなし。信心の定まるとき往生また定まるなり。来迎の儀則をまたず。
(中略)
この自力の行人は、来迎をまたずしては、辺地・胎生・懈慢界までも生るべからず。このゆゑに第十九の誓願に、「もろもろの善をして浄土に回向して往生せんとねがふ人の臨終には、われ現じて迎へん」と誓ひたまへり。臨終まつことと来迎往生といふことは、この定心・散心の行者のいふことなり。

(現代語訳)

来迎は諸行往生すなわちさまざまな行を修めて浄土に往生しようとする人についていうのであり、 それは、 自力の行者だからです。 臨終の時に往生が定まるということは、 諸行往生の人についていうのであり、 それは、 まだ真実の信心を得ていないからです。 また十悪・五逆の罪を犯した人が、 臨終の時にはじめて善知識に出会い、 念仏を勧められる際にいうことなのです。 ^真実の信心を得た人は、 阿弥陀仏が摂め取ってお捨てにならないので正定聚の位に定まっています。 だから、 臨終の時まで待つ必要もありませんし、 来迎をたよりにする必要もありません。 信心が定まるとのときに往生もまた定まるのです。 来迎のための儀式を当てにする必要はありません。
(中略)
このような自力の行を修める人は、 来迎がないと辺地や胎宮や懈慢界などといわれる方便の浄土にさえ生れることができません。 だから第十九願に、 「さまざまな善を積み、 浄土に回向し、 往生したいと願う人が、 命を終えようとする時、 わたしはその人の前に現れて迎え取りましょう」 と誓われているのです。 臨終の時まで待つということと来迎により往生するということは、 このような定善や散善を修める人がいうことです。

このように、親鸞聖人は臨終来迎については、諸行往生であり、定散の機に限られるという解釈をなされています。

つまり、不体失往生を主張していたという点では、証空上人は親鸞聖人と同じではあったが、証空上人は臨終来迎に肯定的、親鸞聖人は否定的の違いがあり、その諍いが体失不体失往生の諍論だということと考えられます。

『口伝鈔』の法然上人の御言葉を読むと、そのことがより判ります。

善恵房の体失して往生するよしのぶるは、諸行往生の機なればなり。善信房の体失せずして往生するよし申さるるは、念仏往生の機なればなり。〈如来教法元無二〉なれども、〈正為衆生機不同〉なれば、わが根機にまかせて領解する条、宿善の厚薄によるなり。念仏往生は仏の本願なり、諸行往生は本願にあらず。念仏往生には臨終の善悪を沙汰せず、至心信楽の帰命の一心、他力より定まるとき、即得往生住不退転の道理を、善知識にあうて聞持する平生のきざみに治定するあひだ、この穢体亡失せずといへども、業事成弁すれば体失せずして往生すといはるるか。本願の文あきらかなり、かれをみるべし。つぎに諸行往生の機は臨終を期し、来迎をまちえずしては胎生辺地までも生るべからず。このゆゑにこの穢体亡失するときならでは、その期するところなきによりてそのむねをのぶるか。第十九の願にみえたり。勝劣の一段におきては、念仏往生は本願なるについて、あまねく十方衆生にわたる。諸行往生は、非本願なるによりて定散の機にかぎる。本願念仏の機の不体失往生と、非本願諸行往生の機の体失往生と、殿最懸隔にあらずや。いづれも文釈ことばにさきだちて歴然なり

先ほどの『末灯鈔』の御言葉とほとんど同じです。

「若不生者」の解釈について、5年前に大騒ぎして今になって修正したりしていますが、この体失不体失往生の諍論は、「若不生者」の解釈云々以前の問題ですから余りにもお粗末なのです。親鸞会教義が。

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三大諍論」カテゴリの記事

コメント

ご無沙汰しております。
管理人さんの今回の記事を読ませていただきました。差し出がましいですが、この論旨には正直疑問を感じます。
そもそも口伝鈔の文自体からは
>不体失往生を主張していたという点では、証空上人は親鸞聖人と同じではあったが、証空上人は臨終来迎に肯定的、親鸞聖人は否定的の違いがあり、その諍いが体失不体失往生の諍論
とは読み取れず、あくまで体失せずして往生を遂げるか、体失してはじめて往生を遂げるかということが論争点であったとしか無いからです。
確かに証空上人の著作(つまり一次史料)には不体失往生が述べられているのは事実ですが、法然聖人ご本人も臨終来迎を認めておられ、また不体失往生やそれに類した思想傾向もなく、この口伝鈔の記述自体が歴史的事実であったとは到底考えられない(有り体に言ってしまえば覚如上人の創作したエピソードに過ぎない)ものです。

