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2014年2月

2014年2月27日 (木)

真実と方便について判っていない高森顕徹会長

『なぜ生きる2』には、方便についての無知も、晒されています。少しでも仏教を学んだ人なら、こんな愚かなことは言わないでしょう。

方便の無知は、『教学聖典(2)』でも判ります。

問(6) 仏教で方便とはどんなことか。
答(6) 我々を真実に近づけ、真実を体得させるに絶対必要なものを言う。

真実と方便の定義もよく判っていないのでしょう。

親鸞聖人は『教行信証』証巻に、『浄土論註』を引かれて

このなかに「方便」といふは、いはく作願して一切衆生を摂取して、ともに同じくかの安楽仏国に生ぜしむ。かの仏国はすなはちこれ畢竟成仏の道路、無上の方便なり。

(現代語訳)

いまここに「方便」というのは、願をおこしたすべての衆生を摂め取り、みなともに浄土に生れさせることである。阿弥陀仏の浄土は、仏となる究極の道であり、この上なくすぐれた手だてなのである。

とあります。阿弥陀仏の浄土も成仏に対しての「無上の方便」ということです。

これを『高僧和讃』曇鸞讃で言い換えられて

安楽仏国に生ずるは
 畢竟成仏の道路にて
 無上の方便なりければ
 諸仏浄土をすすめけり

と仰っています。「無上の方便」である浄土を諸仏が勧められているということです。

またこの後に

安楽仏国にいたるには
 無上宝珠の名号と
 真実信心ひとつにて
 無別道故とときたまふ

とありますが、これは同じく証巻に『浄土論註』を引かれて

かの安楽国土はこれ阿弥陀如来正覚浄華の化生するところにあらざることなし。同一に念仏して別の道なきがゆゑに。

(現代語訳)

浄土への往生は、みな阿弥陀仏の清らかなさとりの花からの化生である。それは同じ念仏によって生れるのであり、その他の道によるのではないからである。

を基に仰ったものです。

従って、高森顕徹会長の方便を説明した言葉を用いるなら、方便である18願、名号、念仏、信心、浄土は

我々を真実(仏)に近づけ、真実を体得させる(成仏)に絶対必要なものを言う。

と言うことはできるでしょう。

ところが高森会長は18願、名号、念仏、信心、浄土を真実とした上で、19願、諸善を方便として、19願、諸善の役割を

我々を真実(18願)に近づけ、真実を体得させる(信心)に絶対必要なものを言う。

とするから訳が判らなくなるのです。

18願、名号、念仏、信心、浄土は、真実の方便
19願、諸善は、仮の方便

ということで、前者を善巧方便といい、後者を権仮方便と親鸞聖人は定義されているのです。
親鸞会の会員にはややこしくて理解できないかもしれませんが、

高森会長が真実と言っているのは、真実の方便(善巧方便)のことであり、
高森会長が方便と言っているのは、仮の方便(権仮方便)のことです。

真実の方便(善巧方便)と仮の方便(権仮方便)との関係は、真実の方便(善巧方便)を信じることのできない、拒絶する人に対して、仮の方便(権仮方便)が必要となるのですから、真実の方便(善巧方便)を信じ願い求めている人にとって、仮の方便(権仮方便)は不要なのです。
従って、真実の方便(善巧方便)である18願、名号、念仏、信心、浄土を願い求めている人に対しては、仮の方便(権仮方便)である19願、諸善を捨てよ、としか教えられないのは当然なことなのです。

会員の皆さんは、頭を整理して、真実と方便の定義をよく理解してください。すると高森会長の無知とトリックが判ってきます。

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2014年2月20日 (木)

