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2014年3月

2014年3月25日 (火)

体失不体失往生の諍論

高森顕徹会長は、いわゆる三大諍論が好きです。なぜなら本願寺では三大諍論を言わないので、三大諍論を強調すればするほど、自己の偉大さをアピールできると考えているからです。
もちろん三大諍論は、大沼師からのパクリです。
大沼師の著書に、三大浄論は散見されますが、これが何を意味しているのかを理解する能力が、高森会長にはありません。

まず、体失不体失往生の諍論について。

証空上人は不体失往生を教えていなかったのかといえば、そうではありません。

『定善義他筆抄』に

此世とは、即便往生を云ひ、後生とは、当得往生を云う也。

とあります。
不体失往生である「即便往生」と、体失往生である「当得往生」の2つを明言しています。高森会長の言う、死んでからの救いのみを教えられたのが証空上人であるということが全くのデタラメであることがこの一文ではっきりします。

一方で『女院御書』には

他力本願をたのみて、過去の罪をも、今生の罪をも懺悔して、仏かならず迎給へと思ひて念仏せば、かならず本願にも相叶ひて臨終には仏の来迎にもあづかるべきものなり。

とあるように、臨終来迎についの言及もあります。

ところが親鸞聖人は、臨終来迎については否定的にしか仰っていません。
たとば『末灯鈔』には

来迎は諸行往生にあり、自力の行者なるがゆゑに。臨終といふことは、諸行往生のひとにいふべし、いまだ真実の信心をえざるがゆゑなり。また十悪・五逆の罪人のはじめて善知識にあうて、すすめらるるときにいふことなり。真実信心の行人は、摂取不捨のゆゑに正定聚の位に住す。このゆゑに臨終まつことなし、来迎たのむことなし。信心の定まるとき往生また定まるなり。来迎の儀則をまたず。
(中略)
この自力の行人は、来迎をまたずしては、辺地・胎生・懈慢界までも生るべからず。このゆゑに第十九の誓願に、「もろもろの善をして浄土に回向して往生せんとねがふ人の臨終には、われ現じて迎へん」と誓ひたまへり。臨終まつことと来迎往生といふことは、この定心・散心の行者のいふことなり。

(現代語訳)

来迎は諸行往生すなわちさまざまな行を修めて浄土に往生しようとする人についていうのであり、 それは、 自力の行者だからです。 臨終の時に往生が定まるということは、 諸行往生の人についていうのであり、 それは、 まだ真実の信心を得ていないからです。 また十悪・五逆の罪を犯した人が、 臨終の時にはじめて善知識に出会い、 念仏を勧められる際にいうことなのです。 ^真実の信心を得た人は、 阿弥陀仏が摂め取ってお捨てにならないので正定聚の位に定まっています。 だから、 臨終の時まで待つ必要もありませんし、 来迎をたよりにする必要もありません。 信心が定まるとのときに往生もまた定まるのです。 来迎のための儀式を当てにする必要はありません。
(中略)
このような自力の行を修める人は、 来迎がないと辺地や胎宮や懈慢界などといわれる方便の浄土にさえ生れることができません。 だから第十九願に、 「さまざまな善を積み、 浄土に回向し、 往生したいと願う人が、 命を終えようとする時、 わたしはその人の前に現れて迎え取りましょう」 と誓われているのです。 臨終の時まで待つということと来迎により往生するということは、 このような定善や散善を修める人がいうことです。

このように、親鸞聖人は臨終来迎については、諸行往生であり、定散の機に限られるという解釈をなされています。

つまり、不体失往生を主張していたという点では、証空上人は親鸞聖人と同じではあったが、証空上人は臨終来迎に肯定的、親鸞聖人は否定的の違いがあり、その諍いが体失不体失往生の諍論だということと考えられます。

『口伝鈔』の法然上人の御言葉を読むと、そのことがより判ります。

善恵房の体失して往生するよしのぶるは、諸行往生の機なればなり。善信房の体失せずして往生するよし申さるるは、念仏往生の機なればなり。〈如来教法元無二〉なれども、〈正為衆生機不同〉なれば、わが根機にまかせて領解する条、宿善の厚薄によるなり。念仏往生は仏の本願なり、諸行往生は本願にあらず。念仏往生には臨終の善悪を沙汰せず、至心信楽の帰命の一心、他力より定まるとき、即得往生住不退転の道理を、善知識にあうて聞持する平生のきざみに治定するあひだ、この穢体亡失せずといへども、業事成弁すれば体失せずして往生すといはるるか。本願の文あきらかなり、かれをみるべし。つぎに諸行往生の機は臨終を期し、来迎をまちえずしては胎生辺地までも生るべからず。このゆゑにこの穢体亡失するときならでは、その期するところなきによりてそのむねをのぶるか。第十九の願にみえたり。勝劣の一段におきては、念仏往生は本願なるについて、あまねく十方衆生にわたる。諸行往生は、非本願なるによりて定散の機にかぎる。本願念仏の機の不体失往生と、非本願諸行往生の機の体失往生と、殿最懸隔にあらずや。いづれも文釈ことばにさきだちて歴然なり