今回の記事の管理人さんの口伝鈔解釈と、それによる高森会長に対する批判は正直申しまして、的を射ていないと感じました。

投稿: Rudel | 2014年3月27日 (木) 13時12分

普通に考えればRudelさんの通りでしょうが、覚如上人の記述があくまで正しいとしたなら、こうとしかならないとの趣旨でしょうね。
どちらにしても、高森会長の邪義は確実ですが。

投稿: 元S | 2014年3月27日 (木) 15時18分

Rudel 様

仰ることはよく判ります。その可能性も高いとは思っています。
しかし、親鸞会会員が善知識として堅く信じ切っている覚如上人の仰せを頭から否定することは、会員には受け入れることはできないと思います。それで、会員でも受け入れ可能な覚如上人を立てての内容としたのです。
その点は御了解いただきたいと思います。

投稿: 飛雲 | 2014年3月27日 (木) 19時16分

管理人さん、お返事ありがとうございます。
ただ、私の書き方も悪かったせいか、噛み合っていない点を感じますので、くどいようですが再度述べさせていただきます。
まず、管理人さんはこの記事で、あくまで口伝鈔の解釈を問題とされていますが、口伝鈔の文の当面には、親鸞聖人は体失せずに往生を遂げると主張し、証空上人は体失してはじめて往生を遂げると主張し、そこで論争となった旨が明確に書かれている以上、これを読解する上では、両者とも同じく不体失往生を主張していたとは到底読めないからです。
これは証空上人の著述の内容いかんにかかわらない事です。また口伝鈔の記述を歴史的事実と見做す立場に立っても、歴史的事実ではないとする前提に立っても同様です。

恐縮ですが、正直申しまして管理人さんの口伝鈔解釈は明らかに牽強附会の感を禁じ得ませんし、そうした聖典解釈を以って、高森会長の聖典解釈を誤りであるとか、愚かと評する行為や態度にも疑問を感じます。
強く言えば、高森会長が伝統教団に対して行なってきた態度や言動の裏返しとなってしまうからです。
むろん、管理人さんにそうした故意があるとは思いませんが、管理人さんは批判のための批判ではなく、あくまで真宗のご法義を明らかにしたいとの志でこのblogを長らく運営されてきたことと思っております。
そうした上から、今回の記事に関しては管理人さんの再考を望む次第です。

投稿: Rudel | 2014年3月29日 (土) 02時25分

Rudel 様

仰っていることを承知の上で書いているということです。
ここで詳しく言うつもりはありませんが、証空上人が不体失往生についての主張が有るのは間違いない事実です。それと『口伝鈔』をすり合わせることが、意味が有るのかないのかの立場の違いです。
私は擦り合わせをすることで、覚如上人を否定することなく、高森会長の間違いを会員に判ってもらいたいだけのことです。
多分、それでは納得されないでしょうが、以前に『愚禿鈔』での解釈でも試みたのと同じ姿勢だとお考えください。

投稿: 飛雲 | 2014年3月29日 (土) 02時47分

・証空は不体失往生を主張していた(法然上人が教えられていたのだから当然といえば当然)
・親鸞聖人の臨終来迎に対する見解と、口伝鈔の法然上人の教示がほぼ同じ

以上から導き出される可能性として

A.口伝鈔自体が間違いで、覚如上人の創作
B.諍論はあったが、その内容は臨終来迎についてであった

の2つにほぼ絞られる(親鸞会は、この諍論のあとに証空が主張を変えたといいそうだが・・・)

