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2014年2月20日 (木)

18願に入るのに19願を通る必要があるのかないのか。

七高僧も親鸞聖人も、聖道門から18願に帰依された点で共通していますが、その途中で19願を通ると教えられているでしょうか。

龍樹菩薩の『十住毘婆沙論』を、親鸞聖人は『教行信証』行巻に引かれています。

仏法に無量の門あり。世間の道に難あり、易あり。陸道の歩行はすなはち苦しく、水道の乗船はすなはち楽しきがごとし。菩薩の道もまたかくのごとし。あるいは勤行精進のものあり、あるいは信方便の易行をもつて疾く阿惟越致に至るものあり。{乃至}
〈もし人疾く不退転地に至らんと欲はば、恭敬の心をもつて執持して名号を称すべし〉。

(現代語訳)

仏法には、はかり知れない多くの教えがある。たとえば、世の中の道には、難しい道と易しい道とがあって、陸路を歩んでいくのは苦しいが、水路を船に乗って渡るのは楽しいようなものである。菩薩の道も同じである。自力の行に励むものもいれば、他力信心の易行で速やかに不退転の位に至るものもある。(中略)
もし人が速やかに不退転の位に至ろうと思うなら、あつく敬う心をもって仏の名号を信じ称えるがよい。

聖道門からいきなり18願の念仏を勧めておられます。19願は無視されています。
これを親鸞聖人は『高僧和讃』龍樹讃でわかりやすく

龍樹大士世にいでて
 難行易行のみちをしへ
 流転輪廻のわれらをば
 弘誓のふねにのせたまふ

と仰っています。

この龍樹菩薩の教えを曇鸞大師は『浄土論註』にて解説なされていますが、親鸞聖人は同じく行巻に引かれています。

つつしんで龍樹菩薩の『十住毘婆沙』を案ずるにいはく、
〈菩薩、阿毘跋致を求むるに二種の道あり。一つには難行道、二つには易行道なり。難行道とは、いはく、五濁の世、無仏の時において阿毘跋致を求むるを難とす。
(中略)
たとへば陸路の歩行はすなはち苦しきがごとし。易行道とは、いはく、ただ信仏の因縁をもつて浄土に生ぜんと願ず。仏願力に乗じてすなはちかの清浄の土に往生を得しむ。仏力住持してすなはち大乗正定の聚に入る。正定はすなはちこれ阿毘跋致なり。たとへば水路に船に乗じてすなはち楽しきがごとし〉と。
この『無量寿経優婆提舎』は、けだし上衍の極致、不退の風航なるものなり。無量寿はこれ安楽浄土の如来の別号なり。釈迦牟尼仏、王舎城および舎衛国にましまして、大衆のなかにして無量寿仏の荘厳功徳を説きたまふ。すなはち仏の名号をもつて経の体とす。後の聖者婆藪槃頭菩薩(天親)、如来大悲の教を服膺して、経に傍へて願生の偈を作れり

(現代語訳)

つつしんで、龍樹菩薩の『十住毘婆娑論』をうかがうと、<菩薩が不退転の位を求めるのに二種の道がある。一つには難行道であり、二つには易行道である。
 難行道とは、五濁の世、また仏がおられない世において、不退転の位を求めることを難行というのである。
(中略)
これをたとえていえば、陸路を徒歩で行けば苦しいようなものである。易行道とは、ただ仏を信じて浄土の往生を願えば、如来の願力によって清らかな国に生れ、仏にささえられて、ただちに大乗の正定聚に入ることができることをいう。正定聚とは不退転の位である。これをたとえていえば、水路を船で行けば楽しいようなものである>といわれている。
<無量寿>とは、浄土の如来の別名である。釈尊は、王舎城や舎衛国において、大衆の中で無量寿仏の本願によって成就されたさまざまな荘厳功徳をお説きになった。そこで、その荘厳功徳のすべてをおさめた名号をもって浄土三部経の本質とするのである。後代の聖者天親菩薩が、釈尊の大いなる慈悲のお心から説かれた教えをいただかれ、経にしたがって願生偈をつくられたのである

やはり、聖道門からいきなり18願の念仏です。19願は無視です。
これを『高僧和讃』曇鸞讃では、

万行諸善の小路より
 本願一実の大道に
 帰入しぬれば涅槃の
 さとりはすなはちひらくなり

と仰っています。

ところが、高森顕徹会長はこの御和讃の「万行諸善の小路」を19願とし、19願より18願に入る根拠としています。何が何でも19願の勧めとしたいのでしょうが、この後に「涅槃のさとり」とあることからも、「万行諸善の小路」は聖道門(難行道)のことを指して仰っていることは明らかです。
もし「万行諸善の小路」が19願を指しているなら、18願との関連で「浄土往生」というような表現になる筈ですし、第一、曇鸞大師は19願について全く仰っていないのですから、これが19願を指すことはありえません。

そうなると、高森風にこの御和讃を解釈するなら、
聖道門を通って18願に入る
ということで、まずは聖道門から始めなければならない、と親鸞聖人が教えられた根拠となってしまいます。
もちろん、龍樹菩薩も曇鸞大師も親鸞聖人もそんなことを仰る筈もありません。そして19願を通れ、という意味も全くないのです。

親鸞会の言っていることは、どの角度から見てもおかしいのです。

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コメント

S狸さんは18願だけで助かったそうですよね。

投稿: | 2014年2月22日 (土) 10時23分

七高僧は18願だけで助かったそうですよね。

投稿: 元S | 2014年2月22日 (土) 10時38分

高森は「善の勧め」と言いながら聖道門を誹謗していてとてもおかしいです。
己の汚い欲望のために仏法を利用する心情が見え見えです。

投稿: | 2014年2月22日 (土) 12時58分

先の名無し 様

善知識方が、18願だけで助かる、と仰っているのですから、その通りに助かったのならそう言うでしょう。何も不思議ではありません。


後の名無し 様

会長の心は、金集め人集めですから、会員が聖道門を信じてもらっても困りますし、18願だけを信じてもらっても困るのです。それで、18願だけで助かる、というのは間違いと、善知識方の仰せを否定するしかないのです。

投稿: 飛雲 | 2014年2月27日 (木) 21時54分

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