18願に入るのに19願を通る必要があるのかないのか。

七高僧も親鸞聖人も、聖道門から18願に帰依された点で共通していますが、その途中で19願を通ると教えられているでしょうか。

龍樹菩薩の『十住毘婆沙論』を、親鸞聖人は『教行信証』行巻に引かれています。

仏法に無量の門あり。世間の道に難あり、易あり。陸道の歩行はすなはち苦しく、水道の乗船はすなはち楽しきがごとし。菩薩の道もまたかくのごとし。あるいは勤行精進のものあり、あるいは信方便の易行をもつて疾く阿惟越致に至るものあり。{乃至}
〈もし人疾く不退転地に至らんと欲はば、恭敬の心をもつて執持して名号を称すべし〉。

(現代語訳)

仏法には、はかり知れない多くの教えがある。たとえば、世の中の道には、難しい道と易しい道とがあって、陸路を歩んでいくのは苦しいが、水路を船に乗って渡るのは楽しいようなものである。菩薩の道も同じである。自力の行に励むものもいれば、他力信心の易行で速やかに不退転の位に至るものもある。(中略)
もし人が速やかに不退転の位に至ろうと思うなら、あつく敬う心をもって仏の名号を信じ称えるがよい。

聖道門からいきなり18願の念仏を勧めておられます。19願は無視されています。
これを親鸞聖人は『高僧和讃』龍樹讃でわかりやすく

龍樹大士世にいでて
 難行易行のみちをしへ
 流転輪廻のわれらをば
 弘誓のふねにのせたまふ

と仰っています。

この龍樹菩薩の教えを曇鸞大師は『浄土論註』にて解説なされていますが、親鸞聖人は同じく行巻に引かれています。

つつしんで龍樹菩薩の『十住毘婆沙』を案ずるにいはく、
〈菩薩、阿毘跋致を求むるに二種の道あり。一つには難行道、二つには易行道なり。難行道とは、いはく、五濁の世、無仏の時において阿毘跋致を求むるを難とす。
(中略)
たとへば陸路の歩行はすなはち苦しきがごとし。易行道とは、いはく、ただ信仏の因縁をもつて浄土に生ぜんと願ず。仏願力に乗じてすなはちかの清浄の土に往生を得しむ。仏力住持してすなはち大乗正定の聚に入る。正定はすなはちこれ阿毘跋致なり。たとへば水路に船に乗じてすなはち楽しきがごとし〉と。
この『無量寿経優婆提舎』は、けだし上衍の極致、不退の風航なるものなり。無量寿はこれ安楽浄土の如来の別号なり。釈迦牟尼仏、王舎城および舎衛国にましまして、大衆のなかにして無量寿仏の荘厳功徳を説きたまふ。すなはち仏の名号をもつて経の体とす。後の聖者婆藪槃頭菩薩(天親)、如来大悲の教を服膺して、経に傍へて願生の偈を作れり

(現代語訳)

つつしんで、龍樹菩薩の『十住毘婆娑論』をうかがうと、<菩薩が不退転の位を求めるのに二種の道がある。一つには難行道であり、二つには易行道である。
 難行道とは、五濁の世、また仏がおられない世において、不退転の位を求めることを難行というのである。
(中略)
これをたとえていえば、陸路を徒歩で行けば苦しいようなものである。易行道とは、ただ仏を信じて浄土の往生を願えば、如来の願力によって清らかな国に生れ、仏にささえられて、ただちに大乗の正定聚に入ることができることをいう。正定聚とは不退転の位である。これをたとえていえば、水路を船で行けば楽しいようなものである>といわれている。
<無量寿>とは、浄土の如来の別名である。釈尊は、王舎城や舎衛国において、大衆の中で無量寿仏の本願によって成就されたさまざまな荘厳功徳をお説きになった。そこで、その荘厳功徳のすべてをおさめた名号をもって浄土三部経の本質とするのである。後代の聖者天親菩薩が、釈尊の大いなる慈悲のお心から説かれた教えをいただかれ、経にしたがって願生偈をつくられたのである