一般的にはAでしょうけど、会員はBの方が受け入れやすい
学問的には、Bの方がおもしろい

投稿: クルミ | 2014年3月29日 (土) 05時48分

 祖師は臨終来迎を否定されています。これは祖師が臨終来迎を説く19願を明確に権仮方便の願とみられたからです。しかし、法然聖人には、臨終来迎を念仏(他力念仏)の利益とみていたと思われる御文があります(Rudelさんのご指摘の通りです)。これは、18願と19願の関係をどのように理解するか、について元祖と祖師の立場が違うからであると思われます。その法然聖人が「来迎は諸行往生にあり。」と捌かれたと口伝抄には書かれていますが、ここにRudelさんと同じような疑念を強く感じざるを得ません。そして証空上人が不体失往生を認めていたというのであれば、不体失往生の諍論それ自体が存在したという論拠がますますなくなってしまいます。
 体失不体失往生の諍論は実のところは臨終来迎を巡る争いであったとの新たな解釈を加えることは、口伝抄の伝説が史実であったとの前提でその伝説と証空上人が不体失往生を説いていたという史実との整合性を図る観点からは面白いと思いますが、元祖が臨終来迎を念仏の利益とみていたという観点からは、依然として体失不体失往生の諍論の史実性についてはとても納得できないものが残ってしまいます。
 法然聖人の教説に上記のような点もあることを含めて、覚如上人の口伝抄には歴史的史実とは思えないと感じるところがあることを端的、かつ明確に指摘することも、会員に対する情報発信として適切ではないかと思います。それは、つじつまあわせに終始するよりも、文献的事実を重視して学問的に事実を追究する立場の方がより説得力をもつと思うからです。その意味では、証空上人の言説に直接言及されて口伝抄に対する疑念や会長の学のなさを指摘されたことは意味のあることだったと思います。

投稿: たかぼー | 2014年3月29日 (土) 18時15分

凡そ宗教研究というものには大きく信仰・理性・歴史・科学の立場があり、一般にそれぞれ神学・宗教哲学・宗教史・宗教学と呼びならわされていますが、同時にそれぞれが有機的に絡み合ってもいます。

覚如上人のご著述を考えるときは、所謂「本願寺史観」というものを念頭に置く必要があるかと思います。

投稿: 薄縹 | 2014年3月31日 (月) 20時23分

クルミ 様
たかぼー 様
薄縹 様

御意見有難うございました。
仰ることは、十分に理解できます。
私のささやかな経験では、何人かの会員に対して、覚如上人の創作の可能性について話をしたら、誰一人納得することはなく、反発することしかありませんでした。
ところが臨終来迎に絡めて話をすると、納得はしないまでも、反発までする人はありませんでした。

あくまでささやかな経験ですので、一般論ではありません。

ということで、このようなエントリーにしています。

投稿: 飛雲 | 2014年3月31日 (月) 23時26分

この件やはり親鸞会会員を想定し続けることの困難さがとりわけ顕著に表れてしまった一件に見えます。おかしなもので、親鸞会の会員は本願寺中心史観に、それこそ当の本願寺教団の人々よりずっと深く冒されていますから、覚如上人の記述に事実を反映していないものがあることなど想定できないのでしょう。

しかし、いわゆる三大諍論というのが親鸞聖人直接の言葉に遡れないものであり、それゆえ真宗において扱いの微妙なものであり、だからこそエントリー冒頭でも言われているように本願寺教団で三大諍論という括りで言及されることが少ないのだということは、およそ三大諍論というものを理解する限り知っておくべき重要なことに違いはないんですよね。(じじつ、歎異抄を通じて間接的にでもつながりが確認できる信心同異については本願寺教団でも言及は多く、逆に『伝絵』にしか記述がなくシチュエーションに無理のある信行両座は歴史家は誰も信用していない。)そこに踏み込む限り、話題を「親鸞会縛り」でやっていくことは文字通り桎梏にしかならないわけです。

このジレンマをどうしてゆくかということは今後もテーマになり続けるでしょうし避けて通れない必然だと思いますが、やはり、話題の縛りということも含めて親鸞会は捨てるべきものだということは心に留めておくべきことではないでしょうか。