先ほどの『末灯鈔』の御言葉とほとんど同じです。

「若不生者」の解釈について、5年前に大騒ぎして今になって修正したりしていますが、この体失不体失往生の諍論は、「若不生者」の解釈云々以前の問題ですから余りにもお粗末なのです。親鸞会教義が。

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2014年3月16日 (日)

高森顕徹会長と親鸞会に絶望し、自ら死を選ぶ会員

「なぜ生きる」「人生の目的」を教えている唯一の団体と豪語している親鸞会ですが、熱心な会員の自殺は時々あります。
自殺を止めることができる教えである筈なのに、自殺を選ぶ会員が無くならないのは、どこに理由があるのか、現会員は考えてもらいたいと思います。
表向きの理由はいくつかあるのでしょうが、結局のところ、親鸞会に絶望した、ということでしょう。
高森顕徹会長の言っていることはころころ変わるし、理不尽な要求は続くし、反社会的な問題は当然知っていますし、今生で信心決定できそうもない。ならば、親鸞会で活動している辛さから逃れたい、という思いが当然出てくるでしょう。
肝心要の教義もデタラメと判ったなら、退会を選べば良いのですが、それもできない状況に追い込まれているとしたら、実に哀れです。

さて、2年前に正式に法論を申し込んでから、私の方には何の連絡もなく、ひたすら逃げ回っているのが、高森会長であり、親鸞会です。正式な申し込みの内容は以下のエントリーで紹介しました。

書面で法論を申し込んだら、”検討する”だそうです

W 様

御無沙汰しております、○○です。
昨日の件は、聞いております。法論の申し込みを書面でせよ、とのことですので、本日申し込みの書面を書留で送りました。
内容は以下の通りです。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
              法論の申し込み
                            平成24年3月18日
弘宣局長 W 様

御無沙汰しております、○○です。

昨年、K講師を通して、法論を申し込みましたが無視されました。
しかしその件で、「弘宣局に直接法論を申し込むように」と貴方が言われたそうですので、ここに書面をもって法論を正式に申し込みます。

法論の条件は、

1.法論の土俵はお聖教であり、お聖教にない文底秘沈のような主張はしない
2.文章でやりとりをする
3.法論の場は、以下とする
  mixi内の信仰と対話コミュニティ*「三願転入」議論継続トピック*
  
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=53217382&comm_id=2135313
4.相手の質問に対して質問で返さず、相手の質問に答えてから新たな質問をする

以上の4点です。

かつて親鸞会は公約していた筈です。

「親鸞会は公約しています。親鸞会の主張に対して異議、反論のある方は遠慮なく申し出てください。相手が集団であれ、個人であれ、公開であれ、非公開であれ、討論であれ、文書討論であれ、相手の希望される方法で、時と場所を問わず、本当の親鸞聖人のみ教えを開顕するために、喜んで対決に応じます。」

これが口先だけであったとは、言わせません。

私の主張は、「親鸞会教義の誤り」「飛雲」「親鸞会の邪義を正す」等のブログで書かれている通りです。一読された上で、法論に臨んで頂きたいと思います。
親鸞聖人の仰せと高森顕徹会長の主張との相違点を以下に列記しておきます。

1.獲信していない人の死後はどうなるか

親鸞聖人 六道輪廻(19願・20願の同行は化土往生)
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高森会長 必堕無間

2.五逆罪・謗法罪について

親鸞聖人 造っている人と造っていない人がいる
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高森会長 造っていない人はいない、全ての人は生まれながらに造っている

3.善人と悪人について

親鸞聖人 善人と悪人とがいる
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高森会長 善人はいない、すべての人は悪人である

4.獲信のために善は必要か

親鸞聖人 念仏1つ、獲信に善は不要
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高森会長 善をしなければ絶対に獲信できない