やはり、聖道門からいきなり18願の念仏です。19願は無視です。
これを『高僧和讃』曇鸞讃では、

万行諸善の小路より
 本願一実の大道に
 帰入しぬれば涅槃の
 さとりはすなはちひらくなり

と仰っています。

ところが、高森顕徹会長はこの御和讃の「万行諸善の小路」を19願とし、19願より18願に入る根拠としています。何が何でも19願の勧めとしたいのでしょうが、この後に「涅槃のさとり」とあることからも、「万行諸善の小路」は聖道門(難行道)のことを指して仰っていることは明らかです。
もし「万行諸善の小路」が19願を指しているなら、18願との関連で「浄土往生」というような表現になる筈ですし、第一、曇鸞大師は19願について全く仰っていないのですから、これが19願を指すことはありえません。

そうなると、高森風にこの御和讃を解釈するなら、
聖道門を通って18願に入る
ということで、まずは聖道門から始めなければならない、と親鸞聖人が教えられた根拠となってしまいます。
もちろん、龍樹菩薩も曇鸞大師も親鸞聖人もそんなことを仰る筈もありません。そして19願を通れ、という意味も全くないのです。

親鸞会の言っていることは、どの角度から見てもおかしいのです。

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2014年2月15日 (土)

高森邪義の根底にある理論

支離滅裂、竜頭蛇尾、朝令暮改の高森邪義ですが、昔から変わっていない”筋の通った”理論が

他力に入るには自力で命懸けに求め、精も根も尽き果てて自力が廃って他力に入る

というようなものです。そんな言い方はしていないとか、親鸞会は言葉遣いにこだわるでしょうが、結局はこういうことです。

これは阿弥陀仏の救いの概念から完全に反しているのですが、世俗的なことしか知らない会員にとっては、大いに納得してしまう理論です。

自力・他力は、曇鸞大師が最初に仰ったことで、その説明を『浄土論註』になされ『教行信証』行巻にも引かれています。

まさにまた例を引きて自力・他力の相を示すべし。人、三塗を畏るるがゆゑに禁戒を受持す。禁戒を受持するがゆゑによく禅定を修す。禅定を修すをもつてのゆゑに神通を修習す。神通をもつてのゆゑによく四天下に遊ぶがごとし。かくのごときらを名づけて自力とす。
また劣夫の驢に跨つて上らざれども、転輪王の行くに従へば、すなはち虚空に乗じて四天下に遊ぶに障碍するところなきがごとし。かくのごときらを名づけて他力とす。愚かなるかな後の学者、他力の乗ずべきを聞きてまさに信心を生ずべし。みづから局分(局の字、せばし、ちかし、かぎる)することなかれ

(現代語訳)

さらに例をあげて、自力と他力のありさまを示そう。人が、地獄や餓鬼や畜生の世界に落ちることを恐れるから戒律をたもち、戒律をたもつから禅定を修めることができ、禅定を修めるから神通力を習得し、神通力を得るからあらゆる世界へ自由自在に行くことができるようになる。このようなことを自力という。
また、力のないものがロバに乗っても空へのぼることはできないが、転輪聖王にしたがって行けば、空にのぼってあらゆる世界へ行くのに何のさまたげもない。このようなことを他力というのである。
自力にとらわれるのは何と愚かなことであろう。後の世に道を学ぶものよ、すべてをまかせることができる他力の法を聞いて、信心をおこすべきである。決して自力にこだわってはならない

自力と他力とは相反するものですが、他力の信心を獲るには、「他力の乗ずべきを聞きてまさに信心を生ずべし」です。自力の道を聞くのでもなく、「みづから局分することなかれ」で、自力にこだわるな、としか教えられていません。

信前は自力だから、まず自力一杯求めてその先に他力がある

などという理屈はどこにもありません。高森顕徹会長が勝手に付け加えた理論でしかありません。

要するに、他力の教えだけを聞いて、自力の教えは聞く必要もなく、最初から自力を捨てようとすればいいのです。

参考までに曇鸞大師が三願と仰る時には、18願・11願・22願のことで、19願のことは言及さえありません。言及さえない19願を聞くことも求めることも、他力の信心とは関係ないということです。

