真実と方便について判っていない高森顕徹会長
『なぜ生きる2』には、方便についての無知も、晒されています。少しでも仏教を学んだ人なら、こんな愚かなことは言わないでしょう。
方便の無知は、『教学聖典(2)』でも判ります。
問(6) 仏教で方便とはどんなことか。
答(6) 我々を真実に近づけ、真実を体得させるに絶対必要なものを言う。
真実と方便の定義もよく判っていないのでしょう。
親鸞聖人は『教行信証』証巻に、『浄土論註』を引かれて
このなかに「方便」といふは、いはく作願して一切衆生を摂取して、ともに同じくかの安楽仏国に生ぜしむ。かの仏国はすなはちこれ畢竟成仏の道路、無上の方便なり。
(現代語訳)
いまここに「方便」というのは、願をおこしたすべての衆生を摂め取り、みなともに浄土に生れさせることである。阿弥陀仏の浄土は、仏となる究極の道であり、この上なくすぐれた手だてなのである。
とあります。阿弥陀仏の浄土も成仏に対しての「無上の方便」ということです。
これを『高僧和讃』曇鸞讃で言い換えられて
安楽仏国に生ずるは
畢竟成仏の道路にて
無上の方便なりければ
諸仏浄土をすすめけり
と仰っています。「無上の方便」である浄土を諸仏が勧められているということです。
またこの後に
安楽仏国にいたるには
無上宝珠の名号と
真実信心ひとつにて
無別道故とときたまふ
とありますが、これは同じく証巻に『浄土論註』を引かれて
かの安楽国土はこれ阿弥陀如来正覚浄華の化生するところにあらざることなし。同一に念仏して別の道なきがゆゑに。
(現代語訳)
浄土への往生は、みな阿弥陀仏の清らかなさとりの花からの化生である。それは同じ念仏によって生れるのであり、その他の道によるのではないからである。
を基に仰ったものです。
従って、高森顕徹会長の方便を説明した言葉を用いるなら、方便である18願、名号、念仏、信心、浄土は
我々を真実(仏)に近づけ、真実を体得させる(成仏)に絶対必要なものを言う。
と言うことはできるでしょう。
ところが高森会長は18願、名号、念仏、信心、浄土を真実とした上で、19願、諸善を方便として、19願、諸善の役割を
我々を真実(18願)に近づけ、真実を体得させる(信心)に絶対必要なものを言う。
とするから訳が判らなくなるのです。
18願、名号、念仏、信心、浄土は、真実の方便
19願、諸善は、仮の方便
ということで、前者を善巧方便といい、後者を権仮方便と親鸞聖人は定義されているのです。
親鸞会の会員にはややこしくて理解できないかもしれませんが、
高森会長が真実と言っているのは、真実の方便(善巧方便)のことであり、
高森会長が方便と言っているのは、仮の方便(権仮方便)のことです。
真実の方便(善巧方便)と仮の方便(権仮方便)との関係は、真実の方便(善巧方便)を信じることのできない、拒絶する人に対して、仮の方便(権仮方便)が必要となるのですから、真実の方便(善巧方便)を信じ願い求めている人にとって、仮の方便(権仮方便)は不要なのです。
従って、真実の方便(善巧方便)である18願、名号、念仏、信心、浄土を願い求めている人に対しては、仮の方便(権仮方便)である19願、諸善を捨てよ、としか教えられないのは当然なことなのです。
会員の皆さんは、頭を整理して、真実と方便の定義をよく理解してください。すると高森会長の無知とトリックが判ってきます。
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