5.白道とは

親鸞聖人 自力の心にあらず
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高森会長 自力

6.定散二善について

親鸞聖人 定散二善を捨てよ
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高森会長 定散二善をせよ

7.19願について

親鸞聖人 19願を捨てよ
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高森会長 19願を実践せよ

8.宿善について

親鸞聖人 過去世の善根の厚薄と、往生・獲信とは関係ない
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高森会長 過去世の善根の薄い者が、そのままで往生・獲信することはありえない

9.機の深信について

親鸞聖人 自力では出離できない
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高森会長 逆謗の屍と必ず知らされる

10.善知識に無条件服従しなければならないか

親鸞聖人 法に従うのであって、人に従うのではない
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高森会長 善知識に無条件服従せよ

なお、法論に応じられても応じられなくても、返事を頂いても頂かなくても、すべて公開しますので、御了承ください。

                                           ○○○○
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

mixiでの三願転入の法論は、親鸞会の逃亡とトピック削除で幕を閉じましたが、とりあえずその続きをしたいと考えております。

なお、上に挙げたブログをすべて読まれるのは大変でしょうから、最低限、添付ファイルのところだけでも読んでおいて頂けませんでしょうか。

目的は親鸞聖人のみ教えを開顕するためですので、よいお返事をお待ちしております。

○○○○

その後、顕真掲載の「ひと口問答」や『なぜ生きる2』で、間接的に反論している格好をとっていますが、すべて小手先の誤魔化しに過ぎません。

これが、無二の善知識の実態です。

現会員には、高森会長と親鸞会に絶望して、死ではなく退会を選んでもらいたいと思っています。

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2014年3月 8日 (土)

今後、高森顕徹会長に謝罪会見はあるのかないのか

嘘が発覚し、謝罪会見をする人物や団体を、マスコミを通して目にすることがあります。その会見の中で、新たな嘘をつくこともありますが、少なくとも隠しようのない嘘については謝罪をしています。
ところが高森顕徹会長は、隠しようのない嘘について謝罪するどころか必死に誤魔化そうとしています。それを60年以上も続けてきた人物です。高森会長が嘘をつき続けてきた集大成が『なぜ生きる2』と言ってもよいでしょう。

さて、19願や定散二善は捨てるために説かれた、とまで法然上人は仰って、親鸞聖人もその通りに教えられているのですが、それに激怒した人たちがいたのです。

釈迦一代の善の勧めは無駄であったと言うのか

どこかで聞いた言葉ですが、当時の聖道門がこのようなことを言ったのは当然とも言えます。自分たちが実践している善を否定されたことになるのですから。
しかし法然上人は、18願の念仏で浄土往生をしたいと願っている人に対して、このように仰ったのであって、聖道門を信じている人に対しては善の位置付けをほとんど仰っていませんでした。
それで、親鸞聖人が聖道門を信じている人に対して説明をされたのが、化土巻であり、三願転入の文であったのです。聖道門と19願を権仮方便として定義され、18願に導くための仮の教えであると説明された訳です。これは、聖道門を信じている人に対しての説明であって18願を信じている人に対しての説明ではありません。18願を信じている人に対しての説明は、法然上人と同じで、廃立です。

ここで話をすり替えたのが高森会長です。18願を信じている人に対して、18願まで導くための方便が19願だから、19願を実践せよ、と。

会員には理解しがたいと思いますので、もう少し説明すると、聖道門を信じている人は18願を信じる気は全くありません。聖道門を信じている人は、18願は善をする気のない悪人に仏教を信じさせるための程度の低い仮の教えだとしか見做していません。それと、18願を願いながら信心決定していない人とが同じである筈が有りません。対機説法ですから、機に応じて違う法を釈尊が説かれたということです。それが八万四千の法門です。

ここまでの基本的なことが理解できれば、『一念多念証文』

おほよそ八万四千の法門は、みなこれ浄土の方便の善なり。これを要門といふ。これを仮門となづけたり。
この要門・仮門といふは、すなはち『無量寿仏観経』一部に説きたまへる定善・散善これなり。定善は十三観なり、散善は三福九品の諸善なり。これみな浄土方便の要門なり、これを仮門ともいふ。この要門・仮門より、もろもろの衆生をすすめこしらへて、本願一乗円融無碍真実功徳大宝海にをしへすすめ入れたまふがゆゑに、よろづの自力の善業をば、方便の門と申すなり。

もそのまま素直に読めると思います。
釈尊が多くの教えを説かれたと言っても、それは『観無量寿経』の定散二善に集約されて、それらは18願を信じさせるための仮の教えだ、という以上の意味はなく、定散二善の実践など、どこにも勧められていないのです。
この御言葉は、この前の