ところが高森会長は、19願・20願・18願の三願を聞かなければならないと数年前から言い始めました。もちろんその根拠もありません。あるのは、高森理論だけです。

私が会員に言いたいことは、これで言い尽されています。

愚かなるかな後の学者、他力の乗ずべきを聞きてまさに信心を生ずべし。みづから局分することなかれ

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2014年2月 6日 (木)

大胆な嘘の高森式三願転入論を簡単に論破する根拠

大胆な嘘を何十年も平気でつき続けている人や団体のことを、皆んさんも耳にされることがあると思いますが、高森顕徹会長、親鸞会も同じ類です。高森会長とその取り巻き達も、高森式三願転入論が間違っていることなど、当然知っているのですが、親鸞会存続のためには、嘘をつき続けなければならないのです。もともと親鸞聖人の教えを正しく伝えようとか、真実信心には、興味がないからです。

こんな大胆な嘘に付き合わされる会員は哀れですが、高森式三願転入論を簡単に論破するには、下品下生の往生についての説明が最も効果的と思います。

結論だけ先に言えば、下品下生の往生とは、
過去世から今に至るまで善をしてこなかっただけでなく、平生に仏法さえ聞いたことのない者が、臨終に念仏1つを勧められて往生する
というものです。
19願を通ってもいないし、善を勧められてもいません。

根拠を以下にまとめてみました。

1.下品下生の者とは

『観無量寿経』 

不善業たる五逆・十悪を作り、もろもろの不善を具せん。

『玄義分』

仏法・世俗の二種の善根あることなし。 ただ悪を作ることを知るのみ。
不善業たる五逆・十悪を作り、もろもろの不善を具す。

『往生要集』

極重の悪人

『選択本願念仏集』

五逆の罪人なり。
尋常の時ただ悪業を造りて往生を求めず

『高僧和讃』

極悪深重の衆生

『唯信鈔文意』

五逆・十悪の罪人

『浄土真要鈔』

一生造悪の機なるがゆゑに、生れてよりこのかた仏法の名字をきかず、ただ悪業を造ることをのみしれり。

『正信偈大意』

極重の悪人

2.どのようにして往生する

『観無量寿経』

命終らんとするときに臨みて、善知識の種々に安慰して、ために妙法を説き、教へて念仏せしむるに遇はん。(中略)かくのごとく心を至して、声をして絶えざらしめて、十念を具足して南無阿弥陀仏と称せしむ。

『玄義分』

命終らんと欲する時、善知識の、教へて阿弥陀仏を称せしめ、勧めて往生せしむるに遇ふ。 この人教によりて仏を称し、念に乗じてすなはち生ず。

『往生要集』

他の方便なし。ただ仏を称念して、極楽に生ずることを得

『選択本願念集』

臨終の十念に罪滅して生ずることを得。
臨終の時はじめて善知識に遇ひてすなはち往生を得。

『高僧和讃』

他の方便さらになし ひとへに弥陀を称してぞ 浄土にうまるとのべたまふ

『唯信鈔文意』

やまふのくるしみにとぢられて、こころに弥陀を念じたてまつらずは、ただ口に南無阿弥陀仏ととなへよとすすめたまへる
弥陀の本願は、とこゑまでの衆生みな往生すとしらせんとおぼして十声とのたまへるなり。

『浄土真要鈔』

臨終のときはじめて善知識にあひて一念・十念の往生をとぐ

『正信偈大意』

他の方便なし、ただ弥陀を称して極楽に生ずることを得よ

※なお、往生が定まるのは臨終に限るものでなく、最悪の状況を顕わされたものです。
『浄土真要鈔』

これあながちに臨終を賞せんとにはあらず、法の不思議をあらはすなり。もしそれ平生に仏法にあはば、平生の念仏、そのちからむなしからずして往生をとぐべきなり。

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