投稿: dandelion | 2014年4月 2日 (水) 00時14分

管理人さん

レスありがとうございます。
これで最後にいたしますが、先に私が
「口伝鈔の文の当面には、親鸞聖人は体失せずに往生を遂げると主張し、証空上人は体失してはじめて往生を遂げると主張し、そこで論争となった旨が明確に書かれている。そうである以上、両者とも同じく不体失往生を主張していたと読解することは到底出来ない。またそれは証空上人の著述の内容や、口伝鈔の記述を歴史的事実と見做すか否かも関わらない」と述べた事についてご納得されていないようですので、喩えて申しますが、
「第二次大戦で日本がアメリカに勝つ」というストーリーの架空戦記小説があるとします。
それに対し、「歴史上の記録には、日本はポツダム宣言を受諾しアメリカに降伏したとあるのだから、この本の筋書きは、日本はアメリカに負けたと解釈するのが正しい」と主張するのは道理が通らないことはお分かりいただけますでしょうか?また、その本を架空戦記小説ではなくノンフィクション小説であるという前提に立って読もうが、ストーリーや文章の読解には関係ないのは明白です。そういうことを申し述べているのです。
さらに、両者ともに不体失往生を主張していたという前提で読めば、法然聖人が「善恵房の体失して往生するよしのぶる云々」と述べられたという記述やそれに続く内容とも同様に齟齬をきたします。以上のことから明白に、管理人さんの口伝鈔解釈は勇み足と言わざるを得ません。

『愚禿鈔』と『教行信証』の二河譬の問題についてですが、親鸞聖人という同一の著者の書かれた著作に明らかな矛盾点があり、かたや著者本人の真筆、かたや写本であるという点から、伝写の際の脱落ないし誤写という可能性が相当の蓋然性をもって考えられることであり、管理人さんの記事のように、真筆たる『教行信証』の内容をもって宗祖の本来の二河譬解釈と看做すことがむしろ穏当・適切と言えましょうが、この記事のように、異なる二者の書いた著書の内容に矛盾点があるからと、両者の整合性を取ろうとするあまり、一方の著作について「書いていない事を、書いてあると『読解』する」手法を用いること自体不穏当ですし、かえって口伝鈔の内容自体の整合性が損なわれる以上は、同列に論じることは出来ないと考えます。
重ね重ね、管理人さんの再考を望む次第です。

投稿: Rudel | 2014年4月 2日 (水) 04時50分

dandelion 様

仰る通り、親鸞会はどういう観点からでも捨て去るべきものにしかならない訳です。


Rudel 様

何度も同じことを言いますが、すべて承知の上で書いたことです。
エントリーを書いた相手、もっといえばこのブログで読んでもらいたい相手が、親鸞会の会員でありますから、会員が受け入れる内容にしただけのことです。

一つだけ言えば、

>「書いていない事を、書いてあると『読解』する」手法を用いる

よりも、

「書いてある事を、実際になかったと『読解』する」手法を用いる

ことに反発しかしない人が現実に多いわけです。

投稿: 飛雲 | 2014年4月 2日 (水) 05時07分

この件で、昔、某ネット対策員と某巨大掲示板で議論したことが有ります。
証空は不体失往生を説いていたので覚如上人が捏造した話だと私が言ったところ、某ネット対策員はこの論争の後に証空が主張を変えたと言い続けてました。いつまで経っても平行線のままでした。
某SNSでも、この論争が無かったという浄土宗の人に対し、真宗の権威の記載が嘘だと誹謗するなと言った真宗の人がいました。覚如上人の扱いの違いですから、やっぱり平行線のままでした。
覚如上人の捏造説を言っても、納得しない人は多いようです。

この論争がなかったと簡単に片付けることができるなら、管理人さんも苦労しないでしょう。Rudelさんはそう思いませんか?