しかれば『大経』には、「如来所以 興出於世 欲拯群萌 恵以真実之利」とのたまへり。

を説明する中で出てくるお言葉ですから、「如来所以 興出於世 欲拯群萌 恵以真実之利」をすでに信じている人には関係のない話なのです。

再度言うと、

釈迦一代の善の勧めは無駄であったと言うのか

という人に対して、それは18願を信じる気のない人を18願を信じさせるために聖道門も19願も定散二善も仮の教えとして説かれたのですよ、と親鸞聖人が仰ったというだけのことです。

釈迦一代の教えは18願だ

と信じている人は、法然上人、親鸞聖人が勧められる通り、19願・定散二善を捨てればいいのです。

なお、高森会長の謝罪会見は、永久にありません。

親鸞聖人の教えを間違って伝えたならば、腹を切ってお詫びをする

とまで言い切っていたのですから。

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2014年3月 3日 (月)

権仮方便は廃せんがために説き、善巧方便は立せんがために説くという廃立の教え

お気付きの方も多いと思いますが、親鸞会の凋落は、様々な形で現われています。その最大の要因は、高森顕徹会長のデタラメ教学が公けになったことです。

何百年に一人の善知識と会員に呼ばせていながら、高森会長自身が、驚くべき不勉強と思い込みの激しさから、親鸞聖人の教えとは悉く正反対の教えを説いてきたのです。そして、そのことを高森会長も認めざるを得なくなってきています。
高森会長は、元々小心者ですので、自信を喪失したら脆いものです。虚勢を張ってはいますが、内心びくびくしていることが、伝わってきます。

さて、大沼法竜師の『方便から真実え 浄土真宗』という本をパクリ損ねた高森邪義ですが、高森会長が方便の意味を根本的に間違えていることは、これまで何度も説明してきました。

『なぜ生きる2』では『改邪鈔』

三経のなかに、『観経』の至誠・深心等の三心をば、凡夫のおこすところの自力の三心ぞと定め、『大経』所説の至心・信楽・欲生等の三信をば、他力よりさづけらるるところの仏智とわけられたり。しかるに、「方便より真実へ伝ひ、凡夫発起の三心より如来利他の信心に通入するぞ」とをしへおきまします祖師親鸞聖人の御釈を拝見せざるにや。

を引用して、「方便」より「真実」へ入ると親鸞聖人が教えられている、と嘘を言っています。この場合の「方便」と「真実」は、それぞれ権仮方便と善巧方便のことです。ならば、権仮方便より善巧方便に入ると仰っているのではないか、と勘違いしている人もいますが、この後を読むと、それが間違いと判ります。

まづ能化・所化をたて、自力・他力を対判して、自力をすてて他力に帰し、能化の説をうけて所化は信心を定得するこそ、今師御相承の口伝にはあひかなひはんべれ。

方便より真実へ伝ひ」とは、「自力・他力を対判して、自力をすてて他力に帰し」の意味になります。方便を通ってから真実に入る、ではなく、方便と真実を対にして判じ方便を捨てて真実に帰しなさい、と言う意味です。判りやすいく言えば、方便と真実を比較してその違いを明らかにし、間違っている方便を捨てて正しい真実を選んでいきなさい、ということです。

これは法然上人が『選択本願念仏集』

諸行を廃して念仏に帰せしめんがためにしかも諸行を説く。
定散は廃せんがために説き、念仏三昧は立せんがために説く。

と仰ったことと同じ意味になります。
これを蓮如上人は『御一代記聞書』

方便をわろしといふことはあるまじきなり。方便をもつて真実をあらはす廃立の義よくよくしるべし。弥陀・釈迦・善知識の善巧方便によりて、真実の信をばうることなるよし仰せられ候ふ

と仰っておられるだけですが、高森会長はこれも会員を騙す材料に使っています。
権仮方便と善巧方便の意味を理解していれば、何も難しいことはないのです。「方便をもつて真実をあらはす廃立の義よくよくしるべし。」は、法然上人風に言い換えると、
権仮方便(諸行・定散二善)を廃して善巧方便(念仏)に帰せしめんがためにしかも権仮方便を説くという廃立の教えをよく知るべし、
権仮方便(諸行・定散二善)は廃せんがために説き、善巧方便(念仏)は立せんがために説くという廃立の教えをよく知るべし、
です。

こんなことは4年前のmixiでの法論で、既に高森会長が絶句した内容だったのですが、高森会長は間違いを知りながら会員さえ騙せればいいの思い1つなのです。

騙される会員は哀れですが、批判に怯えながら会員を騙し続ける高森会長もまた哀れです。

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