投稿: 昔々の会員 | 2014年4月 2日 (水) 05時52分

諍論がなかったと断言できる証拠はない
諍論があったと推測する証拠は口伝鈔

ならば、諍論があったとして、その内容を祖師の著書と比較して一部修正するのが好ましいとも言える

投稿: クルミ | 2014年4月 2日 (水) 08時18分

覚如上人の体失不体失往生の諍論は、

(親鸞会)完全に正しい
(親鸞会以外)問題あり

の見解の相違があり、これを埋めるために

(飛雲さん)覚如上人に間違って伝えられたか、誤解があった

とされたのでしょう。
親鸞会の間違いがわかれば、覚如上人創作説に固執することもないでしょう。

投稿: kan | 2014年4月 2日 (水) 12時45分

「善知識には絶対服従」が徹底的に擦り込まれている人たちには面倒な事になりますね。
法に依りて人に依るべからずといっても分からないんだろうな。

投稿: | 2014年4月 2日 (水) 13時44分

論点は2つあります。口伝抄の「史実性の問題」と「文の当面解釈」の問題です。後者に関して言えば、体失不体失往生の諍論は臨終来迎を巡る争いであったとの新解釈は、文言解釈が許される域を超えていることが明らかであるため、一般的に受け容れ難いものです。また、「会員が受容するのであれば口伝抄の文の当面解釈を無視しても構わない。」ということにはなりません。仮に会員がこのような解釈をする人物がいると知ったとしても、のちにその解釈の誤りを他から指摘されるなどして、その解釈は誤りであると理解することになるでしょうから、結局、意味のないものになると思います。会員に対しても、一般的に受け容れられる解釈(伝統的解釈ないしは通説的解釈)を発信し続けるしか方法はないのではないでしょうか。

投稿: たかぼー | 2014年4月 2日 (水) 14時14分

盛り上がってますね。
たかぼーさんの意見は、いつも強引ですね。通説的解釈をいつも問題にしますが、そこにも疑問があることを飛雲さんに指摘されてますよね。たとえば雑行の意味です。蓮如上人は分かりにくいですが、存覚上人まではどう考えても雑行は行の意味しかないですよ。しかし、通説では心の意味もあるように説明していますが、それはやはり間違いと言わざるを得ませんよね。そんなこんなで、”通説絶対”の考えは危険ですね。”高森絶対”と通じる所があります。真宗においては”親鸞絶対”という姿勢なら許されるでしょうが、”通説絶対”はやめましょうや。同様に”覚如絶対”も言うまでもなくやめましょう。
しかしね、会員に明確に拒否されては、ブログも意味もなくなってしまうから、その点は考えないと。
たかぼーさんやRudelさんは、”絶対に正しい解釈”を御自身のブログで説明して、飛雲さんを凌駕すればいんじゃないのかね。
ブログ開設したら教えてくださいね、皆に宣伝してあげますよ。

投稿: テラ | 2014年4月 2日 (水) 15時00分

このブログにコメントすると、いつも同じような、理性的な議論にならない批判をする者が現れるが、これはどういうことなのであろうか。解釈や学説には絶対というものが無いことは、指摘されるまでもなく自明なことで、それゆえに解釈や学説がいくつあっても良いと思う(少数説がやがて多数説や通説になり、逆にかつての通説が少数説になるのは学問の世界では当たり前のことで、学説や解釈はその説得力の有無によって淘汰されるべきもの)。今、議論しているのはそのような学術的レベルでのことではない、というのであれば、何もいうことはない。

投稿: たかぼー | 2014年4月 2日 (水) 16時18分

>会員に対しても、一般的に受け容れられる解釈(伝統的解釈ないしは通説的解釈)を発信し続けるしか方法はないのではないでしょうか。

たかぼーさんのこれが問題じゃない?
ここの飛雲さんは、会員に受け入れられる解釈を発信し続けているのに、それを否定して通説優先の考えをいつも言うからでしょ。
考え方の違いはあってもいいけど、それを押し付けてはね.....

投稿: テラ | 2014年4月 2日 (水) 16時55分

ハァ? これは疑問点の呈示であって、押しつけではないでしょう。自分の抱いた疑問を呈示すれば、すべて押しつけだと騒ぐ方がおかしいのではないですか。

投稿: たかぼー | 2014年4月 2日 (水) 17時44分

>会員に対しても、一般的に受け容れられる解釈(伝統的解釈ないしは通説的解釈)を発信し続けるしか方法はないのではないでしょうか。

これが押し付けでしょう。

>.....発信し続ける方法の方がよいのではないでしょうか。

これなら、疑問の呈示や提案ですよね。「発信し続けるしか」と「しか」と限定してどうするの?
自分の考えを正しいとし、他人の意見を否定するから「しか」でしょう。
現実的に、飛雲さんの言い方でそれなりに納得する会員がいるのは事実でしょ。だったらそれを尊重しなさいよ。
考え方が違うなら、自分のブログで「発信し続ければ」よろしいのではないですか?私は「しか」と限定した言い方はしないよ。

雑行の時でもそうだった。勧学が言っているからと「しか」言い続けず、飛雲さんを困らせてましたよね。

投稿: はあ? | 2014年4月 2日 (水) 18時12分

コメント頂いた皆様

貴重な御意見、ありがとうございます。
この考え方でなければならない、という思いを私は持っておりません。
これは歴史上の問題であり、教義的な問題とは違いますので、体失不体失往生の諍論が覚如上人の創作というのも否定しません。他の解釈があっても聖教に反しない限り否定はしません。

これ以上は、この件で議論するつもりもありませんし、コメントも控えて頂きたいと思います。

御理解の程、宜しくお願い致します。

投稿: 飛雲 | 2014年4月 2日 (水) 18時25分

このブログが「親鸞会の会員だけを相手として発信する情報(解釈)であり、一般外部に向けて情報発信するものではない。」ということがよく分かりました。そうであれば、はじめから「一般的な解釈ではありません。会員だけに発信する情報です。」と明記して論述しさえすれば、このようなつまらない議論にならなかったと思います。体失不体失往生の諍論がいつのまにか「場外乱闘」になりそうだから、私は、もう降りますよ。

投稿: たかぼー | 2014年4月 2日 (水) 18時28分

自分に利するあいだは「楽しい」ことも、
自分に不利となれば「つまらない」ものになる。
始めから「外野」のくせにどこに「降りる」というのだろう。

投稿: 毒 | 2014年4月 3日 (木) 05時13分

管理人様

前回、最後にしますと書いた上で再度コメントするのも恐縮ですが、ご容赦を。

>すべて承知の上で書いたことです。
>エントリーを書いた相手、もっといえばこのブログで読んでもらいたい相手が、親鸞会の会員でありますから、会員が受け入れる内容にしただけのことです。

もしそういう意図で書かれた記事でしたら、私が最初にコメントした時点で
「確かにこの口伝鈔読解は論理の飛躍があるし、こうした聖典解釈をもって親鸞会の教義批判を行う手法も問題かもしれないが、会員に対してこういうレトリックを用いると親鸞会教義に疑問を持つきっかけになってくれる人もいる、という経験上、特定の意図の上であえて書いたことなので、理解を求む」とでも素直にレスしていただければこちらもそれなりの対応ができたことと思いますが…
知らない間柄ではないのですから、コメントの形で書きづらいならば、メール等で送っていただいてもよかったのになぁと思います。
わざわざ「証空上人に不体失往生の主張があったのは間違いないことだから」とか「以前に愚禿鈔で試みたのと同じ」等と述べられるのも意図が良く分かりません。
社会的なことにしろ、宗教上のことにしろ、「綺麗事ではすまされない」事が多々あるのは、わたしもよくわかります。
一方で「無理が通れば道理が引っ込む」ではないですが、「綺麗事と言われようが通さねばならない」事が同時にあるとも、常々思っておりますが。

投稿: Rudel | 2014年4月 3日 (木) 05時23分

Rudel 様

あのようなコメントでもこちらの気持ちが伝わると期待していたのですが、実際には伝わず、すれ違いであったことを残念に思います。
メールで送ることも考えましたが、陰でこそこそするのもどうかと思いまして、しませんでした。
「証空上人に不体失往生の主張があったのは間違いないことだから」で、『口伝鈔』そのままでは問題があることを指摘し、「以前に愚禿鈔で試みたのと同じ」で、親鸞聖人の直の御言葉に順じて修正を加えたと言いたかっただけです。
修正と言っても、教義的な話ではなく、歴史上の出来事に対することですから、覚如上人の教えられたことや人格を否定することなく、誤って伝わったか、聞き誤った等のことにすれば、問題ないと判断したからです。

いずれにしても、私の意図が伝わらなかったのですから、今後は気をつけたいと思います。ただし、基本的な姿勢は新しいエントリーでも書いた通りですので、そのように御理解下さい。

投稿: 飛雲 | 2014年4月 3日 (木) 05時41分

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